香る午後三時 | ナノ


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 不入谷教会では休日の午後三時に懇親会を開いている。
 いわゆる茶話会だ。
 それは午前から行われる御主への礼拝を終えた後に開かれるのが常である。
 参加は無料で、誰でも来ることが可能であり、そこでは日々の勉強会で分からなかったことを気軽に求導師や求導女に質問できたり、信者同士互いの体験を話し合うことで悩みを分かち合う場となっている。
 住人の大半が眞魚教の信者であるここ羽生蛇村においても、熱心な信者とそうではない信者がいて、懇親会は後者への布教も目的の一つであった。
 だから日頃めったに参加しない者が現れても、驚くべきことではない。
 しかし、その日牧野は瞠目とともにその人物を迎えざるを得なかった。

「まあ、珍しい」
 八尾の言う通り、宮田医院に勤める二人の若医者の片方、犀賀がここにやって来るのは本当に珍しく、一般開放の時間内に限定すれば、おそらく初めてのことであった。
「先生、一度もお祈りに参加したことがないって言うんです。だから今日は引っ張ってきちゃいました」
 それでも間に合いませんでしたけど、同医院の看護師である幸江は端正な顔立ちをいっそう引き立たせる笑顔で言った。
「いいえ、来てくださるだけで嬉しいわ。ねえ求導師さま」
「は、はい」
 その美人の後ろにいるのはこれまた容姿端麗な、立っているだけで威圧感のある男であった。
 整った顔立ちの者は少し目を眇めるだけで凄味が増す―――その視線を臆面もなく向けられて牧野は焦った。
 双子の弟である宮田と同じ目を持つ人種が牧野は苦手であった。
 医師とは皆こうなのか、犀賀がやって来た時に感じた第一印象はそれであった。

 犀賀は数年前に宮田医院の常勤医師としてやって来た。
 閉鎖的な村が外部の者を受け入れるのは珍しいと思っていたら、本籍が羽生蛇だというのだから驚いた。
 幼少期はそれぞれが自分たちのことで精一杯であったから記憶に薄いのだろうかと思いきや、羽生蛇に居た頃は三田村姓を名乗っていたのだという。
 そう言われればそんな上級生がいたような気も――――――いや、やはり記憶はおぼろげだ。
 とにもかくにも、同じ村民となるからにはそれなりの付き合いもしていかなければならないというのに、牧野としては苦手な人間が一人増えたという認識にしかならず、ひそかな頭痛のたねとなっていた。

 八尾と幸江は女同士打ち解けて、すっかり二人の世界に入っている。
 残された牧野は必然的に犀賀の応対を迫られることになり、仏頂面を相手にどう関わっていくべきか迷いながら、とりあえず皆の待つ多目的室へと案内する。
「この後は皆さんとお茶を飲みながら色々なお話をするんです。よければ犀賀先生もこちらにどうぞ」
 多目的室に入ると、中央の長テーブルを囲んで十数名の信者が食事の準備をしていた。今日のメニューはホットケーキだ。
 昼食を兼ねているので、持ち寄りのトッピングや野菜・果物等も並べられ、ホットケーキといえどもかなり豪勢なラインナップとなっている。
 室内は二つの大きなホットプレートから熱せられた油の匂いが漂っており、丁度焼き始めるところのようだ。
「あら、犀賀先生。いらっしゃい」
「珍しいなぁ、先生が来られるなんて」
 犀賀に気づいた信者が口々に言い、医師の来訪を物珍しがる。
 犀賀はどうも、と無愛想な返事をして普段と変わらぬ様子を見せていたが、内心はそのことに触れられるのが嫌だったのだろう、牧野には信者の言葉を受けて眉間のしわがいっそう深くなっているように見えた。
 ほかに気づいている者はいないだろうが、そのようなことをいち早く察知して一人勝手に気まずさを抱えてしまうのが牧野であった。
 こんな日に限って参加者が多かったのはついていない―――
 牧野が心中嘆息したように、既に中央のテーブルの席は満員であった。
「…先生すみません、テーブルのスペースが足りなくて、椅子だけになってしまうのですが…」
「別に構いませんよ」
 申し訳なさそうに言う牧野のわずかな気遣いにも、犀賀は一切愛想というものを返さなかった。
 差し出されたパイプ椅子を、牧野が空けた場所からさらに外側へ離して座る。
 話しかけられたくないというアピールなのだろうか、それとも席がないことに気分を悪くさせたのだろうか、犀賀だけが皆から一線を引いたように離れた位置にいるのが異様で、牧野から見るとこのほがらかな空間に不機嫌そうな犀賀の存在だけが非常に似つかわしくない。
 何だかクラスで一人仲間はずれにされてしまった子どものようだ。
 牧野は他の者たちを見回してみたが、他の誰も気にならないようで―――いや、皆既に食欲に気が取られて犀賀のことを忘れてしまったかのようだ。
 しかし犀賀がそこを自陣と定めてしまった以上、牧野としてももう何も言うことがない。
 若干の気まずさを引きずりつつ、調理の輪に加わることにした。


 自分はなぜこんなところにいるのだろう―――犀賀は自問自答していた。
 午後三時を過ぎた院内はひっそりと静まり返っていた。
 その静寂をどたどたという足音で文字通り一蹴したのは、看護師の河辺幸江である。
 カルテ室で担当患者のカルテ整理をしていた犀賀は、突然の来訪者に意表をつかれ、なぜここが分かった、とか院内は静かに、といったごく当然の疑問や意見を挟む暇もなく、あれよあれよという間に車に乗せられ、教会に連れて行かれた。
 幸江の神出鬼没と強引さは今に始まったことではないが、これから向かう先が教会だと知ったとき、犀賀の心は一段と重くなった。

 教会はどうにも好かない。
 別に彼らが嫌いというわけではない。
 だが取り立てて今の自分に信仰が必要だとも思えなかった。
 この村に住む以上、眞魚教との付き合いは必然とされているが、外界(村の外のことだが)での生活が長かったせいか、医師という職業のせいなのか、超がつくほどの現実主義が自分の中でできあがってしまっている。
 したがって対する理想主義の本陣のような教会に出向くことはできれば避けたいと思っていた。
 「御主」だの「ぱらいぞう」だの、聞いているだけでむずがゆい。
 一応出生地であるから眞魚教の“さわり”程度は知っているが、正直なところ、それ以上の干渉はご遠慮願いたかった。

 それでも幸江を突っぱねることもせず、ここまで連れてこられたのは単なる惰性だけではない。
 犀賀には長年気になっていることがあった。
 教会の主である求導師のことである。
 同僚の宮田と双子だという牧野慶。
 宮田はどちらかと言えば自分寄りの考えの持ち主だが、瓜二つの風貌を持ちながら考えも生き方も立場まで全てが正反対の男。
 求導女ほどの年齢になってしまうともう何を訊こうが眞魚の教え以外のことが出てくる気がしないが、牧野ならば違うのではないかという確信に近い予感がしていた。
 牧野の気の弱さは宮田からよく聞いている。
 実の弟からお墨付きをもらうほど臆病な人間が、果たして信仰のみをよすがとして生きられるのか、わずかばかり興味があった。
 本当にすがりきっているだけならば、対象が信仰であろうと人は生きられないのではないかと思う。
 だから牧野慶が求導師として生きられる理由が眞魚教の中にあるのなら、それこそが眞魚の教えの真髄ではないかと思うのだ。
 牧野慶という男を見極めたい。
 それができたときに自分の中に一定の答えが導き出せるだろう、そうすれば一々悩むことも疎んじることもなくなる―――。
 犀賀はこの村に戻ってからというもの、必ず付いて回る信仰と己の価値観とのひそかな闘いに、いいかげん蹴りをつけたかった。
 その判断材料として、犀賀は牧野を選んだのだ。


 しかしさすがの犀賀もその機会がこんな形で訪れるとは完全に予想外だった。
 肝心の礼拝は既に終了し、あとはただの茶話会だけという。様子を伺おうにも料理を作って談笑しているだけの姿からではろくなものが得られそうになかったが―――。
 牧野の予想は半分は当たりで、半分ははずれであった。
 犀賀はほかでもない、牧野慶個人の偵察に訪れていたのである。

 そういえば、と犀賀は牧野の手元を見て思い出した。
 幸江のせいで自分は昼飯も食いっぱぐれている。
 しかしここで食べるのもどうなんだ、と思う。
 礼拝にも参加しなかった人間が意気揚々と食べに行くのもはばかられるし、何よりホットケーキに野菜や果物など邪道な食べ方を強要されたらたまったものではない。
 ここはひとつ腹が減っていない振りをして、帰ってから何か食おう、仏頂面の奥で犀賀は結論を出した。

 視線の先で、犀賀はやはり牧野の姿を追っていた。
 これは完全な無意識で、特に牧野の何を品定めするというわけでなもなかったのだが、気がつけば信者の探すものをさりげなく差し出したり、食材や飲み物を進めて回る姿はかいがいしいというにふさわしい。
 牧野はあらかた信者が食べ始めたのを確認すると、そこで初めて自分の分を作り始めた。
 信者も求導女も何も言わないで受け取って先に食べ始めている辺り、若い求導師が率先して世話を焼いて回るのは一種の修行のようなものなのかもしれない。
 そんなことを考えていたら、皿に二・三枚のホットケーキを乗せている牧野と目が合った。
 にっこりとほほ笑まれて、何と返していいものか戸惑う。
 すると牧野はその場に腰を下ろすことをせず、一脚の椅子と共にこちらへとやって来た。
 隣に椅子を置いて腰掛けると、自分に「お一つどうですか」と皿とフォークを差し出した。
 犀賀が黙っていると、トッピングが欲しかったのだろうかと牧野が腰を浮かせかけたので、「いえ、これでいいです」と短く返す。
 それを聞いた牧野は安心したように再び腰を落ち着けた。
「私もいただきますね」
 余分な椅子に皿を置いて、一言断ってから自分の分を取り寄せる。
 そのまま口に運んだ牧野を見て、犀賀は思わず言った。
「何もつけないんですか」
「ええ、私はその方が好きなんです。皆さんには悪いのですが…」
 それはトッピングを用意した信者たちのことを言っているということがすぐに分かった。
 確かに、バターやらシロップやらチョコレートやブルーベリーソースやら、あれだけ多種多様なトッピングがあるのに何も付けないのはいささか勿体無い気もする。
 しかし犀賀としては下手なものを付けるより好ましく映った。

 一口、二口と美味そうに食べている牧野と鼻腔をくすぐるバターの香りに、空腹が刺激される。
 食べるつもりはなかったが、こうも見せつけられては食指も動くというものだ。
 手の平に収まるくらいの小さなホットケーキをフォークで刺して自分の皿に寄せると、犀賀は牧野に倣って口に入れた。
「……おいしいですね」
 そう言わずにいられなかった。
 一口食べると、カリッとした歯触りにバターの味と香りが広がり、厚みがあるのに中はフワフワで、ほんのりした生地自体の甘さがバターの塩気と相まって絶妙なのだ。
 これなら何も付けない方がいいと太鼓判を押したくなる旨さだった。
 犀賀の言葉を賞賛と受け取った牧野は、途端に自慢げな顔になって、
「でしょう?これ、フワフワにするのが結構難しくって、本にはこれを入れるとかこうしろだとか、色々コツは書いてあるんですけどなかなか上手くいかなくて、結局は自己流に落ち着いたんですがやっぱりこの方法が一番美味しい―――って、すみません、全然礼拝と関係ないお話で」
 一気に喋りきってから我に返った牧野は言葉を止めた。
 この場の目的は己がとうとうと語ることではなく聞き役に撤することなのに、つい自分の努力が認められたと喜んでしまった。
 落胆した牧野が口を閉ざすまでの間、犀賀は淡々とフォークを動かし続け、たちまち二枚を完食していて、牧野が取ってきたお茶に口をつけたところで今度は犀賀が話し始めた。
「いえ別に。昔両親が作ってくれたのも美味かったなと、少し思い出しました」
「ご両親が…」
「もう二人とも亡くなりましたが、覚えてることってあるものですね。大したことのない、どうでもいいようなことを覚えてるもんです」
「いいえそんな、素敵な思い出だと思います。きっととても嬉しかったんでしょうね」
「さあ、素敵かどうかは忘れましたが、少なくとも悪い記憶ではないようですね。求導師さまのホットケーキで思い出しましたよ」
 幼少期の犀賀を想像して牧野のフォークは半分ほど食べたところで止まっていた。
 元々それほど腹も減っていなかったのもあるが、今は何より犀賀の様子に驚いていた。
 これまでずっと苦々しく思っていた犀賀が饒舌に語る姿は、何の威圧も恐怖も感じさせなかった。
 ちょっと皮肉めいた言い方をしながらも両親との思い出に想いを馳せる、ただの素直で優しい男に感じられた。
 その意外性が牧野をより積極的にさせていたのかも知れない。
 犀賀からは普通に見えていた表情の下では、牧野も同じく苦手に向き合う辛さを抱えながら、それでも義務感に押されてやって来たにすぎなかったのだが、この会話をきっかけに二人の間は急速に縮まっていった。
 ホットケーキが二人の関係を円滑にしたのだとしたら、懇親会が初めてその目的を達成したのだなぁと牧野は後に振り返る。



 久々に犀賀の家に赴けば、唐突にホットケーキを焼いてくれと頼まれて、牧野は一瞬戸惑った。
 しかし大分前―――犀賀が赴任して一年と経たない頃―――にそのようなことがあったことを思い出すと、一転犀賀の真意を理解して、牧野はさっそく台所に向かった。

 ボウルに粉を入れて卵を割り落とし、少しずつ牛乳を足していく。
 泡だて器で混ぜながら量を目分で測り、だまができないくらいに混ぜたらそれ以上は触らない。
 薄く油を引いて熱したフライパンに、ほんの少しのマーガリンを滑らせ、その上にたねを流し込む。
 じゅう、という音とマーガリンの匂いが食欲をそそる。
 水分量が適切であればたねはそれほど広がらず、膨らみは上方に向けられる。
 火を少し弱めて蓋をすると、焦げないように注意して暫し待つ。
泡が浮き出て外側が焼けて来たのを確認したら、フライ返しでさっとひっくり返す。
 そしてもう一度ほんの少しのマーガリンを入れて、火を更に落とす。
 ―――犀賀は気づいていないが、あの日のホットケーキも、置いてあったバターではなく、敢えてマーガリンを使っていた―――
 今度は蓋をせず、厚みが出るのを見届けたら、裏面を少し浮かせて焼き具合を見て、皿に移す。
 表面は香ばしくカリッとして、中はふんわりとしたホットケーキが完成した。
 マーガリンのお陰でシロップやバターはなくても十分においしい。卵と牛乳の味も感じられる、素朴なホットケーキである。

 牧野はどうですか、とは訊かない。
 訊いても犀賀は答えないし、訊けば犀賀はいっそう仏頂面になって感情を押し殺して食べ始めるからである。
 ただ黙って食べる様子を後ろから眺めるだけでよい。
 そうして食べ終わって満足したのなら、犀賀の表情が何より雄弁に感想を語ってくれる。

 少ししてかけらも残さず綺麗に食べきった犀賀は、空になった皿を牧野に突き返してきた。
 牧野も何も言わず、黙ってそれを受け取る。
 ほどなくして穏やかな午後に食器を洗うカチャカチャという音だけが響き始めた。
 外は冷たい風が吹いているであろうに、家の中はそれをまったく感じさせず、別世界ともいえる温かさだ。
 この時間から太陽は少しずつ角度を西に、居間を照らす日差しも白から橙へ変化していく。
 犀賀は近くにあった新聞を読もうかと一瞬手を伸ばしたが、止めた。
 立ち上がって、自分の我が侭に何も言わず付き合ってくれた良き理解者の元へ向かう。
 近づくと見下ろす高さに揺れる彼の頭がある。
 休みとはいえ、村の求導師さまをわざわざ呼び立ててこんなことをさせているのも自分だけだと思う。
 ふいに牧野の肩に手が回された。
 後ろから閉じ込めるような形をとったそれは、相手の行動を妨げるほどではない。
 しかし手の中のものを離さないという力が、組んだ腕に込められている。

 出会った当初は牧野を己の判断材料として見ていた。
 眞魚教だの求導師だの、牧野を通してそれらを見極めようとしていたが、結果的にはそれらを通して牧野を知ることになった。
 彼は何てことのない、ただの男であった。
 ただ人より臆病で優柔不断で常に相手を伺うようなところがあって、だからこそ優しくて控えめでどこまでも相手を気遣うことができる心の持ち主で。
 自分が求めていたのは己の価値観の正しさを証明することではなく、血の通った人間と出会うことだったのだろう。
 この村に牧野ほど人間らしい人間はいないと思う。
 不完全だからいい、失敗するから成功の真の意味に気づくことができる、完璧じゃないから懸命になれるのだ。
 牧野はその生き方をもって自分に先行きを示してくれているような気がしている。
 一番傍でそれを見られる自分は何と果報者なのだろう。
 おそらくは宮田も気づいていない牧野の良さに自分は気づいている。
 それを人に知られたくないという想いと知らしめてやりたいという想い、相反する二つの想いで葛藤する。
 どうか皆が牧野慶の魅力に気づいても離れていかないように―――
 犀賀の手にはその想いが込められていた。
「どうしました?」
 問いただす口調ではない、何かありましたか、私にできることはありますか、というニュアンスが犀賀の心を解きほぐす。
 この言葉の前では、いやこの男の前では素の自分が自然に引き出される。それが嬉しくて愛しくて仕方がない。
 そんな口にも出せないようなことまで考えるようになった。
 ふと牧野という男と添い遂げたい、という想いが湧いてきて、犀賀はらしくなく口ごもってしまった。
「いや……ホットケーキの匂いがしたから」
 言い訳というにもあまりにひどい、お粗末すぎる返事であったが、牧野は言葉尻をわずかに弾ませて「そうですか」と言っただけだった。
 犀賀からは見えなかったが、きっといつもの笑顔がそこにはあるのだろうと思う。


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