七月七日 | ナノ




 気がついたとき、阿部倉司はすでにそこにいた。頭はしびれたように思考を開始せず、しばらくはボーっとした意識の中、阿部は暗い闇の中心を見つめていた。
 ただ一面に広がる昏黒の海。右も左もない、重力を感じず、姿も見えず、宇宙を漂流する一つの塵となって浮遊している気分。まるで暗幕か何かで丸ごと世界が包まれてしまったかのようだった。どこまでも黒が覆う空間は、阿部が目を閉じた次の瞬間から見渡す限り、そのような変化を遂げていたのだ。
 しかし阿部はどうせ夢だろうと楽観した。悩むまでもなく、こんな状態におかれたとき阿部のすることはまず決まっている。自分の部屋で寝っ転がるよう四肢を投げ出して考えるのを止める。手指の末端はまだ夢の空気と混じり合ったままで、意識もまもなく手放せそうだった。
 しかし、どうしてか阿部の意識はそこからだんだんはっきりしていった。眠るどころか、手のひらを握る感触をはじめ、瞼の上から感じる外界の変化、足の裏に感じる自身の体重など、全身の感覚が鋭敏になっていく。
 阿部は面倒臭そうに右の瞼だけを開けた。うっすら見えてくる光景に、重い眉がぴくりと動く。
 そこには一枚の板が飛び出していた。
 ちょうど阿部の目の前だった。暗闇から浮かぶように阿部の顔から十数センチの距離で、行く手を遮る木の板が立てられているのだ。黒い背景から少しだけ明るさを得た色は、窪んだ木目を見ることができた。
「何なんだよ」
 阿部は思わず言った。
「誰なんだよ」
 板からの反応はない。というより、自分をここに連れてきた誰かがいるような気がして、腹立たしいそいつに向けて言ったことだった。
けれど板は引き続き無反応で、そもそも板はどこまでいってもただの板で、阿部は物言わぬ無機物に話しかけているだけなのだ。
「ちくしょう」
 阿部は苛立ちから足を振り上げようとして、あることに気がついた。左手にある、異様な感触。
「うぉっ」
 わかった瞬間、また声が出た。なにせ生温かかったのだ、手のひらに触れたそれが。
 まるで低い位置で人の頭を撫でたようで、気味悪さに怖気が走った。しかし阿部は、つぎの瞬間なぜだかその正体を知っていると思った。それまで直立していた体を前方へ曲げて、かがんで注視する。
 木板と同じくらいの色で、闇とほぼ同化してはいるが輪郭だけはしっかりとしていた。それは一頭のシェパード犬だった。
「もしかして……」と阿部が言いかけると、犬はふさふさの尻尾を上下に振った。
「やっぱりお前、ツカサだな? どうして、いったいどっから」
 阿部が言い終わる前にツカサは背伸びして、阿部の左手に頭を何度も擦りつけた。指の間をすり抜ける毛の感触がくすぐったくてたまらない。
「分かった、分かったから」
 なだめてもツカサはじゃれるのを止めず、すっかり会話にならないので、阿部は呆れて両手を広げ、大きな手のひらを使って撫でまわしてやった。全身をたっぷり撫でられてやっと満足したツカサは、「よし」と言わんばかりにようやく大人しくなる。
「ったく、ちゃっかりしてんぜ」
 またワンとツカサが返事をした。まあね、と言ったようだ。
「しっかしよぉ、どこなんだよ、ここは」
 一匹の仲間をしたがえて、阿部はあらためてあたりを見回した。同じ闇を前にしたのだが、今度はさっきより無害な世界のように見えた。ツカサのおかげで胸のイライラは大分おさまっていた。
 元来阿部は口調の通り大雑把で楽観主義者で、苦境も笑い飛ばせる強靭な精神の持ち主である。ただ若干人相に難があるので、よくそのことで誤解を受けるのが常だった。「いいところもあるんだけどね……」と、最後は「けど」で終わらせられてしまうのが、阿部なのだった。つまり同じだけトラブルも持ち込んでくるということである。
 そんな阿部だが、正体不明の世界に問答無用連れてこられるのは、やはり不本意で不愉快だった。阿部とて人並みの不安を持たないわけではないのだ。
 そしてじつを言うと、阿部がこんな目に遭うのは二度目だった。
 一度目の記憶は今から約一年前の八月三日に、強烈に胸の中に刻まれた。もう少しで一年が経つ。けれど忘れるにはまだ短い。何かで紛らすにしてもこの世の出来事では塗りつぶせないくらい衝撃的な出来事だった。
 時間の流れはこれほど遅々として進まないものなのかと、阿部は一人憤った。直情的な阿部にはややこしい感情を憤る意外に表現する方法がわからなかった。
 生き残った者が幸せかというと、それは嘘だ。残された者は、孤独と悲しみを背負ってこれからも生き続けなければならない。
 誰にも理解されない想いをどう受け止めればいいのか、それを教えてくれる者もいない。せいぜい死なないために生きる程度の日々を阿部は惰性で過ごしていた。何を見ても楽しいと思えず、活力は湧き起こらなかった。
 その阿部をふたたび闇に引きずり込んだこの世界。それは否が応でも過去の痛みを掘り起した。
 けれど大切なことがある。
 そういえば、と阿部は気がついた。あのときも傍にいたのはこの一匹のシェパード犬だった。
 互いに大切な人を失くしたばかりで、消え入りそうだった存在をこの世にとどめることができたのは間違いなく彼女のおかげだ。共通の痛みを抱える者同士、阿部と彼女はわかり合えた。人間と犬という存在を超えて、今では大切なパートナーだ。
 あのとき経験した修羅場の数々は、胸を張って語れる話ではないが、そのおかげで今の自分にはツカサがいる。これ以上の後ろ盾はない。いまさら失うものもないのだ、怖がる必要はないんだと阿部は煩悶の末に思い出した。広い肩を思い切りそらす。顔を上げて、阿部はあいかわず目の前で沈黙している木板に堂々と向かい合った。
 だいたい真っ暗闇に板一枚あるのが何なのか。それだけじゃないか。ちくしょう、ビビらせやがって、こんな板、俺の手で叩き壊してやる。
 本来の威勢の良さを取り戻したついでに喧嘩っ早さまで復活させた阿部は、握りしめた拳を振りあげた。
 古びた木の板切れが激しい音もろとも砕かれようとしたそのとき、予想外のことが起こった。金属が外れるようなガチャリという音とともに目の前にあった木の板が奥に引かれたのだ。
 阿部は思い切り前につんのめった。身体が飛び出し長身が大きく傾く。阿部の背中に黄色い光が流れ込んだ。それよって阿部の姿が見えてくる。阿部の格好は寝るときの薄いタンクトップにトランクスではなく、黒い革ジャケットにカーゴパンツ姿だった。
 前から差し込む光の幅は初めは細かったのが徐々に広がり最後は扉一枚分の大きな光になる。場を照らすその光の中から、誰かが一歩進み出てきた。呆然とする阿部とツカサの前を、黒い人影が覆う。



「おや……? 阿部くん、来てたのかい?」
 扉を開けた人物は意外な声で、背中をまるめて似たような体勢の二者を出迎えた。 柔らかい声音、線の細いシルエット、逆光ではっきりしないが見間違えるはずもなかった。
「あんた……」
 阿部はそれ以上のことばを失った。我を忘れて男の顔に見入っていた。二度と出会うこともないと思っていた男が、そこにいる。
 立ちすくみ、凍りついたように動かない阿部を、男は不思議そうに見つめた。どうしたんだいと聞かれるも、阿部は言葉を返せない。喋り方、身長、雰囲気。この人、こんな小さかったっけ、立ち上がるとますます華奢にみえる輪郭が、記憶の中の彼とダブる。
 一方で横にいた彼女の動きは速かった。風のように阿部の傍らをすり抜け、一目散に男の足元へ滑り込んでいた。
「なんだい、ツカサ。そこにいたのかい」
 ツカサは前にとがった鼻先を、かがんで受けとめようとしてくれた男の両手に擦りつけた。懸命であると同時にむせび泣きのような必死な声が、大きな口から洩れる。犬はそれ以上に感情を表すすべを持たないため、精一杯、持てる限りの力で男に何かを伝えようとしているように阿部には思えた。大きな身体で丸ごともたれかかってくる飼い犬に対して、男は一瞬驚いた顔をしたが、甘え下手の彼女がそうしてくるのはずいぶん珍しいことらしく、「しかたないなあ」と言いながら慣れた手つきでふかふかの頭や背中を撫でてゆく。
 その様子を見た阿部は、もしかしたら男が偽物か、誰か悪意をもった輩がたわむれに見せた幻ではないかという不安を、心の中で否定しはじめていた。自分以外の人間に決して懐かない彼女が、これほど夢中になるのだから、間違いないんじゃないだろうか。男はきっと、本物の彼なのだ。
 阿部は何か言い出そうとした。が、人であれば号泣せんばかりに出会いを喜んでいる彼女とその飼い主との時間を邪魔してしまうのは気が引けた。この利発なシェパードと彼は、自分と彼女以上に強い結びつきをもっていた。自分が入る余地はない、そんな気がした。
 間に入って懐かしみたい気持ちをぐっとこらえて、阿部は二人を見守った。

 まもなく感動の空気を破ったのは、熱気に満ちた不特定多数の歓声だった。
 にわかに気づかされた第三者の存在に阿部とツカサがはっとして顔を上げると、彼は「ああ」といって振り返り、阿部はつられて同じ方向に視線を伸ばした。
 そこは部屋になっていた。阿部がずっと見つめていた板――それは木でできた扉だったのだが――阿部が極小アパートに二人で住んでいたときよりもっと小さい六畳一間の洋室が彼の背後に広がっていた。
 えんじ色のカーペットが床に敷かれ、しかしそのほとんどは本やら書類やらで埋もれて見えない。壁一面には狭い部屋にもかかわらず、色とりどりの背表紙が敷き詰められ、地震でも起きたら即潰されそうな書物の数である。
 かろうじて人ひとりが通れるような隙間の奥を目でたどっていくと、下半分を本に埋もれさせている書斎机があった。端に卓上用のテレビが置かれ、今ではあまり見なくなったブラウン管タイプである。触角みたいなアンテナが上から二本生えて、側面は時代を感じさせるくすんだオレンジ色に塗られていた。
 積み上がった本の道を素早く抜けて、男はテレビのスイッチを切る。
「思い出して良かったよ、君が来てくれたおかげだね」
「お、おう……」
 よくわからないが、阿部は彼に合わせて返事をした。
「散らかってて驚いたかい?」
「いや……」
 苦笑いで彼は周囲を振りあおいだ。だが阿部はそんなことに呆気にとられていたのではない。彼がなぜ自分に驚かないのか、阿部は不思議でならなかった。散らかったこの部屋が彼の自室だというのは、状況から考えてなんとなく分かる。しかし阿部は彼の自宅に来たことはないし、場所も知らなかった。なのに彼はなぜそのことに少しの疑問も抱かないのだろう。それに……
 もう一つ気になることがあった。
「もしかしてあんた……目が見えるのか?」
 一年前、彼を誘導したときにそうしたように、阿部は色白の細面を凝視した。
「……ん?どういうことだい? 質問の意味がよく分からないけど――」
 かつて正対しようにも焦点が定まらなかった彼の双眼は、まっすぐ伸びる阿部の視線を今、しっかりと受け止めて言った。
「私の目はずっと見えているよ」
「マジ、かよ……」
 阿部は愕然とした。これは本当に、本物の彼か?瞬時にいやな想像が脳裏をよぎった。
 しかし彼の言葉を裏付けるように、どこか遠くを眺めるようだった物憂げな瞳には今は鋭気が満ちている。突拍子もない質問も今日や昨日受けたのではないと言いたげに、「おかしなことを聞くんだね」といいながらも微笑はくずさず、鼻先に乗っていたものを指で押し上げた。
 阿部に疑問を抱かせた理由の一端が、色のない透明な眼鏡のレンズにあった。それはおそらく執筆中にだけかける低い度の入ったものだ。
 彼はずり下がる眼鏡の位置をたった今直したばかりだったが、思い出したようにそれを片手で外し、シャツの胸ポケットにしまった。足元ではツカサが、まだ飼い主の膝にじゃれている。
「今日のツカサは、ほんとうに甘えん坊だね」
 激しく上下に振られるふさふさの尻尾を彼ははっきり視認して言い、そばを離れないツカサの背中を一なでしてから立ちあがった。
「そうだ、君に父さんとお姉ちゃんを紹介するよ。もう会ったかい?」
「い……いや、まだだけどよ……」
 じゃあこっちだよ、と横をすり抜ける彼を目で追って振り返った場所は、あの世界ではなくなっていた。あるのは暗い廊下で、たぶん下にいると思うからと突き当りの角を曲がって彼は階段を下りはじめる。阿部は慌ててその後ろに続いた。
 白い背中を見つめながら、確かめたいという気持ちがないではなかった。でも彼とふたたび出会えたという喜びがそれに勝った。
 自分の周りをつつむ世界の異常にもだんだん驚かくなっていた。もうこれは夢に間違いない。それなのに驚いたって仕方がなかった。
 大柄の阿部には下りるだけで肩がぶつかるような狭い階段で、それを下りると、少し広めの廊下に出た。左手が玄関、開いたのは右手のふすまだった。さっとツカサが滑り込んでいって、彼も後に続く。
「父さん、お姉ちゃん、いつも話してる阿部くんだよ」
 いつもって、何を話してるんだよ、と思ったところに阿部がさっき聞いたのと同じ歓声が聞こえてきた。部屋は彼の部屋と違って畳の敷かれた和室で、広さは同じくらいだと思うが、本がない分かなり広く感じた。奥にテレビ、中央にこげ茶の卓袱台があり、そこに腰を下ろしていた壮年の男性と長髪の女性とが同時に振り返る。
 一人は目元に彼の面影をのこしていて、彼より胸板は厚いが、たくましいと言うには何かが足らない体格である。肉体はというよりはインテリ派か。ほかに人もいないので、間違いなく男が彼の父親なのだろう。
「ああ、君が阿部くんかい。いつも脩が世話になっているらしいね、ありがとう」
 男は、わざわざ立ち上がって阿部に右手を差し出した。ぽかんと口を開けたまま、阿部もとりあえず右手を出し、握手をかわす。かと思えば、彼の父親はまたすぐ元の位置にもどって、テレビにかじりついてしまった。何なんだよ、このオッサン。
「ごめんなさい、野球が始まるといつもああなの、隆平さん」
 頭の中の言葉を読み取ったように女が言った。棒立ちの阿部に、女のほうは立ちあがらなかったが、それは作業の途中だったからだ。卓袱台に載せていた銀色のボウルの中には、親指大の緑色の房がいくつも入っていた。
 昔、同居していた女性も同じことをやっていた。夏になるとバイト先のスーパーで枝つきの豆をたくさん買い込んできて、丁寧に枝をとり外すのだ。彼と同じく二度と会えないと思っていた女性のことを思い出した阿部は、つぎの瞬間わが目を疑った。
「り、柳子……?おまえ、柳子じゃねぇか、何でこんな所にいんだよ……!」
「え?」
「柳子?」
 女と彼が同時に訊き返した。父親はちらっとこちらを見ただけで、すぐさまテレビに視線を戻す。
「この人は私のお姉ちゃんだよ。加奈江さんというんだ」
「はい。初めまして、阿部さん」
「いや……そんな……」
 そんなはずはない。人違いとはいうにも、他人の空似というレベルではなくて、双子ではないかというくらいにそっくりじゃないか。服を替えて、髪を縛ったらそっくりそのまま本人だ。同じ声で「さん」付けだなんて気持ち悪い、今にも「倉司」と呼んできそうなのに、女はわずかに困惑した表情で阿部を見上げている。
「ああ、クソッ」
 ひときわ高い歓声とアナウンサーの絶叫が三人の間に入った。相手バッターが右中間を抜く見事なセンター前ヒットを飛ばし、満塁だった走者が一斉にホームを目指しはじめている。
 これが決定打になる展開に男はくやしそうに舌打ちをした。
「駄目だよ脩、今日はもう負けだ」
 畳に背中を投げ出した父親に、彼もうなずく。
「ああ、本当だ。今日もダイエー駄目だね」
「は?なんだって?」
「ここのところ負け続きね」
 知り合いにそっくりな女まで、何言ってやがる。阿部は愕然とした。ダイエーって、一昔前の呼び名じゃねえか。
 現代の人間なら、福岡ダイエーホークスがソフトバンクホークスに名前が変わったことを知っている。ダイエーという呼称は、数年前に消失しているのだ。初めこそ聞きなれないからソフトバンクと聞くと違和感で、年配層はしばらくダイエーと呼んでいたが、2005年の現代では、だれも使うものはいない。
 でもここでその呼び名をおかしいと感じているのは、阿部一人だけだった。彼の父親も“お姉ちゃん”も、何事もなく会話を続けている。
「おい、ツカサ……」
 言いかけて、しかし犬の彼女に何がわかるだろうかと阿部は思った。盲導犬の役目を放棄した彼女は、彼の足元にまとわりついて、もはや猫のようになっている。
 お前はそれでいいのかよ。 許せるのかよ、この状況を。
 もしもこれが夢じゃなかったら、喜んだ先に待ち受けているのが絶望だとしたら、俺たちはまた裏切られるんじゃねえのか。
 急に阿部の立っている場所から下が、不安定な暗闇の底に突き抜けていくような気がした。彼が迎えに来るまで浮遊していたのと同じでそこには初めから何もなくて、もしかすると誰かの手のひらの上にいるだけなのではないのか。
 ――じゃなきゃ、あの人と会うだけならまだしも、死んだアイツにそっくりな女と、親父まで出てくる理由がないじゃねえか。顔も存在も知らない人間が、無意識であろうとも自分の脳内から生み出されるはずがないと阿部は思った。
 これが夢ならついていけない。恋人にそっくりな女も、彼らが夢中になっているダイエーも。
 そのとき阿部は、かじりつくようにして離れないパートナーの真意に気がついた。 彼女はわかっている。これが誰の見せた夢かもわからない記憶で、にぎやかで明るいはずの光景の周辺に、ぬぐいきれない不穏がただよい続けていることを。
 それでもこの一瞬、見られる夢ならかまわないと彼女は思っているのだ。かっと目頭が熱くなり、阿部は手の甲で眼前を覆った。
「どうしたんだい、阿部くん?」
「なんでもねェ、なんでもねェよ……」
 あふれてくるものが止まらない。幻想でさえ、まともなアンタと会うのは許されなねえのかよ。そこら中に散りばめられた矛盾の数々が、阿部を夢にひたることを許さなかった。
 突然泣き出した来客の様子に、彼と女は顔を見合わせた。何か悪いことを言ったのだろうか。視線で会話して先に目線をはずした女が思い立ったように阿部に向かった。
「そうだわ、今日は阿部さんに泊まっていってもらいましょう」
「……はえ?」
「そうだね、それがいいよ、阿部くん」
 思わず間の抜けた返事をしてしまった阿部だが、二人はもう決まったとばかりに笑顔になって、女はボウルを持って台所に消え、彼は「さあさあ、阿部くんもここに座って、のんびりしてくれ」と阿部の手を引いてその場に座らせた。

 五分もしないうちに茹でた豆のいい匂いがし始めて、ざるいっぱいの枝豆とうちわを持って彼の姉が帰ってきた。
「ビールあけようか、せっかく脩の友達が来てくれているんだからな」
「冷蔵庫に入ってるわ、脩、持ってきて」
「うん」
 夕飯の時間は過ぎているらしく、用意されたのはつまみと酒の二種類だった。それでもわざわざ遠くまで出向いてくれた友人(ということになっていた)を、彼らなりの精一杯でもてなそうとしてくれているのは阿部にも伝わった。栓を抜いたビール瓶をかたむけて、加奈江は三つのグラスに黄金色の炭酸をそそいた。
「乾杯!」
 四つの声が混じり合い、それぞれがそれぞれの持ったグラスに口をつける。加奈江だけは「みんな酔っちゃうと、あとで片付けのときに困るでしょ?」と、麦茶である。自分用に用意された食事を皿に顔を突っこんで食べているツカサは、このときばかりは食欲に身を任せているようだ。
「そうかあ、東京は昔すんでいたんだけど、今はだいぶ様変わりしているようだね」
「三十年も前じゃ、そりゃあそうだよ」
「こんな……と言ったらここの人に悪いかもしれないが、ここでは娯楽らしい娯楽がなくてね。どうしても手放せない趣味が野球なんだ」
「……そうなんスか」
「それでもいいところだろう。静かで、どこからともなく波の音が聞こえてきて。研究にも実が入る。 都会だと何かに追いまくられる感じがしてね。そのときは気づかなかったが、田舎に来てみるとその良さを再確認できるね。何より嬉しいのは、」
「食べ物が美味しいところ」
 父親の声に重ねて彼が同じセリフを言って、二人は同じ顔で笑った。
「阿部さん、もう一杯どうぞ」
「あ、ども」
 加奈江に入れてもらった冷たいビールを半分まで飲み干す。当初は疑心暗鬼だった阿部の心中だが、アルコールからくる心地よい浮遊感に、頑なな心はほどけはじめていた。
 なんかもう、いいか。これが誰の仕業でも、けっこう悪くねえ夢だ。
 柳子と二人でいるとき、ずっと続けばいいと思っていた幸せな生活に、今のこれは似ている。トサカのような髪型と横に入った剃りこみに、初対面の人物はかならず怯えてしまうのに、彼らはそんなことが一切なかった。でかい図体や粗暴な口調にもちっとも萎縮した素振りがなく、おおらかに接してくれる。それは現実でなかったとしても、阿部には嬉しいことだった。
 外見でどうであれ、俺は俺だ。中身を見ろよ。就職が決まらず、面接も見た目優先で落とされ続ける。そんな表面ばかり重視する奴らにムカついて、途中からは意地になった。お前らがその気なら、俺はずっと貫き通してやる。俺がビッグになったとき、ほえ面かくなよ!
 しかしその結果、困ったのは阿部のほうだった。同棲していた柳子には迷惑をかけ、しまいには自分のいない隙に生命を奪われるという最悪の事態まで招いた。粋がっていた若い時分に恨みを買った輩の報復ではないかと、胸がつぶれるほど後悔した。嫌悪していた世間の奴らは、他に理由を考えるでもなく犯人は自分だと決めつけ、見返すどころか、濡れ衣を着せられる。
 償いだというならそれでもいい。けれど真犯人は行方知れずだった。刑務所に行ったって、柳子を殺した人間は野放しのまま。転げるようにアパートを飛び出したときは、とにかく自分の無実を証明したいということだけを考えていた阿部は、彼女の友人という女性と行動するうちに何のためにそうするのかと、己自身に問いかけるようになっていた。
 この島に来た理由。自分の保身のためだけに命からがらのやり取りを繰り広げているのではない。そのことを彼との出会いの中で感じたのだった。



 壁掛け時計が時刻を告げる。短針は10の文字を指していた。
「そろそろ、時間だね」
 食べ終わった皿の片付けの後、出された漬物の小皿も空になり、空き瓶を外に置きに加奈江が部屋を出て行ったときだった。立ちあがった彼のほかに和室には、ツカサと阿部が残されていた。彼の父親はトイレに立っている。
 彼はおもむろに隅に置かれていた上着をとった。あの初対面の日、彼が着ていたものだった。いつの間にか彼の姿は、ラフなシャツとズボンからあの日とまったく同じ格好になっていた。
「お、おい、どこ行くんだよ」
 何も持たずに背を向けてふすまを開けようとする彼に、阿部も焦って腰を浮かせる。
「行くところがあるんだ」
 先ほどまで芯の抜けたようだった彼の声が、いつものはっきりした口調に戻っている。
 しかし時刻は夜の十時、今から出かけるなんてどこに。阿部はもう一度時計を確認した。そのときにはもう彼は玄関に向かっていて、阿部はあわてて和室を飛び出した。
「君は泊まっていってくれていいんだ」
「そんなバカな話あるかよ、アンタがいないのに俺だけがいてどうしろってんだ」
 気がつけば土間には自分と彼以外の靴がない。彼の父親と加奈江のものは、家の中から気配ごと消えていた。彼の足元にいるツカサが、阿部の言葉に同調するように飼い主のズボンの裾を咥えて引っぱる。
「ごめんよ、どうしても行かなきゃいけない場所があるんだ」
「だったら俺も行くからよ!」
 声を大きくした阿部に、大きな瞳がパチパチと瞬いた。
「アンタが行くところ、俺もついてきてえんだ」
 数瞬の間、鬼気迫る顔で言い寄る阿部の顔を見つめていた彼は、少ししてから「困った人だなあ」と言った。薄い唇の端はやわらかく上を向いていた。



 蒸した夏の熱気と匂いが、向かう先から波のように押し寄せては通り過ぎていく。
 外に一歩出たとき阿部は、踏みしめた地面が舗装もされていないことに驚いた。しかもあたりはほとんど真っ暗闇も同然で、外灯は五十メートルに一つあるかないかの間隔でしか設置されていなかった。たよりなく真下のみを照らすも灯火を時々見送りながら、阿部は前にずんずん歩いていく彼の後に続いた。
 駅に行くんだという彼に対して、こんな島に駅なんかあんのかよという疑問はのみこんだ。彼が言うならあるのだろう。
 あのときも島の全体を歩いて回ったわけではないし、どちらにしろ彼についていくしかできないのだから、あり得ないなどという疑問は無意味だ。ただ阿部は、彼の背中だけは見失わないように一定の距離を保って歩くことにした。こんなに近くにいて急に消えることもないとは思うが、忽然といなくなった彼の父親と姉を思えば、なんとなくその可能性を感じて離れがたかった。もしかすると今までのツカサはこんな気持ちだったのかもしれない。
 その彼女は今もぴったり飼い主の傍らに付き添っている。こうしてみると彼が目が見えなかったときのようだ。彼の背中を眺めながら、阿部が後ろを歩くということは一度もなかったのだけれど。
 しばらくは皆無言だった。辺りには砂利を踏む足音と、無数のカエルの鳴き声だけが響いた。道を中心に左右は広大な田園に埋め尽くされている。ゆえに夜にもかかわらず強い草いきれが香る。
 貧乏ながらも東京が地元であった阿部は、こうした田舎に縁がなかったので、彼を気にしつつも時折左右を見渡した。
「この辺、田んぼなんだな」
「そうだね、ここら辺は全部、農家さんの土地になっているから」
 阿部の視界のはるか先に、ぽつぽつと白い家明かりが見えた。真っ暗に近いとは言いながら、手前と奥とではわずかな色の濃淡に違いがあって、明りの周りだけは思い出したかのように色彩を取り戻していて、そこから離れるほどモノトーンの割合が高くなる。遠くの家々の背後を取り囲むような存在感に阿部が目をあげると、濃紺の空に漆黒に近い輪郭がうねっていた。それを見たとき、阿部はここが海より山のほうが近いことを知った。
「見えてきた」
 目的地を知らせる声にはっと前を向くと、前を行く彼の二十メートルほど先にこじんまりした建物が近づいていた。
 駅とは言うが、それは改札も駅員もいない無人駅だった。コンクリート製のホームに階段と屋根だけをくっつけたような外観で、トタンを裏返しにしたような駅名は錆びて読めさえしない。こんなのが駅っていえるのかよ。想像以上に荒廃した建物を少し離れたところから眺め、阿部は周りの風景と駅とを見比べていた。地平線とも言えそうな平らな地面ばかりの中に、そこだけが飛び出ているようで、なんとなく阿部には異様な光景に映る。
 ここまで両手で数えるしかなかった外灯が、なぜここには四本も立てられているのかも気になった。しかもそのどれもが眩しく発光して、本来の役目をきちんと果たしているのだ。道路のほうは手抜きか? 田舎なら徹底してここも真っ暗かと思ったのに、ボロい割にはコンクリートなど現代の匂いを残している建物に阿部は首を傾げる。
「そろそろ来るかもしれない」
 階段を上がっている途中で、彼がとつぜん走り出した。
「あっ、おい待てって」
 阿部は慌てて彼の後を追う。全部で十二段ある階段を跳ねるように三歩で駆けあがった。
 先に到着した彼は、明るいホームに立って暗がりの向こうを眺め渡し、電車のライトが見えないことを確認すると、安心したように姿勢を戻した。
「よかった、間に合ったね」
 振り向きざまに微笑みかけられて、阿部は眉間にしわを刻んだ状態で微妙な表情になった。これからどこに行くのか、これから自分はどうなるのかわからないのに、とっさに笑顔をつくれなかったのだ。どこへに行くにも彼とツカサと一緒ならという思いもあるが、電車に乗ってたどり着いた先が地獄でした、なんてことになりはしないかと、恐ろしい展開が頭をよぎる。
「私もできるだけ君と話していたかったからね。のんびりしてしまったのが仇になったよ」
 ほんの数メートル駆けただけで、彼の息はあがっていた。夏の暑さも手伝って、すぐに汗をかいてしまうのだ。けれどこの先の展開に不安をおぼえた阿部は、彼に気を回す余裕もなく、話半分で挙動不審な動きを繰り返していた。彼のいう電車が本当にここに来るのかを確かめたい、その一心だった。
 もしかしたら電車が何らかの理由で来なくなって、もう一度来た道をみんなで引き返すことにならないだろうか。彼が見た方向に目を凝らすも、それらしい明かりも汽笛も聞こえてこないので、阿部は淡い期待をいだきかけた。
「もう、まもなく来るよ」
 しかし宣告のように放たれた言葉で阿部の表情はこわばった。もう、まもなく。ふたたび暗闇の奥を見やる。だが近づいてくる気配はない。
 そのとき阿部は見てしまった。手前から続く線路が、明かりの届かないところからぷっつり途切れているのだ。全身を寒気がおそった。嘘だろ、なんだよ、これ。
 鉄製のレールまでが熱で溶かされたかのように切断されている。そこからはここに来るまで歩いてきた道路と変わらない茶色の地面だ。
「なあ、待ってくれよ……なにも、今日でなくてもいいだろ?」
 出ていこうとする彼を追いかけたとき、どこまでだってついていくと意を決していた阿部の今の心中にあるのは、取り残される、彼がいなくなってしまうという焦燥感だった。
 何を見たのかにわかにうろたえ始めた男に、彼は寂しげな表情で目を細める。
「今日でなくちゃ、駄目なんだ」
「なんでだよ、決めつけんのはよくねえよ……俺、アンタが好きなんだ。コイツだって、アンタがいないと悲しむだろ……? アンタが飼い主なのによ、いなくなるとか、あり得ねぇだろ」
「すまない。ツカサのことは頼むよ」
 この期に及んで彼はそんなことを言う。そんな言葉を聞きたいのではなかった。主の愁いを帯びた瞳に見つめられたシェパードは、こんなときに限っておとなしく、一声も吠えようとしない。おい馬鹿野郎、お前も鳴いて嫌がれよ、ここはそういうときなんだって。そう叫びたい阿部の身体も、しかし固まったように動かない。
 そのときだった。駅を揺るがすようなけたたましい音が辺り一面に響き渡った。
次の瞬間、ホームのライトよりも眩しい真っ白な光が、阿部とその周囲を染めあげる。網膜に強烈な光が焼き付き、残影にチカチカする瞳を阿部が何とかこじ開けたとき、それまで何もなかったホームには一台の車両が停止していた。
 木目で覆われた外面。薄いガラス窓から見える赤茶色の座席。それは電車というより古い映画に出てくる蒸気機関車の後続に続く、連結車両に似ていた。音を立ててスライドしたドアの前に、彼は後ろ向きで立って阿部とツカサを振り返る。
「君が元気でいてくれて、よかった。たしかめに来たんだ、ずっと落ち込んでいたら心配だから」
 落ち込むはずねえだろ。俺は三歩あるいたら忘れるトリ頭と、どんなところでも生きられるゴキブリ精神が取り柄なんだ。
 彼の瞳は水面を覗きこんだように濡れていた。悲しいのは置いて行かれる立場の自分や彼女のはずなのに、そんな顔をされるとこっちまで泣きたくなる。阿部はせめて彼を励ましてやることができたならと、いつもの軽口をたたこうとしたが、言葉は喉に詰まって出てこなかった。
「じゃあ、行くよ」
 他に乗り込む者や見送る者もなく、汽車は彼が乗ったのを見計らって、出発の汽笛を鳴らす。ゆっくりと扉が閉まる。
 待てよ、行くなって。無言で訴える阿部とツカサの二人を残して、回転式の動輪が少しずつ動きはじめる。車内に移動した彼は通路に立ち尽くして、座席には座らなかった。一時も視線を外すまいと、阿部とツカサのほうを向いてふたたび口を開く。
「私がいるところは、そんなに遠くではないんだ。そこからはいつも、君とツカサの姿が見える。何をしてるか、いつも見守っているんだ、だから」
 遠ざかる車両の後ろ姿が、彼の最後の表情をかき消した。
「三上さん!!」
 魔法が解けたかのように、阿部とツカサの二つの体が動いた。勢い余って硬いコンクリートに顔を打ち付けそうになる。それでも次の足を踏み出して不安定な体を膝で受けとめ、二人は柵のないホームの終わりに向かって走った。すでに車両は線路の途切れた部分を通過しようとしている。そこからどこへ行くのか。消えてしまうのか、見届けなければ。
 瞬間、木と鉄でできた大きな塊は、のけぞるように前方を浮かした。動輪が空を漕ぎ、車両が宙に浮きあがる。見えない線路が続いているのか、車内の明かりを後方に伸ばして、汽車は上へ、上へと昇っていく。
 小さくなっていく汽車を追いかけて、阿部はホームから飛び降りた。音もなくツカサも舞い降りる。外灯から遠ざかると連なる車両の窓の明かりがよく見えた。阿部は首が痛くなるほど大きく空を振り仰いだ。
 刹那、高々と汽笛が鳴った。そのとたん空は一気に明るくなって汽車を迎える準備をはじめた。自らの懐に飛び込もうとする車両を両手で抱きしめるように、濃紺が中心から薄くなり始める。それは快晴の夜空に散らばった星屑たちが、そこに向かって集まっているのだった。
 やさしい闇が押し寄せる波となって、満天のかがやきを中央に集める。果てしない上空の中心に、一筋の流れができていく。流れは徐々に大きく、太い本流となった。わざわざこの瞬間のために、山の向こうに隠れていた一番星も、ふだんは見えない三番星も、星というものはすべてかき集めてきたようだった。
 幾千幾万の川の流れの中に彼の乗る汽車が漕ぎ出した。周囲の星がいっそう輝きを増して、その中で汽車は静かに濃紺の海に溶けていく。
阿部はひときわ大きく目を見開いた。まだ見える、まだ……








 次に目を開けたとき、阿部の視界はふたたび暗闇に閉ざされていた。
 しかし誰に知らされるでもなく、阿部は戻ってきたのだと直感した。
 初めに目を閉じたときから何も変わっていない。ここはボロくて汚いアパートの一室だ。熱帯夜の蒸し暑い空気が仰向けの阿部と天井の間に横たわっている。
 ふいに息苦しさを感じて、阿部は窓でも開けようと体を起こした。立ちあがる前になんとなく顔に手をやる。
 そのとたん、びっしょりと濡れた感触が手の表面でぬるりと滑って、阿部は驚いた。傍でくしゃくしゃにまるまっていたタオルケットを、引っぱってきて顔をぬぐう。なんで泣いてんだ、俺。
 窓に向かう途中、隣で寝ていたツカサが目を覚ましてついてきた。揺れるカーテンを見て、阿部は寝る前にあらかじめ窓を開け放していたのだと思い出した。カーテンは遮光でも普通のカーテンでもないレースカーテンだ。買うのが面倒くさいから、前の住人が置き忘れていったものをそのまま使っていた。それをめくって窓枠に手をかけようして、阿部は向こう側にみえた夜空を見上げる。
「……なんか汚ねえ」
 彼と歩いたあぜ道の上の空は、こんなものではなかった。特に彼の乗った汽車が空に向かうときなんて、今まで一度も見たことがないくらいに綺麗だった。「きれい」という言葉を数えるほどしか使ったことのない自分がそう思うのだから、よっぽど美しかったのだ。
 都内でも年寄りばかりが暮らしている寂れた住宅街の明かりはすでにどこも消えているが、それでも都会は独特のほの白い光を家々の尾根から立ち上らせている。阿部が夢で見た繊細なきらめきは、くすんだ灰色にかき消されていた。
「あれって夢なんだよな」
 幻想的な光景は閉じた瞼の裏にまだありありと見えていた。
「お前も見たか?」
 はみでたタンクトップから覗く腹をさすりながら、阿部は似ても似つかない空を一緒に見つめる相棒に話しかけた。質問を受けた雌犬は一度阿部のほうに顔をかたむけたが、クゥンと小さく鳴いてまた空を見つめた。
「だよな」
 まるで普通に会話をするように阿部は話を続ける。
「俺だけじゃなく、お前もそこにいたっつーのがちゃっかりしてるよな。それよか、犬って夢見んの?俺知らなかったんだけど」
 しっけいなとばかりに低い声でツカサの鼻が鳴る。
「わりわり、でもさ、すごくねえ? 俺とお前、おんなじ夢見たんだよな」
 阿部は不機嫌になったシェパードの背中を、乱暴になでてご機嫌をとってやる。一年前に比べて彼女の感情表現は大分豊かになっていた。もうちょっと上のほうよ、と指図するように動く尻尾を見て、阿部は「はいはい」と、いつも彼女が喜ぶ首輪の周りを掻きはじめる。そのとき、室内に貼られた壁のカレンダーが目に入った。
「そういや、今日は七夕か」
 七夕って何?と言うようにツカサが頭をかしげた。
「どうせお前にはわかんねーよ」
 織姫と彦星が年に一度会うという伝説の話だ。でもそれより価値のある男と出会えたんだから、俺らはそれでいいじゃねえか。阿部は一人うなずいて、またツカサの首周りを掻いた。寝苦しいのは犬も一緒だったのか、そこは少し湿っていた。


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ツイッターでアベミカを布教されている某氏に捧ぐ。
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