原稿中… | ナノ


恋人は同人作家の続き




 息を吸うごとに喉元が圧迫されるような苦しさをおぼえる。
 なるべく多くの空気を取り入れようと、深く呼吸しようとするのだが、ここには必要な分の酸素そのものが足りていないようだ。
 密閉された空間の空気はよどみきって、捨てきれない雑巾を何度も使っているような、くたびれた雰囲気と埃っぽい臭いばかりが充満している。
 宮田は凝り固まった背筋を伸ばそうと、腕を後ろにゆっくりと伸ばし、天井を見上げた。木目の濃いところにできた汚れが、ベッドに寝転がったときとは逆向きになっていた。よく見ると、教科書に出てくる偉人の肖像画の髭の形に似ているような気がする。
「ちょっと宮田さん? 何ボーッとしてるんですか」
「いや……ちょっと、息抜きをね」
 天井に向かって言うと、向かいにいる牧野は容赦ない半睨みの視線をぶつけてきた。
「息抜きはさっきもしたでしょう。休憩はしてもいいですから、その間も手だけは動かして下さいよ。時間は有限なんですからね、こうして喋っている間にも刻一刻と過ぎているんです」
「はいはい」
「返事は二回してもいいですから、仕事をしてください。ご自分の仕事を」
 と言われても……宮田は目の前におかれた白紙の原稿を眺め下ろした。
 そればかりを見つめていると、自分の中で高まりかけたやる気が一気に萎えていくのが分かる。
 いや、嘘だ。やる気など、とっくの昔から無い。
「あ、じゃあ、音楽変えてもいいですか。静かな曲だと眠くなるんですよ」
 思いついたように、宮田は背後のオーディオコンポを振り返る。
「ダメです。宮田さんの好きなアニソンにしたら、歌ばっかり歌って集中しないんですから」
「そんなこと言って、牧野さんも好きでしょう? 全盛期魔法少女オープニング集ですよ。あの頃って、どの曲も神曲ばっかなんですよね」
 牧野の諌言にも聞く耳を持たず、山積みされたCDの中から宮田が目当てのパッケージを探していると、
「ダメ!ダメって言ってるじゃないですか、さっきから!もう、何で人の話聞かないんですか」
 とうとう大きな声が飛んできた。
「そんなこと言われましても、そもそもここは俺の部屋なんですけど」
 壁に貼られた等身大キャラタペストリー、ベッドに置かれた裏表抱き枕。本棚に詰まった大量の漫画と、そうでない薄い本の数々。全部宮田が自分の金でそろえたものだ。そうでないものと言えば、子供の頃に与えられたベッドと学習机と今使っているローテーブルくらい。
 それなのにこの部屋の主導権は、一か月前から牧野のものになっていた。ここは普段は自分の部屋であっても、一たび原稿期間に入ってしまうと、所有者は新刊の作者である牧野慶に変わるのだ。
 けれど仕方ない。これも新刊が出来上がるまでの辛抱だ。出来上がったら、いち早く読ませてもらって、悦に浸れるのが自分だけの特権なのだから、宮田は我慢して、新刊ができるまでの間、この部屋を明け渡してきた。
「つうか、牧野さんのほうも進んでるんですか?さっきから一向にキーボードの音が聞こえてきませんけど」
「う……、進んでますよ!あとエロシーン書き終えたら終わりなんですから」
「うって言いましたよね、今。うっ、て」
「気のせいです! もう頭まで見ているものを、あとは引き出すだけの作業なんです」
「昨日もそう言って、結局進んでいなかったような?」
「だからそれは……! いや、いいですから、ね? もう、お互い作業しましょう、作業」
 何につけても作業ですよ。やれば少しは進みますけど、やらなかったら絶対前に進むことはないんですから。
 牧野は自身にそう言い聞かせているようだった。夏休み終わりの宿題に追われる小学生。そんな図が宮田の脳裡に思い浮かんだ。
 宮田に任された仕事は、下書きされた原稿の主線をペンでなぞっていく作業で、初めこそ先割れしたペンの扱いには難儀したものの、慣れてしまうとコツを得たもので、今ではそこまで難しい作業ではない。
 しかし向こうはストーリーのメイン部分で壁にぶつかっているらしい。察するに、完全に行き詰まっているのではないだろうか。この調子だと、明日になっても彼は同じことを言っていそうだ。
「ああ〜……もう、なんで出てこないの、ここを抜ければ、一気に終わりそうなのに!!」
 こうなった牧野に話しかけるのは非常に気まずいので、宮田は黙るしかなくなるのだが、黙ると眠い。
 単純作業に沈黙は酷である。気を抜くと意識がふたたび穏やかな眠りの世界に漕ぎ出してしまう。
 持ち主の意に反して「集中力を高めるα派」サウンドがオーディオコンポから子守唄を流し始め、しばし宮田は無と有の意識の狭間を彷徨う。


 三十分ほど経った頃。
 宮田はふっと我に返り、開きっぱなしだった口を閉じ、顔を上げた。
「え……? なんです?」
 誰かの声が自分の鼓膜を揺らした気がした。
「俺のこと呼びました? 牧野さん」
 向かいに座る人物に目をやると、牧野は何故か苦しそうに眉根を寄せていた。
「なんですか?」
「宮田さん……」
 苦しそうというか、神妙とも言える表情だった。その顔で牧野は唐突に、
「キス、したことあります?」と言った。
「……ん?」
 それは、口と口を合わせる行為のことか……?
 男女のそれを意味しているのなら、まあ、まったくしていないわけではないが。
「あるといえば、ありますけど……」宮田が答えると、
「それは、男同士のキスですか?」
 牧野はやたら食いついた。
 いや、さすがに自分も同人誌では見たことがあるが、リアル(現実)で男とキスをしたことはない。というか、ふつうに男同士でキスなんてしたら、ホモではないか。
 そんな本を自分たちは、好んで読んだり、作ったりしているわけだが。
「いや、それはさすがにないですよ」
「ですよね……」
 牧野は落胆したように視線を落とす。
 なんなんだ。
 いったい何を考えて、そんな質問に発展したのか。宮田は逆に聞き返した。
 「ずっと考えてたんですけど……」
 牧野は言い出しにくそうにしながらも、その胸の内をうちあけた。
「男同士なのに、何の違和感もなく行為を受け入れるって、おかしくないですか?ふつう、混乱とか、拒絶とかが先にくるはずなのに……そういうリアルさがないと思うんですよ、私の書く話には」
「でもそれって、最初の頃に出した話にそんなようなのがあったじゃないですか。医者と牧師の初体験の話でしょう?」
「でもなあ……そんなに簡単に慣れることでもないと思うんですよ。一回目と二回目って、そこまで大きく意識に変化は出ないんじゃないかなぁ……たとえばですけど、宮田さんがそこまで嫌いじゃない人にキスされて、あ、もちろん男の人ですよ? そのキスが二回目だからって、気持ちいいとか、セックスしたいとか、思います?」
「えっ、そんなの知りませんよ、俺はノンケなんですから」
 男同士でキス?宮田は考えただけでもぞっとする。
 こういうのは他人事だと思っているから受け入れられるのであって、現実に自分事になったら、三つ指をついて土下座することになったとしても、断固御免こうむる。
 でも願望とはそういうものではなかろうか?
 AVのレ●プものが好きとか、ロリ●ンものが好きな人間も、本当にそれを実行したいわけではないだろう。たまに実際に行動に移すような頭のおかしいやつが出てきているのは確かだが、それは性癖だからリアルではないと、自分の中でしっかり線引きができているからこそ楽しめるものなのだ。その点でいえば、同人もAVも、大した違いはないに違いない。
「試しにキスしてみませんか」
 宮田の口から、自分でもアホだと思うような声が出た。
「キスって……口と、口の?」
「ほかにどんなキスがあるんですか」
 牧野は呆れたように聞き返す。
「でも、俺と……牧野さんが?」
「仕方ないでしょう、ここに男と男って私とあなたしかいないんですから」
 それはそれで誰でもいいと言われているような気がして、宮田は傷つく。
「そこまで追い詰められてるんですか……」
「だって……出てこないんですよ、言葉が!! 何かきっかけがあれば、書けそうな気がしてるんです、ここまで、もうここまで来てるんです!」
 牧野は苦しそうに喉に手を当てて、アイディアがそこまで来ていることを表した。
 宮田はうーんと腕組みし、考えた。これが悩まずにいられるだろうか。アイディアのために、自分の唇をささげるのだ。美少女ならともかく、夢も希望もない成人男性の。
 相変わらずステレオは川のせせらぎにハープのメロディーを重ねた美しいBGMを流している。
 まず決定事項として、このCDはあとでベランダのカラス除けにでもするとしよう。集中力を高めても、実の弟にキスを迫るような事態を防げないのであれば、役に立っていないも同然だ。
「嫌なのはわかりますけど、つぎの新刊のためにお願いします! 一瞬だけ、耐えてもらえませんか?」
 頭を下げてまで頼みこんだ兄に、宮田の心の距離が一メートル離れた。
 キスを受け入れるのと新刊が出来上がらない未来。宮田は無理やり思考を働かせ、その二つを天秤にかけることにした。
「私じゃなくて牧師として考えてください、もし宮田さんがこの本に出てくる医者だったら、牧師にキスしたとき、何を考えるのか、どう感じるのか、分からないと困るんです」
 自分ではなくこの本の主人公たち――
 そう言われ、頭の中で本の登場人物たちを思い描いたとき、宮田の中で不快に埋もれていた心が、急に好奇の方向にシフトした。
 男に恋愛感情を向けられることに慣れていない牧師が、そこにいて、自分に戸惑っている。
 キスもしたことがないという。何もかも初めてで、怖い。掴まれる手の強さにも、近づく肌の温度にも、体を震わせるほどに敏感になり、処女よりも処女らしく、子供のように怯えてしまう……
 宮田の頭の中で、完全に妄想の形が出来上がった。
「わかりました、いいでしょう」
「いいんですか! ありがとうございます!」
 牧野は手を叩いて立ちあがった。これさえできれば原稿は安泰だと思ったのだろう。だが、
「せっかくですから、シチュエーションも近い状態にしましょう」
 隣に腰を下ろそうとしていた牧野に宮田が声をかけると、えっ、と中腰の体勢で牧野は動きを止めた。
「ということは……そこのベッドに……?」
 指が、宮田の背後を指す。
「だって、ここでしたんじゃ体勢とか角度とか、そういう環境からくる心情が分かりませんよ」
「そう言われるとたしかに……」
 こうなると宮田も強いもので、逡巡する牧野の手首を取ると、ベッドのほうに引き寄せた。

 ベッドに牧野が横たわり、宮田は身体をまたぐ形で彼の顔を見おろす。
 兄は経験のない状況に戸惑っているようだ。見慣れた男を相手に、どこに視線を向けるべきか、瞬きの度に見る方向が変わる。
 その両脇に手をついて、宮田は頭を低くした。
「では今からしますけど、いいですか」
 唇が触れそうな距離で静止して、最後の一線を越えるかどうかをもう一度尋ねる。
「いいも何も……私からお願いしたんですから」
 覆いかぶさる影を見上げて、牧野は情緒もない淡白な声で答えた。
 いつも目にしている、自分の顔に張り付いているのと同じ顔を、このような距離で見ることは意外にも初めてだった。
 本の中の二人とは違うかもしれないが、たしかに緊張はしている。恋愛による影響ではないけれど、心臓が短く速い鼓動を打ち始めているのが分かる。
 向こうも同じことを考えているのだろうか。温かい息が口元に当たり、空気の振動が自分にも伝わってくる。産毛の震える感触や、相手が息を吸うタイミング、自分のものではない服の香りなど、それを感じ逃すまいとすると、異常なほどに気持ちが高まっていく。
 牧野は大きな瞳をしっかり開いて宮田の目を見つめ、宮田もまた、牧野の目の中に映る自分が、これから恋人にキスをする男の顔になっていることに気づいた。
 互いの神経の感受性が上昇し続け、それがついに最大まできたとき、二人の境にあったものが、触れた。
「…………」
「…………」
 唇を離して、宮田は顎を引く。
「……どう、でした」
 少しの間、牧野は瞼をパチパチと閉じたり開いたりしていたが、それから驚いたように口を開いた。
「なにも、感じない」
「ですよね……」
 まさに無、とでも言いたげな表情に、宮田は納得して姿勢を起こした。どっと力の抜けた体を、ベッドの脇に落ち着ける。
「なんでしょうねぇ……驚くほど感情が動かない、と思いました。する前はこうかな、ああかなって、色々考えてたんですけど」
「むしろする前のほうが、想像力がある分、妙に興奮しましたよね」
「ああ!わかります、それ。そうなんですよ。してみると『なんだ?意外とこんなモンか』みたいな呆気なさのほうが勝っちゃって、面白くもなんともないっていう」
「キスするだけで気持ちいいとか、あれ本当にファンタジーなんですね」
「ぶっちゃけてしまうと、そういうことなんですね……」
 牧野だけでなく、宮田も内心ガッカリしていた。これならまだ女相手のほうがマシだったような。
 いや、だいたい唇を触れ合わせるだけで何か変化が訪れると思っていた自分が浅はかだったのか。そんなの、男でなくても子供でも老人でも、するだけなら一緒ではないか。
「あの……」
 つぶやいた牧野を、宮田は振り返った。
「これ、もうちょっとやっても、同じです?」
「もうちょっとって……舌をどうこうするヤツのことですか」
「そ、そうそう、舌をどうこうするヤツ」
「んー」
 宮田は初めて女子とディープキスをしたときのことを回想した。
 あれは若かったのもあって、とりあえず何にでも股間が反応する時期だったから、キスが気持ちよくてそうなったのかはよく覚えていない。
「まあでも、それ自体は気持ちいいと思いますよ。ふだん体験しないことですし」
 言葉にあらわせない感覚というのは、ああいうことを言うのだろうし。
 宮田が言うと、牧野は、へえ……と、興味深そうに半分起こした頭を上下させた。
「すみません、じゃあもうちょっとだけ、いいですか?」
「ええ?」
 立ち上がろうとしていた宮田に、牧野が言った。
「あとちょっとだけ、ちょっとだけですから」
「期待したって、実際そんなにさっきのと変わりありませんよ」
 言葉にあらわせないとは言っても、表現しがたいと事象という意味であって、必ずしも気持ちよくなれるかというとそうではない。通信販売のように、個人の感想であり、効果を保証するものではありません、というやつだ。
「それでもいいです、それでもちょっとでいいですから……!」
 言い募り、すがってくる牧野の恰好は、同人的にはちょっと萌える体勢だ。でもそれは同人だから萌えるのであって、相手が牧野さんではなあ……。二次と三次の越えられない壁に消沈しつつ、それでも宮田は、牧野の原稿が出来上がらなかったことを考えた。
「わかりましたよ、そこまで言うならしましょう」
 ふたたび向き直ると、牧野は嬉しそうな笑顔を見せた。



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