「菅原さんが帰ってきた」

翔陽の弾む声を合図にわたしは教室を飛び出した。ちょうどお昼休みで、お弁当も食べ終えて、次の時間の小テストの勉強でもしようかと思っていた。そんなときだった。

どきどきとうるさく鳴り始めたリズムに合わせて、踏み出す足が一歩、また一歩と早くなっていく。 翔陽には、先輩がどこにいるのか聞かなかった。聞かなくて充分だった。
きっとそこにいるって確信があったから。





急ぐ足先は第二体育館の前で止まる。重厚な扉をスライドさせれば、そこには朝練のときのままにしてあるネットや得点板。ちょっとした部員たちの荷物やボールが転がっている。
おなじみの、烏野高校排球部の風景。

その中でひとり。トスを上げる懐かしい背中があった。

「菅原せんぱい!」
「? おー!みょうじじゃん」

最後に上げたトスを手に収め、くるりと振り 返った先輩がぱっと笑顔を見せた。安堵感が全身に広がる。
駆け寄ると本当に菅原先輩が帰って来たのだと実感した。柔らかな匂い、ちょっとした指先の仕草、先輩を見上げる感じとか。
菅原先輩がいるといつもの体育館に懐かしさが戻って、いつも違う場所みたいに見えた。

「よかった」
「? なにが?」
「せんぱいに忘れられてたらどうしようって思ってました」

えへへ、と笑って見せる。冗談っぽく誤魔化 したけど、案外本気で考えていたり。

「忘れるわけないだろ」

きっと期待していた、しっかりとした、声。 すっとわたしの胸に入ってきて収まる。体温 が急上昇していって、火照るのを感じた頬が 赤くなっていませんようにと願った。
先輩の言葉は大切なマネージャーとしてという意味なのだろうけど、菅原先輩の中にわたしが確かに存在している事実が嬉しかった。


―――菅原先輩が、好き。
マネージャーの希望届けを提出しに体育館へ 足を運んだときからこの気持ちが色褪せたことはない。むしろ日を増すごとに膨らむそれと戦う毎日だった。
....卒業式の日、結局わたしは自分の気持ちを伝えることをせず笑顔で見送る道を選んだ。 今まで重ねてきたきらきらした思い出が崩れ てしまうのは耐えられそうになかった。

こうして再会した今となっては、告白しなかった自分を褒めてあげたい。と、思わなくも、ない。

「せんぱい、大学どうですか?」
「楽しいべ。勉強はキツイけどなー」

バイトの話。今の鳥野の話。サークルの話。排球部の話。ちょっと変わった新しい友人の 話。
途切れることなく続く会話はまるで時間が半年前に戻ったみたいだった。

「みょうじはどうなの?」
「順調です。部活も楽しいし!」
「進路とかもう決めた?」

優しげな眼差しから、心配してくれてるんだなって伝わる。
一度、苦手な科目で成績が上がらなくて悩んでいたとき相談に乗ってくれたのは菅原先輩 だった。そのおかげで今ではすっかり得意教科に変わっている。
県外の大学の英語系の学部に行きたいと伝えた。

「俺と一緒じゃん!」
「そうなんですか?」
「学部は違うけどなー」

そっか、みょうじと一緒か。
そう言った先輩はどこか楽しそうだった。
あまりに喜んでくれるから「来年合格したらまた先輩に会いに行ってもいいですか?」なんて、ついうっかり口が滑りそうになる。たとえ合格できたとして、そんな勇気は持ち合わせていないのだけれど。
....けど、けど。
もし大学内で会えたらなとか、わからないことを教えてもらえたらなとか、今よりもっとお近づきになれたらなとか。期待と妄想だけはぐんぐん膨れあがっていく。
思わず緩む口元に、なにニヤついてんのって先輩が軽くでこピンを飛ばしてくるものだから、よけいに緩み方がひどくなった。

なんとなく選んだ大学だったのに心の底から 合格したいと思い始めたのは、きっと気のせいではない。ぼんやりとしか浮かばなかった卒業後が急に色付いて見えた。

「来年待ってるからな」

頭上に降りてきた手がくしゃくしゃとわたしの頭を撫でる。
英語がわからないと悩んでいたときとかわらず励ましてくれる先輩は、わたしの気持ちになんか気づいていないのだ。待ってるからなって頭の中で何度も反芻する声がわたしのやる気に火を灯すのも。

こくり、と、力強く頷いてみせた。




夢のような昼休みに終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
先輩は新幹線の時間があるから部活まで残れないと言っていた。ふわふわと浮き立った感覚は少しずつしぼんでゆく。

「そうだ。これ、やるべ」

一緒に体育館を出て先輩が鞄から取り出したのは、近所の神社のおまもりだった。赤い布地に必勝祈願の派手な文字が踊っている。

「入試のときそれ持って行ったらうまくいったからさ。みょうじもパワー貰えますように」

わたしの手にそっと握らせる赤くて小さな布袋は、それはそれは偉大に見えた。
神様からの運と、大好きな先輩からの好意。
もうどんなものにも敵わないんじゃないかってくらいパワーが詰まっている。

「ありがとうございます!大切にします!」 「うん。応援してるべ」

またな、と手を振る菅原先輩の後ろ姿を飽きることなく眺めた。
卒業してまだたったの半年だけど、先輩に高校生だった頃の面影はない。身長もそんなに変わってないはずなのに大人びて見えた。
もっと遠くの存在になったような気がする。寂しさが込み上げてきた。


―――わたしもあの背中と並んで歩きたい。
予想もしていなかった出来事だけど、また菅原先輩と会って近くで優しさを感じると、想いは強くなるばかりだった。
卒業までの残り半年間。その間にわたしと先輩との距離はまた離れてしまうに違いない。
先輩に彼女ができたらどうしよう。もしかしたらもういたりするのかも。なんて。悪い方にばかり考えを巡らせるけど、最後には"もしかしたら"の期待がハッピーエンドへと想像を走らせる。
それは複雑に衝突し合いながら、わたしの胸を苦しくさせた。

けれどどちらにせよ今のわたしには恋心を実らせる力もないし、チャンスもない。合格して先輩と同じ大学生にならなければ何もかも始まらないのだ。


―――がんばらなくちゃ。
来年のこの季節には、菅原先輩の隣にいられますように。

密やかに紡がれた願い事は、深呼吸とともに胸いっぱいに吸い込んだ秋の香りのする風の中で溶けた。


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