BABY PANIC! | ナノ


世のお母さんはすごいという話。




 その日宮田医院は午後が休診で、若き院長である宮田司郎はそこから数キロ離れた自宅にいた。
 休診ということは朝、医院に出向いてから気付いた。診察室の助手兼受付の恩田美奈に「午後から出かけるんです」という話をされたとき、午後診はどうするんだと思いかけ、デスクの上に置かれたカレンダーの『PM休診』の文字が目に入った。
 地元婦人会に参加している彼女は、今日から明日明後日と二泊三日の小旅行に出かけるのだそうだ。行き先は近場の温泉旅館だったか、診察室でも終始肩をはずませ、そのうちスキップでも始めるのではという様子からしても、よほど楽しみにしていたのだろう。
「ゆっくりしてくるといい」そう言って宮田は出がけの彼女を快く送り出してやった。
 病院が休みとなればそれは彼女だけでなく自分の休みということでもある。職場の同僚が自分だけ置いて楽しむなんて……などという矮小な嫉妬心は、宮田には無縁だった。女性は女性だけで楽しむことがあるなら、その分自分もふだん出来ないことができるというもの……
 とはいっても中学生が考えるような卑猥な自己発電にいそしむのではない。
 宮田は医者という仕事が影響してか、極度の綺麗好きであった。
 それを証明するように、義父が亡くなって後一人には持て余し気味の一戸建ての自宅は、居間から寝室から水垢が目立ちそうな浴室や洗面台まで、どこもかしこも掃除が行き届いていた。もしかすると彼の家で埃を見つける方が難しいかもしれない。
 宮田の住む村は現代日本の闇ともいうような人口減少の憂き目にある小規模集落の集合体から成る。休日といえども娯楽施設の一つもない。それどころか公共施設もまんぞくにない。だからやることは内にこもるか外に出て行くかしか選択肢がなく、宮田はその中で内にこもる、掃除へと趣味を発展させたのだった。
 今日は自室の大きな書棚を整理する予定だった。医学書はこの村ではあまり重要なものではないが、掃除の次の趣味である勉強のために辞典級の書物を買い込むことがままあった。
 さて、かくて宮田は片付けを始めようとしているのだが、片付けというものは片付ける前に一度それらを空いたスペースに出さなければならない。そして要る物要らない物の取捨選択の後、必要な物だけを本棚に戻す。
 動作の邪魔になりそうなシャツの袖を肘上までまくり、本をまとめるビニール紐を探しに立ちあがった時だった。
 インターホンから高い電子音が響いた。
 この時間、自宅を訪ねるような人物に心当たりがない宮田は首を傾げた。こっちは脳の八割が掃除の気分でいたというのに、無粋な訪問者は誰であろう。
 廊下に出て西日の差す玄関に目を細める。あの黒い人影は――
「どうも、こんにちは」
 予定を狂わされた不快感は一瞬で消え去った。ドアの隙間から姿を現したのは求導師の牧野であった。
 実はこの宮田、牧野に恋をしていたのだ。彼とは日頃から何かの接点がないかと機をうかがっていたのだが、宮田は医院、向こうは教会と職場(テリトリー)が異なるため、ひそかな恋慕は抱けど会うことはほとんど叶わないのだった。
「どうしたんですか」
 努めて冷静に宮田は尋ねた。しかし内実は心が舞い上がって飛んでいきそうな状態だ。
「いえ実は……」
 牧野が視線をつつ、と下へ向けていき、宮田もそれにならう。その時ようやく彼が何かを胸に抱いていることに気が付いた。
「なんですか、それ」
 それは小さな赤ん坊だった。大人の手のひらにすっぽり埋まってしまいそうなほど小さな頭部に線のように閉じた瞼を薄桃色の肌にたたえて、乳白色のやわらかな布地に全身をくるまれて牧野の腕の中で赤ん坊は眠っていた。
「しーっ、あのですね、この子は……」
 抱きかかえていた片方の手の人さし指をそっと口に寄せて、牧野は小声で言う。
「どこかの女に産ませたんですか」
「ちっ、違いますよ、この子は、」
「教会に捨てられていましたか」
 そう言うと牧野はぐっと唇を引き結んで困ったような顔をした。
「すみません、それより入れていただけますか」
 季節は初秋、関東とはいえ山間は平野に比べて早く冬が来る。肩でドアを押してくる牧野に宮田はそれ以上尋ねることを止め、とりあえずは自宅に入れてやることにした。
 家主を置いてそそくさと居間に向おうとする牧野の背中を追う形で宮田も後に続くと、黒衣の横で派手な赤い花柄の大きなバッグが揺れていた。まったく似つかわしくない。
 彼を自宅に招くのは大歓迎だった。しかしそれはこんな“コブ”がくっついていないことが大前提だ。


 先に部屋に入った牧野は、キッチンとリビングが一つながりになった室内をすばやく見回した後、その中で最適と思われるテレビ前のラグの上に赤ん坊を静かに置いた。赤ん坊はまだ眠っている。言われた訳ではないが、宮田は傍のローテーブルが邪魔そうな気がしたのでそれを壁に寄せてやった。
 続いて牧野は気まずい横顔でバッグの中から何やら取り出し始めた。一方宮田は、彼にさあどう問い質してやろうかと心中で計画を練っていたのだが、そのときリビングにけたたましい音が響き渡った。
「はい、宮田」
 焦りは顔に出さずに急いで電話に歩み寄った宮田が受話器を取ると、若い女の安心したような声が聞こえてきた。
「ああよかった先生、自宅にいらっしゃったんですね」
「美奈か」
「求導師さま、そちらに来られてますよね」
 彼女がなぜそのことを知っているのか不可解だったが、宮田はまず先に用件を尋ねた。
「今見えたところだが。何か用か」
 しかし美奈がそれを答える前に次の瞬間、リビングは大混乱に陥った。
 ぎゃああ、と鼓膜をじかに震わせるような悲鳴。悲鳴というか、もはやサイレンである。今まで天使のような(と世間では言うのだろうと宮田は思う)顔で眠っていた赤ん坊が先の電話の音で目を覚まし泣き出したのだった。
 宮田は思わず受話器を当てていない左側の耳を手で塞いだ。こうでもしていないと頭が痛くなってきそうだ。
「おい、何を笑ってる」
 右耳から聞こえてきた吹き出す声に、宮田は虚空を睨んだ。
「ああすみません。よかった、赤ちゃん元気なんだなぁって思いまして」
「おいまさかこの赤ん坊はお前の……」
 そこでまた悲鳴。先ほどより勢いを増したサイレンに宮田は一瞬両目をつぶった。背後では慌てて赤ん坊を抱きあげた牧野が懸命に彼――か彼女か――をあやしている。
「違いますよ。今日最後に見えた女性の方がいたでしょう?あの方のお子さんです」
 宮田の脳裏に今日午前の診療終了間際に駆けこんできた女性の姿が思い浮かんだ。
 泥だらけのパンプスにロングヘアを振り乱して、お願いだから少しだけ休ませてほしいとその懇願してきた女性。化粧映えのする美人だろうにファンデーションはところどころ汗ではがれ、リクルートと思しきスーツはしわくちゃだった。それが村の人間でなかったとしても簡単には忘れられない人物かつ状況であった。
 ただ、ここで一つ宮田が疑問に感じたのは、たしかカルテには身寄りがなく独身と書かれていたはずだった。平和な村ではめったに遭遇しない出来事だけに、記憶には自信がある。
「それが、どこで自分のことがばれるか知れないと思って、赤ちゃんのことは言えなかったそうなんです」
 宮田はため息をついた。
 聞けば女性は、数か月前に伴侶となる男と半ば駆け落ち同然に家を出てきたのだが、赤ん坊が生まれてから生活がうまくいかず、次第に暴力を振るわれるようになったため、旦那の目を盗んで着の身着のままで逃げ出してきたのだそうだ。今更の情報だが、こうした会話のあいだも赤ん坊のヒステリーは続いている。
「本当はウチで休んだ後にすぐ別の場所に行く予定だったそうなんですけど」
 想像以上に体調が悪く、バスや電車に乗るどころかとても歩けるような状態ではないと美奈は判断し、急遽隣町の病院まで付き添うこととなり、現在精密検査を受けているという。
「ちょっと待て」
 宮田は途中で話を遮った。
「そうするとお前、今朝言ってた旅行だ何だというのは?」
 美奈の返答は実にすがすがしいものだった。
「そんなの、言ってる場合じゃないですよ。一時とはいえ、ウチに来られた患者さんの一大事なんですから」
 残念な素振りを微塵もみせずさらりと言ってのけた彼女に、宮田は一瞬言葉が出なかった。今日の旅行はかなり前から楽しみにしていたのではなかったか。男ならまあ仕方ないで済ませられることでも、ここそこでこんな美味しいものを食べて、こんな体験をして、当日着ていく服まで綿密に決めていたりするのではないのだろうか。
 連れていくだけなら婦人会のメンバーの自分でなくても村に残る男の誰か、それこそ宮田でも良かったはずなのに、彼女は職業魂を発揮し旅行をキャンセルしてまで患者に付き添ったのだ。その無償の愛とも言うべき自己犠牲精神に、宮田はつかの間立場を忘れて感嘆を吐いた。
「ですので、検査が終わりましたらまた村に戻りますから」
 夜までには帰ると思いますけど、それまでよろしくお願いしますね。涼やかな声を残して電話は切れた。
「――美奈さんですか?」
 宮田が背後を振り返ると牧野が赤ん坊を抱きながら立っていた。小さな嬰児はもう泣いてはおらず、左右の眉を中心に赤くした顔を布越しに牧野の肩に押し付けている。
「事情はだいたい分かりました」
 宮田が言うと、牧野も安堵の表情で頷いた。
 どのタイミングで美奈から赤ん坊を譲り受けたかは知らないが、牧野も不安だったのだろう。幼児ならいざ知らず、お互い赤ん坊とはそうそう接する機会のない年代である。その中で自分を頼りにやって来てくれたことが宮田は嬉しかった。たとい美奈がそれを支持していたとしても、偶然の結果であろうと想い人が自宅を訪れるサプライズなんて、寝て待って三年で訪れる果報などではない。
「さて、どうしますか。向こうが帰ってくるまでまだ時間がありますが」
 宮田は意識的にややカッコイイ声をつくって言った。今思えば、この光景は若い夫婦のあいだに待望の赤ちゃんが生まれ、子育て未経験がゆえに不安そうな顔の嫁と、それを諌める頼りがいのある旦那の構図ではあるまいか。最初はなんだこのガキ、俺を差し置いて牧野さんに抱っこされやがってと思ったが、そう考えると途端に可愛く見えてくるもので、とくに伏し目がちでも分かる黒目が大きいところなんて、俺と牧野さんにそっくりだ、なんて思い始めた。
「女の子ですか」
「ええ、齢は……すみません、何しろ突然のことで聞きそびれてしまったんですが」
 宮田が置かれていたバッグを探ると、無造作に突っ込まれた哺乳瓶やら紙オムツの中に母子手帳も入っていた。旦那とのトラブルが起こって以降は記帳する余裕も失われていたようだが、身長と成長具合から宮田にはだいたいの推測が立てられた。
「だいたい6、7ヶ月というところですかね」
 首も座っているようだし、先ほどの電話で驚きはしただろうが初対面の牧野にも安心して身を寄せているのは預かる立場にとってありがたい。
 とりあえず立ちっぱなしも何なので、宮田は牧野にソファに座るよう促した。そしてさりげなく自分も彼の隣に腰を下ろす。こうして隣に座るのは中学の体育の時間以来なので、久々に肩を並べることに内心心臓はドキドキである。もしかしたら今日を境に彼との仲が急接近するのではなかろうか。いや、そうせねばならない。千載一遇のこの機を逃してはならないと宮田は決意した。



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