何てことはない、得意の気まぐれだった。 昨晩のあの様子ならば確実に二日酔いに悩まされているだろう彼をからかいに、そして欲を言えば彼の恥ずかしい姿なんかも拝めたりはしないだろうかと、そんな淡い期待を抱きながら。 彼の住むアパートへと訪れると、ちょうど、まさしく身の毛も弥立つほど運命的なタイミングで、ベランダへ出て煙草に火をつける彼が居たわけだ。 「二日酔いに煙草だなんて、不健康な生活を送っているね」 火をつける前に声を掛けたのはもちろん狙ってやった。 すると彼は予想通り、いや予想以上に驚いたらしく、目を見開き口からは煙草をこぼれ落とした。 その反応だけでもう大満足だった。 本日の第一ノルマである彼の面白い顔は見れたわけで、俺はついでと言う名の本来の目的でもある昨晩の忘れ物を投げ渡してやる。 それを受け取った後も、彼はまだ面白い顔を続けていた。 「じゃあ、ちゃんと渡したからね?今日くらい暴れず安静にしているんだよ。 ああ、きみが居ないなんて、池袋は今日一日さぞや平和なことだろうね」 「っ、臨也」 スキップでもし出しそうな、実に軽やかな足取りで踵を返す。 しかし残念なことに、相手は俺を上機嫌のまま帰してくれる気はないらしい。 いつもよりいくらか覇気のない声で呼び止められ、俺は訝しげに眉を上げつつ振り返った。 「何?」 「あ……、び、瓶っ、……なんか投げたら、危ねえ、だろうが……」 「はあ?」 瓶。瓶と言っても、小瓶だ。普段から、標識やら自動販売機やら郵便ポストやら投げている化け物に言われたくない。 そう思いつつそれを口にしなかったのは、口にした途端彼の横にあるエアコンの室外機が俺目掛け飛んできそうだったからだ。 「シズちゃん、きみは人の親切を仇で返そうっていうのかい? 酷いなあ、そういうのって結構傷付くんだけど」 「……いや、あの、今のは、違ぇ、」 「判ってるよ、さっさときみの前から消えればいいんでしょ?心配しなくたって、今日は素直に帰ってあげるよ」 「違ッ、だから待て、って……っ!」 今度こそ立ち去ろうとすると、彼はおもむろにベランダの手摺りを掴みそこから勢いよく身を乗り出した。 けれど、やはり二日酔いが酷いようだ。ふらりと身体がよたつき、頭を抱え込み俯むいてしまう。 そこまでして俺を呼び止めたいのか、と。そんな必死な彼の姿はなんだか可笑しくて、自然と目尻が下がり口元が緩んだ。 「だから、今日くらい大人しくしていなってば。 焦らなくても、俺はシズちゃんを殺すまでこの世から消えたりしないんだからさ、……ね?」 「っ!」 俺がすべて言い終わる前に、彼の頬がみるみる赤く染まっていく。 そういえば昨晩も突然このような反応をされなかったかと、一種のデジャブのような感覚を覚えた。思えば、彼に暴力も受けず呼び止められる、なんていうのもまた妙な話だ。 「……手前、これからなんか用事あんのか」 「? ……特にはないけど」 嘘を吐いた。 本当は新宿に戻ってやり残した仕事に取り掛からねばならず、それを今は波江一人に任せている状態だ。俺が帰らなければ例え優秀な秘書と言えどすべてを把握しているわけではないし、あの山積みの書類が片付くことはないだろう。 だがそれよりも、現時点でこの目の前にある非日常の方が気掛かりだった。 「じゃ、じゃあ!……その、茶くらいなら、煎れてやる……」 「え、」 だからと言って、どうしてこうなった。 「ん」 「……頂きます」 ずい、と差し出された透明のグラスは、意外にも細かく装飾をされ少し値の張るのではというほどに小洒落れていた。それを見て俺は、元とは言え彼もバーテンダーのはしくれであったことを思い出す。無論その仕事を当時の彼から奪ったのは俺で、彼にもそれ相応の恨みが俺に対しあることだろう。 そういうわけで、のこのこと玄関先までやって来て扉を開けた瞬間冷蔵庫の一つや二つ飛んで来るのではないかと危惧していたのだが、案外普通に迎え入れられ部屋の中へと通されてしまった。 1LDKの室内は、意外にもこざっぱりとよく片付けられている。 組み立て式のテーブルを挟んで彼と二人。小さく正座する羽目となった俺はどうしたらいい。 「……飲まえねのか?」 「いや、頂くよ」 促され、グラスをそっと手に取り口付ける。 グラス自体は洒落ているのに、先程これにペットボトルからお茶を注いでいるのが見えた。そんなところもまた実に彼らしいが、ペットボトルごと丸々出して来なかっただけでもマシかと考える。 毒でも盛ったのではとも一瞬思ったが、彼にそこまでの悪知恵が働くとは到底思えない。 「まさか、きみにお茶をご馳走になる日が来ようとはね」 「うるせえな……」 薄く笑みを浮かべて言うと、彼は俺を見ようともせず小声で悪態を吐いた。けれど、仕切りにチラチラとこちらの様子を気にしているのが丸判りだ。 本当に、一体どういうつもりなのか。天敵であるはずの俺を部屋へ招いて、あまつさえお茶を差し出すなんて。 居心地が悪いというのもあるが何より彼の出方が気になり、俺はグラスの中身を飲み干すと再び口を開いた。 「ご馳走さま。 飲み終わったことだし、俺はお暇させてもらうよ」 「なっ! ま、待て……!」 また呼び止められた。 ということは、やはりお茶をご馳走することが目的ではなく本題は別にあるようだ。 そのことに少なからず俺は安心して、立ち上がり掛けていた体を止め彼を見詰める。 「どうしたの、まだ何かあるの?」 「あ、う、……その、よ……」 威勢よく俺の帰るという行動を制止したはずの彼は、俺と目が合った途端にしわしわと空気の抜けた風船みたく萎んでしまった。目が合ったという、たったそれだけのことで。 そうしてしばらく、あ、とか、う、とか意味のない言葉を発し続け、かと思うと不意に何かを決意したようにがばりと顔を上げた。 「好きだ」 「……は?」 「と、突然悪いっ、……ほんとは俺も、まだよく判ってはねえんだけどよ……」 自販機を投げ付けられた時のような衝撃が、身体中を駆け巡った。 好き、とは、ライクではなくラブのことだろうか。 そもそも彼にはライクで言われたとしても十分に驚きなのだが、というか、……は? いいやきっとドッキリなのだと、辺りを見回しカメラを探してみる。しかし生憎のことに、彼の部屋にはそんなものを隠せるようなスペースは見当たらなかった。 「あの、本当に突然、俺にこんなこと言われても信じられねえかもしれねえけど、俺はちゃんと、その、お前がすっ、すきで……」 「……」 相当頭の中がこんがらがっている状態なのか、早口にまくし立て真っ赤な顔を俯かせる彼。かなり深く伏せているらしく、金髪頭から覗く小さなつむじまでも見える。 こんな初々しい告白をされたのは高校生以来だと、俺の中で儚く遠い日の記憶がぼんやりと甦った。 「信じるよ」 「えっ」 「そんな林檎も負かすくらい真っ赤な顔のきみを見て、嘘だって言われた方が寧ろ信じられない」 そう言って覗き込むように軽く首を傾げる。と、彼は今までの赤みに磨きをかけ、耳から首まで更に染め上げた。 そんな姿に思わず笑みを深めれば、彼はますます頬を赤らめる。 ひょっとするとこの状況は、傍から見ればとてつもなく甘い雰囲気に映るのかもしれない。 だけれど、こんなものは当然ながら幻想に過ぎなかった。 きっとすっかり勘違いしてしまっているだろう彼に対し、俺は勤めて優しく真実のみを語りかける。 「でもさあ、だからと言って、俺がきみの告白を受け入れると思う? 嫌だよ気持ち悪い」 「……っ」 「シズちゃんなんて大嫌いだよ」 傷付けばいいのだと思った。 体にナイフが刺さらないのなら、その内側にある、目には見えないそれを傷付けてやる。 俺の言葉を聞き、彼の切れ長の瞳は大きく見開かれた。 「……そう、だよな」 その視線が、ゆっくりとフローリングの床に落とされる。影を落としていく表情に、俺は自分の唇が大きく歪むのを感じた。 彼にとってはまさに、天国から地獄に突き落とされたような心境だろう。 しかし、だ。 次の瞬間に俺を見詰めたのは、俺の予想だにしない強い意思の込められた瞳だった。 この瞳は苦手だ。時々、こいつには一生敵わないんじゃないかという惨めな気持ちにさせられる。 そんな俺の心中など彼は気付く由もなく、ぐっと拳を握り締め、ひたすらに真っ直ぐな眼差しが俺を射抜いた。 「けどよ、俺だって、つい最近まで手前のこと本気で殺そうと思ってたんだぜ? つーことはよお、手前だって可能性がねえわけじゃないよな」 高揚のあまりか、珍しく彼は饒舌だった。そしてこれもまた珍しいことに、言葉が追い付かず置いてかれているのは俺の方。 本当にこの化け物には、理屈も言葉も道理も通じない。 何度でも言おう。だから、どうしてそうなるんだ。 「決めた。 今は駄目でも、必ず手前を俺に惚れされせてやるよ」 「な、」 勝気な笑みで彼が微笑む。 自販機の次の第二投、俺に投げ落されたのは隕石だった。 next |