※『及川は春高に出場できなかった』という設定になっています。



再び通うこととなった母校は何も変わっていなかった。


見慣れた校舎や教室。飛び交う生徒の声、授業中の静けさ。昼休みの喧騒、購買で人気のパンやパックのジュースも、俺のいた頃と何ら代わり映えない。


ただ、俺という人間の立ち位置が違うだけ。
たったそれだけでこの場所はやはりあの三年間とは全く異なるものだと、毎日の生活の中で思い知らされてばかりいる。




日が落ちるのも早くなった。
全体練習を終えた体育館を抜けて、教室棟へ足を踏み入れる。今日は施錠当番になっていたからだ。
教室を一つひとつ確認して回らなければならない。電気は点いたままになっていないか。窓は開けっぱなしでないか、鍵はかかっているか。もちろん教室だけでなくトイレも忘れずに。まさかこの歳になって母校の女子トイレの中を知ることになろうとは思わなんだ。今はもう懐かしいメンバーと近状報告も兼ねてそんな話を面白おかしくしたところ、卑しい物を見る目で「変態」と口を揃えられたのはこの春のこと。(仕事だよ!!という反撃には耳を貸してもらえなかった)

一階は問題なく、三学年のクラスが並ぶ二階へ。三年生は保健の授業がないためこういった見回りでないと赴くこともない。自分の中に留まる高校生の記憶は、この三年教室と体育館が殆どを占めるというのに。
真っ暗に近い廊下の電気を灯すと、一教室だけ煌々としていた。

「ったく、ちゃんと消して帰んなよね」

独りごちた言葉は冷える廊下に落ちて消える。教師という仕事は、思い描いていた以上に多忙だということを知ったのもこの場所に帰って来てからだ。授業さえして部活の指導に力を注げればと簡単に考えていた自分を恨みたくなる程度には毎日が慌ただしい。その忙しさも、あのバレー漬けの日々とは違うと思い知らされる一つの要因だろう。
懐かしさと同時に感じるのは、大きな寂寥感。


明かりの灯る教室は、自分が一年間過ごした思い出の教室だった。いつもの四人で弁当や菓子パンを噛り、練習で疲れた体に鞭を打ちながら授業を受けた最後の教室。
ドアの窓から見えたのは、後ろの席で突っ伏している女生徒の頭。(誰も声掛けて行かなかったわけ?)こんな暗くなるまで放って置かれたのかとやや呆れてドアを開けると、ガラガラと思いの外大きな音が鳴った。しまったと思わずドアから手を離すも、これで起きてくれた方がこちらとしては都合が良いわけで。けれど、こんな俺の葛藤とは裏腹に、女生徒は一向に起きる気配を見せやしない。

彼女の前まで近づいて、ふたつ、肩を叩く。青城の白のブレザーに散らばる何もいじっていないであろう黒髪が、白色灯に照らされてさらに艶めいて見えた。

「ねえキミ、そろそろ起きなよ。」

もう教室棟は閉めるよ、ともう一言投げかけるとくぐもった声と同時に頭が動く。ゆっくりと持ち上げられた女生徒の頭。無造作に髪の間から見えた彼女の顔を見て再びしまったと感じた。

「…及川、せんせ?」
「…みょうじ、」

そうか。彼女はそういえばこのクラスだった。
普段目にするのが体育着姿であるため、制服で、しかも机に突っ伏された状態では気がつかなかった。
みょうじなまえ。本校の三年。運動は苦手。所属する学年も異なる俺がみょうじについて知っていることと言えばこの程度。問題行動を起こすわけでもなく、教師の言うことにも素直に従う。部活動や生徒会活動に特別勤しんでいたわけでもないようで、言うならば可もなく不可もない生徒だった。手のかからない子だ。他の先生方に聞いたとしてもきっと同じような答えが返ってくるだろう。

「もう暗いよ。早く帰んなさい」
「え、…あ、!こんな時間…」

すみませんすぐに帰ります、そう言ってみょうじは席からがたりと立ち上がって机の上の物を片付け始める。そんなに急がなくても、そんな言葉をかけようとしたまさにその時。カシャンと音を立てたペンケースと床に散らばった筆記用具。あぁほら、言おうとしたそばから。

俺の足下まで元気に転がってきた消しゴムを拾い上げ、今度はそれを彼女の掌の上に転がす。「ありがとうございます、」そう言って見上げてきたみょうじの顔を見て困ったなあと苦笑する。
赤らんだ顔が蛍光灯の光によって余計に強調されて見えた。

憧れを大いに含んだ好意であれば今迄に幾度も向けられてきた。いや、今もそうだけど。
でもその手の好意っていうものは、大抵俺の外見から来るものであって、俺自身をきちんと知った後だとそれが綺麗サッパリ消えてしまう、らしい。だから、部活が同じだったりクラスが一緒だったりした女の子たちっていうのは挙って俺を恋愛対象から外していたというのだから大変遺憾だ。(「だから弱味握られそうなんだって」と松つん辺りが言いそう。心外すぎる!)

ただ、みょうじのは、それとは少し違う気がして。
頭に浮かんだのは昼休みの体育館。バスケットゴールを真剣に見据えるみょうじの顔。彼女前後左右には転がるバスケットボールがあちらこちらにある。
体育の授業の実技試験。それまでバスケットボールをしてきたこともあり、フリースローを試験に課した。その練習がしたいと申し出てきた友人たちに引っ付いて来たのがみょうじで、その時はすでに彼女一人が練習を続けているという状態ですだった。(他の子は早々に飽きて帰った)
どうにかゴールにまで届くへなちょこシュートは、力なくリングに当たりそのまま床に落ちるばかり。周りのボールを見渡して、「わたし、運動の才能が無いから…」と眉を下げて笑う彼女を励まそうとしていたはずなのに、自分の口から出てきたのは優しい言葉ではなかった。


「出来ないことを才能がないからだって決めつけて諦めるのは違うんじゃない?」
「…え、?」
「…なんてね。こんな偉そうなこと言ってるけど、俺だって凡人だからさ。…でも、天才には及ばないかもしれないけど、凡人だって諦めなければある程度のことは出来るようになるもんだよ」
「先生…」
「なんて、今のは単なる天才に勝とうと悪足掻きし続けた男の独り言だから気にしないで。ああ、そうだ、俺、用事があるからさ、帰るときにはボール、片付けて行ってね?」


格好悪い事にそう言って逃げた。後から教官室に戻るとみょうじが随分長いこと一人で練習していたという話をベテラン先生から聞いた。そしてみょうじは試験本番で見事にシュートを決めたのだ。


「あ、あの、!」

荷物も纏め終えたみょうじは、もう帰るだけ。さようならと言い合ったはずなのに、背中に飛んできた硬い声。

「うん?」
「あ、えと、わたし、あれから色々考えたんですけど、あの、…出来るまで、どれだけ時間が掛かってでもやり続けらる、っていうこと自体が、その、…何ていうか、ひとつの才能だと思います、ふ、普通なら出来ないって分かると諦めちゃうと思うんです、」
「………」
「だから、!その、先生は自分のこと凡人だって言ってたけど、…わ、わたしにとってはやっぱりすごい人です…、!」


どういう訳だかいつだって自分の前にも後ろにも天才と呼ばれる存在がいて、目指す道を塞いでいた。
勝ちたくて、越えたくて、無我夢中で我武者羅に駆け抜けた日々は、悔しさばかりが染み込んでいる。
お前はそんなのこれっぽっちだって知らないだろと思う反面、時の流れのせいなのか、みょうじの言葉がすとんと胸に落ちてきたのも事実だ。
それに加えて、普通ならスルーしたって全く問題ない俺のぼやきに対してこんな真面目に考えて発言してくるなんて。他の子だったら「えー、及川先生っぽくなーい」ってちょっと幻滅しちゃうとこだよ、ここ。

いつもなら逸らされがちなみょうじの瞳が、今は真っ直ぐに、強く、俺を射抜いている。顔が真っ赤だから迫力なんて皆無だけれど。
それでも、その純粋無垢な気持ちが、素直に嬉しかった。


秋から冬にかけてのこの季節。
思い出すのは、遠くに聞こえる応援と、自分の心臓の音、目の前に立ちはだかる黒と、後ろを支えてくれる白。飛び散る汗に、手の、指の先で無情にも落ちるボール。背中を叩く暖かい体温、目から溢れる涙。それらは嬉しいものではないけれど。


過去の思い出ばかりに縛られているのもいい加減潮時なのだろう。そのキッカケをくれたのがみょうじなのだと都合のいい解釈をして、。
そう、明日会ったら、ちゃんと彼女の目を見て挨拶をしよう、そんな学生時代にだって思いもしなかった幼稚な考えが思い浮かんだ。そして遠のいていく小さな足音を耳にしながら、この思い出の教室を後にしたのだった。


(明日はきっと晴れやかな日だ。)


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