「ごきげんね。眉間のシワでいつもの三割増し美形に見えるわよ」 キーボードを叩く手を止める。 顔を上げると、どうやら定時を回ったらしく波江がそそくさと帰るための支度を済ませていた。 そういえば、今日は弟がどうたらこうたらだから残業はしない、とか言っていたか。 まだまだ高くそびえ立つ、手付かずの書類の山を見て愕然とする。こうなると、残りはすべて自分一人で処理しなければならない。 「……波江さんさぁ、言い値払うからもう少しだけ残ってくれない?」 「あら、私にとって誠二以上に価値のある金額があるとでも?」 この、ブラコンめ。 優秀な部下の唯一と言ってもいい欠点を、俺は今更ながらに憎んでみる。口にしないのは、彼女自身がそれを欠点だとは毛ほども思っていないからだ。 「俺は趣味の人間観察も取り上げられて、ここ一ヶ月新宿に引きこもりっぱなしだっていうのに。波江さんは冷たいな」 「その方が世の中の平和のためだもの」 「ハハ、言い得てる」 そんなやり取りをしてる間にも、波江はまるで恋する乙女のようにそわそわと浮足立っている。何やら鏡に向かって化粧を直し始めてしまった。 俺は先ほど彼女に言われたことが気になって、眉間の辺りを軽く撫でてみる。なるほど、何時間も液晶画面に向かっていたせいでかなり力が入っていた。 これがご機嫌なわけがない。 「…ご機嫌だなんて思えるのは、シズちゃんに会わずに済んでることくらいだ」 思わずぽつりと零すと、波江が耳敏く振り返った。 目を細め、淡く色付いた口唇にうっすらと笑みを堪えている。 「そうやっていちいち名前を出すの、本当は平和島静雄が好きみたいに聞こえるわ」 「やめてくれ、俺はシズちゃんなんかだぁい嫌いだよ。 好きなのは人間。 だから波江さんも愛してるよ」 「不思議ね、貴方に言われてもまったく嬉しくない。むしろ悍ましくさえ感じるんだけど、これって訴えられるかしら?」 「……いつにも増して当たり強くない?」 「そう? もう帰ってもいいわよね」 視線をパソコンのデスクトップに戻し、ひらひらと手の平だけを振り返してやる。 嬉々と、それこそ鼻唄でも歌い出しそうな足取りで玄関へと去っていく彼女を横目に見送りながら、俺はとうとう深いため息を吐いた。 迂闊にも自分であいつの名前を出してしまい、ただでさえ憂鬱な気分が一気に下落していく。 苛々して仕方がない。 理屈も言葉も道理も通じない、あの男が俺は大嫌いだ。 俺の愛すべき人間とは天と地ほど掛け離れた化け物。本当に早く死んでくれればいいのに、何故いまだにあいつは生きて俺の邪魔ばかりするのだろう。こんな風に考えるだけでも虫酸が走って、このままでは仕事も集中出来そうになかった。 そう思い池袋に訪れたのは、俺が浅はか過ぎたからに違いない。 「なーんで見付けてくれちゃうかなあ」 たっぷりと皮肉を込めて相手を見据えると、本日2個目の攻撃が飛んできた。 空中を舞った真っ赤な郵便ポストは、俺を通り過ぎ路地裏の壁に激突する。まったく、修理費だけでいくらするのやら。 「避けんじゃねえよこのノミ蟲野郎……!!」 「馬鹿言わないでよ。あんなもの当たったら俺死んじゃうでしょ」 「だから死ねっつってんだクソ臨也あぁあっ!」 せっかく気分転換にと足を伸ばしたのに、こいつに出会ってしまったのでは全然意味がない。 しかもどういうわけか、今日のシズちゃんは上下黒の私服を着込んでいて、俺としたことが一瞬反応するのに遅れてしまった。こいつとの間では、そんな一瞬が命取りにすらなりかねないというのに。 いつ隙を見て逃げ出そうかと様子を伺っていると、シズちゃんはぎっと眉を顰め俺を睨んでくる。その瞳が何処か据わっていることに、俺はそこでようやく気付いた。 「はっ、手前の周り、さっきからなんかキラキラしてやがる……、うぜえな…」 「キラキラって……、何言ってんの? シズちゃんもしかして酔ってる?」 「酔ってねえよ!」 言って力んだ彼の手から、担ぎ上げられていた自動販売機がするりと滑り落ちる。 凄まじい音を立て、それはあっという間にスクラップへと変貌を遂げた。 「酔ってるんじゃない。 あーあ、面倒な時に会っちゃったな」 「うっせえ……、くそ……手前……、一ヶ月近くも何やってやがったんだよ……」 「あは、その言い方ってさあ、まるでどうして俺に会いに来れなかったんだ、って意味にも聞こえるよね」 自販機が落ちたことを気にも止めず、うつらうつらとする彼の両目は微かに充血し頬もほんのり赤くなっている。 体力が化け物であることは変わらないが、アルコールで思考回路は多少なりとも鈍っているだろう彼に俺は数歩ばかり距離を縮めた。 そして、最高の厭味を言うべくとびっきりの笑みを浮かべる。 「そんなに俺のことが恋しかった?」 と、途端、彼の表情がピキンと固まった。 驚いたのか大きく見開かれた目は呼吸すら停止していそうで、俺は次に襲い来るだろう攻撃に身構える。 がしかし、おかしい。彼からの反応はない。 「……ちょっと、」 さすがに怪訝になって名前を呼んでみた、その時だった。 先程までの赤さなんて比じゃないくらい、彼の顔面が真っ赤に染まる。この暗がりでも判るのだからよっぽどだろう。 今度は俺が停止する番だった。 「……恋…」 「は? え、聞こえな、」 「っ――!」 目にも留まらぬ早さとはこういうことか。 俺が次に目蓋を開けた時にはもう、彼は既に路地裏を抜け大通りの遥か彼方へと走り去ってしまっていた。 呆然とする俺とともに残されたのは、彼が持っていったのだろうコンビニの袋。 まるで硝子の靴のように落ちているそれを拾い上げ、俺はとりあえず袋の中身を覗き込んだ。 中身はなんと、 「……キャベジン?」 next |