ラプンツェル2 | ナノ


※痛い表現、エロあり




 辺りは硝煙の臭いに包まれ、男は地面に転がっていた。
 左腿から温かい液体が溢れていた。止めようと思って手で押さえつけても、同じペースで流れ出ていく。男の口から疑問と恨みを込めた呻きが漏れた。すがるしか能のない肉人形が反旗を翻したなど許されることではなかった。
 激痛に悶えながら首を持ち上げた男に、人形はガラスのような目で見下ろしていた。
 まるで別人のようだった。凍てついた湖より冷たい、無機物を見るような冷徹な瞳。さっきまで虫も殺せないような顔で泣いていたのに、そんな目ができる男だとは思わなかった。あんな物まで用意して……
 牧野に握られた黒い小型式拳銃は銃口まだ白煙を残していた。
 いったいどこでそんなものを。怒りがふつふつとこみあげてくる。
 俺をだましていたのか、他の男に手引きをさせてずっと俺を殺そうと企んでいたのか。
 視線を投げかける男に牧野は無言で懐に銃を仕舞い、吐き捨てるような一瞥をくれた。
 十八世紀末葉、銃といえば一発毎の装填が一般的であった。この男が仕事で使っていたのも、撃つたびに弾込めを要する猟銃だった。
 あんなものがこの田舎で用意できるはずがない。銃に詳しい男はそれがいかに珍しく貴重であり、一部の金持ちしか手に入れることのできないものであるかを知っていた。
 あれは撃つと同時にシリンダーが回転して最大五発まで連続して撃てるという恐ろしい代物だった。徐々に近づいてくる牧野の足音にさえ男は戦慄した。何とかそれだけは止めさせようと咄嗟に思案を巡らせた。
「な……なあ悪かった、悪かったよ。おまえをいじめすぎたのは認める、俺もどうかしていたんだ。おまえがあんまりイイ声で鳴くもんだからついやり過ぎちまって……でっ、でもよ、ここから出すって言ったのは本当なんだぜ。ちゃんと街のやつに伝えて迎えを準備しておくように言っておいたんだ。これがどういう意味か分かるか?」
 牧野は軽く首を傾げた。聞いてやるからさっさと言え、という仕草に見えた。
「だ、だからよ、俺が無事に戻らなかったらそいつが心配するってこった。おまえがどこに行きたかったかは知らねえが、この森は周りは山だし、麓に出るにはどう行ってもその街に出るようになってる。俺を待ってるやつらがお前を見たら、不審に思うだろうよ。それともう一つだ」
 男はこれこそが彼の行動を改めさせる決定的な台詞だと信じて疑わなかった。
「俺は領主様お抱えの猟師なんだ。 知ってるか? 最近じゃ毛皮にできる動物もあらかた狩り尽されちまって、俺みたいな専属のやつしかこの仕事はできねえ。俺がいなくなれば領主様は大事な大事な家来を失うことになる。領主様が敵になるんだぜ? それがどのくらい恐ろしいことか、後になって殺さなきゃよかったって、おまえは絶対後悔するだろうぜ。だから悪いことは言わねぇ、殺すのだけは止めて―――」
「関係ない」
 薄っぺらな言葉たちが一言で一蹴され、空回る男の唇は動きを止めた。 「関係ない。お前がどんな奴だろうと、何をしていようと、俺は俺の役目を果たすだけだ。 お前にされたことのすべてを、俺がこの手で断罪する」
「ちょ、ちょっと待て!」
 無情に懐に手を差し入れる牧野に男は手のひらを突き出した。腿を押さえていたために、その両方にべっとりと血が付いていた。
「頼む、この通りだ。どのみち俺はこの傷で動けねえ。そのうち死んじまうも知れねえ……だから最後の情けをかけてくれよ、頼む…頼む!」
 両手を地面に着いて男は頭を下げた。
 しかし同時に、男は牧野がためらうのを待っていた。
(ほんの一瞬でいい、一瞬の隙さえあれば……)
 舐めるような位置で目の前に置かれている牧野の足。体格で勝る男は、その足を引っ掴み、引きずり倒そうと機を窺っていた。
 銃を持っていると言っても牧野は牧野だ。馬乗りになって四肢を押さえつけてしまえば手も足も出まい。体格の差が力の差であり、押し倒してしまえば形成は逆転できる。 いくら布を巻きつけても隠しようがない小柄な背丈と薄い身体。同じ立場に立たせてしまえば、有利なのは間違いなく自分の方だ。男はそう確信した。
 命乞いが通じたのか、頭上から息をつく気配がした。
 その瞬間、男は牧野の足に飛びついた。
 牧野にしたら岩がぶつかってきたように感じただろう。一回りも大きな体躯の急襲を受けて、小柄なからだはシーツのように広がった布の上に倒れこんだ。男はその上に馬乗りになって勝利の笑みを浮かべた。驚愕と絶望に美貌を染め、まもなくすすり泣きを始めであろう牧野の貌が脳裏にはっきりと見えた。
 しかし実際に見たのは、視界を横切ろうとしている何かの残像だった。
 眼球の裏で火花が飛散し、鮮血が宙に放物線を描く。
 再び男は地に倒れ、一方で牧野は何食わぬ顔で立ち上がった。激痛にもがき苦しむ男を余所に土埃を落として乱れた身なりを整える。
 男のこめかみは流血で真っ赤に染まり、その中心は骨が陥没し、肉が抉れて不自然にへこんでいた。
 牧野が隠し持っていたのは、片側は押しつぶす円筒型、もう片側は突き刺すピックの形をした鉄槌であった。本来戦場で剣や斧と同様に使われるものであったが、牧野のそれは柄の部分を入れても40センチ程度までに小型化されたものだった。先端についた血を振って落とし、出っ張った男の腹に跨った牧野は切っ先を頬に押し当てた。
「どこから潰されたい。言え」
 軽く滑らせると男の頬に交差する傷がついた。もはや男に状況をひっくり返す余力も手段も残されていなかった。
「ふざ…けんな…!…っなの、ふざけるな……!聞いてねえよ、こんなの…っ」
 言ってから男ははっとした。はっとして口をつぐもうとしたが、すぐさま傷口に鉄槌の柄が抉り込み、醜い悲鳴がそれを遮った。
 気管からかすれた音を吐き出した男は言う、言うからやめてくれと懇願した。
「街じゃ…有名な話だっ……、領主が…この辺り、を、調べて来い…って、御触れを出して…っ、金儲けになるって……でも、そのうち誰も帰ってこなく…な、……だから、最近は腕の立つやつだけ、が……ま、まさか……」
 牧野は男が何かに気が付いた様子にも構わず、無表情で聞き流している。
「お、まえ、が……全部やったのか……なん、で、おまえ…だって、ヒィヒィよがってたじゃねぇか…!自分からしてくれって、いじめて欲しいってよぉ、だから俺は……いぎゃああぁっ」
 男の左手に鉄槌が貫通した。骨は砕け、潰れた肉が流れ出した血液と一緒になって鮮やかに光る。
「……や゛…め゙…、やめてくれぇっ」
 続けざまに右手にも同じ打撃を与え、牧野は不機嫌そうに言った。
「黙るな。お前は大人しく喘いでいればいいんだ。 景気よく叫べよ、好きなんだろう?叩くのが。 お前に叩かれた回数はちゃんと覚えてある。今からその回数分、じっくり叩いて、擦り潰してやるよ。 そうしたらお前みたいな下種も旨そうな肉の塊になるかもしれないな。手が終わったら次は足を潰してやる。その後はすねだ。それが終わったら次は耳……」
 一つずつ鉄の切っ先と共に場所を確認していく。手足から徐々に体幹に迫って顎に触れ、最後に眼球に突き付けられる。
「目玉は最後にしてやる。それまでゆっくり殴られる様を楽しみな。じゃあ、始めようか」
 陰々たる宣告に男の絶叫が重なった。



 男の告白が脳裏をよぎる。同時に一人の女の顔と、どこまで知っているという疑問が浮かんだ。
(あの男……いや、これまでの男のすべてが領主の差し金でここを訪れていた……)
 “片付け”を済ませた宮田は塀の中に戻り、ある場所へと向かっていた。
 男たちがことごとく殺されていることは差し向けた本人がよく知っているはずだ。それなのに未だ騎馬兵の一つも寄越さないというのは、ちっぽけな集落にそんなことをするのが面倒なだけか、初めから金持ちの道楽であったのか。
 八尾も八尾で、何を考えているのかさっぱり分からない。
 やって来た男をすぐに殺せというのでもなく、泳がせておいてしばらくしてから自分に殺させる。
 集落を守りたいというのなら、一切の情報が漏れる前に来た時点で殺しておくべきだ。しかし彼女はわざわざ塀の外に縄ばしごを下ろしておいて、彼らが塀の中に入るように仕向ける。そして教会の奥へと誘い、塔で待つあの人のもとへ……
 いずれにしても一度教会の判断を仰がなければならないことだった。
 全ての事象は教会の意のままにというのがこの集落の掟だ。表面的にその主は求導師ということになっている。
 しかし宮田が向かうのは求導師のもとではなかった。
 教会を実際に取り仕切っているのは求導師でなく求導女であった。八尾比沙子、彼女が教会の実権を握り、実質的な集落の最高指導者なのである。したがって今宮田が報告に向かっているのは彼女のもとであった。
 話し声が聞こえてきて、宮田は素早く建物の影に身を潜める。
 今はちょうど礼拝を終えた信徒たちが帰る時間だった。年老いた男や赤子を抱えた母親が暗がりの礼拝堂に向かって深々とお辞儀をし、その場を後にしていく。宮田は目深に被った新しい布をさらに鼻先まで引っ張って人の目を避けるように体勢を低くした。
 宮田は従順なる教会のしもべだった。
 幼い頃より母代りの女性にそう育てられてきた。宮田を育てたのもまた八尾であった。
 しかし八尾は砂糖菓子のような甘ったるい愛情を注いだ牧野とは違って、宮田には冷たく接した。
 例えるなら飴と鞭。もっとも愛情を欲しがっている時期に、それを知りながらあえてつれなくした。彼が悲しみに打ちひしがれているとお前を愛しているからだとうそぶき、汚らわしい仕事もお前になら任せられると言い含めて、大事に大事に突き放した。
 そうして育てられた宮田のからだは牧野とはまるで正反対であった。
 一見ひょろりとした体躯の隅々には血管の浮き上がるたくましい筋肉が備わっていた。宮田は集落で一番からだの大きい男を持ち上げることもできたし、誰よりも早く走ることもできた。またある時は獣のように草木に隠れて気配を消したり、殺気を感じ取って素早く相手の背後に回るという敏捷さも有していた。
 だから先の男が熊のような巨体であろうと宮田には恐るるに足りなかった。それらは皆、彼らを狩るために身に着けた術なのだ。
 人をあやめたのは七つの時だった。
 日頃、たとえ動植物であっても軽々しくいのちを奪ってはならないと信徒に語っていた彼女が、ある夜真っ白な布で身を隠して現れた。余所者を殺すのを手伝えと命じ、今日のような朝もやの中で幼い宮田に銃を持たせた。八尾を慈母と崇める彼らが聞いたら、卒倒するような出来事だ。
 しかし宮田は、これで自分の存在が許されるのだと逆に安堵を覚えていた。
「外の世界は悪意に満ちている。塀は民を守るための正義の壁であり、正義を蔑ろにする者は何人たりとも神の裁きを免れない」
 その裁きを自分が行っていることに宮田は優越感を覚えた。自分が神の代行者である、自分がいなければ集落は守られない。震えるような自尊心がからだに満ちてくるのを感じた。興奮して眠れなくなることさえあった。
 任務を遂行すれば八尾は褒めてくれ、愛していると抱きしめてくれる。彼女に依頼されるのは愛されている証拠なのだ。
 そう長い間思い込んでいた。



 頃合いを見計らって礼拝堂に入ると、そこはすっかり無人だった。
 鉄格子の嵌められた窓からはのどかな風景と晴れ渡る青空が覗き、ほの白い光が身廊とその上をアーチのように燦然と輝かせていた。
(求導女は―――上か?)
 祭壇に置かれた燭台の灯りは消されている。となると彼女は“清めの儀式”の最中か。
 祭壇の中央には天井に触れるか否かという高さに歪な紋章が掲げられている。見下されているように感じた宮田は不機嫌そうにそれを一瞥し、扉に手を掛けた。
 塔屋への階段扉は祭壇に隠されるように壁に埋め込まれていた。礼拝の際はその上に壁敷布が掛けられているので、信徒たちは扉の存在さえ知らない。
 鍵は余所者を招き入れる時と求導女が使う場合にのみ開くようになっていた。
 分厚い木板でできた扉は非常に重かったが、宮田が鉄製のリングに力を込めると地響きのような音と共に外枠が少しずつ引きずり出される。
 そこから現れた階段は人一人がやっと通れるくらいの狭さだった。窓も中を照らす明かりもなく、真っ暗な中を進んでいく。高さで言えば通常の三階建てに相当するらせん階段で、黴くさい臭いを嗅ぎながら、宮田はこの行動の矛盾に気が付いていた。
(あの女がここにいるか、確かめるだけだ)
 何をしているかはどうでもいい。ここにいることさえ分かればすぐに引き返そう。宮田は自分に言い聞かせて階段を上った。
「私にはあなただけ、本当に愛しているのはあなただけよ。だから絶対に裏切らないでね、お願い。そうしたらまた、私はあなたを愛してあげられるわ……」
 報告を終えると、彼女は今でも必ず宮田のからだを抱きしめて、こう囁いた。
 しかし齢を重ねた宮田の心はその言葉に安堵を覚えることも優越感に浸ることもなくなっていた。それがていのいい方便であることは既に明白だった。
(何が愛してるだ。あの女は俺のことなど、これっぽっちも愛してはいない。教義も、経典も、すべて自分に都合のいいようにでっち上げたデタラメだ)
 塔の上から悩ましい声が聞こえてきて誘われるように外に出たある日。宮田は自分と同じ顔の子どもがもう一人いることを知った。
 その子どもは自分よりずっと大切にされて、甘やかされて美しく健康的に育っていた。
 人の目に顔を晒すことを許されなかった宮田は、常に白い布で顔を隠し、その不気味さから集落の民からも忌み嫌われていた。それらは皆あの子どもを求導師として育て上げるためであって、自分は不要な片割れとして汚辱を押し付けられているだけだったのだ。
 宮田は激高し、その勢いのままに同じ顔の子どもを殺してやろうと考えた。
 だが塔への扉に手を掛けた時、彼もまた不自由を強いられた哀れな子どもであることを知った。
 彼は礼拝と重要な催事以外、あの塔に閉じ込められて生活しているのだった。甘やかされて育てられた代わりに、彼は無知であった。まるで人殺し以外何も知らない自分と同じように。
 自分にないものを求め、月を眺める彼の姿は、彼に憧れる自分の生き写し―――そこから宮田の心に奇妙な連帯感が生まれた。
 自分が余所者を殺す道具だとするなら、彼は余所者を誘い込む道具だ。甘い声と柔らかいからだを無自覚に使って、純潔を奪われ、男に暴かれ、それでも八尾を拒めない。宮田も八尾の異常さを分かっていながら命令に背けない。自分たちは一緒だ―――
 時折聞こえてくる彼の喘ぎ声を、宮田はなるべく近くで聞こうとした。窓のない塔の反対側に回っては、彼の息遣いまで感じ取ろうとした。
 冷たいレンガに背を押し付け、宮田はベッドで乱れる彼の痴態を想像しながら自らを慰めた。彼を思うままに抱く相手の男を心から憎み、翌日自分に殺されることを想像して嘲笑った。
 この扉を開けて何度彼を連れ出したいと思っただろう。
 宮田はかすかに甘い香が漂う古扉の前に立った。
 物音はしない。八尾が中にいるのではないのか?
 宮田は自分でも止められない想いのままにその扉を押し開けた。
(確かめるだけだ。だから少しだけ、少しだけ―――)



 古い扉はどれほど慎重に押し開けても、錆びついた蝶番から悲鳴をあげた。
 しかし牧野は音の方を振り返らなかった。この時間、ここに来る者は決まっていて、それ自体も聞きなれたものであるからだ。
「遅かったですね、今日は」
 ベッドに横たわったまま言った。
「ぶたれたところが痛いんです。背中も尻も太腿も……手加減なしなんですもの、すっかり腫れ上がってしまいました。 さっきもそこが擦れるのが痛くて痛くて……」
 礼拝に出るために、牧野はまだ赤々とする傷を放って、無理矢理にも法衣を着なければならなかった。立っている分、傷を下にして座るよりは良かったが、礼拝が終わって部屋に戻れば、神聖と言われる法衣もあっという間に脱ぎ捨てて牧野は全裸になった。
「申し訳ないのですが、今日はこのままでお願いできますか」
 どうせ脱ぐのだから先に裸になっていたって構うまい。そう思った牧野は、ひりつく傷口を少しでも刺激しないようにうつ伏せになって羽枕に顔をうずめた。
 太陽はようやく空の頂点まで昇ってきたところだった。
 人影は牧野の話に聞き入っているのか、黙ってベッドへ近づく。ベッドは入口からまっすぐ見える位置にあった。だが今は視界を遮るようにレースの天蓋が下りていた。
「最後は首まで絞められました。締まりがいいんですって、その方が」
 蓮っ葉な娼婦が客にあきれたときの口振りだった。
 求導師とて一人の人間だ。優しくされたときは自分も優しい気持ちになれるが、乱暴に思いを遂げられた日は、心も荒んで自棄になるのである。喉元のあざは朝に見たときよりもくっきりと指の形を現し、赤紫に変色していた。もしもシャツで隠れなかったら、きっと大騒ぎになっていただろうと牧野は思う。
「八尾さん?」
 不意に彼女が不自然なほど静かすぎることに気がついた。
 薬を用意したらすぐに始まるかと思ったのに、なぜ入ってこない。儀式を重んじる彼女がためらっているはずもなかろうに。
「しないんですか……?」
 分かっていながら牧野は聞いた。
 向かい合った人影は沈黙を守っている。まるで口を開けない理由があるようだ。
 まさか―――
 嫌な予感が全身を包んだ。
「八尾さん……じゃないの……」
 影はわずかに揺れた。
「やっ……!!」
 牧野が身を起こしかけると同時にレースが翻った。
 二つに割れたカーテンから細い腕が伸びてきた。昨晩の男じゃない。
 シルクで織り上げたカーテンに別の色が混じった。水に落とし込んだ墨が溶けあっていくように、牧野の目の前で白が踊る。
 衣擦れ、くぐもった声、それらがベッドの上でもみ合って、やがて静かになる。
 牧野の双眼に一人の男が映っていた。しかしその顔は、大きなフードが大部分を隠していた。
 鼻から上は影の中に溶け込んで、代りに小さくとがった顎が牧野を見下ろす。
 信者らには軽々しく触れることさえ許されない細腕が、今は頭上にまとめあげられ、本来ならば美し声を発する唇も厚い手のひらでふさがれていた。
「うーっ、ん、んぅっ」
 丸い宝石のような瞳が左右にせわしく動いて何かを訴える。それを察した指が力を緩め、空気の侵入口をつくる。
「せなかっ、痛いの、騒がないから、お願い」
 開口一番、牧野が細切れに現状を伝えると、男は意外にもあっさり腹の上から退いた。寝台の端から足をおろし、しかし牧野を逃がす気配はないようだ。
 牧野も抵抗する気はなかった。今しがた襲い掛かってきた男を前にしながらうつ伏せになって無防備な背中を晒す。
「宮田さん……ですよね?」
 そう尋ねると後ろで男が息をのむ気配がした。
 今更ではないかと牧野は思った。彼も私のことを知っていて、私も彼を知っているのは当然のことだ。
 宮田司郎、その怪しげな姿から集落では気味悪がられ、爪はじき者とされている男。皆に寵愛され、大切にされる求導師とは天と地ほどの対照的な存在。
「あなたが、どうしてここに?」
 ややしばらくの間があった。それからほとんど独白のようなつぶやきで、「求導女さま……会いに来たらいなくて……」と返事がかえってきた。
「ああそれで。せっかく来て下さったのに、留守で申し訳ありませんでしたね」
「いえ……」
「ここは私の私室なんです。訳あって皆さんには秘密にしていますけど、ばれてしまったら仕方ありませんものね。このことは私と宮田さんの秘密にしてくださいますか?」
「は、はい……」
 このようなとき、牧野は誰とでも気軽に話ができる方だった。なにぶん見ず知らずの男たちを安心させ、ベッドまで引き入れなければならないため、求導師として人々と話をすることは、結果的にそんなところにも役立っていた。
 一方で宮田は、言葉少なに牧野の質問に「はい」とか「いえ」と答えるだけだった。
 間近で聞く彼の声。彼の匂い。そしてたった今触れた、彼の肌。確かめるだけでいい、いるのが分かればいいと思っていた心は、鈴を転がすような美声にあっという間に囚われてしまった。
 いつも遠くで声をしかできなかったあの人がすぐそこにいる。まぶしいほどに美しい彼が見たい。触れてみたい。引き返すという思いはどこかへ消え、彼に近づきたいという、それだけだった。
「緊張していらっしゃるの?」
 落ち着かない様子の男に、牧野は振り向いた。
「そ、んなこと、は……」
「ふふ、いいのです。こうしてあなたとお話しするのは初めてですものね。遠くで一人でいらっしゃるから、いつか声をかけたいと思っていたのだけれど、こんなことでそれが叶うなんて」
「き――、求導師さまも、話したいと思っていてくださったのですか。こんな、俺みたいな、やつと……」
「もちろんですよ。だって宮田さんも大切な、この集落の一員ですから」
 宮田は万感の思いを大きく吸い込んだ。
 信じられない。今、言葉を交わしていることさえ夢のようなのに、彼は自分を知っていた。彼も話したいと思っていた。
 宮田の前には肉欲をそそる肢体が横たわっていたが、宮田はそれに目もくれなかった。痛々しい生傷を気遣うことも今は頭になかった。昨晩の残り香をただよわせる小さな部屋のベッドの上で、宮田は花に吸い寄せられた昆虫のように会話に没頭した。


 夢のようだった。彼が自分と話をしているということが。
 自分の言葉に彼が頷き、彼の言葉を自分だけが聞く―――独占といってもよかった。
 この部屋に信者が入ってきたことがあるだろうか。普段彼に多くの相談を持ち掛け、二人きりの時間を過ごしている奴等でさえ、この部屋に来ることはできない。
 彼は信者にも許さない、すべてをさらけ出して話を続けているのだ。その彼を前に、淫靡などという発想は限りなく低俗な、下賤の人間の感覚に成り果てた。宮田が牧野に対して抱いていた思いは、神の生まれ変わりとしてこの世に舞い降りた存在に、畏れ多くも深い感動と親愛の情をもってひれ伏す愛弟子のような感覚である。
 彼のためなら村を捨てて命を投げ出すことさえ惜しくなかった。
 望むなら今すぐにも連れ出して、二人で逃げよう。そう思って宮田は言った。四方山話をあきるほど続けて、とうとう切り出した言葉だった。
「俺は、あなたをお慕いして、いる……」
「ええ、ありがとうございます」
「あなたの、力になりたい、んです」
「もう十分、あなたのお力添えをいただいていますよ」
 胸のあたりからこみあげてくる想いをうまく吐き出ずにいる宮田を、牧野は微笑を崩さずに見守っていた。
「だから……言って、くれませんか」
「……?何をです?」
「ここから、出たい、と」
 ほどけかけていた糸が、端を引く手によって張りつめたようだった。緊張を湛える神妙な空気が四方隅々へと行き渡る。
「何を……言っているのです」
「あなたが出たいと……ここから出たいと思っていることを、知って、います。その傷も、昨日の男にされたもの……」
 腫れ上がった背中を指差され、牧野は顔色を変えて、素早くシーツを手繰り寄せた。
「そんなひどいこと……俺は、許せない」
「違う……違いますこれは……」
「かばわなくて、いい……あの男は最低な奴だった。殺されて、当然」
「ころ、された……?」
 牧野の紅色の頬が彩を失っていく。
「『神聖なる塀を穢し、集落に危害を加えようとする者は、何人たりとも神の裁きをまぬがれること許されず、みなことごとく天罰のもとに断罪されるであろう』―――あなたのいう託宣、その通りだ」
 人の命が奪われるということを軽々しく口にした男は、それすら少し誇らしそうに言った。大きく見開かれた二つのまなこが、男を驚愕の目で見つめている。
 自分に愛を誓った男、必ず助けると約束してくれた男、この体に耽溺し、乱暴を働いた男、彼らが戻らない理由はこの男にあった……
 無意識に起き上がった牧野は、ベッドに腰掛ける宮田と向き合っていた。
(気づいていなかったなんて……そんなことが言える立場ではない……)
 牧野は、宮田の言った言葉の意味を、もっと深いところで考えていた。
 その可能性を、今まで一度も考えなかったわけではなかった。自分も、どこかで理解していた。
 男たちが戻らないだけでなく、次に来る男が何の事情も知らないというのは、どう考えてもおかしな事実だった。
 徹底した緘口令か、男たちの処遇を左右できる何かか、それがどこでとられているのか。八尾の元か、ほかの第三者か。八尾が話をはぐらかすたびに牧野はいつも考えていた。
 そのことを思いついてしまったのも、彼女が出て行ったある日のことだった。
 仮定であっても恐ろしすぎる内容に、牧野は想像すらためらった。
 私は何も気づかなかった。何も知らないで外の世界を夢見ていただけ、そのこと自体には罪はないはず、そうして自ら忘れようとさえした。
 だが忘れられるわけがない。
 そんな残酷がもし行われていたら……いや行われているとはっきり分からなくてもいい、その可能性を証明する証拠となるものがもしも出てきてしまったら、自分は二度と信者たちの前に出ることもできなくなるだろう。集落を出たいというただの無邪気な願いが人を殺させる。外であろうとなかろうと、人の命を自分が奪うのだ。善意を向けてきた相手の心臓に、ナイフを突き刺すようにして―――
 ありえない想像にうなされるとき、夢枕に浮かび上がるのはいつも男たちを殺す自分の姿だった。だが宮田があの言葉を言った瞬間、牧野の目には、その場に立ち会ったかのような鮮烈な絵が瞼の裏に焼き付いたのだった。
 牧野はすり寄り、宮田の胸にすがった。
「やめて……言わないで……」
 罪の意識が牧野の身体を焼き尽くしていた。こんな身体で御主の待つぱらいぞうには向かえない。私は罪人が堕ちる地の底へ向かわなければならない……
「嘘だって言って……そんなの嘘だったって……」
「嘘じゃない。俺は、あなたを助けたいんだ。こんな集落が嫌なのは一緒……だから逃げよう、二人で…」
「いやっ!」
 そっと置かれた牧野の手に自らのそれを重ねようとした瞬間、牧野は立ち上がってベッドから抜け出した。
「嘘って言って……」
「嘘じゃ……あなたを想う気持ちに嘘はない!」
 信じてくれ、と宮田は逃げようとする牧野の腕をつかみ、顔を覗き込んだ。
 しかし牧野は、「いや、いや」と拒絶を繰り返し、うつむいて宮田の方を見ようとはしない。
 あなたは多くの犠牲に孕まれた落とし子だった。だから今、その不自由から解き放たれるべきなんだ―――懇願のように告げる宮田の説得も、我を失いかけている牧野の心には響かない。遠い残響にもなり得ず、雑音としか聞こえない。
 やがて何が牧野にその方法を気づかせたのか、彼は急に静かになった。
 かんしゃくの振る舞いを止めた牧野に宮田は怪訝な表情をする。物静かさを取り戻したように見える牧野は、その手で宮田の腕を引っ張って、再びベッドへと引き連れた。
 何も分からないまでも牧野に従うことを徹底して染み込まされている身体は、彼に導かれるまま再度そこへ腰をおろす。そして牧野は言った。
「私を抱いてください」
 求導師の牧野が、神々しさを少しも失わずにそう言ったのだった。
「抱いて、お願い」
 驚きに開かれる宮田の口が軽く塞がれ、唇を離した牧野はまた言った。
「な……何をおっしゃるのですか…!」
「宮田さんの好きにしていいの。この身体ぜんぶ、あなたの好きにしてちょうだい」
 わずかでも仕方のない素振りがあればこそ無理強いという事実が成立するが、牧野は心からそれを望んでいるように布の合わせ目から手を差し入れ、つぎはぎだらけの服の上からある場所をなぞった。
 ひくっと肩が跳ねる。牧野という存在に人一倍敏感に働こうとする宮田の身体は、妖艶な表情でしなだれかかる彼の仕草に、否応なく反応を始めていた。



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