『恋に落ちる』とはよく言ったものだ。
ある日突然、いつも通り足を踏み出した先には地面がなく、気付いた時には穴の底へと落ちている。
落ちた穴から脱け出せれば楽になれるのだろうが、赤葦はその方法を知らない。
美術室前のホール床はブルーシートで覆われ、立ち並ぶキャンバスは北向きの窓から入る柔らかな光を受けている。油絵独特の匂いの中、つなぎ姿の彼女は大きなキャンバスに色を重ねていく。
真剣な眼差しをキャンバスに向け、どこか楽しそうな横顔から目が離せない。
彼女と視線が合ったとき衝撃が走り、左胸の鼓動が速くなるのが分かった。





大学生活を始めて2回目の春が過ぎた初夏のある土曜日。赤葦が久しぶりに母校のバレーボール部に顔を出したのは単なる気まぐれだった。
学び舎を巣立ち1年が過ぎ、赤葦が3年だった当時の1年は最高学年になり主力としてチームを引っ張っている。体育館で練習に励む後輩のほとんどは知らない顔ぶれで、外側からバレー部の練習を見ることにどことなく違和感があった。

ついでに元担任に挨拶をしに行くと「懐かしいだろうから校舎見て回ったらどうだ」と勧められ、気の向くままに校内をぶらつくことにする。
2年6組の教室、屋上に続く階段、図書室、自販機前、中庭――。平日は大勢の生徒が行き交いざわめきが満たす広い校内にはほとんど人の姿はなく、廊下には赤葦が履いている来客用スリッパの足音が響く。
まだ昼間だが、遠くから楽器の音と運動部の掛け声が聞こえる静かな校内は放課後の雰囲気に似ており、自分が高校生に戻ったような気分になる。
思い出と言い切るほど遠い色褪せた過去でも、過去を懐かしむほど年月を重ねた訳ではない。しかし、バレーに明け暮れた高校生活は過ぎ去った日々であり今この学園には先輩や同級生、梟谷のユニフォームを着た『俺』も制服を着た『俺』もいないのだ。

そんな感慨にふけり、美術室前を横切ろうとしたときだ。彼女、みょうじなまえに遭遇したのは。
呆けたように見ていた赤葦の視線に気付いたのだろう。不思議そうな顔をしたなまえと視線が合った。普段であれば会釈をして立ち去っていただろうが、なまえに話しかけたその時の自分を褒めてやりたい。




なまえとはそれっきり一度も会うことはなかったが、数ヵ月過ぎた現在も赤葦はなまえの事を引きずっていた。
落ちた穴は中々厄介なもので、ふとした時に彼女の事を考えている自分がいる。街中で母校の制服を見かけると、なまえではないかとつい目線で追ってしまう。
もうすぐ成人する大の男が恋煩い、しかも相手は特に接点があるわけでもない女子高生で。年が大して違わないとはいえ、これは犯罪になるのだろうか。
赤葦がなまえに話しかけたと言っても、彼女が描いていた絵の事やとりとめのない話で連絡先など聞けなかった。たった一度会った自分のことなど、もはや覚えていないだろう。
頭では分かっているのだが、真っ直ぐな視線をキャンバスに向けるなまえの姿がちらついて離れない。

赤葦となまえが会った時、美術部所属の2年生である彼女は展覧会に向けて油絵を制作中だった。
いたるところに絵具が付着したつなぎを着たなまえが持つパレットは様々な色で彩られており、作業台には何本もの筆や絵具などが載り雑然としている。
隣のイーゼルには幾分か小さいキャンバスが立てかけられており、夏の空を切り取ったような青色に染まっていた。風景画を描いているとかと予想したが、下塗りをしただけの状態でまだ題材は決まっていないらしい。

「学祭で美術部の作品展やるんです。よければ覗いて下さい」

赤葦が絵に興味を持ったと思ったのだろう。なまえからすれば特別意味があって言った訳ではないと分かっているが、赤葦にはその言葉が嬉しかった。




なまえに会いたい。
ただそれだけの思いで来た母校の校門には学園祭用のド派手な看板が立てられており、普段とは異なる活気に満ちていた。
赤葦の前を梟谷学園の制服を着たカップルが横切る。手を繋ぎ仲睦まじそうな様子に微笑ましくなるが、もしなまえが他の男と手を繋いでいるところに遭遇したら、暫く立ち直れる気がしない。
小さくため息をつくと、赤葦は秋晴れに恵まれた学園祭の雑踏にまぎれた。


喧騒から外れた美術部の作品展が行われている教室には、デッサンや油絵、陶芸など様々な作品が整然と並ぶだけで人の姿はなかった。
他になまえが居そうな場所など赤葦が知る由もない。
ここに居れば会えるだろうか。そんな邪な思いを持ち、作品展に足を踏み入れる。
ゆっくりした足取りで進んでいた赤葦が1枚の絵の前で歩みを止めた。
キャンバスに描かれていたのは花と1羽の梟。少し瞼が下がり何処となく眠そうだ。大きな丸い頭、嘴の周りには白い口髭のような毛、胸元から腹にかけて横縞模様が覆う。ミミズクの様に特徴的な羽角を持たないこの梟に赤葦は見覚えがあった。
絵の下に貼られた紙には『油彩  題名:枇杷と曼珠沙華   氏名:みょうじなまえ』と表記されている。

「こんにちは。来てくれたんですね」

後ろから声を掛けられて振り向くと、なまえが赤葦の方へ歩いてきた。私の事覚えてますかと冗談交じりに笑う彼女の姿に鼓動が速くなり、胸がざわつく。
やはり自分はなまえの事が好きなのだ。
なまえが覚えていてくれた事に舞い上がっている内心を悟られないよう顔を引き締め、赤葦はもちろん覚えていると返す。ポーカーフェイスの自分をこの時ばかりは感謝した。
梟の絵を前にして隣に並んだなまえと言葉を交わす。彼女によると、この絵は下塗りだけしていたあのキャンバスに描いたらしい。
青色で塗られていたキャンバスになまえはどうしてこの梟を描いたのだろうか。ただの偶然で、赤葦が意識し過ぎているだけかもしれない。
でも、何か意図があったとしたら。思い出すのは以前部活の先輩から送りつけられた画像と『お前と同じ名前だぞ!』の文。

「梟って結構種類いるんですね。初めて描きましたよ」
「……この梟、アカアシモリフクロウだよね?」
「……よくご存知ですね、赤葦さん」
「たまたまね。枇杷と曼珠沙華って珍しい組み合わせだけど、どうしてこの花と梟にしたのか聞いてもいい?」

口を閉ざしてしまったなまえに視線を向ける。表情は見えないが、耳が赤く染まっていた。
なまえが絵にどんな意味を込めたのかはわからないが、少なくとも梟は自分の事だと思っていいのだろうか。





――――絶対に言えない。
赤葦が梟の名前を知っているとは露ほども思っていなかったなまえは、この場をどう切り抜けるか必至で頭を動かす。
数ヵ月前、題材を探すため物色していた図書館で目に留まった梟の図鑑。梟谷学園の名前にちなんで梟を描くのもいいかもしれないと図鑑のページをめくり、見つけてしまった。
先日一目惚れした彼――赤葦の名前が入った梟を。
ほぼ勢いで決めた題材だった。なまえが一目惚れしたのは初対面の卒業生。視線が会ったとき彼に『落ちた』のだ。連絡先を聞く勇気など無く不自然に思われないよう学園祭の話を出したが、当日赤葦が来るかは分からない。行き場のない思いを吐き出すように描いている間は唯々夢中で。完成した絵を前になまえは若干後悔したが、意味を話さなければわからないと高を括っていた。
梟と一緒に描かれている花は枇杷と曼珠沙華。友人にどうしてこの組み合わせなのか聞かれたが、それらしい事を言い誤魔化した。
本当の事など恥ずかしくて言えるわけがない。

梟を赤葦に見立て、花には自分の行き場のない思いを託した。
花にはいくつか与えられた言葉がある。枇杷は『密かな告白』、曼珠沙華は『想うはあなた1人』という言葉を持つ。



back
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -