私から流れる涙の雫を舐めるように追っていた視線がやがて唇へと降ってきた。「俺も好きだよ」そう零れた言葉を拾うよう顔を上げる。先生は私と目が合うと、無表情だった顔に柔和な笑みを浮かべた。そして、ゆっくり私に口づけてきた冷たい唇と、先生から漂うダージリンの香水の薫りは夢ではなかった。

△▽△


どうして年齢の差は埋まらないのだろうかと。公式をいくら駆使しても解けないそれに私はいつも奥歯を噛み締める。
今日もその現実を突きつけられに行くのかと落胆しつつも、国見先生に会える嬉しさに心を弾ませる自分の単純さに溜め息を吐いた。部屋に入り教材の準備をしながら、もう一人の受講生と国見先生を待つ。しかし五分前になっても現れない彼女に不思議に思いスマホを確認すると今日はこないというメッセージが届いていた。
……今日は二人きりか。この前のことがあって初めて国見先生に会うため緊張する。うちの塾は個別指導制で、通常二、三人の生徒を一人の先生が教えてくれる。彼女が休んでしまうと私は先生とマンツーマンになってしまう訳で。ドキドキと時間が迫るにつれ早くなっていく鼓動。そ れと葛藤している最中に扉は開いた。
そちらを向けばパリッとスーツを着こなした国見先生が私一人だけなことを不審に思ったのか眉を潜める。


「今日、あいつは?」
「体調悪いから休むってメールが来てました」
「どうせ仮病だな。彼氏とデートでもしてんでしょ」
「羨ましい限りですね」
「お前はこんなところで勉強か。寂しい奴」
「国見先生に会えるから寂しくないです」


椅子に腰かけた先生にそう返すと動揺したようにボールペンを床に落とした。それが調度、私の足元に転がってきたので拾おうと腰を屈める。「あ、」という戸惑った声に顔を上げると国見先生もボールペンを拾おうとしていたのか至近距離で目があった。この距離がまるであの日のこと彷彿とさせ、途端顔に熱が集中する。勢いよく体勢を直すと、私とは逆に国見先生はゆったりとした動作で椅子に座り直す。こっそり表情を確認してみるも、この人はポーカーフェイスを崩してなんかくれない。


「はい、じゃあ先週の続きからな。テキスト92ページからね」
「はぁい」


国見先生にちょこちょこ数式の解き方を教えてもらいつつテキストの問題を クリアしていく。国見先生は私が一人で公式とにらめっこしている間は暇なのか別の生徒の課題の直しを行っていた。ちらりと先生の様子を確認して何度もルーズリーフに数字を書いたり消したりを繰り返す。なかなか導き出されない答えに息を吐くと私が課題に詰まっていることに気がついた国見先生が机に身を乗り出す。
その瞬間、鼻を掠めた香水の匂いがこの前のダージリンティとグレープフルーツのものではなかった。国見先生が普段愛用しているグリーン系のものではなく、若干甘さがプラスしたようなもの。女物ではないにしろ、この人から漂うあの日の違いに思わず首をかしげた。


「それ、途中で計算が間違ってる。使う公式は合ってるから…そうだな。ここからやり直し」
「国見先生」
「なに?他にも分からないところある?」


国見先生に間違っている場所を指摘されたけど、頭にまったく入ってこない。侵食されていくみたいに国見先生のことしか考えられなくなって、思わず先生の名前を呼んだ。先生はまだ私が勉強のことで頭を悩ませていると思っているらしく"先生"の顔で私に視線を向ける。


「香水、変えました?」
「え?」
「この前の匂いと違うから」


私の言った"この前"というのがいつなのか明確に理解した先生は目を見開いて、すぐに伏せた。しかし、反らされた視線を追うよりも早く、また先生としての表情をこちらに向けられた。
先生は演技をするくらいのオーバーリアクションで自分のスーツの匂いを嗅いでみせると、匂いに心当たりがあるのか納得した素振りを見せた。


「今日、仕事前に高校時代世話になった先輩の家にお邪魔して。そこで香水かけられたんだと思う」
「そう、ですか」
「質問はそれだけ?授業に関係ない質問は、」


真面目に答えてくれた先生に安堵しつつ、彼の手に触れた。先生は指先を僅かに震わせたがそれ以上反応はしてくれない。ぎゅうっとそこに力を込めると、ようやく咎めるように名前を呼ばれた。


「昨日の今日で浮気されたのかと思いました」
「そんなことしない」
「はい。信じます」


先生の言葉に溶けていく焦燥感。ゆっくりと手を離すと国見先生は大きく溜め息を吐いて、利き手に持っていたボールペンを机に転がせた。国見先生の方へ視線を投げると、分けられた前髪から覗く額にはし っかりとシワが刻まれている。先生に不快な思いをさせてしまっただろうか。謝ろうと口を開くより先に先生の顔がこちらにぐっと近づいた。
鼻先が微かに触れ合った。髪の毛が頬にかかってくすぐったい。この前と違う香水の香りにドキドキする。意識してしまったら、全て国見先生に持っていかれそうだった。


「せんせ、」
「……危なかった」


そう言って、唇は触れあわないまま先生の顔は私から離れていく。呆気にとられている私に対してではなく、呟くように吐き出された言葉。さっきの行為のその先を期待していなかった訳ではないが、椅子に座り直した先生を見て逸る鼓動が落ち着いていくのを感じた。


「塾ではなまえちゃんに手ぇださないって決めてるから、安心して」
「はい……」


気を取り直すため、先生が机を使いテキストの角を揃える。私も先生が言ってくれたことに頷き、シャーペンを握り直す。しかし国見先生が呼んでくれた自分の名前を意識してしまい、平然と装うことはできなかった。国見先生を盗み見るとこの人もそう思ってくれていたのか、視線が混ざりあった。先生の瞳があまりにも綺麗で息を飲 む。


「そんな誘うような顔、どこで覚えてきたの」
「国見先生しかいないですよ」
「へえ。そういうのすごくそそるけど……他の奴に見せちゃ駄目だから」


気だるげな双眸が僅かに細まる。色っぽいその表情に胸が焦がれてしまいそうだった。そんな私をよそに、国見先生が腕時計を確認する。そして、私の手にそのまま触れると恭しくそこへ唇を押し当てた。柔らかい感触にゾワリと背中が粟立つ。固く目蓋を閉じた私の名前を先生は今度は名字で呼ぶ。もう、気持ちを切り替えろということだろう。


「これが終わったら休憩室で待ってて」
「え?」
「送るから」


熱っぽいその視線はまるで、この先を示唆しているようだ。私はゆっくり頷くと国見先生はポーカーフェイスを崩さず仕事が何時に終わるのか教えてくれた。授業は残り数十分。私の頭は既に国見先生のことでいっぱいで、公式なんてまったく頭に入りそうになかった。


「国見先生」
「なに?」
「……いえ、なんでもないです」
「変なみょうじさん」


塾から出たら私たちは講師と生徒ではなくなり、ただの付き合ったばかりの恋人同士と呼べる関係になる。国見先生が"先生"の顔をしなくなったその時は、英さんと呼んで駆け寄りたい。私はきっと英さんの甘い香水の匂いに誘われてしまうだろうから、優しく抱きとめてほしい。そして、冷たい唇を重ねて、私に夢じゃないんだって思い知らせてください。

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