tribology


 多喜二は真面目な努力家だし、素直で可愛らしいと思う。それは出会ったばかりの頃も、恋人として時間を共有するようになった今でも変わり無い。

 一つだけ、強いて不満を述べるなら、未だに俺の事を『サン』付けで呼ぶ事。二人でいる時は呼び捨てで構わないと告げたが、けじめだと言ってきかなかった。

「俺は直哉サンの事、本当に尊敬しています。だから、これからもそう呼ばせて下さい……駄目、ですか?」

 恥ずかしさから視線を逸らし、フードを目深に被り直す。そんな所も惚れた弱みで愛らしく映るのだが、逆にどんな事をしてでも俺の名を呼び捨てで呼ばせてやりたくはなる。自分の下で啼かし泣かせたいという暗い欲求を胸に抱きながら、俺は計画を実行に移すことにした。


 その機会は案外早くに訪れる。夜、潜書から戻ってすぐ自身の原稿を取りに来た多喜二に、眠れないから少しだけ付き合えと、自室に招き茶を入れた。

「夜分に押し掛けてしまったみたいで、すみません」

 恐縮する愛弟子の前に短く気にするなと告げ、ティーカップを置く。温かい紅茶ふわりと漂う湯気に誘われるように口付けるのを確認してから、自分も一口啜った。中に薬を混ぜていても、砂糖を多めに入れたせいで味の違いには気付いていないだろう。

 表面上は変わりなく、最近の出来事や潜書をしていて気付いた事、後は最近読んだ本の感想などを話す。他愛ない会話を交えた時間の筈が、普段通りの均衡が徐々に崩れていく。手で胸を押さえ、荒い息を吐く多喜二に内心ほくそ笑みながら、いつもと変わらぬ表情で声を掛ける。

「どうした、具合でも悪いのか?」
「すみませ、直哉サン……。そろそろ、部屋、戻らせていただきます……」
「そんな状態で、戻る途中に倒れて頭を打ったら余計まずいだろ。ここでしばらく休んでいけ」

 いきなりの事で混乱する多喜二を横抱きにし、寝室まで運ぶ。ベッドにそっと下ろして、わざと首筋に触れるように指を滑らせながら頬に伝う汗を拭う。

「ふ、あ……っ」

 強制的に煽られた身体から熱を帯びた声がほろりと零れ落ちる。どんな菓子よりも甘く艶やかで、知らない故に媚びた混じり気も含まない。今の俺にとってそれは自身の邪まを煽られる性質の悪い、中毒性がある麻薬の様だとぼんやりと思いながらも、多喜二のなら上等じゃねぇかと論付けてごくりと思考ごと飲み込んだ。

「悪い弟子だ、俺を誘っているのか?」
「ち、違……!」

 朱色に染まる顔で首を横に振り否定する多喜二、戸惑いと羞恥を溶かした眼差しで俺を見るその姿に理性が霞む。奪うように唇を重ね、吐息ごと攫う。服の上からするりと撫でる戯れの様な動きでも敏感に反応し、胸の頂きと彼自身が立ち上がる。

「窮屈そうだな、服が邪魔だろ」

 返事を聞かずにゆっくりと脱がすと、現れた薄桃色の素肌はしっとりと汗ばんで艶めいていた。まだ青い幹から透明な蜜が滴り落ちる、それを掬い擦り付けながらさらに刺激を与えた。上り詰め、解放する直前で手を離す。

「え……なん、で?」

 自分の身体の急激な反応に戸惑いながらも、切なげな表情でこちらを見つめる視線に気付かない振りをし、多喜二の先走りで濡れた指を下の窪みへと沈める。数を増やしながら掻き乱すと、固い蕾は粘着質な音を立て徐々に解れていく。掠めるだけでは足りない、それ以上の強い快感が欲しいと、潤んだ瞳が訴える。

「な……サ、直哉サぁ、ン。あ、つい……」
「『直哉』だ、多喜二」

 自分より幾分細い身体を引き寄せ、流し込むように耳元で囁く。熱に浮かされ揺らぐ思考から自らの望む言葉を紡がせようと、駆り立てて追い詰めていく。

「やぁ、苦し……あ、直……さ」

 口の端を伝う唾液を拭う事も出来ず、幼子の様に舌足らずな口調で嫌々と首を横に振り、助けを求める彼の両腕を自分の首に回し、溜まった涙を唇でそっと吸い取る。

「頼む……。師匠でも神様でもない、ありのままの『俺』を呼んでくれ」

 浅ましく身勝手な願いを押し付けた上、それでも受け入れて欲しいのだと望む自分は一体どこまで欲深いのか。閉じられた瞼が開き、澄んだ鳶色の瞳に捕らえられる。触れるだけの口付けをしてふわりと微笑んだ多喜二は、俺の欲しかった、いやそれ以上の言葉をくれた。

「な、直、や……好き、です。大好き……っ?!」

 噛み付かんばかりの勢いで口を塞ぎ、高ぶる感情のままその身体を貫いた。繋がる箇所から溶けてしまえばいい。些末な拘りや自身の奢り、この想いも……。

 繰り返し耳を打つ、恋人の嬌声を聞きながら唯一の名を何度も呼ぶ。嫋やかな腰を両手で鷲掴み、しなる肢体の最奥に迸る白熱を幾度も叩きつけた。切なげに震える多喜二の睫毛が、唇が、こんな俺を求めて縋る指先が、ただただ愛おし過ぎて、綯交ぜの感情ごときつく握りしめた。


 眠りについた多喜二が目を覚ますのを待ち、先程入れた紅茶に一服盛った事を白状して詫びる。

「……済みません」

 謗りや罵りを受けると考えていた、俺の予想を覆す言葉に動揺が隠せない。その静かな反応が却って彼の怒りを表しているようだった。

「それは、どうしても許せないから俺と別れたい……そういう事か」

 急激に思考が、体が、心が冷えていく。本当に自分は愚かな事をしたのだと、今更後悔しても遅い。

「違う! 違い……ます。俺は怖かった、際限無く惹かれていく自分が。どんどん好きになって、止める事ができないこの気持ちが……。小説の神とまで言われた直哉サンに情欲を抱いてはいけないと、この気持ちは憧れだと敬愛なんだと、ずっとそう言い聞かせていたんです。でも、それが却って苦しめていたなんて」

 伏し目がちな表情で、悲しげに呟く多喜二。

「待ってくれ、お前に謝られたら俺はどう償えばいいか分からなくなる」

 次の瞬間いたずらっぽく笑い、失礼しますと呟いてから手を伸ばして柔らかく俺の頬をつねる。

「これでおあいこ、です」
「思い切りしても構わない、そうでなければ割りに合わないだろう」
「その場限りの遊びではないなら、それでいいんです。俺にはまだ、知らない事や分からない事がたくさん有ります。これからも色々教えて下さい。後……ご迷惑でなければ、傍にいさせて下さい」

 ――多喜二の言葉が心に染みていく。許されるのか、許されてもいいのか、俺は。

「いいのか、俺の傍にいたら、またこういう事になるかもしれないのに?」

 答えはもう分かっている。それなのに可愛い反応が見たくて、つい意地の悪い笑みで問う。

「次からは、優しく……して、くれるなら」

 顔を赤らめてこくりと頷く目の前の愛しい恋人を、きつく抱き締める。

「あ、あの、やっぱり尊敬していますし、いきなり呼び捨ても恥ずかしいので……だからまだ直哉サンじゃだめ、ですか?」
「分かった……本当は、一日でも早く呼んでくれると喜ばしいが、まぁ待つさ」


 ふわりとした紅檜皮の髪を撫でながら答えると、努力しますという返事と共に腕を回される。多分、いやきっと、その日はそう遠くないのかもしれない。だから今度は多喜二を信じ、ただ待つ事に決めた。

2018/03/07
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