四ノ話
グラリ、と目の前の景色が歪んだ。
突然の目眩。
目の前には書き途中の書類と部下が集めてきてくれた大事な報告書の束。
そうして自分の手には程よく墨を含んだ小筆。
もし自分がこのままこの目眩に身を任せて目の前に突っ伏そうものなら、それから想像される結果は簡単に予想がつく。
間違いなく、全てがおじゃんになる、と。
クラクラする視界に軽い吐き気を覚えつつ、頭の中を一瞬の内に巡った考えに内心ヒヤヒヤする。
そうして予想通りになろうと前に傾く体に内心そこまで疲れていたのかと驚きつつ、咄嗟に小筆を廊下に向かって投げた私に拍手を送りたい。
そう、常に障子を開けて仕事に望むのが私の仕事スタイルであるため、この日も例に漏れず障子は開きっぱなし、つまり投げた小筆が障子を汚すことはない。
さらに言えば、筆を投げる力加減も残された力を振り絞って調節をしたため、小筆が廊下に転がることなく庭の中へフライアウェイすることは計算済みである。
廊下も汚さない、強いて言えば庭が少し汚れるが、仕方ないのだ。
私よ、よくやった。
後は少し休めばいい。
最近は少し根を詰めて働きすぎたのだ、少しくらい休んだって罰は当たるまい。
何てったって、三日間眠らずに仕事をぶっ通しで頑張ったのだ。
流石に半兵衛さんも心配していたようだが、この際どうでもいい。
とりあえず仕事はしたぞと胸を張れる。
まだ仕事はやり途中のものもあるが、それも少し。
さて束の間の休息とやらをとろうと、ふらつく視界に身を任せ、机に突っ伏した――書類を汚さないように前へ押し出すのを忘れずに。
それと同時にここ二日間悩みの種だった倦怠感がグッと重みを増して全身に襲い掛かり、目蓋がゆるゆると閉じられていく。
あぁ、やっぱり自分は疲れていたのだと実感しながら、意識を手放した。
――視界の隅に凄い形相でこちらに駆け寄ってくる佐吉に謝りながら。
「――佐吉よ、そんなに泣かずとも時継は寝ているだけ。とにかく涙を拭いて落ち着きやれ」
「な、泣いてなどいないっ!!出鱈目を言うな、紀之介!」
「あい、すまぬ、スマヌ。われには主が泣いているように見えた故」
突如聞こえてきたのはそんな会話。
誰が会話しているのかは直ぐに分かった。
まだ睡魔が目蓋を固く閉ざそうとしているが、それに抗って目蓋を開くと、泣きそうな顔と顔は笑っているが目元が笑っていないという対照的な顔が二つ、ドアップで視界に映った。
心底ビビって思わず叫びかけたのは秘密である。
視線だけで周りを見渡し、ここが自分の部屋で、自分はどうやら布団に寝かされているらしいと知った。
「……お、お早う」
「遅よう、の間違いではないのか、時継よ」
「時継様ぁぁあ!!!!」
ヒシッと体に抱きつく佐吉の小柄な体を片腕で背中を撫でて宥めつつ、もう片方の腕を伸ばして表面上の笑みを浮かべる紀之介の頭を撫でた。
「やれ、何故主は我の頭を撫でておるのだ?」
「とりあえずご機嫌取りを」
「………………………ヒッ」
バシンと容赦なく叩き落とされた腕。
叩き落とされてジンジンと地味に痛む腕を布団の中に収めつつ、余程怒っているらしいと内心怯える。
午後に約束していた将棋ができなくてご立腹なのか、紀之介よ。
「時継様、辛いところはございませんかっ?」
もはやポロポロと涙を流し始めた佐吉には敵わない。
「な、泣くな、佐吉。男子だろう、な?」
「時継様……」
泣き始めた佐吉を直ぐに泣き止ます方法は未だに見つかっていない。
今のところの苦肉の策は、佐吉が泣き止むのを待つしかないという持久戦しかない。
マジでどうしよう、と私のお腹辺りにグリグリと頭を押し付けてしきりに震える佐吉の背中を撫でながら、助けを求めて紀之介を見つめるが、氷よりも冷たいのではないかと錯覚しそうになるくらい冷えきった視線が降り注いでくるだけだ。
……え、ちょ、マジでお怒りモードなの?
そんなに将棋がしたかったの?
「き、紀之介ぇ……悪かったって……」
「――はて、主は何故謝っておるのだ?」
「え、や、あの……し、将棋、やりたかった、んでしょ?」
恐る恐る、紀之介の顔色を窺うように言えば、不自然な程に紀之介の動きがビシリ、と固まった。
え、違うの……?
将棋じゃないの?
「……………………………………まぁ、そういうことにしておいてやろ」
ふ、と。
ゆるゆると息を吐きながら口許を笑みの形に歪め、綺麗な瞳が細められた。
嘲笑うとはまた違った、どこか温い微笑。
――え、なにその裏がありそうな笑い方?
「え、違うんすか、違うんですか紀之介さん?」
「……ヒヒッ!暫くそうしておれ。主には似合いの様よなぁ」
「ちょ、マジで助けて(佐吉のせいでお腹が苦しくてそろそろ)、限界なんだけど!?」
「やれ、聞こえぬ、キコエヌナァ」
ニヤニヤと意地の悪い笑いでこちらを見下ろす紀之介。
あ、ヤバい。
紀之介のSモードが発動しやがった……!
「時継様の体調不良を察することができないとは……時継様、どうか、私に許しを請う許可を!!」
と、その時、ウルウルと涙を目に溜めてやっと頭を上げた佐吉。
泣き止み始めた佐吉の様子にひとまずほっと安心して息を吐き、頭を撫でようと腕を上げた瞬間。
「やれ、佐吉」
震える佐吉の肩にそっと片手をのせる人物が一人――いつになく菩薩のように穏やかな顔をした紀之介である。
もうその時から嫌な予感がゾワリゾワリと背筋を這っていたのだが、いやまさか不幸をこよなく愛する流石の紀之介でも友人二人の首を絞める真似はすまいと願いにも近い思いが胸を過る。
――が、しかし。
この少年は友人の儚い願いさえも「だが断る」と笑顔でおまけと言わんばかりに不幸を振り撒きながら断る人物であることをすっかり忘れていたのだ。
ク、と口角を上げ、愛しい者に甘言を囁くようにそっと佐吉の耳元に口を寄せ、
「時継は主のせいだと責めておるぞ」
「秀吉さばぁぁぁああ切腹の許可を私にぃぃぃいぃぃぃ!!!!」
残像すら残さず光の速度を越える早着替えで死装束に身を包んだ佐吉はマジシャンのようだった――
……等と傍観に徹する訳でもなく。
「コラ待て早まるなもちつけ佐吉ぃぃぃいぃぃっ!!!!」
「主が落ち着きやれ」
佐吉を止めようと布団から飛び起き、然り気無く介錯の手伝いを進んで引き受けた紀之介をぶん殴ろうと挑んだ所で紀之介が三成を唆して盾とし、三人でもみくちゃになって部屋で暴れまわって――
――結局半兵衛さんに怒られるまであと一時間。
彼らの心配の仕方
(覚悟は出来てるかな時継君)
(何で私?!むしろ被害者なん――ごめんなさいすみません何か口答えして申し訳ありませんでしたぁぁあ!!)
(――誠、不幸が似合いよなぁ時継よ、ヒヒッ)
(紀之介)
(?どうした、佐吉)
(書物が上下逆さまだが、読めているのか?)
(……………………………………ヒッ)