※一部オリキャラ要素あり 水の音が聞こえる。川のせせらぎのように柔らかく、音を何かで丸く包んだような耳になじむ心地よさがある……。 音がだんだんと近づいてくる。 この音は雨……?雨が視界を遮っているのだろうか。 牧野は頭上を仰ぎ見た。 明滅する赤い光。足元を横切る白線。見覚えがある。ここは上粗戸の、中央交差点。 からだが勝手に動いた。信号機の灯りを背に視界が振り返る。 『これでいい……』 声がした。それは自分の喉から発せられたようにごく近くから聞こえた。 『やることはやった……。あとは俺のすべきことを……』 声には重々しい響きの中に不思議な充足感が漲っていた。 牧野は直感した。これは自分が誰かの目を借りて見ている光景だと。 しかし今見ている視点が誰のものかということより、牧野はもっと切迫した思いに駆られていた。 何か大事なことを忘れている気がする。 それは何だ? 思い出さなければならないことのような気がした。 だが分からない。 分からないまま、それがとてつもなく大事であったことだけがはっきりしてくる。 (どうして思い出せないんだ……。絶対に忘れてはならないと、あれほど決意したことだったのに……) 牧野はしかめ面をつくったつもりだった。が、牧野の顔は第三者はおろか自分でも確認できなかった。触ったり、動いたり、そういうことができない空間なのだ。ただひたすら誰かの視界を盗み見るだけ。 そこに突然手が映った。アスファルトに投げ出された剥き出しの腕も一緒に見えた。 人の手にしては随分白かった。向きはちょうど甲を下にして手のひらがひっくり返ったところ――― それが誰の一部であるか牧野が考えようとした時、牧野の身体は軽い電流を受けたようになった。 (なんだ―――!?) 牧野のものでない身体は、牧野が驚いたにも関わらず淡々と次の事象を映していた。 もう一つの手。そちらは血の通った人らしい色をしていた。 黒い袖を添えたその手がひっくり返っている方の手に重なる。 その瞬間、激しい衝撃が牧野を襲った。 ありもしない左手に誰かが触れていると思った。手のひらの一点に温もりが生じ、そこからじわじわと範囲が広がっている。まるで暗闇に明かりが灯ったかのような感じだ。 それとこめかみを締め付ける痛みだった。 不思議と優しい手の温もりとは反対に、金具で締めあげられているとでもいうのか、割れんばかりの頭痛に牧野は苦悶した。 しかしもう少しで何かが思い出せそうだと牧野は思った。 それは何だ。 いったい何を忘れているというんだ。 目の前を白いものが横切った。 白衣だった。白衣の上を滑りながら視点が左へ移動している。 声が言った。 『なぜこうしているのか分からない。けれど俺は……こうしなきゃいけないような気がするんだ』 そしてもう一方の手がゆっくりと差し出され、何かの上に載せられる。 触れられた、と自覚するのとさらに強烈な頭痛がやって来たのは同時だった。 牧野は暗闇の中で呻き、よろめいた。頭の中に杭が打ち込まれたようだった。 弱まる牧野の意識と呼応するように視界にノイズが走り始める。灰色の砂嵐が壊れたテレビのように、次第に視力が奪われていく。時が終わりを告げているのだ。 ……でも分からない。唐突に訪れた不可思議な体験が、自分に何を思い出せようとしていたのかが。 意識は半分以上痛みに囚われた状態で、牧野は目を開いているより閉じている方が、まだしも耐えられるような気がして、それがこの場から離れるのを早めることだと分かっていながら、自分から目を閉じようとしていた。 その時、薄れかかった画面の向こうにあるものが映った。 まるで両目を塞ぐように置かれていた指先が離れて、生白い手の人物の正体が明かされる。 だらりと垂れさがった前髪と、その隙間から伝い落ちる赤い筋。 (うっ―――!!) 突然獣のような咆哮が聞こえてきた。 留まるも離れるもない、それまで牧野が痛みと戦いながら立っていた場所から、猛烈な勢いが牧野のからだを引き離す。流れは後ろに向かってからだを引っ張り、遅れた手足が魚の尾ひれのように目の前でひらひら揺れた。 自分の視界のように思えた光景はあっという間に見えなくなり、暗転した世界にやがて牧野の意識も溶けていった。 あの時、暗い森の中で目を覚ました時に牧野は夢の内容を思い出せなかった。 覚醒したものの、牧野のからだは泥の沼から抜け出したばかりのように重く、意識は何かを引きずって今までいた夢の世界への未練を残していた。 それを思い出そうとしても、記憶のキャンバスはクレヨンで塗りつぶしたように真っ黒だった。 初めに思い出させてくれたものは何だったろうか? 踏みしめた地面の硬さ。息を吸い込んだ時の濃密な土と草木の臭い。耳元で騒ぎ立てるノイズのようなざあざあという雨の音だろうか。 起き上がってすぐ目に留まったのは地面に開いた穴だった。何かを掘り起こした跡を示すくぼみに自然と足が引き寄せられた。 <あの男はあなたに成り代わって―――> 悲痛な表情で自分に訴えかける男の姿が目に入った。 <ためらいもなく人を―――> それは村役場で働く東という男だった。 <俺は知っているんです、平然と人間と同じような振りをしている奴らが、ある時化け物にかわることを…!あいつらは人間じゃない、血を流して……あれは、化け物だ> その意味が今なら分かる―――彼はこのことを警告していた。 自分がなぜ折臥ノ森で目を覚ましたか、牧野は思い出した。 儀式を止めさせようとしたのだ。村を異界へ陥れるきっかけを作るまいと、八尾に真相を打ち明け、神代の屋敷にも出向いて説得を試みた。 その結果が今だ。 (私はばかだ……) なぜ初めに八尾に話してしまったのだろう。 彼女が変わりない笑顔を向けてきたから、自分の記憶より彼女を方を信じてしまうなんて…… 自分でも信じられなかった。 思い出せば出すほど、よみがえるのは彼女が神代亜矢子を手に掛けた瞬間だった。 手品のトリックのように何もない所から炎があがり、まるで油をしみこませていたかのように亜矢子のからだはあっという間に燃え上がった。 熱風で巻き上がる黒髪と、皮膚が焼けただれていく激痛に泣き叫ぶ声。 刺激臭に口元を覆うのも忘れるほど凄惨な光景だった。 暴れていた彼女はやがて動かなくなり、炭化した木偶のような死体が転がった。 おぞましさに吐き気をもよおした牧野は、せり上がってきたものをその場で吐いた。 (それなのに私は―――……この目で見た真実より、自分が信じたいと思う方を選んでしまった) 何も分からず、流されるままだった時と同じ。 道化と知りながら何にも抗えず死んだのだ。もう二度も。 だからまた繰り返しているのかもしれないと牧野は思った。二度三度と、お前の罪を忘れないように、これは神が与えた罰なのかもしれない。 (……神なんて、) 節くれた胴体をくねらせる“神”を思い出して牧野は自嘲した。 座り込んだ穴の横には、掻き出された土が小さな山を作っていた。手を伸ばすとそれは思いのほか柔らかく、あっけなく崩れた。 自分にとって八尾比沙子はいつまでもやさしい母のような存在だった。 あの人が人を殺して微笑んでいられるような悪魔であるはずがなかった。身寄りのない子どもを見捨てておけなくて、自分から母代りとなることを申し出、今日まで母として、求導女として支えてくれたかけがえのない人だった――― けれど今思えば、その記憶さえ不確かな情報に上塗りした自分の思い込みだったような気がする。 誰がそれを確かめた? 自分は、そう信じていただけだ。 優しい彼女と過ごしてきた時間が長すぎた。 その彼女になら分かってもらえるのではないかと、いや、分かってもらえなければ、信じてきた自分が打ちのめされることを予感していた。 彼女の本性が優しい母のような善人でなければ、安穏と暮らしてきた日々まで崩れ去ってしまう、そんな気がしていたのだ。 意を決して牧野が真実を話した時、八尾は怪訝な顔をしながらも「どうしたの慶さん。疲れているの?」と気遣いをみせた。 初めから何の証拠も提示できない非現実的な話だ。信じてもらえないのも仕方がない、落胆する一方でどこか「彼女はやはり優しい人だった」と安堵する自分がいた。 その後、神代家に出向いて同じ説明をしたが、結果は八尾の時と同じで、こうなったら実際の行動に移すしかないと思った。そして――― 当日の朝、御神体を安置する社の鍵を取りに、八尾の引き出しを開けたところで最後の記憶が途切れている。 そうしたのはおそらく彼女だ。自分が儀式を妨害しようとしているのを悟って、それをできないようにした。どんな方法を使ったのかまでは分からないが…… (―――ならば儀式は?) 牧野ははっとした。 あれは誰が執り行ったのだ。 自分が飾り物であることは分かっている。それでも要となる求導師がいなければ神代の面々が黙っていないだろう。 (そもそも成功したんだろうか) 二度の輪廻を経て、意識を失い、そして目を覚ますという点では異界に迷い込んだ時と状況は酷似していた。しかし牧野がここで目を覚ますのは過去の経験になく、薄暗い視界に頼る森の中でいくら目を凝らせど、ここが異界か現世かという違いは分からなかった。 (確かめなければ) 牧野は不意に立ち上がった。 (山を下りよう、そうすればすぐに分かるはずだ) → back |