ブループリント
ターミナルからたかが三つ目の停留所だというのに、やっぱりバスは三分近く遅れてやってきた。夏の西日にじりじり焼かれながら待つ身には、やけに長い三分間だった。取引先を出てこのバス停に向かうまでに、ネクタイは外したし、ワイシャツの袖も肘まで捲りあげたが、暑いものは暑い。多少よれよれでもハンカチを持っていてよかった、と俺はつくづく思った。汗で湿ったそれは、手の中でしわくちゃになっているが。近づいてくるバスも、ゆらゆらと陽炎をまとっている。スピードを落として停まり、ビー、と古めかしい音と共にドアが開く。
えらく塩辛い声が、発車しまあす、と言うのを聞きながら、俺は汗を拭き拭き、空いた席を探して車内を見回した。この線は、ターミナルからしばらくは住宅地というよりは倉庫群や工場用地が続くから、思った通り、ぽつぽつと空席が目に入った。
「あ、」
動き出したバスの振動に揺られて、ぐらりと身体が傾ぎ、吊り革を掴んだが、俺の足は、まるで慌てふためいて駆け寄ろうとでもいうようにたたらを踏んだ。一番後ろの席で、銀色の髪の横顔が、物憂げに窓の外を眺めていたからだ。
「さかた、」
俺の声はみっともなく上擦った。さっきまで、若僧ながらも、取引先の親父さんと一応一人前にやり取りをし、大層なものではないにせよ、商談なんてやつをまとめてきたのに、俺は不器用な十代の頃に戻ったように、舌を縺れさせてその名を呼んだ。
彼は頬杖を外してつとこちらを見た。眉が上がり、俺を認識した目が見開かれる。ああよかった、と俺は心の中で歓喜した。坂田は俺を覚えていた。忘れられてはいなかった。
「土方じゃん。うわあ、懐かしいなあ。何年ぶりだよ、おい」
坂田は見を乗り出すようにして一気に喋り、笑った。笑うと目尻が下がって人懐こい顔になる。昔のままだ。
「座れよ、いやあ、ほんと偶然」
坂田はTシャツに涼しげなジャケットを着て、下はジーンズだった。サラリーマンではないらしい、と見当がつく。そういや彼は大学を出た時点で就職を決めていなかった。
−−どうすんだ、坂田。
−−だいじょうぶ、だいじょうぶ、たぶん。
笑いながら言っていた。もっとも、俺の記憶の坂田はたいてい楽しげに笑っている。嫌いな講義はつまらなそうに、好きな講義は意外と真面目に受けていたが、笑顔の印象が一番強い。
「仕事?」
坂田はニコニコと俺の荷物を目つきで指した。少しくたびれた外回り用のカバンと、青写真を収めた筒。俺は頷いた。
「社用車が故障でさ、たまたま今日だけバスなんだ。坂田、よくこの辺にいるのか」
「いやあ、俺もたまたま。土方は今もあそこなんだな、あの」
坂田は俺の勤める社名をあげた。我が社は決して大きな所帯ではない。小さいが割に堅実な建築屋で、社員は皆よく働く。
「家、作れるの?」
坂田はあやふやな聞き方をした。俺は笑った。
「俺は建築士や内装屋じゃないから、主に営業だよ。まあ、仕事柄ずいぶん建物にも詳しくなったけど」
へえ、と坂田は小首を傾げた。目がきれいに澄んでいて、睫毛がうっすらと陰を落としている。不意に、大学の大教室を思いだした。並んで退屈な講義を聞きながら、坂田の眠たげなこの長い睫毛をよく見るとはなしに見ていた。俺のさして長くもないこれまでの人生の中で、それは美しい映像のひとつとして記憶されている。宝物のように。
「お前は?今、何してんだ」
バスが交差点の段差を乗り越え、ガクンと揺れた。前の席でうたた寝をしていた老人がビクッと目を覚まし、いっとき外の景色を眺めて、また頭を垂れた。
「そうだなあ、土方の仕事と遠くもないのかなあ」坂田はくすぐられたような顔をした。「あのさ、俺、ガキん頃から、新聞に挟まってる不動産屋のチラシの間取り図を眺めるのが大好きだったの」
「ああ、俺もたまにやった」
ツルツルしたチラシの表裏を眺めては、この家は日当たりがいいなだとか、和室の位置が良くないなとか、ここに住むなら俺の部屋はどれになるのかなどと想像を巡らしたりした。
「実はさ、学生の頃から、ちょいちょいバイトしててさ」
インターネット上で、間取り図にインテリアコーディネイトを載せていたのだという。それが口コミで広がり、「多少稼げるようになった」らしい。
俺は素直に感嘆した。そういえば、あの頃、何度か坂田の一人暮らしの部屋に行ったことがあった。金はかかっていなかったが、どこもきちんと整っていて、センスがよかった。無駄がなく、不足がなく、嫌味のない洒落た感じがあった。
「最初は引っ越しを予定してる若い子やら、手頃な家具を探してる奥さんやらの無理相談室みたいなもんだったんだけど、最近じゃちょっと高級な所からもお声がかかったりしてさあ、楽しいんだ」
今日も、商売相手の担当者と打ち合わせの帰り名のだという。
「なのにバスかよ。車の一台くらい、買えよ」
茶化すと、坂田は苦笑を浮かべた。
「車はめんどくさい」
はっとした。確か、坂田はごく幼い頃に、両親を交通事故でなくしていた。まずいことを言ったと悔いる俺の気を逸らすように、坂田は聞いた。
「土方は今も実家か?お前んちで騒いでっと、お父さんにうるさい!って叱られたなあ」
「あ…」俺は息を吸った。
「親父は、死んだんだ、一昨年」
「え…」
坂田は口を開け、一瞬後に、ひどく悲しそうな顔をした。
「そうかあ…あんなに元気だったのになあ」
「血圧が高かったから。倒れてあっという間に逝って、親孝行もさせちゃくれなかった。息子孝行とでもいうのか」
坂田は唇を結んだ。
「土方も、家族の縁が薄いね」
土方「も」、に、共感の響きがあった。
おふくろは俺が生まれてすぐ世を去った。だから、現在俺は、親父が遺した家に一人で住んでいるのだが、古い一戸建ては俺の手に余るし、郊外だから通勤にも少し不便だ。それで近々売りに出して、都心のマンションの頭金にしようかと思っている、と話すと、坂田は言った。
「結婚でも考えてるか」
ちょっと虚を突かれて、俺は瞬きした。
「…いや、まさか」
「でもよ」坂田は背もたれに首を預けた。
「マンションっても、ワンルームなんて買ったってしょうがないだろ。将来のこととか考えたら」
「いや」俺は柔らかく遮った。「俺はたぶん、結婚しないと思うから」
学生時代から、次第に自分自身で理解し始めたことだった。俺はどうしても女を愛せないらしい。ひた隠しにしてきたが、それは、恥というよりは、友人を失うことを恐れたからだった。
だが、坂田は、違う。
俺は−−坂田に惚れていた。今なら友情と愛情の境目がぼんやり見える。俺の気持ちは友情を越えていたが、当時の俺はまだ少し混乱していて、相手との距離をうまく掴めなかった。じゃれついてくる坂田を無意識に避けていた。挨拶程度の触れ合いでも、無意識に身体が竦んだ。−−彼は、気づいていただろうか?
「…結婚は、しない」
俺は小声で繰り返した。沈黙が流れ、バスの鈍いエンジン音が耳についた。恐いとは思わなかった。三十路近くなって、俺も多少開き直りを覚えたのだ。俺は、自分が微かに笑みさえ浮かべているのを自覚していた。坂田は−−、恐らく、俺がゲイだと知っても、身体ごと引いていったりはしないだろう。何度かの苦い経験から、幾らか学んだ。偏見は決してなくならないが、自分を客観視できる人間は、少なくとも理由のない憎悪とは無縁だ。そして坂田はそういう、数少ない自由な人間のひとりだ。おかしなことだが、直感的に俺は信じていた。
「そうか」
坂田の声はおおらかだった。
「でも、どうせなら広い部屋にしようぜ。友達が来ることもあるだろうし、俺みたいなフワフワした自由業なんていつ食えなくなるかわかんねえしさ、そうなったら転がり込めるしさ」
坂田は屈託なく笑っていた。まるで何も気づいていないように、あるいは−−すべて知っているかのように。
西日が眩しくて、俺は目を細めた。何もかも眩しかった。なんてきれいなのだろう。世界は。
「男の一人所帯なら、インテリアにはうんと金かけられるよな、ヒヒ。いい部屋にしてやるよ」
バスの揺れと、坂田の笑いの波動が心地よく重なって、気づいたら俺も顔いっぱいで笑っていた。脇に置いた青写真の筒が、揺れに乗ってくるりと回った。
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