Love to Death | ナノ


教師パロ、オリキャラあり



 休日の朝、何故か目覚まし時計が鳴り出して、俺の目は覚めてしまった。
 何故かも何も、昨晩自分が間違えてセットしてしまったせいに違いない。
 本来ならもっとゆっくり寝ていられるのに、無理やり叩き起こされて気分が悪くなる六時半。
 やかましい器械を一発で黙らせて、もう一度夢のなかに旅立とうと隣の恋人に手を回したら、相手は既にいなかった。
 使い始めて三年目、ダブルベッドの広さを切なく再認識。
 でもすぐに、漂ってきたコーヒーの良い香りで少し機嫌を持ち直す。

 キッチンではエプロンを着けた兄が朝食の準備にいそしんでいた。
 俺が起きたのを見計らってトースターを動かし始め、マグカップにコーヒーを注いでいる。
 今日は自分の好きなパン食で、また少し機嫌が良くなる。
「おはようございます」
 いつもと同じ、愛しい兄の穏やかな笑顔と透き通った声。
 前日にどれだけ嫌なことがあってもこれを見れば大概リセットされる。
 こちらを見た兄が笑ったので何かと思ったら、寝癖が相当ひどかったらしい。
 頭を撫でるみたいに手櫛で直されて、そのまま飼い猫よろしくすり寄れば、「顔を洗ってヒゲを剃ってから」とダメ出しを食らう。
 夜はいいのに朝だとダメな理由がいまいち分からない。
 抱き寄せようとして行き先を失った手はポケットに突っ込んで、とりあえず洗面所に向かう。

 前に「新聞を読みながら食事は行儀が悪い」と言われたことがあるが、「だったら兄さんもテレビを見ながら食事は止めてください」と言って、結局どちらも止めなかったという出来事がある。
 お互い見つめ合って黙々と食べるのは気まずいので(自分としてはそれ自体は構わないのだが、兄を見ているとそれだけで済まなくなるから)、相も変わらず兄はテレビを、自分は新聞を見ている。
 今朝の一面は昨今の経済情勢の悪化を示すデータと、不況の煽りを受けて食品がまた値上がりするという内容。
 同じニュースをテレビで見ていた兄が「昨日もうちょっと買い込んでおけば良かったかなぁ」と独り言を言う。

 昨日は金曜日で、いよいよ冷蔵庫の中身が貧相になってきたからと、仕事上がりの八時を過ぎてから深夜営業のスーパーまでやや遠出をして食品の買い出しに行ってきた。
 別に自分は構わないと言ったのに、まともな料理を提供できないなんて食事担当の名折れだと言うから仕方ない。
 冷凍食品があるからと外食も断られ、家に着いたのが十時、寝たのは十二時を過ぎていた。
 せっかく翌日が休みなのに何もせず寝ることになってしまって不満が鬱積している。
 だから目覚まし時計をセットするなどという奇行に走ったのではなかろうか。
 俺は真向かいで今日の運勢が一番だとか、たわいもないことで喜んでいる兄に、昨晩から考えていたことを伝える。
「昨日は兄さんに付き合ったんですから、今日は俺に付き合ってもらいますよ」
 ―――そう、今日は昨晩の貸しの代わりに兄を独占させてもらうつもりでいた。
 休日前夜の貴重な時間を、何の色気もない出来事に費やされた罪は重いのだ。兄の殺人スマイルでも帳消しにできないくらいに。

「いいですけど、掃除と洗濯が終わってからですよ」
 だが兄はそのことを全く理解していない、この発言からもよく分かる。
 自分は兄のことしか考えていないのに、兄は自分以外のことも考えていて、いやむしろ「以外のこと」ばかりで、最近放置されている気配すら漂っている。
 倦怠期というやつなのだろうか……
 昼下がりの主婦みたいなことを考える自分にぞっとした。


 時刻が昼の十二時を過ぎる頃、俺たちは都心に向けて出発した。
 突然だが、二人で出歩く際に兄に遵守してもらっていることがある。
 助手席で、街路樹の赤や黄色に目を奪われている兄の顔に乗っている、琥珀のフレーム。
 度の入っていないメガネは、一見クラシックな造りではあるが、角の落とされた丸みのあるスクエアと、側面に施されたモダンな装飾が現代的な印象をかもし出している。
 生徒たちに見られたらやっかいだということで始めた軽い変装は、良い歳した双子の二人歩きという要素も打ち消してくれた。
 さすがに男というところまでは変えられなかったが、メガネに加えて前髪を下ろし、普段と全く異なる印象の服装に身を包めば、隣の俺と双子だとは一見したくらいでは分からない。
 ちなみに兄が今着ているのは、薄い水色のシャツを着崩した状態にして、モノトーンで膝まであるアシンメトリーなデザインニットカーディガンを羽織っている。
 下にはカーディガンと近い色の細身のストレートデニム。
 わざと余らせた裾を足首の辺りに寄せ、足元には白いスニーカー。
 学校でオーソドックスな教師スタイルしか目にしていない奴等はさぞ驚くだろう。これがあの真面目な牧野先生などとは思いもしまい。
 何しろ放っておけば学校と全く同じ格好で外に出ようとするのだから、プライベートも何もあったもんじゃない。
 そう言われたとしても、いまさら別の格好を考えられるほど兄も器用な人間ではないので、プライベートで出掛ける際は、雑誌が出典の適当な服を着せてやるようになった。
 その影響で兄ほどではないが、ファッションに頓着しない自分までもが妙に詳しくなってしまった。
 ならば対する自分の服装はといえば…スタンドネックのブルゾンにワークパンツという、まあ普通の服装だ。
 同じ顔なのに気合いの入れようが違うのは、兄の特性が多分に影響している。

 兄は何故だか知らないが、ただそこに立っているだけで人を引き寄せる。
 男女問わず爺婆でも子どもでも、言わば人間磁石だ。
 人には話しかけやすい雰囲気というものがあり、自分にはそれがなくて、兄は特に強く発せられているのは分かる。
 だがそんなもの、俺にとっては欠点でしかない。
 同じ職場になったはいいが、ここ数年で俺の嫉妬メーターは振り切れる寸前を常に記録しているのだ。
 兄が愛される存在である証明はもう十二分にできた、だから神はいい加減兄を俺の元に返してくれないだろうか、そう嘆きたくなる。
 結局メガネも服装も兄が兄と分からないようにするためのもので、他人に気安い雰囲気を気取られないようにという、言わば独占欲から生じた策なのだ。



 着いたのは数ヶ月前に新しくできたショッピングビル。
 この界隈は競合するビルの顧客争いによって、一つのビルが大規模なリニューアルをすれば隣のビルでもというように、常時新設と改装が繰り返されている。
 このビルもまだ建ったばかりなのだが、つい先日2ブロック向こうにある百貨店ビルがリニューアルオープンを果たし、開店セールと真新しさに惹かれる人々はそちら側へと流れている。
 落ち着いて見る分にはブームが少し過ぎたぐらいが丁度いい、そう思ってやって来た。

「わぁ、すごく美味しそう」
 兄が目にしたのはエスカレーター手前にあった上階のインフォメーションだ。
 視線はまっすぐ12階のレストランフロアに向けられている。
「さっそく食べ物ですか…」
「だって、もうおやつ時ですよ、お昼も食べてないですし。先に何か食べてから回りましょうよ」
 確かに腹は減った。
 それにどうせこのまま見ても集中できない、という兄の言い分ももっともなので、先に食事を済ませることにする。

「ところで、今日は何を見に来たんですか。何か欲しいものでも?」
 食事を終えて、エスカレーターで順に下へ降りているところで兄がこちらを振り返った。
「寒くなってきましたし、コートでもと思いまして」
「私コート持ってますよ?」
「あの灰色のやつですか。あのコート、あと何年見ればいいんですか。型が古すぎて、逆に新しさすら感じますよ」
「新しいならいいじゃないですか」
「皮肉を真に受けないでください。だいたい大学のときから見てますけど、あれはいつのものなんですか」
「高校出てすぐに買ったから、もう十年前になるんですかね。私って物持ちいいでしょう?」
「そうですね。では絶対に買いましょう」
 ええー、という声には聞こえなかった振りをして、丁度目的のフロアがやって来たので兄を追い越し、先に降りる。
 物欲に乏しい上、倹約家の兄が自分で買うのを待っていたら、それこそ下着も穴が空くまで使おうとするので見ていられない。
 双子漫才はそこそこに、兄が今着ている服と同じブランドの店に到着した。
 ここまで来れば、あとは店員が勝手に見繕ってくれるので自分のやることは終了だ。
 張り切る店員とは裏腹にこれから身に起こる事態を悟って嫌そうな顔をする兄を置いて、俺は外の椅子に腰掛けた。

 ここに来てから早一時間、兄がマネキンにされて出てくるまでもう少しかかる。
 時間を無駄にするのも勿体無いので、手帳を取り出して来週の学校の予定を見直す。
 もうすぐ定期考査だから部活のことは考えなくていいが、間近に迫っているのは試験問題の作成だ。
 範囲は出してあるから、あとは他のクラス坦と微調整して最終的な内容を決めなければ。
 そうこうしている内に冬休みか。
 来学期用の教材の準備と実習器具の点検、委員会への書類提出と……地区の教員研修もあったな。
 休みが明ければ入試で一気に忙しくなるし、コートを着る頃にはプライベートで出歩けるのも少なくなるかもしれない―――
「すみません」
 挟んであったペンを片手に、どこで長期休暇をとるべきか考えていたら頭上から声がした。
 見上げれば二十歳前後の見知らぬ女が二人。ここはメンズフロアじゃなかったか?
「なんですか」
「あの、この辺りでお勧めのお店とかってありますか?」
 茶髪を緩く巻いた髪型の女が、案内に訊くような感覚で尋ねてきた。
「俺は店員じゃありませんよ」
「あっはい、知ってます、私たち今日ここ来たの初めてで…友達にプレゼント買いに来たんですけど…」
 申し訳なさそうに言ったのは前髪が真っ直ぐにカットされた黒髪の女だ。
 茶髪に比べて礼儀はあるようだが、そんなの俺に訊かれても困る。
「でしたら尚のこと店員に訊かれた方がいいのでは?」
「店員は自分の店しか紹介しなさそうじゃないですか。お兄さん格好いいし、センスもありそうだから良いお店知ってるんじゃないかって」
 女は初めから俺の返答を見越していたかのように、世辞の詰まった台詞をすらすら言った。
 新手のナンパだろうか?何にせよ非常に面倒くさい。兄がいる以上ここからは離れられないし、かと言ってこいつらの話を聞く気もない。
 だがしつこい女だなんて一蹴して痴漢だなんだと叫ばれでもしたら、デートが台無しだ。
「あの、あの、ちょっとでいいんです、お洋服一緒に選んでもらえたら、すっごく助かるんです」
 大したことのない、それだけの言葉を口にするのに泣きそうな顔をする女を見て、黒髪で気が弱いなんてどこかの兄みたいだな、と考える自分は本当に女に興味がないと思う。
「悪いが俺には連れが―――」
 途中まで言ったところで、店の中から射るような視線を感じてそちらを見た。

 店の中から見ていたのは予想に違わず自分の兄で、全身を先とは異なる服装に着替え、こちらに来ようとしているところだった。
 俺がどこぞの女と一緒にいるのを見て、来るに来れなくなったのだろう。立ち止まって、さらにその場で店員が頭に帽子を載せたりしている。
 だが兄の瞳はこちらから動かない。
 メガネと帽子に隠されてはいるが、レンズの奥の瞳は間違いなく怒っている。
 見た者を凍りつかせるような冷たい視線に気づいた瞬間、体の中から沸き立つような興奮が生じて、全身に鳥肌が立った。
 嫉妬している―――兄が、俺に。
 万人に愛情を振り撒いて、常日頃から自分を翻弄してやまない兄が、俺に嫉妬している。
 自分の一挙一動に兄の視線が注がれている、それを自覚しただけでこの上ない多幸感に満たされる。
 これは不可抗力で俺のせいではないと弁解をするつもりだったのに、ひねくれた俺の頭はこれは兄の執着を試す良い機会だと思ってしまった。
「いいですよ、少しだけならこちらも時間はありますから」
「本当ですか!良かったぁ…」
 胸を撫で下ろす黒髪の女の肩をわざと抱いて、連れだって歩き出す。
 そこを離れる際、わずかに兄との距離が狭まり、射るような視線はビリビリと痛いほど自分を突き刺してきた。
 俺は口元がにやけるのを堪えるのに必死だった。ともすれば白昼にも関わらず、あらぬことが体の一部に起きてしまいそうだった。



 彼女たちは新手のナンパではなく、田舎から遊びに来たために何も知らなかったという、ただの若者だった。
 黒髪の女の彼氏が都内に住んでいて、サプライズで訪問がてらプレゼントをしてやりたかったのだとか。
 今時珍しい純粋な理由に、兄の姿が見えなくなってからはすっかり話に気を取られ、最後は普通に世話をしていた。
 頭を下げて感謝され、少し良い気分で元の店へ戻ったとき、紙袋を抱えた兄の背後に見えないはずの何かを感じて、一瞬で思い出した。
「兄さんあれは―――」
「お嬢さん方のお世話をして差し上げるなんて宮田さんは本当にお優しいですよね」
 間髪入れずに一息で言いきって、はいこれ、と大量の紙袋を手渡される。
 ずっしり重たい荷物に肩の位置が数十センチ下がった。
 いつもの倍は袋が多いんですが兄さん。
 でも何を買ったのか、あまりに笑顔が爽やかすぎて、訊くに訊けない。
 先ほどまでの兄は周囲に真っ赤な炎をたぎらせて、まるで白髪を振り乱した鬼女の背後霊が火柱でも起こしてきそうな勢いだったのに、今はその鬼女が慈母さながらの笑みを浮かべ、後光まで射している。
 言っている自分でも理解不能な表現だが、そんな幻覚が見えた気がした。
 とにかく兄の様子は嵐の前の静けさのように、得体の知れぬ不気味さがあったということだ。
 しかしだからといって何をされる訳でもなく、先のやり取り以上の追及もなく、以降は普段と変わりない、いつもの兄だった。
 これは許されたのだろうか?



 夜七時、自宅に戻った俺たちは互いの買ったものを片づけて、それから兄は晩飯の調理に取りかかった。
 明日も休みだし何か手伝おうかと言ったら「いえ、宮田さんは“特に”お疲れでしょうから、ゆっくりしていてください」と返された。
 また名字。そして発言の節々に棘がある形ばかりの気遣い。
 ……だが先の件があるだけに次の言葉が出せない。
 やはり怒っているのか、そうでないのか、手元の新聞を見ながら頭の中はそのことばかりが駆け巡っている。
 こんなことなら兄を試すようなことなどしなければ良かった。

 少ししてからキッチンから自分を呼ぶ声がした。
「すみません、ちょっと味見いいですか」
 なんだ、味見か。
 ふぅと息をついて、すくませた肩を元に戻す。
 臆病になりすぎていつしか兄の言葉に過敏になっていた。
 腰を上げて鼻を利かせる。
 匂いから察するに今晩は煮物だ。手羽元を昼に解凍していたから恐らくはそれの。

 兄を怒らせて―――それだけでなく放置までしてしまって睨まれたときはヒヤリとしたが、結果的には何もなかったではないか。
 考えすぎだったのだ。兄が怒ることは滅多にないから何かしでかされることを恐れていたけれど、兄は生来優しくて怒り方も知らないような人間だ。
 その兄に冷たい態度をとらせてしまうくらい自分の所行は悪意に満ちていたのかも知れない、そのことは深く反省しよう。
 しかし兄にこんなことは言えないが、兄の体だけではなく心も独占できていたことが分かって、今となってはあの出来事も幸運だったと思えてくるのだ。

 エプロン姿の兄の背中に近づく。
 この黒いエプロンも同棲を始める折りに、記念に自分が買ったものを、大事に大事に使っている。
 もしかしたら、自分はとても愛されているのかもしれない。
 自分が確かめたりしなくても、兄の中には自分が何よりも強く存在しているのかもしれない。

 振り向かない背中に手を置いて、何やってるんですか、そう言おうとした。
 しかし声が出る前にぱさりと布が足元に落ちた。
 戒めを解いた手が落としたのはデニム。
 腿まであるエプロンの下から濃紺のズボンが下着を残して滑り落ちていった。
 眼下であらわになる白い足。
「なにを…」
 驚いて手を離すと兄が振り向いた。そこには少し照れた顔。
「私の味見、してください…」
 この状況で何で、とは無粋だろう。どうしてこうなったのかは分からないが―――
 いや、恐らくはあの二人とのやり取りで、自分に引き留めたい一心で大胆な行動に打って出たに違いない。
 羞恥のかけらもないような行為に反して何ともいじらしいではないか。
 兄が流しにもたれかかり少し上体を反らせる体勢を取ると、エプロンの裾がわずかに上がる。
 あと少しで見えそうなそこに俺の視線は釘付けになり、無意識に唾を飲み込んでいた。
「私のこと好きですか?」
 探るように色っぽく下から上目遣いに覗きこまれて心臓が高鳴る。考えるまでもなく俺の頭は上下していた。
「本当ですか?あの女の子たちより?」
「当たり前でしょう」
 断言すると兄は嬉しそうな、それでいて泣きそうな顔をした。
 正面を向いた兄はシャツのボタンに手をかけた。首元から一つずつゆっくりと外していく。
 エプロンを押し下げて胸元のボタンを外すと、開かれたシャツの中から吸いつきたくなるような肌が現れる。
 浮き出た鎖骨となだらかな胸筋、その中心に見えるつつましやかな淡い突起。
 誘うように見え隠れするそこに視線は釘づけになり、無意識についた息が熱い。
 兄が手を戻すと胸元は再びエプロンで覆われる。しかし視線は布の下の突起の位置を覚えていて、そこから視線が動かせない。
 ボタンを外し終えた兄はシャツも脱ぎ捨てて、下着と靴下以外はエプロンだけ、前から見ればほぼ全裸という扇情的な姿になった。
 前髪を掻き上げてわざと髪型を乱すと、艶やかな黒髪が誘うような表情を引き立てた。
「でしたら……」
 兄はダイニングテーブルと揃いの椅子に腰をおろして、ゆったりと足を組んだ。
 寄せられた足の隙間から局部が見えそうで見えない。
 組まれて上になっている足をすっとこちらへ伸ばして、兄は言った。
「脱がしてくれませんか?靴下」
 手を伸ばして脱がそうとしたら、足で肩を軽く押された。女王様は俺に横になれと仰るようだ。
 キッチンのビニール床に仰向けになる。すると機をうかがっていた兄がいきなり上半身にのし掛かってきた。顔を太ももで挟まれる体勢は役得と言わずして何と言おう。
 だが次の瞬間、兄の右手に握られているものを目にして俺は絶句した。
 、刃渡り二十センチの凶器。
 逆手に持ったそれをゆっくり高くかざしながら兄は笑った。
「じゃあ何で肩なんか抱いていたんです?」
 やっぱり許されていなかった!
 これは役得などではなかったのだ、ここは天国ではなく罪人を処罰する刑台―――
 俺は慌てて下半身をばたつかせたが、顔はがっしり固定されている。頼りは口だけだった。
「冗談…ですよね?」
「言いたいことはそれだけですか…?」
「いえっすみません!」
「すみません?」
「申し訳ございません!」
「もう遅いです。今日は楽しかったですか?女の子とイチャイチャできて」
 喉からひいいと情けない声が出た。
「私は楽しいばかりじゃなかったですけどね………ああでも、良いこともありましたか。あの占いも、案外当たっていたのかも知れません」
 占い―――今朝の星座ランキングのことか、それがどういう意味かなんて今は訊いている暇は全くないが!
 兄は頭を後ろにのけぞらせて可笑しそうにくくっ、と笑った。体重の乗せられた両肩が兄の動きに伴って、えぐられるように痛む。
「兄さん、本当にあなたを好きな気持ちに嘘はないんです…っ」
「ええ司郎、私も愛していますよ…」
 包丁がギラリと光った。
 あんな包丁、家にあっただろうか。
 まさか……あの間、兄は包丁を買いに?
 俺はずっと自分を殺そうとする凶器を持たされていた?
 持ち手に左手が添えられる。
「愛しています…あなたに何かあったときには…」
 振り上げた腕で兄の狂気に満ちた目が一瞬隠れ、わずかに恐怖が和らいだ。
 だがその下の唇が俺の意思を察したかのように開く。裂けるようにおぞましい弧を描いて。
「私も死ねるくらい。だから司郎―――一緒に、死んでくれますね?」
「待っ――」
 かざされた刃物が物凄い勢いでそのまま振り下ろされた。

 ダン!と大きな音と衝撃が耳元から伝わり、全身が強張った。
 しかしいっこうに刺された痛みが起こらない。
 おそるおそる目を開けると、視界の真横に禍々しく光る牛刀が深々と刺さっている。
「…っ!」
「ふふっ、怖かったですか?」
 先の鬼気迫る表情から一転して、けたけたと笑う無邪気な兄。
 乗っていた体を退けて隣に内股で座り込み、「昼ドラみたいでしたね」と一言。
 一杯食わされたのだ。
「っ、はぁ……冗談きついですよ…兄さん…」
 微妙に耳の辺りがピリピリと痛むのは、振り下ろしたときにそこを掠めたからではないだろうかと思うのだが…いや深く考えない方が身のためか。
 今ので一気に十年分くらい老けた気分だ。
 兄が自分のことを愛している、を愛しすぎている、に訂正しなければ。
 あと不用意に挑発するのは厳禁だということもよく自分に言い聞かせよう。
 本気と冗談の区別がつかない人間が暴走するとろくなことにならない。

「でもまあ、メインディッシュはこれからですよ」
「え…?」
 先ほどまで凶器を握っていた手は、同じ色のリングを人差し指に通してくるくると回していた。
 一見するとキーリングのようだが、それは―――
「なんでそんなもの……まさか持ち歩いてたんですか」
「いえ、さっきキッチンの引き出しで見つけたんです。きっと前に間違えて仕舞っちゃったんですね」
 どう頑張っても間違えないだろう……どうやったら調理器具とコックリングを間違うんだ…
 それを聞いてしまった以上、二度と他人をキッチンに立たせられないではないか。
 他にも想像もしない場所からアダルトグッズが出てきそうで、急に身の回りが気になりだした。
「もう司郎は分かりやすいですね、本当に飽きないです」
 そわそわしている俺の下半身を向いた兄が、後ろ手でペニスの形をなぞりながら言った。
「でも今日はちょっとおイタが過ぎましたね、兄を試そうだなんて」
「え…」
 まさか初めからバレていたのか……?
 いやどこから知っていてどこまでが本気なのか、兄の場合、皆目検討がつかない。
 先の包丁騒ぎも今のそれも、冗談に見えないのだ。
 考えて始めると、全てが計算に見えてしまう。兄不審に陥りそうだ。
「明日も休みですから、今日はたっぷりできますよ?」
 そう言った兄は、本当に楽しそうに目の前でリングの輪を外して見せた。

 ゆっくり下ろされるファスナーの音と兄の忍び笑いを聞きながら、俺は呆然とキッチンの天井を見上げていた。
 抵抗する気は全く起きなかった。
 ここで抵抗して次にまた何が起こるのか、今度こそ取り返しのつかないことを兄がおっ始めるのではないかと恐れているのだ。
 そういえば、自分は昨晩にこういうことをしたかったんだったか。
 決してこんな事態を望んでいる訳ではないが、最終的には願望叶ったということになるのだろうか。
 今朝まで溜まっていた不満も嫉妬も、今やすっかりどこへやらという感じだが、今度は別の思いが俺の胸で渦巻き始めている。
 それはやはり兄のことなのだ。


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