bitter seven | ナノ


牧野←←←←←宮田


 それは夏の盛りも過ぎたある日のことだった。
 宮田は不入谷の教会に向かう坂道を上っていた。
 背にした夕日がじりじりとした暑さを放ち、シャツから露出した腕や首が焼ける感覚が分かる。
 暑苦しい、うっとうしい。
 そう思っても今日は木陰を選んでゆっくり上っている暇はなかった。
 急な勾配の舗装されていない道が宮田の足を煩わせる。
 くそ、最後のあの飛び込みさえなければ―――
 神代家に仕える重責を担う宮田が、その名の通り「使い」と称せられる役目を一個人の判断で放置したり後回しにすることはできない、それは自身でも重々分かっている。
 しかし危急の患者を無視してまで行くことはさすがにできなかった。
 生死に関わる事態ではなかったが、看護師だけで済ますには荷が重かったろう。
 適当な処置を施し、患者が落ち着くのを待っている間に時計は六時を回っていた。
 平日の教会の開放時間は午後五時まで、信者の個人的な要件や片付け等の雑用などで求導師たちもすぐに帰ることはないが、それでもせいぜい一時間がいいところだ。
 できる限り車を飛ばして来たが果たして間に合うか―――既に短針は六を越えて七に近づこうとしている。
 ところどころ出っ張った石や木の根をテンポよく越え、山頂の教会が見えるまでひたすら上り続ける。
 よく考えたら教会への道はこれ一本なのだから、彼らが帰ろうとしても必ずここですれ違うはずで、帰ってしまった後ならこのハイペースは徒労に終わることになる。
 いまさら焦っても意味がなかったことに途中で気がついたが、山頂まであと少しというところでペースを緩めるのも、それこそいまさらという気がしたので宮田は最後まで早足で坂道を上りきった。


 はぁ、と呼吸を整える。
 日陰に入ったのもつかの間、四方を木々に囲まれた開けた場所に出た。
 道中より丁寧に地ならしがされた地面は格段に歩きやすくなり、宮田の足も軽くなる。
 山をくりぬかれたように丘の上に建立された教会の敷地は遮るものがなく、全体に直射日光が降り注ぎ、植え込みに沿って作られた小道もその先の古ぼけた扉も土壁も、全ては眩しいオレンジ色に染まっていた。
 光の中に入って上がり口に立つと、そこは今がまさに西日が射し込む絶好の角度なのか、太陽を背にしていても眩しすぎる照り返しに目がくらむ。
 金属製の扉の持ち手も触れられないほどに熱くなっていた。両手を木枠にかけ直し、押し開こうと力を入れればガチャンという音で侵入を拒まれる。
 ―――まあ、そうだろうな。
 夏季はほぼ常時開放されている扉が閉まっていた時点で予想はしていた。こうして近づいても人の気配がないということはやはり遅かったのだ。
 一応有事の際の連絡手段として彼らの自宅は知っていたので、そちらに直接届けるという方法は残っている。
 どうせ坂の下からは車であるから移動が苦ということもない。そもそも使いっぱしりがこの役目の実情であるし、今日は仕事も終わっている。
 だから教会の裏へ回ったのは、万が一彼らが残っていた場合を考えての何気ない行動であった。念のため確認しておこう程度の軽い気持ちである。
 普段は自分も時間内に来ることができるので遅れるということもなく、また彼らもここを無人にして離れることはないのでこのような事態は本当に珍しかった。

 木々によってうまい具合に作られた陰が勝手口に続く道を案内する。不入谷教会の庭は訪れる人々によって植えられた種々の植物が四季折々に楽しめて、この時期は特に華やかに彩られていた。
 赤やピンクのペチュニアに黄色のパンジーやビオラ、淡いブルーのサフィニアに紫のキキョウ。
 しかし教会の庭がいかに素晴らしかろうと、ガーデニングにも花の種類にも疎い宮田が分かるのはせいぜい色と良い匂いがすることくらいだった。
 だからこそわずかに混じった匂いは異様に際立って感じられた。
 奥へ歩を進めるにつれ、いっそう強くなるかぐわしい香りと異様な匂い。
 仕事柄臭いには敏感だということもあるが、これは病院で嗅ぐような単なる悪臭ではない―――いや、嫌いな人間にはもちろん悪臭と判断されるに違いないが、好ましく思う人間には誘惑の芳醇な香りとなる。
 そうだ、これは煙草だ。
 常に花や香の匂いのする教会には不釣り合いな匂いだったために、一瞬本当に煙草なのかを考えてしまったが間違いない。喫煙者には分かる、誰かが裏で煙草を吹かしているのだ。
 …しかし教会で煙草を吸う人間などいただろうか。
 求導師も求導女も煙草を吸わない人間だ。
 信者らも、この神聖な場所で吸うことが許されないのは承知しているはずだと思うが―――だが誰かが吸っているのは間違いない。
 それが部外者でなければいい。
 宮田は神代から渡された手紙を折れないようにズボンの後ろポケットに入れ、両手を空けてから最後の角に立ち、壁の向こう側をうかがった。


 教会の勝手口はもっぱら求導師と求導女が使うためだけの入り口であり、それは教会の真裏にある。
 人一人がやっと通れるだけの小さな戸口は地面から少し高い位置に作りつけられていて、段差を埋めるために枕木でできた階段が三段ほど続いている。
 牧野はそこに腰を下ろし、のんびりと煙草の煙をくゆらせていた。

 立っていた角から六、七メートルほどの距離を宮田はそっと近づいていき、人影でばれないくらいの位置を維持すると、いつも通りに声をかけた。
「牧野さん」
「うわっ!!宮田さん!」
 牧野は腰を浮かせて驚いた。音もなく近づいたので、牧野には突然現れたかのように感じられたのだ。
 手にしていた煙草を取り落し、少し離れたところの宮田を見上げる顔には「なぜここにいるんだ」と書かれている。
「ど、どうしたんですか!?」
「………煙草」
「へっ?」
「煙草、落ちましたよ」
 宮田が指さした地面を見ると、三分の一も吸っていなかった煙草が一瞬の内に燃えるゴミと化していた。
「あ……はは…本当ですね…」
 土まみれの煙草は名残を惜しむ牧野の意思を示すかのようにしぶとく燃え続けていて、靴底で強引に踏み消す。
 吸い殻を拾い、携帯灰皿にそれを仕舞うまで、黙って横で見つめる視線にばつの悪さを感じる。
 牧野はこちらを凝視している宮田に何か言わなければと懸命に日常的な話題を探してみた。
 だが頭の中は隠していた秘密を知られてしまったということと情けないところを見られてしまったという思いでいっぱいで、大したネタも出てこなかった。
 むしろどうしたらごまかせるだろうかということばかりが浮かんできてしまう。
 自然と自嘲気味な言葉が口をついていた。
「はは…求導師失格ですよね、私。自宅までも待てないなんて……いえ、それ以前に煙草を吸うこと自体が私の弱さの証明なのかもしれません……」
 苦笑いする牧野に対して宮田はにこりともしない。
「別に。求導女に告げ口するほど私も暇じゃないんで、その点はご安心ください」
「…そう…ですよね…」
 気まずい沈黙が漂う。
 宮田も何の用事で来たのか言えばいいのに、黙ってこちらを見つめて話し出そうとしない。
 その目が自分を責めているように感じられるから、ばつが悪いと感じていることに牧野はふと気がついた。
 だから何ができるわけでもないのだが、宮田はいつもそうなのだ。
 何か言いたそうにしているのに一言も発さない。いっそのこと嘲りでも何か言ってくれた方が楽なのに―――。
 実際に面と向かって言われた日には、おそらく牧野は受け止められないに違いない。それだけの精神力もないのだ。
 そのくせ、どうしても相手のせいにせずにいられない、そうして自分を保とうとする傾向が牧野にはあった。
 結局、言葉を探し考えあぐねた末に出てくるのは先のような台詞ばかり、自己卑下は自分だけでなく相手まで不快にさせることは知っているけれど、宮田がそれをさせないのだ。
 そんな目で私を見るから、牧野の中では始終そのような言い訳が繰り返されていた。

 しかし、そんな自分をどこかで変えられたなら、という気持ちも一方にはあった。
 真に後悔し反省している者は決してこのような物言いはしない、自分はただ許されたいだけなのだ。
 見せかけの同情を引いて、決断できない、実行できない自分を受け入れてほしい。
 言葉は逃げ道を用意する卑怯な手段としてしばしば用いられ、そのためだけに弱弱しい自分を演じるのもいやになっていた。
 なぜならそれはさらなる自己嫌悪を引き出すものでしかないからだ。

 煙草を止められないのも同じ理由だった。
 別にこの味が好きなわけではない。なければ耐えられないほどに依存しきっているわけでもない。
 元よりこんな程度の軽いものを思いついたように吸っている時点で本気ではないのだ。
 ただ義父が隠れて吸っていたことを知っていたから、いつの間にか自分も隠れて吸うことが習慣化してしまっただけであった。疲れたりストレスが溜まった際はこうすることで気分転換が図れるのだろうと己に言い聞かせて。
 信者らの健康を気遣う自分がこのままではいけない、と思う気持ちもある。しかしきっかけがない上に自分で踏み出す勇気もない。そのような自分もまた自己嫌悪を引き出すのだ。


 はぁ、と煙もないのに大量の息を吐き出したところで、立ち尽くしていた宮田が口を開いた。
「なに、吸ってたんですか」
「……え?」
「銘柄ですよ」
「銘柄……」
 てっきりまた皮肉を言われるものだとばかり思っていたので、牧野は言葉の意味を一瞬理解しかねる。
 腰を曲げる体勢になると法衣のポケットに入れられたそれは体に当たって存在感を示してくる、小さな箱のことを言われたと気づいたのは、牧野の一瞬が終わるか終わらないかというくらいすぐのことだった。
「あ、ああ…マイルドセブンのライトです」
「へえ」
 女性みたいですね、とかそんなの吸うくらいなら止めなさい、とかもしくは、煙草は肺がんのリスクが〜とか言われるのでは―――
 これまでの経験上、次の言葉がリアルに想像できてしまった牧野の声は、おそるおそるという風に発せられた。
 しかし実際は軽い相づちを打たれただけで、少しの皮肉も返ってはこなかった。やや拍子抜けだ。
「……俺もいいですか?」
「え?」
「煙草。ここで吸っても」
 足元を指さされ思わずそちらを見てしまったが、宮田は教会の敷地内でという意味でそうしただけで、そこには何もなかった。
 子供のように相手の挙動に振り回されている、牧野はそれが気恥ずかしくなり、宮田も喫煙者だったということを初めて聞かされたにも関わらず反応を返せない。
「は、はいどうぞ…もう誰も来ないでしょうし」
 そう思っていた矢先にあなたが来たんですけど、内心で考えつつ、それも言葉にはならない。

 今日は信者の悩み相談に思いのほか時間がかかってしまった。
 当人を見送った際の西日があまりに強かったので、今帰っても暑い思いをするだけだと思うと急いで帰る気もしなかった、煙草を吹かし始めたのはそれだけの理由だった。
 今日は八尾も婦人会で早くに帰っていったし、誰も来ないというのは今度こそ本当だ。宮田がここにいるなら万に一つの可能性もなくなった。
 宮田は壁に寄りかかってから胸ポケットから紺色の箱を取り出し、手にした煙草に火をつけた。
 こなれているなぁ、やや遠巻きに見ながら牧野は思った。それに一挙一動が様になっている。
 そういえばドラマや映画などで煙草を吸う俳優が格好良く見えたときがあった。
 箱を叩いて一本だけ取り出した煙草に火をつけるまでの流れとか、今の宮田のように少し遠くを眺めながらゆっくりと吸い込んで恍惚の表情を浮かべる様子とか、煙草と煙草を合わせて火を移すところとか。
 しかし実際吸うようになってみて、そんな格好良さなど幻想だと思った。慣れない内は取り出すだけで苦労したし、煙が美味しいなんて感じることは今でもない。最後のは―――……。

 人々の模範たる求導師は表だって喫煙することすら許されなかった。縁側や軒先で人目を忍んでこそこそと吸うことのどこが格好いいものか。
 最中は煙草に集中するのでほんの一時頭を空にすることもできるが、それが煙草でなければならない理由もないような気がする。
 吸えばすぐに匂いが髪や服につくので、風呂に入る前や翌日が休日のときを選ばなければならなかったし、雨の中わざわざ縁側で吸っているときにはここまでして吸いたいのかと自問自答することもあった。
 目の前の宮田はそんな苦労をすることもないんだろうと思うとそれだけでもうらやましい。

「…吸いたいんですか?」
「え?」
「熱心に見てるので、吸いたいんじゃないかと」
「いや、別に―――」
「どうぞ?さっきの一本、俺のせいで駄目にしてしまいましたし」
 宮田は自分が吸っていたそれを差し出した。
「俺もこれが最後なんで」
 別に吸いたいなどと一言も言ってないのに、宮田は牧野の方までわざわざ歩いてきた。
「いえっ、最後でしたらなおさらいただくわけには…」
「そうですか?仕事上がりはウマいですよ、それにたまに違うのを吸ってみるのもいいと思いますけどね」
 牧野が取りやすいように逆向きに差し出された煙草から煙が細くたなびいている。
 そうだろうか、自分はずっとこれしか吸っていなかったから美味しく感じなかったけれど、別の種類ならば違うのだろうか、あるいは誰かと一緒ならば美味しくなるのだろうか。
 視線は自然と吸い口に伸びていた。

「あれ…?これ、アレがついてませんけど…」
「アレって?」
「あの、口を当てるところの…これだと中身が口に入ってしまいそうな感じがするのですが」
「ああフィルターですか。これは両切りだからないんですよ」
「へえ、私フィルターなしの吸ったことないです」
「ちょっとコツがいるんですよ。口をつけるかつけないかとところで空気と一緒に吸う感じですかね。フィルターありのだと完全に咥えちゃって萎びさせるやつとかいますよね」
 ぎくり、と背筋がこわばった。あの一本が最後まで吸ったところでなくて本当に良かった、見られていたらそれがまさに自分のことだとばれていただろう。
「じゃ、じゃあちょっとだけいいですか?」
 二本の指に挟まれた細い煙草をつまんで受け取る。先ほど宮田が言ったように口がつきそうな寸前のところで止めて―――
 すぅー、と空気だけを吸う音がした。
「あれ?吸えない…」
「そうじゃないです、もっと隙間を小さくして、持ち方も人差し指と中指の方が吸いやすいですよ」
「ええと…こうして、こうして…こうですか」
 しかしそれでも煙はやって来ない。
「指に唇を当てる感じで吸うんですよ、上手くいけば空気と一緒に吸えます」
「…………〜っ、無理です!どう頑張っても宮田さんみたいにいきません…」
 違う味、美味しい、という単語には興味を惹かれたが、初めての両切り煙草は自分にはハードルが高かった。上手くいかないときの決まり文句は相も変わらぬ自嘲の言葉である。
「やっぱり…私には難しかったんですよ。どうせ私にはフィルター咥えて情けなく吸っている方がお似合いですから、もういいです……」
 返された煙草を受け取った宮田は、ぶつぶつと子供じみた言い訳を続けている牧野を見て一息吸い、うらめしそうな顔を見てもう一息、今度は大きく吸い込んだ。
 パックにはまだもう少し残っていたはずだから、宮田がいなくなったらそれを吸えばいい、牧野がポケットに入れた手でその形を確かめていると、おもむろに顎をすくわれた。
「え―――」
 疑問を口にするより早く唇が合わされた。ポケットの手を出すことすら忘れる感触。これは何だ。
 生暖かい唇が食むように牧野の唇を刺激する。不覚にも少し気持ちがいい。
 いやそうではない、自分たちは男同士でしかも双子の兄弟なのに、なぜこんなことを、自由の利く左手が抵抗のために宮田の胸に当てられる。
 だがあわいをなぞる舌の動きに、手は驚いて引っこんでしまった。ぬめる舌が這いずる様は気持ちが良いとも悪いともつかない、ただどうしたらいいかわからない。
 奇しくもこれが牧野のファーストキスであった。

 舌は体の混乱に乗じて牧野の口内へあっさり侵入を果たした。
 煙草が地面に落ち、宮田の両手がしっかりと牧野の顔にかけられる。
 口を大きく開かされたかと思うと、苦味ばしった煙が大量に吹き込まれた。
 喉と舌に痺れるような強烈な苦さが広がり、肺には鉛を流し込んだかのように重たい空気が流れ込み―――――――衝撃に耐えられなかった牧野は、案の定盛大にむせた。
 ゲホッゲホッと喉に手を当てて、吸い込んだばかりの二酸化炭素と一酸化炭素が逆流する。
「ぇほっ、ゴホッ、―――重いっ!苦いしきつい!」
「なんですか、せっかくキスまでして吸わせてあげたのに」
「キッ…そんなこと頼んでませ、ゴホッ、ゲホッ」
「大丈夫ですか?牧野さんにはまだ早かったようですね」
 背中を優しくさすられても言葉には少しの優しさも感じられない。にじんだ視界から涙を擦って払えば、もっと優しさの感じられない顔がこちらを覗き込んでいた。
「な、に…笑ってるんですか…っ」
「いえ、そんな軽いのたまに吸う程度ですから、どうせすぐに止められるんだろうなぁと思いまして。だったらさっさと止めた方が体のためですよ。煙草は肺がんだけでなく食道がんや舌がんなど、がんの全体リスクを高めますからね」
 どうせ家でも匂いがつかないように気を遣って吸っているんでしょう?
 どこかで覚えのある台詞だ。
 牧野は振り上げた拳の行き場をなくしたときのような、悔しそうな顔で宮田をにらんだ。
 このしてやったりな顔、ぜひとも一発殴ってやりたいくらいに爽やかである。喉が焼ける感覚さえなければいつもの鉄面皮はどこにいったのかも問いたい。
「ヘビースモーカーでもきっかけさえあれば禁煙に成功する人もいますからね、牧野さんもこれを機に止めてみるのもいいかもしれませんよ」
 言葉と共にわざと近くで息を吐かれて牧野は顔を背ける。これ以上あの臭いを吸ったら吐き気まで催してきそうだった。


 宮田は牧野が想像していた台詞をほぼ全部言いきって、自分も十分楽しんだというように立ち上がると、軽く伸びをした。
 その顔がふいに思い出したという表情になり、ズボンの後ろポケットから何かを取り出し、牧野に投げるように渡してきた。
「忘れてましたが、今日はこれを届けに来たんでした。はいどうぞ、神代の手紙です」
 重要文書がどさくさに紛れてすっかりぞんざいな扱いだ。
 だがもはやそれを指摘する気にもならなかった。実の兄とはいえ目上の人間に無体を働いたのもいまさらである。
 息をするのも不快な状態で、しかし律儀な牧野はその場に立ち上がっては何とか内容を確認し、かすれた声で「確かに、承りました」と定型の文句を返した。
 中身は来月の法事に関することだった。これだけのために、こんなことになってしまったのはいったい何が原因だというのか。
 考えてみたが最後は喫煙現場を見られた自分に返ってくる不毛な回想だった。

「ではもう帰ります」
 見計らっていたかのように夕日は山の端へ沈みゆくところで、暑さはだいぶ緩んでいた。
 いつもの服装なら白衣が翻る姿が見えたであろう、さっそうと踵を返して宮田は歩き出す。
 来た時と同じ壁際の角の場所で一度止まって振り返ると、牧野はまだ息を吸うのに難儀していた。
「牧野さん!」
 遠くからの声に、苦虫を噛み潰したような顔が上げられる。
「本当に禁煙したいのでしたら、いつでも手伝いますよ」
「よ、余計なお世話です!」
「そうですか?さっきので大分嫌になったんじゃないかと思いましたけど」
「嫌って、それは宮田さんが!」
「私が?」
「あんなっ……こと…する、から……」
「考えといてくださいよ、患者のためなら力になりますから」
「考えるって何を―――」
 喋っている途中で宮田の姿は壁の向こうへ消えていた。
 そよぐ涼風と花たちの香りが静かな空間に舞い戻ってくる。
 しかしその中にはわずかに混じった異様ともいえる匂いがあり、足元に目をやればそれを持ち込んだ犯人の痕跡が残されていた。
 口の残る苦味のように、しぶとく燻るピースの吸い殻。
「……っ、何考えてるんだ!」
 牧野の放った怒号は教会の裏から敷地内に響き渡った。



 何って、それはあんたのことだけだ、と宮田は心中で返事をする。
 牧野が煙草を吸っていると知った瞬間、宮田はたった一本の紙と木くずの塊に嫉妬した。
 軽い銘柄とそれとは気づかせない普段の様子から、本当の依存症患者に比べて牧野は思いついたときだけ吸うような気分型であると理解した。
 だったら、そんなもの吸うな、こっちを見ろ。
 そう言えたらどれだけ楽だろうか。
 嫌がらせのような形になってしまったが、遠回しな告白であることは明白だ。牧野も家に帰って冷えた頭で考えたら、そのことに気づくかもしれない。
 ……そうなってほしいのだ、自分は。
 自分が煙草を吸う理由を知ったら彼は何というだろうか。
 そうしたら自分もきっとこのニコチンとタールまみれの悪循環を断ち切れるのに。
 坂を下る宮田の足取りは、それでも来たときより軽やかだった。一つ、心に溜めていた思いを取り出すことができたから。

 この後、牧野が禁煙を理由に宮田のもとを訪れたとき、宮田もヘビースモーカーが禁煙に成功した事例を実証することになる。しかしそれはもう少し先の話だ。


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