一心同体 | ナノ


※痛い表現、死ネタもどき



 鍋から吹き出す湯気と共に、出汁の良い香りが部屋中に充満している。
 ほどよく煮込まれた具材は貰い物の大根、人参。どれも出汁の茶色に色づいて味がよく染み込んでいる。
 それに練り物やこんにゃく、他数種類を足して出来上がるのがおでんだ。今晩の牧野家の献立であった。

 箸の先で煮え具合を確かめれば、一番硬かった大根も根本まで楽に箸が刺さる軟らかさになり、こんにゃくにも味が染みたようだった。
「美味そうですね」
 出来栄えに納得の笑みを浮かべていたところに突然低い声が耳元をかすめて、牧野は手にしていた蓋をうっかり落としてしまうところだった。
「みっ、宮田さん、驚くから耳元でいきなり話しかけるの止めてくださいって言ったじゃないですか」
 真横から鍋を覗き込んでいる宮田をたしなめつつ、重たい土鍋の蓋を横に置き、コンロの火を止める。
「あ、もち巾着もある」
「もう、人の話を……」
「へぇ今回は豪勢ですね、前回に比べて」
「前、回は……」
 牧野は次に言おうとしていた言葉詰まらせた。ずしりと重くなる右肩。宮田が顎を乗せて体重をかけたためだ。
 宮田が牧野の注意を無視して自分勝手に振る舞うことは日常茶飯事だった。
 何度言っても一向に態度を改める気配のない弟に、牧野はそれでも根気よく言い聞かせることこそが肝要としていたのだが、大半はこうしてなんやかんやとはぐらかされていた。
「あれは、残り物を整理したかったんです」
「野菜しか入ってませんでしたよ?」
「一応ちくわも入れてたでしょう、ちっちゃいやつでしたけど……」
「本当にそれだけでしたけどね」
「……っ、だから今回はいっぱい入れたじゃないですか」
 前回の詫びのつもりだと言えば、ふうんと含みのある顔が牧野を見る。
「……何ですか、文句があるなら食べなくていいんですよっ」
「そんなわけないじゃないですか、もちろん食べますよ」
 牧野が肩に乗せられていた重みを振り落すように体を揺らすと、寄りかかっていた当人は牧野が不機嫌になる寸前に安全な居間へと退散した。
 先に指示していた取り皿と鍋敷きを持っていった辺り、牧野を本気で怒らせるつもりもなく、協力してくれていることは分かるが―――牧野は首をかしげた。
 彼は何か他に言いたいことがあったのではないだろうか。
 しかし牧野は今日の献立くらいしか原因になるものを見出だせなかった。


 テレビのある居間の和室にはこたつが設置され、その上にはたった今宮田が持っていった鍋敷きが置かれている。
 板の間の台所から和室は地続きであり、本来はふすまで仕切れるのだが、今は主賓のために開けられていた。そこへ両手で大きな土鍋を持った牧野が現れ、敷居を慎重にまたいで熱々のそれを鍋敷きの上にそっと置いた。
「宮田さん、お茶碗お願いできますか、ご飯よそってあるので」
「はい」
 エプロンのポケットからからしと箸を取り出して置く。すぐに食べ始めるのだから盛りつけてもいいだろう、と牧野はお玉に手をかけたが、前回のこともあるので宮田の好きなものを取らせてからの方がいいだろうと、エプロンの結び目に指を移動させた。
 しゅる、と腰紐が解かれ、首に回っていた紐から頭を抜いて、乱れた髪を手櫛で直す。
 たたんだエプロンを隅に置く、その一連の動作を背後で両手に茶碗を持ったままの宮田が黙って見ていたことに振り返って気がついた牧野は、驚いて目をしばたかせた。
「どうしたんですか?」
「……美味そうですね」
 宮田はぽつりと言った。
「はい……?だからもう食べますよ」
「食べてもいいですか?」
「どうぞ……?」
 今すぐに食べられるように準備してあるというのにおかしなことを言う、牧野は怪訝に思ったが、宮田が早く食べたいのならと何が欲しいのかを尋ねてよそってやろうとした。
 途端、左の首筋に痛みが走った。獣に噛みつかれた時のような鋭い痛み。
「ぎゃっ!」
 空の取り皿がこたつ板の上に音を立てて落ちる、幸い低い位置から落とされたために皿は割れずに済んだ。
 それよりも、である。
 牧野の首筋に深々と歯を食い込ませた獰猛な獣は、未だにそこから動かないままであった。大きく開いた口はさほど余分な肉もない首筋を根元からしっかり把持している。
「いっ…、みや、…さっ」
 悲痛な声に名を呼ばれても宮田は口を離すどころか咥えた獲物を逃がすまいと、捕らえた肉を噛みしめるように咀嚼した。食いちぎられるほどではないにしても甘噛みというにはいささかの遠慮もない。
「ひぃ……たぁっ…」
 ギリギリと噛まれた部分は前歯から犬歯、奥歯の並びまではっきり分かるほど、見事な歯形がつけられていた。指でなぞるとヒリヒリとした感覚の場所に連続した細かなへこみが半円を描いている。
 唾液に濡れた首筋の状態を把握した牧野は、恨みがましい視線を振り返った先の宮田に送った。
 しかし宮田は牧野が若干の怯えも湛えた表情で己を見つめていることには目もくれず、口を何度か動かして何かを反芻しているようだった。そして勝手に納得したらしく席に着くとさっさと食事を始めようとする。
「ちょっ、ちょっと、宮田さん!何かないんですか?」
「何か、とは?」
 おでんをよそう宮田に何気なく聞き返され、座らないんですかとまで言われると、一人立ち尽くしている牧野の方が大人げないかのようであった。このまま自分だけ立って話をするのも情けない、元はといえば宮田の突飛な行動が原因だというのに。
 牧野がただ一言謝罪を口にしてくれればそれでいいと思っていても、宮田はその一言をなかなか口にしない男であった。だからこのような場合は根気負けした方が敗者となるのだ。
 その一面に関しては、濃密な関係になる以前から長い付き合いの中で牧野も十分知るところだったので、牧野は仕方なく宮田の座る場所からこたつを挟んで向かいの座椅子に腰を下ろした。

 それにしても、深皿をおでんで山盛りにし、端に出した大量のからしをつけて黙々と食べ始める宮田に、牧野はやや呆気にとられる。
 あんなことをしておいて何もなかったように振る舞える彼の神経とはどうなっているんだろうか?
 自分も食べ始めるその前に、牧野は傍にあった濡れ布巾で首の唾液を拭う。
 空気の流れにも敏感になっていた傷は刺激を受けて余計な痛みを生み、沁みるのを堪える間は問いただしたい気持ちと感情的になってはいけないとする気持ちを戦わせなければならなかった。
 それなのに宮田は、牧野が皿を取ろうとすると素早くそれを取り上げて、「盛りますよ」と言って牧野の好きな大根を多目にして皿に盛りつけたりする。
 この落差が牧野には分からなかった。
 何なんですかその違いは、さっきはどうしてあんなことしたんですか、罪悪感はないんですか、私の話を聞いてください―――
 言ってやりたい言葉は数あれど、せっかくの好意を無下にすると宮田は不機嫌になってますます話が進まなくなるので、牧野はとりあえず皿を受け取った。
 ふうふうと大根を口にしながら先の出来事とその経緯について思いをはせる。


 実のところ宮田が噛みついてきたのはこれが初めてではない。
 牧野の視線が右の人差し指の根元に巻かれた絆創膏に向けられる。
 先日書き物をしていた際におもむろに手を取られ、一噛みやられた痕を隠すために巻かれたものだった。
 最近の宮田はどうしてしまったのだろうかと、牧野は本気で彼の行く末を案じていた。
 これまで宮田の唇が牧野の体に触れる機会は何度もあった。痛々しい噛み傷が残る指にも真新しい傷ができているだろう首にも、しかし宮田は一度たりとも行為の最中に先のような凶行に走ることはなかった。これは本当に最近のことなのだ。
 それだけに牧野には宮田の行動の変化が何らかの前兆ではないのかと憂慮していたのである。
 兄として恋人として看過できない、注意したいという気持ちも当然のごとく存在する。しかし一番気になっていたのは宮田が自分に言えないような悩みを抱えているのではないかということであった。
 怒ったような顔をするのも表面上取り繕っているだけで、内心では宮田にも本心で打ち明けてもらいたいと願っていたのだ。それを口に出せないという部分を牧野も持っている点に関しては、やはり二人が兄弟である証拠だといえるだろう。


「牧野さん」
「―――はい?」
 一つ目の大根を食べ終えて二つ目に箸を入れていた牧野は、自分の二倍のスピードでおでんをたいらげていた宮田の言葉に対し、少し反応が遅れた。
「物足りないと思いませんか」
「物足りない?―――お肉がないからですか?」
 前回、と宮田と牧野が称した数週間前の晩、その日もやはり献立はおでんだったのだが、農家が多い信者らの貰い物で牧野家の食品庫はあふれており、それが一気に消費期限を迎えようとしていた。
 牧野は手当たり次第に期限切れになりそうな野菜を詰め込み、気がつけばそれだけで鍋が満杯になってしまったのである。その日宮田が言った台詞が「肉がない」だったのだ。
 だから牧野は、今回も品目が増えはしたがやはりに肉は入っていないので、そのことを言ったのかと真っ先に連想した。

「どれも納得のいく柔らかさじゃないんです」
「そうですか…?ちょっと煮過ぎちゃいましたかね」
 牧野の皿の中の大根は、半分まで箸を入れると簡単に二つに割れた。
「そうじゃありません」
 分からないという顔の牧野に、宮田は理由を口にする。
「どれも牧野さんに適う触感ではないなあと」
「…………はっ?」
 牧野の目が点になる。
 その反応を見越していた宮田はさらに話を続け、数分後牧野はこの時点で彼を止めなかったことを後悔した。
「噛みたくてたまらないんですよ、牧野さんの肌。柔らかくて弾力があって、餅みたいですけど餅のように柔らかすぎてもいないし」
 宮田の箸が巾着の中身を行儀悪く広げて牧野に見せる。白い餅が細く尖った箸の先端で二、三度つつかれる。
「同じ柔らかいといっても野菜は全然駄目ですね、似ても似つかない。大根はすぐに割れるし、人参なんかほら―――こんなにすぐ崩れてしまう」
 真上から箸が直角に突き立てられて、人参がぐしゃりと潰れた。なぜか牧野の背中に怖気が走る。
「はんぺんとかさつま揚げとかはどうかなと思ったんですけど、やっぱり違いますよね。一番近かったのはこんにゃくですけど―――」
 味が染み込むようにと食べる者のことを想って隠し包丁が入れられている灰色のこんにゃくに、宮田は思い切りかぶりついた。
 ビクリと牧野の体が震えた。犬歯が食い込み、噛みちぎられるそれがもし自分の肌であったら―――泣き叫ぶ自分にまたがって、暴いた服の下から露出した肌に食らいつく宮田の姿が瞬時に想像された。
 口内の感触を確かめるような表情は、つい先ほどに見たあの顔であった。何度も顎を動かし、獲物が体内に取り込める大きさになるまで咀嚼して噛み砕く。
 しかし咀嚼するほどに宮田の顔は不服の色を濃くしていった。どうやらそれも求めるものとは違ったらしい。
 一方牧野の食欲はとうに失せていた。
 食べ物と同一視されていた自分、自分以下の存在とされた食べ物。非人間的扱いで見られていたこともショックだが、宮田の口と箸で残骸となったおでんを目の前に、いまさら誰が食べることができようか。
 あれは自分と比べられ、宮田の眼鏡にかなわなかったために打ち捨てられた者の悲しい結末である。牧野はただの食べ物が自分のために犠牲になった被害者のように感じられていて、もはやそれを宮田と同じように食すことはできなかった。

 喉を鳴らして最後の一片が宮田の体内に取り込まれた。
「…やっぱり違いますね、だいたい噛み切れるという時点で駄目ですし、こんにゃく臭さが気になってちっとも牧野さんぽくない」
 いびつな笑みに、牧野は笑い返すことができなかった。口元から覗く歯や舌に、視線が縫い付けられてしまったかのようなのだ。
「牧野さん、もう食べないんですか?」
「わ、たしは……もう、結構です…なんだかお腹いっぱいで……」
 捕食される者の恐怖、拒絶、悲しみ、嘆き、それらが逃げろと警告する。この場を離れろと、早く宮田の前から立ち去れと。
 だができないのだ、指一本すら動かない。背を見せれば最後、今度はその牙が自分に向かうのではないかという確信めいた予感が視線を外すことを許さない。
 よしんば居間から出られたとして、自宅を出ない限り宮田から逃れるすべはないだろう。そしてその時間をおそらく彼は与えない。
 ならば何をしようがこの捕食者からは逃げられないのだ、牧野の中ではそう結論が出ていた。
 箸を置いた宮田は、まだ数口しか食べていない牧野の言葉に不思議がる様子もなく、悠々とこちらを見やった。
「そうですか……でも俺はまだ満腹じゃないんですよ…?」
 何が言いたいか分かるかと宮田の瞳は問いかけていた。
 牧野の頭の片隅ではじゃあ箸を置く必要はないでしょうとか、三回もお代わりをしておいて空腹のはずがないとか、苦し紛れの皮肉を言う自分がいるが、牧野はそんなことを言いたいのではない。
 現実を正しく認識することを恐れ、その答えを自分から出すことをためらっていたために、他の感情で思考の穴を埋めざるを得なかったのだ。この後自分がどうなるか、それだけは考えたくない一心で。
 答えを待たず宮田はやって来た。畳を擦りながら四つん這いになってゆっくり、ゆっくりと近づいてくる。
 獰猛な肉食獣のような目が牧野の体を舐めるように見る。
「いいんですか…?そんなところにいたら、誰かに食べられちゃいますよ…」
 確認しておきながら宮田の手は首筋に触れた。痛みの残るそこにわずかに爪が立てられて、牧野は戦慄する。
 宮田の言う食事が何を意味するか、いま一番理解しているのは牧野だ。痛みを失わない首の傷痕が戒めのように教えている。
 しかし宮田の両腕に囲われた牧野はされるがままになっていた。こたつに隠れた体を引っ張り出され、畳に投げ出された腕や足を押さえつけられても、蛇ににらまれた蛙同然に抵抗の意思をなくしている。
 それは捕食者から逃れられない運命をさとってもっとも痛みの少ない方法で楽に逝けるように無抵抗になる草食動物と同じなのだろうか。
 牧野はこれが諦念なのか恋慕なのか、体をたどる宮田の手の動きを感じながら、脳を駆け巡る疑問について考えていた。
 ただ一つ不思議なのは―――恐れはあれど宮田への嫌悪は微塵も生まれないことであった。その心が「ならば気の済むまで」と己に言い聞かせていたのかもしれない。


 セーターを脱がされて白い肌があらわになると、これだとでも言いたげな至極満悦した表情が牧野を見下ろしていた。微笑んだ顔とは反対に煮えたぎる視線に射抜かれた牧野の体は、いっそう痺れたように脱力した。
 押し付けられた下腹部からかすかな熱が感じられる。宮田のペニスは既に半分以上形を変えていた。
 同時に牧野は身に起こる微細な変化を感じ取った。
 おかしい、だってこれは―――薄れゆく理性が問いかけるが、牧野の思考は淫靡な空気とそこから生じる興奮に着実に流され始めている。
 荒い息が痕のついていない首筋にかかるだけで喉は震え、同じ場所を舌が舐めると気の早い喘ぎまで漏れる。
「牧野さん、興奮してるんですか…?食べるって言われてるのに…?」
「あ……興奮……?」
「ふふ、自分でも気づいていないんですか?」
 間違いのない事実であった。自分もこの状況に興奮している、宮田がおかしそうに指摘したのは、触れ合った下腹同士が同じ熱を持っていたからである。
 衣服越しに緩く握られ、ビリッと走った快感に腰を浮かせて身悶える。せり上がってくる快感が頭を白く染め上げ、セックスと捕食の境界線を曖昧にしていく。
 喉元に当たる歯の感触が良い、いつ食い殺されるか分からない極限の状態で捕食者の息遣いを感じるのも悦びに思えてくる。
 被食される側でありながらそれ自体に喜びを感じるなど、本能のみに忠実な動物は決して考えない。これはゆがんだ感情なのだと認識しながら、牧野の口からは艶のある吐息が漏れていた。
「ずっと……こうしたかったんです…」
 反らされた喉を舐めあげた後、宮田の独白が吐息と共に唾液に乗って、牧野の全身をくまなくねぶる。
「ずっと…牧野さんを食べてみたいって思ってて―――」
 ―――セックスでは足りなかったんです、どうしても満たされない何かがあった。
 噛んだら崩れたりちぎれてしまうような儚いものとは違う、今まさに血の通っている生命を食んでいる感覚はどんなものだろう。
 牧野さんに触れる度、俺はずっとそのことを考えてきました。
 何度肌に思い切り歯を突き立てたい衝動に襲われ、その度に我慢してきたことか―――そして何度理性で感情を殺してしまおうと思ったことか。
 でも結局は耐えるなんて無理だったんです、だってこれは牧野さんを食べることでしか満たされないのですから。
 その感覚が、代用する何かでどうにかなるものではないんです。
 さっき牧野さんの首に噛みついてみて、全てわかりました―――。

 宮田の瞳はただ一色に染まっているという点では非常に純粋であったが、その色は毒々しく、血に飢えた獣が持つ色に違いなかった。
 瞳に映る牧野は全ての余分を取り払われ、捕食者がもっとも望む形で食べられるようにと昂ぶらされた体を抱いて、最期の時を待っていた。

「気づいてましたか?食事をする前から、俺はずっと牧野さんを食べることばかり考えていたんですよ―――?」
 饒舌だった宮田がある一点で移動を止め、陶酔に浸る牧野の瞳もわずかに揺れる。それは反対側に真っ赤な歯形を残す首筋であった。
「あなたの顔を見ながら、その服を破ってまっさらな肌に食らいついたらどんな感じなんだろうって、考えてたんですよ」
 そろった歯列が大きく口を開け、血管と神経の通った場所に狙いを定める。熱い舌と歯は何もかもが違った。冷たく固い感触が牧野の首の根元に数回触れる。
 そして渾身の力が宮田の歯を通して牧野の首筋を抉った。
「ぁあ゛あ゛あ゛ぁーーーっ!!」
 込められた力は、暴れる牧野の体を抑え込み、これまでの分を取り戻すように強く、深く歯を食い込ませる。
 口の中でどくどくと脈打つ血管の動きや、皮膚の下にある組織の感触、温かさ、どれをとってもそれ以外で感じることは絶対に不可能だ。一噛み一噛み牧野の肉を味わいながら宮田の下腹の疼きは増大し、ついには下着の中に射精していた。
 だから無理だったのだ、初めから代用品を探そうなどということは―――ぶるりと下肢を震わせた宮田は、しかし口だけは決して離さずに自分に向けて言った。
 性欲と食欲が同時に満たされる瞬間のことを、宮田は何度も想像してきた。求めてしまえば牧野を傷つけずにはいられないと煩悶しながら、気づけばそれなしには自慰が成り立たないくらいに虜になっていた。
 そしていま、実際に牧野を手にかけてみて―――それは想像を絶する快感であった。

 肩、二の腕、肘、胸、腹、内股―――と、赤やピンクの歯形が次々に現れ、まるでその紋様の服を着ているかのように牧野の体には無数の痕跡が残される。
 宮田は乳首や性器などセックスで重要だと思われる部分に宮田はあまり興味を抱かず、それよりも筋肉や脂肪のある部分、口の座りが良い場所などを選び、首筋と同様に噛みついていた。
 理性のタガというものをすっかり外してしまった宮田は手当たり次第に牧野の体を味わい尽くしていたが、痛みにむせぶ牧野はといえば、それでも局部を萎えさせていないことに自分でも驚いていた。
 前面を傷だらけにした体がうつ伏せにされ、ふいに耳元から低い声が聞こえてきた。
「こんなことをされても、いいんですね」
 宮田の声は興奮に濡れてやや上擦っている。
 痛みで勃起したことを揶揄する言葉に、反論できるほど余裕は残されていなかった。同じくらい自分の息も濡れているからだ。
「痛い……です…っ」
「でもイイ、でしょう…?」
 肩口に犬歯を突き立てられて、背中が大きく反らされた。掠れた声や表情は苦悶としかいいようのないものであるというのに、ペニスは天を向いて宮田の言葉を証明するように勢いを保っている。
 何がいいというのか、牧野は自身の体の変化の原因をつかみ損ねていた。痛みが好きなわけではない、噛みつかれる前に興奮したのはギリギリの状況がたまたまそうさせただけ、自分にそのような趣向は持ち合わせていないのだ。牧野は固くそう信じていた。
「俺はね、牧野さん―――」
 唐突に宮田の独白が再開された。
「これでもまだ満足していないんですよ。もっと、さらにあなたを確かめたい」
 言葉の合間も宮田は牧野の肉に顔をうずめ、口いっぱいに頬張ったそれを思い切り噛んだり引っ張ったりする。
「さっきは比喩みたいに言いましたけど、食べたいっていうのは本当なんですよ」
 痛みに震える体が、それ以外の理由からも痙攣を始めた。
「もしあなたがただの肉の塊だったら―――噛みちぎっても、飲み下しても、何の問題もありませんよね…?」
「え………?」
 何の話だ、宮田はこれから何をしようとしている。
 牧野の体は急速に冷たくなって冷や汗を流し始めた。
 宮田は牧野の体を仰向けにした。畳で傷が擦れてビリビリと痛む。だが今はそれに気を取られている場合ではない、牧野は懸命に体を叱咤して起き上がろうとした。
「ああ起き上がらないで下さいよ、今から確かめるんですから」
「何を…です……」
 やんわりと肩を抑え込まれ、訊きたくはなかったが訊かなければもっと恐ろしいような気がして牧野は尋ねた。
「食べるんですよ、あなたを―――本当の意味で」
 牧野の顔から血の気が引いた。今度こそ本当に、逃げなければまずいことになる、理性も本能も全てがそう言った。

 体の箇所という箇所を牧野は思い切り動かした。生命を維持しようとする力が逃走のために全精力を四肢に注ぐ。関節を押さえられていようとも、逃げるだけならできるかもしれないと思ってのことである。
「だから暴れないでくださいって」
 だが宮田は人間の行動心理も行動に必要な可動域も熟知していた。元より横たわった人間がのしかかる相手をはね飛ばすには数倍の力が必要になる。その全てが牧野には足りなかった。結果として牧野は宮田の手を多少煩わせただけで、抵抗らしい抵抗も果たせず屈するしかなかった。
 それでも諦めきれなかった牧野は残された口で抵抗を試みようとしていたのだが、「うるさくしたら乳首噛みちぎりますから」と言われて絶望に打ちひしがれ、言われるまま脱力した。

「何でそんなに嫌なんですか?食べたいほど愛されるなんて最高じゃないですか?」
 それはあくまでも比喩の場合だ、涙目で牧野は訴える。
「そんな顔しても、牧野さん全然萎えてないんですよね……どれが本心なんだか」
 くくっと笑われて、目を見開いた牧野が思わず下腹を覗き込んだ。嘘だ、そんなことはあり得ない、と。
「ほら……牧野さん、好きなんですよ本当は。これで俺が噛みついてイッたら、それがよぅく分かりますね」
 一石二鳥ですよ、宮田はそう言ってどこを標的にするか品定めを始めた。既に乳首と陰茎と手指を残してほぼ全ての場所が痛々しい赤に彩られていて、それ以外というなら傷の上にもう一度噛みつかれるということだった。
「やめ…て……宮田さん……」
「じゃあここにしましょう、脇の内側。柔らかいし、やりやすそうです」
 宮田は初めと同じように歯を数回当てて照準を定め、下から牧野の顔を見上げてにこりと笑った。
「もう味わえなくなるのは寂しいですから、噛み切るのは最後にしてあげますよ」
 その一言を最後に、強烈な痛みが牧野の体を襲った。
「ひぎああーーーっ!あっ、ああああーー!」
 痛み自体はこれまでと大差ない。しかし最後に待ち受けるものが、牧野の恐怖心を極限まで引き出し、絶叫として表れていた。
 宮田の顔はほころんでいた。
 肉塊になっても愛したいというのは宮田の本心であったのだ。
 牧野の体臭をかぎながらもっとも牧野の顔に近い場所として、宮田はそこを選んだ。
 最期にするならそのような場所がいい―――牧野と一つになれるような感覚を抱けるその場所が。
 双子といえでも同じではない、セックスをしても一つにはなれない、ならばどうしたら常に牧野を感じ、牧野と一つになれるのか。宮田が牧野の体を食欲の対象として見始めたのは、宮田自身の死生観によるものだった。
 人肉を口にしても同一存在になれないことは当然のこととして宮田も理解している。しかしそうせずにはいられない強迫観念が常に宮田を脅かしていた。
 彼は聞こえていないのだろうか、あの女を信じないでという頭に響く何者かの声が。
 物心ついた頃から宮田の脳内で再生される幻聴。
 それがいつしか引き離される運命を暗示しているように思えて仕方がない。どうしようもなく圧倒的な力によって、自分たち二人が運命を分かつことになるような事態が訪れる気がするのだ。
 それまでに彼と一つになりたかった。誰にも邪魔されない世界で全く一つになりたかった。
 牧野の体を食んでいる時、彼を取り込もうとする臓器がペニスを入れる時とは異なる一体感をもたらした。それに咀嚼という行為はもっともよく牧野という肉体の構造を感じられた。ゆえに宮田は愉悦の表情を浮かべるのである。

 痛みと恐怖に遠くなる意識の靄の中で、牧野はその表情を見た。
 それは恋人の牧野でも目にしたことがないくらい、無垢で安らかな顔だった。どうしてそんな顔を―――
 行為の残酷さと表情との差異に困惑する。
 自分なら恋人を傷つけてまで思い通りにしようなどとは思わない。
 けれど、宮田はずっとあの顔をしていたのだろうか。
 料理の最中に首を噛んできた時も、自分が痛みに泣き叫んでいた時も、今のような心からの表情でもって―――。
 牧野は、自分には宮田を幸せにすることができないことを痛感していた。
 共に過ごした時間のどこを探しても、彼があんな顔を見せた時の記憶が見つからない。
 それは自分という存在の限界なのだと牧野は思う。
 宮田を本気で好いていて、彼のために何かをしたいという気持ちはある。だがそれは自分が意思をもって行動する何かではないのだ。
 もし本当に彼がそれを望んでいるのだとすれば―――肉体を差し出すことが彼にとっての最善なのかもしれない。
 宮田の望む未来を思い描いた牧野は、最後の力を振り絞って言葉を紡いだ。
「わ、たし……も……」
「……?」
「食べられたい……のかも……」
 宮田が瞠目し歯を食いしばった瞬間、牧野は意識を彼方へ明け渡した。



 子猫が死んだ親猫を舐めるように、宮田は意識を手放した牧野の傷痕を舐めていた。
 牧野の顔は安堵の表情を浮かべ、口元はかすかに笑っている。
「嘘…ですよ……やっぱり、あなたがいないと、意味がない……」
 宮田の両目から大量の涙がこぼれ落ちていた。
 一つになれば上手くいくと思っていたのは想像の中だけの出来事であった。宮田はそのことを牧野に向かって懺悔していた。
 まだ見ぬ未来に迫りくる危機が、自分たち二人を引き離してしまうならあるいは、宮田はそう思っていた。だが牧野のいない世界で自分だけが生き延びても、自分が死んで牧野だけが生き残っても、それはやはり意味がないのだ。
 残される者の悲しみがこんなに辛いなら―――その時まで二人で一緒にいた方がいい。
「だから……早く起きてくださいよ……もうあんなことしませんから……我が侭も言いませんから……」
 もっとも深く傷ついた脇の傷を舐めながら、宮田は静かに上下する胸がいつもの鼓動を取り戻す瞬間を待った。


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真の求導師(完全体)になることとは身も心も一つになることだと分かっていて牧野さんを撃ったと信じたい説。
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