TRIANGULAR AFFAIR3 | ナノ


弱っている宮田さん




 一陣の風が吹き抜けたのは先か後か。
 女子社員のきゃああっという悲鳴が聞こえたかと思うと、ザーッという轟音が響き渡った。突然の豪雨である。
 局地的集中豪雨というのが年々勢力を増しつつある。これもその一種だろう垂直にたたきつける滴の苛烈さは滝のようであった。夜景も人々の声もかき消され、椅子やテーブルは瞬く間に水浸しになった。テラスにいた大勢の人たちも、前触れのない大雨にびしょ濡れになりながら、荷物やグラスを持って一目散にデッキへ駆け込む。幸いウッドデッキは張り出した屋根に守られていたので、牧野たちは次々に通り過ぎる彼らを目を丸くして見つめていた。
「驚きましたね」
 牧田が言った。彼の声もまた雨音にかき消されて牧野の耳には届かなかった。だがこの場で思うことは皆同じだった。
 避難する客と入れ違いで一人の女性スタッフがテラスへ出ていった。何かと思って目で追うと、外に出したアンプなどにシートを被せている。皿やその他は後で回収すればいいが、漏電や故障は取り返しがつかないからそうしているのだろう。まもなく彼女は戻ってきて、ホールの同じ格好の女性らと混じった。今やレストランホールは席を取ったり拭くものを求めたりする客でイモ洗い状態である。
「こりゃ大変だな」
 他人事のように言ったのは宮田だ。牧田に比べて少しだけ近い距離の声は牧野にもかろうじて聞き取れた。
「調子に乗ってど真ん中に座ってるからだな。開放感とかいって、空に全く注目してなかったことがこれで証明されたってわけだ」
 宮田はせせら笑う。
「そんな、他人事(ひとごと)みたいに言うなよ。俺らだって一歩間違えばあそこにいたかもしれないだろ?」
 たしなめる牧野に宮田は「他人事だって」と即答した。
「むしろいい気味って感じだな。兄さんを無理やり連れ出した女どもがズブ濡れになって、テンションだだ下がりでさ。人の望まないことをするから、大方報いを受けたんだろうよ」
「そこまで言うなよ……」
 今の口ぶりだとまるでこうなる機会を狙って待っていたかのようだ。連れてきた弟がそんなことをずっと考えていたなんて、何だか彼女たちに申し訳ない。
 可哀想に大雨にうたれた彼女たち四人は、大勢の客の波にもまれながら相席も余儀なくされていた。首から白いタオルを下げ、すっかり飲む気をなくしている。濡れたままでいるのも嫌だし、もう帰ろうかなどと相談している姿が見てとれた。一方、宮田は暢気にジョッキを傾けている。通り雨だろうが勢いはまだ弱まらない。
「……なあ、俺らももう出ない?」
 宮田は目を見開いて、言い出した牧野に尋ねた。
「なんでだよ、俺らは出ていく必要ないだろ」
 それどころか今からがうまい酒になるのに、宮田の言わんとすることを察した牧野は苦い顔をした。
「でも……ここにいてもスタッフの人だって向こうで手いっぱいみたいだし、お酒も注ぎに行けないよ」
「まぁ、それは確かに」
 三人のジョッキはもう残り少ない。
 その時、テーブルの上で軽く組んでいた牧野の手がたたかれた。会話に参加できない牧田が何の話です?と目で訴えていた。先の牧野と同じく牧田には今のやり取りが聞こえなかったようだ。牧野はテーブルへ身を乗り出して、口に手を当てて言った。
「牧田さんはもう少しいたいですか?」
「え、本当に出るのかよ」
 横で宮田が声をあげる。牧田は軽く首を振った。そのあと縦に動いた唇は、たぶん「出ましょう」と言ったのだろう。
「だって飲みなおすにしてもここじゃせわしないだろ?」
 屋根で守られているといっても、外側に座る牧野と宮田の背中は跳ね返りが飛んでくる。不服そうな宮田を置いて荷物を持って立ち上がれば、そういえば腿の上にあった手がないことに気が付いた。
 先ほどまで散々はしたない行為に及んでいた宮田の手は、本人の膝の上で大人しくしている。さすがに人通りを気にしてひっこめたのだろう。
 そうか。これは彼女らへの報復ではなく、自分への救いの雨だったのだ。弟が急に帰るのを嫌がったのは、もしかして続きをしたかったからで……現実にならなくて本当に良かったと牧野は胸をなでおろした。

 他にも豪雨をきっかけに引き上げを決めた客は少なくなかった。
 彼らは皆同様の一途をたどる。レジに向かい、精算を済ませた後トイレに行くか、エレベーターに向かうか。エレベーターホールは次のエレベーターを待つ客の人だかりができ、牧田はそこから少し離れたところで人を待っていた。
「すみません、ちょっと仕事の話になってしまって」
 人の波をかき分けて、牧野が戻ってきた。今まで部下の女子社員らに声をかけに行っていたのだ。上司の務めだからと気を付けて帰るよう一言伝えるために。
「よかったんですか?もう少しお話していなくて……」
「ええ、ただの確認です。来週の月曜は課長がまるまるいないんで、私が一日課長代理を」
「課長ですか」
 牧田が聞き返す。
「あ、いえ、あくまでも代理です。他に人がいませんから……正社は、課長を抜くとあと私だけですからね」
 慣れない肩書きに参ったように頭を掻き、そういえば、と牧野はあたりを見回した。
「あれ……司郎、いや、弟ってどこか行きましたか?」
 首を左右に動かすも、近くに宮田の姿は見つからない。
 牧田はああ、と頷いてレストランの背後へ続く列をぐるりと指で示した。
「ここは混んでるからって、先ほど下の階に行かれました」
 生理現象の話である。
「まったく、だから途中で行けばよかったのに」
 牧野が思い当たるのは、自分が“ちょっかい”を出されていた時のことだった。
 あの時、宮田は牧田に右手を意識させないように意図的に左手も動かしていたようにみえた。すなわちジョッキを持っていた方の手だ。それはちょうど牧野が四杯目を飲み切るかどうかというところで、その前に宮田は自分より先にお代わりを頼んでいたから、淡々とあおっていたのは五杯目ということになる。
 用を足す暇も惜しんでセクハラに励んで、そのせいでトイレに行きそびれた。今になって行きたくなるのも当然のことだ。ちなみに中ジョッキで五杯は350mlの缶ビール7本分に相当する。
 フロアガイドにはここ30階とその下の29階に手洗い場のマークがついていた。しかしこの列の混み具合から察するに、階下も無人というわけにはいかないだろう。はたして同じ有様になっていなければいいが。牧野が牧田と壁を見つめているとメールが入った。
『29階も空いてねぇ!4階まで降りるから先に降りといて』
「………ですって」
 文面を見せてもらった牧田は右手で口元を押さえて笑いをこらえながら言った。
「宮田さんも災難ですね」
「ぜんぜん。 ただの自業自得ですよ」
 牧野からすればその程度では安すぎだ。痴漢行為に加えてプライドまで傷つけられたのだから、それらを鑑みるとまだ重い罰が必要であった。先ほど宮田に言い過ぎだの他人事だの言っていた自分はどこへ行ったのか、いや、豪雨で牧野自身もごまかされていただけで、しかるべき安全が確保され、弟に小さな不幸が訪れたおかげで、羞恥心と怒りを思い出したのである。
「本人もこう言ってますし、先に降りちゃいましょうか」
 そろそろ閉まりそうなエレベーターに二人は乗り込み、定員ぎりぎりのガラスの箱は滑らかに下降を始めた。



 胃から何かがせり上がってくる。宮田はまた抱え込んだ便器にうつむいて酸臭のする液体を吐いた。頭が割れるように痛み、こめかみの内側で誰かが銅鑼を鳴らしている。
 真っ白なタイルの床に座り込んだ宮田の姿が映っていた。床も便器も新築のように磨かれて清掃業者の完璧な仕事ぶりがうかがえる。だが宮田にはどうでもよいことだった。今はただ耐えるのみ。こみ上げる嘔吐感から何度も気を遠くしながらもそれに懸命に耐える。
(うそだろ、ちょっと飲んだくらいでこんな……)
 自分でも信じられなかった。ビールを飲んで悪酔いなんて、酒を飲み始めてから一度もなったことがなかった。牧野たちとは別のエレベーターで4階まで降りて、そこから大分離れたトイレに向かっている最中に突然気分が悪くなったのだ。最後はほぼ駆け足だった。よろめくつま先で何度もつまずきそうになりながら、宮田はトイレに駆け込んだ。
(くそっ、もう出ねぇ……)
 今ので口から出るものも打ち止めだった。それなのに吐き気は治まろうとしない。何も出ないのに何かが胃や食道を荒らしている。それは地獄の苦しみだった。
 飲みすぎという単語が宮田の脳裏に浮かぶ。いや、でも、ビールだけで? そう否定したくなるが、考えられる原因はそれしかない。
 幸運にもトイレは無人だった。アンバーに塗られた個室の一番奥。そこにもし誰かが来たら便器を抱える恥ずかしい姿をさらけ出すことになる。脳内をほぼ苦痛で埋め尽くされながらも、わずかな羞恥心が残っていた。個室のドアは閉まっているが、カギは掛かっていない。掛ける暇がなかったのだ。
 力を振り絞って宮田はポケットからスマホを取り出した。せめてそれだけ。たどたどしい親指が新たなメールを送信する。
 一方こちらは一階の非常階段前。遠目でエレベーターホールが見える場所である。
 扉のない通路口を挟むように牧野が左側に立ち、右側に牧田が立って、二人は宮田を待っていた。
 エレベーターを出てすぐの時点で、牧野は牧田に先に帰るよう薦めたのだが、自動ドア越しに見た外の様子に変化がなかったので、彼はその場に留まると言った。そうして酒のない世間話が再開された。
「牧田さんはお酒に強いんですね」
「特別そういうわけでもないんですが……そう見えますか?」
「ええ、とっても」
 牧野の視線が牧田の足元から上へスライドする。
 片足を後ろに回して真っ直ぐ立った牧田は、飲んだ後というのが嘘のようだった。緩んだネクタイは既に元に戻り、袖のボタンも忘れずに留められている。服装を整えると経理部の扉をくぐった時とまったく同じと言えるかもしれない。顔色はもちろん、牧田からは酒の臭いさえしないような気がした。
 比べて自分はどうだろうか。時間が経つにつれて、確実に酔いが回ってきていた。
 頭がぼーっとして視界に薄く霞がかかっている。天井から吹いてくる冷風に一応袖を戻したが、内側がぽかぽかと発熱していて少しも寒さは感じない。足を運べば雲を踏み抜くような心地だった。
 軽くなった体を壁に押し当てて、牧野は顔だけを牧田に向けた。
「なんだかなぁ。私、牧田さんと同じ齢って聞いた時にすごい親近感を覚えたんですけど、今は逆に遠くなった感じです」
「なぜです?」
「ビールで悪酔いはしないっていうのが、お酒にまつわるひそかな自慢だったんです。くだらないんですけど」
 牧田は穏やかに首を振る。
「牧田さんはちっとも酔ってなくて―――」
「俺だって酔ってますよ」
「―――いやいや、酔ってるうちに入らないでしょう。私なんて自分がどんな風に見えてるかもよくわからないくらいですから……牧田さんから見ても酔ってるってはっきり分かるでしょう?」
 ふむ、と牧田は牧野をじっと見つめる。
「ちょっと顔が赤いくらいですよ」
「ほら!ちょっとでも赤かったらダメなんです」
「ダメなんですか?」
「ダメなんです」
 牧田がくすくすと笑う。
「どうしてダメなんですか?」
「だって、悪酔いかそうでないかなんて傍から見たら一緒なんですよ。これは大丈夫なくらいです、と言っても強がりにしか聞こえないじゃないですか。これ、前の上司に言われたんですけどね」
 なるほど、と牧田は頷く。
「よくテレビの健康番組とかで言いますよね。『顔が赤くなる人はアルコール耐性が低い』とかって……私もそろそろ飲む量減らした方がいいのかなぁ……」
 加齢と体力の衰えを牧野は残念な顔で表した。
「ところで、今は気分は悪くないんですか?」
 牧田の質問に牧野の首が傾く。
「気分?全然大丈夫ですよ。どうしてですか?」
「……いえ、気分が悪くないなら本当に悪酔いはしていないということなんでしょう。ということは宮田さんも同じ?」
「ええ、そりゃあ双子ですから。弟もビールじゃ悪酔いしないタイプです。 ―――それにしても遅いですね。悪酔いしないって言った矢先にこうも帰りが遅いと、俺の言葉まで嘘くさくなるじゃないか」
 ここにいない弟に向けてぼやき、右手首の時計で時間を確認する。終電までは三時間の余裕があるが、トイレに向かった宮田の時間を思えばかかりすぎだ。牧野は階段を覗き込んで首を上へと向けた。
「どうしたんだろう」
「牧野さん」
 名を呼ばれて牧野は体を引っ込めた。
「なんですか?」
「さっき、本当に何ともなかったんですか?」
 え、と牧野は聞き返す。
「さっき、苦しそうにしてたじゃないですか。今よりもっと、顔は赤かったですよ」
「あ、あれは……」
 宮田にされていたことを思い出す。まさか牧田からは見えてはいないと思うが、心臓が嫌な跳ね方をする。
「あの時の方が、ずっと酔っているように見えましたが」
 落ち着け、落ち着け、牧野は心の中で唱えた。
「そうそう、酔ってたんですよ。飲んでる最中だったから、顔も赤くて当然でしょう?やっぱり赤くなっちゃうんだから、我ながら嫌になりますよ、もう」
「俺にはそう見えませんでしたけど」
「そう見えないって?」  即答されて牧野は反射的に聞き返してしまった。
 バカ、そんなことを聞いてどうすんだよ、もし直に聞かれたらどう答えるつもりだ。自分自身に突っ込んだが遅い。牧田は眉をひそめて辺りを気にするようにエレベーターホールを見やった。屋上もあらかた落ち着いたらしく、人通りはなかった。茶髪を振って牧田は向き直った。射抜かれるような鋭い視線がレンズの奥から姿を現す。
「何か、苦しそうに見えましたよ。息も荒くて……肩も動いていたし……」
 牧田の脳裏には今あの時の様子が映し出されているに違いない。思い出すように一つ一つの言葉を選んでいる。牧野はだんだん牧田が自分に近づいていることに気付けなかった。彼にあのことを気取られないためにどうすればいいのか、考えるだけで精いっぱいだ。
「俺は心配してるんです。あなたに何かあったんじゃないかって、だから……俺は……」
「牧田さん……?」
 呆けた牧野の顔に手が近づいてきた。外回りをいくつもこなしているであろう日に焼けた手の甲が、牧野の頬に触れそうになる。
 その時、牧野の胸ポケットから着信音が響いた。
 牧田はぱっと体を離し、牧野も慌ててポケットからスマホを引き抜いた。
「すみません牧田さん、なんか弟具合悪いみたいで。私行ってきます……!」
 牧田の返事も聞かずに牧野は駆け出した。動けば動くほど酔いは回る。雲を踏むどころか宇宙遊泳をしているような無重力感が牧野の体を襲った。しかし牧野は何とか一直線にエレベーターホールにたどり着き、階上ボタンを押した。すぐさまその手に別の手が重なる。一瞬の差で牧野が早く押したのだ。
「俺も行きます」
 耳元で聞こえた声の低さと触れた手の温かさに牧野はどきりとした。何でそうなるんだ、こんなの、意識するようなことじゃないだろ。
 先に乗り込んだ牧田の瞳に頷いて、牧野もエレベーターに乗り込んだ。「4」のボタンが押され、エレベーターは上階へと向かう。



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