SLOWDOWN1 | ナノ


普段は奥手な牧野さんが…という話



 俺はこの日のために並々ならぬ努力を、たった一つの目的のために注いできた。
 実質期間としてはそこまで長くはないのかも知れないが、精神的な負担は十分で毎日気が遠くなる思いだった。
 例えばマラソンでも山登りでも一定のラインを越えると辛くなくなるというが、俺にはそんな瞬間なんて訪れなかった。
 お前の我慢が足りないというやつがいたら「じゃあお前がやってみろ、絶対できないから」と言ってやる。
 ―――いや前言撤回、やっぱり代わらせたりなんかしない。
 兄さんは俺のものだ。


 俺が牧野さんのその姿を初めて見たのは、駐在の石田と三人で昼食を摂っていた時だった。
 不本意だがきっかけを作ったのは石田だ。
 何やら良い酒が手に入ったから一緒に呑みましょうと誘われ、こちとら朝晩夜中と忙しい身なんだからほっとけよ、と欠片の建前もなしに言おうとしたら、何を思ったのかその場にいた牧野さんが「それはいいですね、是非ご一緒させてください」と快諾しているではないか。
 俺が行かなければ、夜の密室で二人っきり、気持ちよくなることをする、ということだろう。誇張表現ではない、事実酒を飲んだら大概の人間はそうなる。
 そうしたらニヤケ顔でこっちを見ているあいつの家になぞ行きたくもなかったが、参加せざるを得なくなった。

 石田の家は種々の酒瓶で埋め尽くされていて、俺と牧野さんは着くなりその凄まじい量に圧倒された。
 医者としてこれは看過できない飲酒量ではないのかと危機感を覚えたが、いざ呑むとなってその感情は吹っ飛んだ。
 なんと石田は「これは良い酒すぎて勿体ないので少しにしましょう。酒はいっぱいありますし」と言いやがった。
 何のために俺と牧野さんを連れて来たんだ、見せびらかすためか、ああそうだったんだな。
 それでも牧野さんは「そうですよねぇ、お酒の味が分かる方が堪能された方が良いと思います」とか言っている。どこまで良い人なんだ。良い人というのは状況に応じて叱咤激励してくれる人を言うのではないのか。思うさま酒を飲ませて寿命を縮めさせるのは良い人として野放しはいけないと思うのだが。
 とは言ってもどうせ石田の命だし、俺も酒豪ではないから牧野さんの貞操さえ無事ならどうでもいいかと、医師免許をどこかに置き忘れた俺の心はそれで納得した。

 問題はその後だった。
 安い日本酒と焼酎を適当に割って、漬け物や晩飯の残りをつまみに、互いの身の上話(ほとんどが石田の話であるが)をしながら数時間経った辺りだったろうか、話すか便所かを繰り返している石田がちょうどいない時だった。
 牧野さんが俺の腕を引っ張ってとんでもないことを言いだした。
「しましょう」
 しましょう?
 主語がないので何が、と一瞬思ったが、まさかセックスのことではあるまいなとすぐに思い至った。そして嫌な予感は当たっていた。
「セックスしましょう」
 あまりに驚いて後ろにひっくり返るかと思ったが、俺の腕は牧野さんに捕えられていてそれは適わなかった。
 適量で留めているように見えたのは勘違いだったらしい、双子であっても差異はある。静かに石田の話を相槌を打ちながら聞いていた外見の内では、着々と牧野さんの酔いが進んでいたのだ。

 俺より酔いやすい体質だったことが発覚した牧野さんは突然、実に上機嫌になり、すがるようにしなだれかかると俺を誘い始めた。
 なぜ今なのか。これが石田の家でなければ……
 俺は死ぬほどそのことばかりを悔やんだ。普段から牧野さんの奥ゆかしさには非常にもどかしい思いをさせられていた、それが今が好機という時に何という不条理か。
 しかし、べそをかいている暇はない。戻ってきた石田が牧野さんに抱きつかれている俺の図を目にしてしまったからだ。
「え!?求導師さま!?」
「あー…これは…」
 これは、何と説明すればいいのだ。普段のノリで牧野さんが誘って来たんですよ、などとは口が裂けても言えるはずがない。
 急患を診る時ですらここまでは使わない脳を必死に回転させて言い訳を考える。
 しかし俺はまたもや牧野さんの発言に面食らうことになった。
「石田さんもしましょう、セックス」
「ええええええ!!」
 ついに俺と石田の声がハモった。
「なんだか…すごく気持ちがいいんです…もっと気持ちよくなりたいです……手伝って、くれませんか?」
 こちらからは見えないが、おそらく殺人級の上目遣いが石田に向けられているはずだ、赤ら顔だった石田の顔が火を噴いたように真っ赤になる。
「ちょっと牧野さん!何言ってるんですか!」
「えぇー?」
「俺…が…求導師さまと……」
 石田はもう駄目だ、使い物にならない。
 こんな姿の牧野さんを目にしたのは初めてだから当然だろうが、なんにせよ今は牧野さんをこの場から退散させることが最優先事項だ。
「牧野さん!帰りますよ!」
「えぇ、私もっときもちいことしたいです…宮田さんは嫌いなんですか?気持ちいいこと…」
 首筋に息を吹きかけながら人差し指で頬をつつ、となぞられる。だから今まで一度もしてもらったことがないようなことをなぜ今やるんだ!
「じゃあ私がやりますから、宮田さんは横になっているだけでいいですよ?」
 それは俺が今まで何回も牧野さんに言ってきた言葉だろう、上目遣いもやめてくれ……
 さしもの俺も、至近距離で見る大胆な牧野さんに太刀打ちできずにいると、当人はその隙に俺のシャツを脱がしにかかっていた。
 次の瞬間、バターンと大きな音が背後から響いてすぐさま後ろを振り向けば石田が気絶していた。
 石田……最期にいい思いもできたし、きっと悔いはないだろう……。
 というのは冗談で、おそらく酔いが回った所にパニックが重なって一時的に意識を失っただけだと思われる。
 しかし石田が気絶してくれたお陰で出やすくなった、俺は未だ体に巻きついてくる牧野さんをそのまま抱え、石田の家を後にした。
 鍵はかけられないがこんな田舎に、しかもわざわざ警官の家に空き巣に入るやつもいないだろうから一晩ぐらい問題ない。

 その後、不入谷よりは近い距離にある俺の家まで牧野さんを連れ帰る間も、背負われた牧野さんは後ろから耳を舐めたり股間を擦りつけたり、ご丁寧にもやりたい放題煽ってくれた。
 酔っ払った状態で大の男を(しかも終始動き続ける)おぶって長距離を歩いたせいで体のあちこちは疲れきっていたが、股間のそれはちゃっかり臨戦態勢だったので、家に着いたら牧野さんに有言実行してもらう気満々でいた。
 そうしたら―――なんと自宅で床に下ろされた求導師さまは、すっかり夢の世界に旅立たれていた。

 この俺の不幸を誰が笑えるだろうか。男だったら分かるだろう。ひどい仕打ちだ。
 結局その後、痺れた両手ではまともに扱くこともできず、勝手に手なりなんなりを使わせてもらうとしても始末ができないため、そんなことをしようものなら起床するなりなじられて、一方的な禁欲令が出されかねない。つまり、じんじん脈打つそれを放置して寝るしかなかったのだ。
 俺は久々の絶望を味わった。

 翌朝、俺が想像した通り牧野さんは昨晩のことを一切覚えていなかった。
 石田の方は覚えていたようだが、あれ以来、俺か牧野さんを見ると貝のように口をつぐんでいて、いったいどうしたんだろうと石田の上司から相談まで受けたが、当然だ。あの牧野さんのことは墓まで持っていってもらう。それができないなら二度と口を開けないようにしてやっても構わない。
 だが、しおらしい石田とは反対に、牧野さんからは石田の家にいるはずが俺のベッドに寝ていたことであらぬ嫌疑をかけられた。これまでの前科を思えば仕方がなかったとしても、さすがにあの晩の努力は褒め称えられるべきではないだろうか。
 まあ、いい。
 牧野さんにはしかるべき時に、たっぷりと、謝礼をもらえばいいのだ。


 それからの俺は牧野さんの「お返し」の機会を作るためだけに生きていたといっても過言ではない。
 不憫は報われるべき、という思いもあったが、それ以上に「あの牧野さん」にもう一度会って、お手合わせ願いたかった。
 事情を洗いざらい話して直ちに恩を着せることはできても、いつもの牧野さんでは意味がないのだ。
 俺は「あの牧野さん」からお返しをもらいたい。

 俺は不審に思われないように牧野さんの家に通っては牧野さんと呑み、飲酒のペース、酔うタイミング、気分不快になりすぎない程度を計り、果ては気分が高揚しやすくなる条件や日々の体調の変動具合、事ここに至った後に必要になるもの等々、明らかに職権乱用、親権乱用してまで苦心して調べ上げ―――全ての準備を万端に整えた。

 ここまでした俺のことを馬鹿だと笑うやつがいても構わない。変態だのストーカーだの言われたとしても、そんなの知ったことか。
 とにかく何がどうあろうと、俺はこの計画を成功させる。



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