節分ネタ 一年の中でも北寄りに傾いていた太陽が徐々にその位置を高い場所へと変えはじめる時期、不入谷教会の一角では、ある季節の催し物が開かれていた。 「いい? みんなが良い子だって分かったら、悪い鬼さんもすぐに『参った〜』って帰っちゃうからね」 求導女は向かい側の長椅子に座った五名の子供たちに語り掛けた。小さな彼らの手の中には、それぞれぎっしり豆が詰まった一合升が大事そうに握られている。 「大丈夫だよ、求導女さま」 用心深く言い聞かせる赤い服の女性に、三つ編みを垂らした少女が返事をした。 「そうそう、どうせ鬼は求導師さまなんだぜ。求導師さま優しいから、鬼のカッコしてても全然こわくねぇもん」 少女の左隣に座ったもう一人の少年も、生意気そうな口ぶりでそう言ってみせる。この中でガキ大将的な立ち位置の少年の言葉に、残りの子供たちも追随してうんうんと頷く。 「あらあら」 今は彼らの保護者代わりである求導女の八尾比沙子は、変わらず穏やかな表情の裏で少し困ったことになったと肩をすくめた。 毎年この季節になると教会の子供イベントとして行われる節分の行事は、恒例であるがゆえにパターン化していて、田舎の変りばえのしない人選では鬼の正体が誰かということも幼い彼らに知れ渡っていたのだった。 「でも求導師さまはさっきまでここにいたでしょう? もしかしたら求導師さまじゃないかもしれないわよ?」 もうすぐやって来るという段階で、いまさら「もしかしたら」と言わなければいけないところに、空想上の生き物の悲しい限界がうかがえる。 「それあれだよ、裏にいって着替えてるんだよ」 「それか、駐在の石田さんか、どっちかだよ!」 子供たちはまるでそのシーンを見てきたかのように得意げに語り、ここに来たら我先にその正体を明かしてみせようと、腰を浮かせて椅子の上でぴょんぴょん飛び跳ねた。 「まあまあ、みんな危ないから落ち着いて」 事実、現在礼拝堂の裏では、姿を消した牧野がせっせと鬼の衣装に着替えてるところだった。 それを知る八尾は、今年は子供たちを怖がらせるというのは無理かもしれないと思った。いや、今年も、と言うべきだろうか。 毎年羽生蛇村の節分で使われる鬼の面は、くたびれた藁を髪の毛に見立てた意外に本格的な作りで、都会のコンビニ等で売られているチープな面とは物が違っていた。するどい犬歯を口の隙間から四本も突き出して、いかつい形相を真っ赤に染め上げている。 大人でも夜中に暗い所で見たらちょっと怖いと思うような代物で、あまりに幼い子供は面を見ただけで母親にしがみつくほど号泣してしまうくらいなのである。 だが今年の子供たちはすでに何度もその面を目にしているので、いまさら驚くということはないだろう。怖い、という感情になれば、なおのことである。 子供でも年長ともなれば着ぐるみショーの中の人間のことを推察するくらいの思考力は備えている。こうなると、むしろ子供のほうが大人のイベントに付き合ってあげているという感覚なのかもしれない。 ただ眞魚教という教理を持ちつつ、なぜ教会の人間が子供たちのイベントにこうも参加しているかというと、いつだったか、東北地方から伝統文化交流という形で寄贈された面を、捨てるわけにもいかず、とって置くにも使い道もないしということで、数年前からこのような使い方がされているのであった。 「なあ、求導師さまが来たら、みんなでいっせいにこの豆投げようぜ!」 「ええ、そんなに投げたら求導師さまいたいよー」 「いたくないって、服着てるんだぜ。それにさっき俺、ためしてみたもん」 「一粒だけでしょ?」 「一粒も百粒も変わんねぇって」 「まあ、あなたたち、御手洗いから戻るのが遅いと思ったら、そんなことをやっていたの?」 目を丸くしてたずねる求導女に、短い髪の少年はえっへんと胸を張った。 「そうだ、両手でやったらいっぱい投げれるんじゃない?」 ガキ大将の取り巻きの一人である少年が、長椅子からぴょんと飛び降りた。そして名案とばかりに升を椅子に置き、片方ずつ手に豆を握ってみせる。 「すっげー、お前天才!」 するとそれを見た他の少年たちも同じように立ち上がって、両手で豆を掴み始めた。 「ええー、でも……」 しかし一人残された少女は、ふだん膝にのせてもらったり、折り鶴を教えてくれる優しい求導師さまのことを思い出して、どうしてもそんなことはできなかった。求導師さまが可哀想だよ、と泣き出しそうな表情になって、血気に逸る男児たちと優しい求導女さまを交互に見比べる。 「ほらほら、みんなそんな風に準備しているけど」 八尾は悲しげな少女の肩を抱き寄せながら、少年たちにも声をかけた。 「もしかしたら今年は鬼さんから何か大事なお話があるかもしれないよ?」 「大事なお話って?」 生意気盛りたちがそろって首をかしげる。 「さあ、なんだろう。私も分からないから、鬼さんが来たら聞いてみようか」 八尾はわざと気になるように含みを持たせて言ったが、とくに事前にそういう打ち合わせをしているわけではない。鬼役を任せられた彼もお世辞にも機転が利くタイプではないし、たぶん彼が来てしまったら、いつも通りの鬼っぽい演技以外は、何も期待できないだろうとは思う。 「あっ、来た!」 一人の男児が入口を指差し、八尾は顔を上げた。 見ると、真っ赤な肌をした赤鬼が教会の扉を押し開け、身を乗り出している。節分の鬼の鉄板ともいえる黒く太い金棒を片手に、虎の毛皮(もちろん化学繊維)でできた履物を身に着けた鬼は、身廊に敷かれた絨毯の上をすたすたと歩いてくる。 その演技の欠片もない歩き方はまちがいなく彼だ。あちゃー、と八尾は額に手をやった。これでは今年も彼らを怖がらせることは無理そうだ。 「みんなーやれー!!」 鬼がまだ近くにやって来る前に、一番やる気だったガキ大将の少年が豆を投げつけた。 「いまだー!!」 その声を契機に、後に続かんとばかりに他の少年たちも豆を投げつけ始める。 無数の豆が赤鬼の全身に降りそそいだ。投げつけるといっても、しょせんは子供の力であるから大して痛くはない……と思いきや、硬い大豆は思いきりぶつけられると結構痛い。 一人升を持ったままでおろおろしている少女をのぞいて、四人の少年たちは手持ちのほとんどの豆を投げ終わった。その間、鬼はまったく無抵抗だった。 升の底に指が当たるようになってはじめて我に返った少年の一人が、あまりに鬼が無防備なままでいることに、ふと疑問を抱いた。 「どうして求導師さま、何も言わないの?」 鬼は豆をぶつけられた最初の位置から微動だにしないで立ち尽していた。左右に両手を投げ出し、首をわずかに傾け、恰好こそ鬼の姿をしているが、ともすれば無理やり付き合わされてヤル気の出ない大人のようである。 「求導師さま、なんだよね?」 別の少年がうかがうように尋ねる。 すると鬼は大きな面をつけた頭を重たそうにゆっくりと回し起こした。 「痛い」 「へっ?」 短く吐き出された声に、その場にいた人間が同じ反応をした。 いかにも怖そうな鬼の面ではあったが、その奥から聞こえてくるのはいつも穏やかな求導師さまの優しい声だと全員が思っていた。しかし僅かに開いた口の隙間から飛び出して来たのは、求導師とは思えないようなぶっきらぼうな声で、子供たちも、八尾までもが己の耳を疑った。 「豆が、痛いんだけど」 誰もが呆気にとられていた。むろん言葉を発せるはずもない。 節分の鬼が、「豆が痛い」と言い返してくるなんて、誰が予想できただろうか。 「お前らな」 真っ赤な指を差し向けられ、数人の少年が身体を震わせた。気弱な少女は鬼を直視することにも耐えられず、求導女の裾の後ろにすっぽり身体を隠している。 すっかり沈黙してしまった子供たちに、鬼は口火を切った。 「何もしていない相手に、いきなり豆を投げつけるのか、お前たちは。道端でほかの大人とすれ違っても、今みたいに豆を投げつけたりするのか」 子供たちは互いに顔を見合わせる。 「だって、鬼だから……」 思ったことを黙っておけない少年の一人が言い訳のような台詞を口にすると、鬼は待っていたとばかりに声を荒げた。 「お前ら、俺が鬼だからというだけで、豆を投げてもいいと思ったのか」 「え……」 「そういうのは人種差別ってもんじゃないのか。毎日学校では何を習ってるんだ。見た目が怖い人は中身も悪い人だから、問答無用で豆を投げつけてもいいんです、ぜひそうしましょうって高遠先生から習ってんのか」 「習ってない……」 棘のついた金棒を軽々と持ち上げた鬼は、それを首の後ろに置いて子供たちを見下ろした。 「今日のことは一生忘れないからな。お前たちが何もしてない人にいきなり豆を投げつけるような奴だって、お父さんお母さんにも、校長先生にも、みんなに言いふらしてやる」 見知った大人たちの名前を出されたとたん、子供たちは我に返った。 「やだぁ!」 悲痛な叫び声が次々にあがる。 しかし鬼は、 「本当のことを言って何が悪いんだ。いきなり暴力をふるわれた俺の気持ちはどうでもいいのか」とにべもない。 「やだやだ」「お願い、言わないで」 自分たちが大人の言うことを利かないからこんなことになったのだ、と素直な子供たちは考えた。最初から怯えていた少女と、残り三人の少年が鬼の口撃に白旗を揚げ、口々にそれだけは止めて、と懇願する。 「人にお願いをするときは何て言うんだ」 「お願いします……」 「その前に、いきなり豆をぶつけてきたことについては?」 「ごめんなさい……」 うんうん、と鬼は頭を上下させ、納得の様子をみせた。一時は本気で驚いていた八尾も、子供たちの心境の変化に頬を緩め、これで今年の節分は何とか平和に終わりそうな雰囲気であった。 しかし、 「うるさい!鬼のくせに!」 唯一リーダー格の少年だけは違った。礼拝堂に響き渡った大声に、驚いた仲間の子供たちや八尾が彼の方を振り返る。 少年は長椅子に置かれていた少女の升から豆をひっつかみ、その手を高々と振りあげていた。ガキ大将のプライドが簡単に負けを認めることを許さなかったのか、それとも小さな体で仲間を守ろうとしていたのか。ともかく彼は手にした豆を力任せに鬼に向かって投げつけたのである。 だが次の瞬間、バシッという音がして、飛んでいった豆が勢いよく叩き落とされた。 驚くべき反射神経と正確無比な手刀さばきだった。さすがの少年も目と口をあんぐりと開けて、何事が起こったのか一瞬分からないようだった。 「だから痛いって言ってんだろうが」 鬼は豆の当たった手の甲をまるで虫でも払うような仕草で振り払うと、反抗的な態度の少年に視線を定めた。 「なるほど、お前は一度ならずも二度までも大人の言うことを聞かなかった、とくべつ悪い子だということだな。今のでよぅくわかった。だったら、お前のことはとくに念入りに伝えておかなきゃならないな」 そのまま何もしなければ最後まで標的にされることもなかっただろうに、いかつい面に凄味のある声で「覚悟しておけよ」と言われ、少年の喉が小さく鳴った。 他の子より気が強いとは言っても、彼もまだ低学年の年齢である。大きな瞳にみるみる雫が溜まっていく。 「う……う……」 怖い顔で怖いことを言われたら、泣き出してしまうのだが子供だ。しかしそれでも彼は屈さなかった。 「求導師さまがそんなこと言っていいのかよ!大人は子供にやさしくしなきゃいけないんだぞ!」 これには八尾も苦笑せざるを得なかった。鬼もすぐにそのことを窘めるだろうと思いきや、異形の風貌をした相手は意外にも何も言わなかった。 沈黙を怪訝に思い始めたその時、何かが倒れるような物音が祭壇の後ろの方から聞こえた。 「な、なに……?」 対峙した鬼とは反対の方向を振り返った彼らは、クロスで覆った祭壇の後ろからうごめく黒い影を認めた。 細く尖ったそれは革靴の先端であり、その形状には見覚えがあった。黒い革靴に被さる同色のスラックス。生き物のように身をよじらせるその足の端に何重にも紐のようなものが巻き付けられている。 「まさか……求導師さま……?」 八尾が指の隙間から耐え切れずに漏らした言葉に、子供たちは敏感に反応した。 「本物のお化けだーーッ!!」 一人が叫ぶと同時に恐怖は一気に形を成して、瞬時に全員に伝播した。 「やだぁ!おかあさーん!!」 「パパぁーー!!」 「あっ、みんな待って!外は暗いから、今出て行ったらダメよ!!」 走り出した子供たちは、進路を塞ぐ鬼の横をすり抜けるように入口へと向かい、開け放たれた扉から外に出てしまった。慌ててその後を追った八尾も、暗い外に飛び出していった。必要以上に子供たちを怖がらせた鬼の所業について、追及している暇はなかった。 礼拝堂が静かになる。 しばらくその場に立ち尽していた鬼は、祭壇の後ろでうごめく人間の様子を観察するのにも飽きて、そちらに歩み寄った。 その様子は、二本の脚をそろえるように縛られ、床に転がされた求導師を、真っ赤な顔の般若のような形相が無情にも眺め下ろすようにも見えた――のだが。 「ンーンー!!(やりましたね、宮田さん!!)」 白い布を口にかまされた牧野が、首だけを持ち上げて言った。 「ンーンー(毎年、鬼役が私だと、どうしても緊張感に欠けてしまって……)ンーンー(今年は石田さんも予定が合わなくてできないと言われてしまいましたし……)ンーンー!(たまたま宮田さんが来てくださって助かりました!)」 「いや、何言ってるか分かんないんですから」 宮田は言いながら鬼の面を外すと、どうせ下からは見えないだろうと重量のあるそれを適当に祭壇の空いたところに置いた。 「ンーンー?(でもちょっと怖がらせすぎだったんじゃないですか?)ンーンー(静かにしてろって言われてましたけど、私つい耐えられなくって)」 ようやく遮蔽物なしで吸えるようになった空気をゆっくり肺に取り込んで、宮田はふう、と息をつく。鬼の面に子供たちの相手とは、とんだ真似事をさせられたものだ。 「口を塞がれている割に、ずいぶん饒舌じゃあないですか。出合い頭にこんなことを頼んでおいて、さらに注文とは、求導師さまは本当にお偉いようで」 「ンーンー(いや、それは本当に申し訳ないと思っているんですけど)」 「言っときますけど、俺はただで引き受けたつもりなんてないですからね」 「ン?(え?)」 宮田は首をぐるりと回して、後ろの長椅子に放置された一合升に目をやった。 「今日は節分ですから、牧野さんにも年の数だけ豆を食べてもらいます」 そのくらいなら別に、と思いかけた牧野に宮田の言葉が続く。 「後ろの口に、どのくらい入るのか楽しみですね」 「ン!?(ゲッ!!)」 「心配しなくても、まさか本物の豆を入れたりなんてしませんよ。入れたはいいが出せなくて手術、なんてことになっても困りますから、その代わり」 宮田の人さし指が何かをジェスチャーで牧野に伝える。 「大分前に買ったアレ、いくつまで入るか楽しみですね」 にっこり笑った宮田を前に、金属製の紐に丸い玉が連結された卑猥な代物のことを思い出した牧野は、一瞬で蒼白になった。 「ン、ンー!(いや、ちょっと待ってください!)」 「待ちません」 「ン!?ンー!!(え、何で言ってること分かるんですか!)」 「あなたも学ばない人ですね。困ったときにそれ以外の言葉をいったことあるんですか」 宮田はふたたび立ち上がると、丁寧に炒られた豆を指先でつまんで口の中に放り込んだ。 数十分後、逃げ出した子供たちを連れて八尾が教会に戻ると、そこには鬼も求導師の姿もなく、おかげでまた怖がって逃げ出そうとした子供たちを説得するのに大変だったとかそうでないとか。 back |