TRIANGULAR AFFAIR1 | ナノ


サラリーマンパロ、モブあり




 熱気を帯びた夜の風が立ちどまった体の横を通り過ぎていく。
 涼しいとは感じないが、汗を吸い込んだシャツと体との間に風が入って少しだけ不快な気分を和らげているような気がする。提灯のような形をした西洋風のランプはオレンジ色に発光し、点々と列をなして頭上にぶら下がっている。
 そのうち忘れ去られていたざわめきが、耳に届き始める。





「はい……はい……その下がそうです、そこの金額がいつもより多かったので……いえ、納品書は確認しましたが追加注文になっていたので、それがどういった理由かと……いえ、発注ミスでなければいいのですが、来月以降はどうなりますか?はい、今回追加した分を引き続き注文するかしないかということで……」
 牧野の手元には納品伝票と書かれた小さなブルーのファイルがあり、指は七月と書かれた先月の頁をめくっていた。
「ああ、はい、はい。そうでしたか。でしたら今後の支出に影響しますので、はい、そちらの方はまた書類で……ああ、そうですか、営業部の方にも連絡はしていると……分かりました、はい、ありがとうございます」
 表向きは丁寧に、牧野は受話器を置いた。
(まったく……ふつうは営業部より先にうちに連絡じゃないか……見るのはこっちが先なんだし……)
 パソコンにはたった今確認した項目が黒地に白い文字で映し出されている。そこにカーソルを動かして一度クリック、ドラッグを解除した。
 マウスを動かす手が重い、いや気分が重いのだ。牧野は今の電話で相手の悪い雰囲気を吸い込んでしまったような気がした。
(……いけない、いけない。今はどこも同じくイライラしてるんだから、経理部のアイツは愛想悪いなんて言いふらされないように、冷静に対応しないと……)
 自他ともに温厚な人間だと認める牧野も、運用まで三日という短期間で導入された社内ネットワークシステムについては、拙速だったのではと思わざるを得なかった。
 マウスを動かすのが億劫だったのは、無意識に苛ついているために違いなく、それは先の資材部の担当者も同じようだった。騒がしい室内や牧野の質問や、苛立ちの原因はいろいろあるだろうが、使い方のよく分からないシステムに一番苛々しているような口ぶりに感じられた。
 八月一日から本格導入された新しい社内ネットワークシステムは、会社の販売情報等ほとんどの記録をデータ化し、パスワードを入れればどこの部署からも入力・確認ができるようになった。必要とあらばスマートフォンやタブレットで出先へと持ちだすことも可能だ。
 社内ネットワークは利便性が高く、業務はいっそう効率化・スピード化して、会社のグローバル化をも推進する。半年前の総会で全社員に向けて社長はそう説明していた。
 まさかうちの会社がスマホだのアイパッドだのを使うようになるとは。課長なんて新しい会計ソフトにすら難儀しているというのに。牧野は右隣に目をやった。
 そこにはいつもはにこにこしている課長が、一生懸命目を細めてずり落ちる老眼鏡を何度も直しながらパソコンのモニターに話しかけている。ああこれかな、そうなるとさっきのあれはどこにいったんだ?と、ここ一年はずっとである。
 というのも、社内ネットワークより先に経理課には新しい会計ソフトが下ろされたのだが、課長はパソコンそのものが苦手であったため、毎回ああやって独り言をつぶやきながら領収書とパソコンのモニターを見比べているのだ。
 苦手意識は本人も自覚しているらしく、定期的にやって来るシステム管理の委託業者の人に話しかけては教えてもらっている。そんな涙ぐましい自助努力も残念ながら会社の望む効率的な業務遂行には結びつかず、未だに伝票で仕訳を起こしている姿をよく見かけるのだった。
「う〜ん…またどっかいっちゃった……まいったなぁ……やんなっちゃうなぁ……」
 去年まではここにも課長と同じような社員たちが何人も在籍していた。だが今年度の初めに、古株と言われる社員たちは一気に減った。
 この会社は大学病院にも器材を下ろす医療機器メーカーで、中小の企業の中でも上に位置して業界では最大手である。十数年前に一部上場を果たし、現在も順調に規模を拡大していたが、二年前に全国の自治体病院の民営化が国によって進められることになった。
 病院はどこもコストカットに躍起になり、人員削減と業務縮小をすることになった。儲からない、医師が足りないといって小児科、産婦人科がこぞって閉鎖された時期でもある。
 かくしてわが社でも大規模な人件費削減が決定された。社員らには「このまま続けて退職金が出ないか、今辞めて退職金をもらうか」という選択が迫られ、定年までを数えた方が早い彼らは考えるまでもなく辞めていったのである。
 牧野は現在二十七歳、大学の経済学部を卒業してすぐ入社したので六年目になる。
 食堂で顔を合わせる度、同期には「男の癖に経理なんて」と言われるが、牧野が経理部にいるのには隠れた理由があった。
 実は牧野はこの会社の取締役会のトップである女性会長の養子なのである。だから経理をしているのも社長・会長公認で、後に経営に移る足掛かりなのだ。ただ、本人にそこまでの気はまだなくて、会長である八尾比沙子が、弟以外に身寄りのない彼の将来は義父である牧野怜治のポストに据えたいと考えているまでの話である。
 とはいえ社長だ。バレたら皆が牧野を見る目が変わってしまうだろう、それでは一社員として必要な経験もできないし、牧野自身もそれを嫌がったので秘密にされていたのだった。



「だからみんなで行くとお得なんだって」
「じゃあ行っちゃう?」
 画面上の元帳を確認していた牧野の耳に、高い声が聞こえてきた。
 一瞬顔を上げると、向かい合せに繋げられた事務机の一か所に四人ほど集まって話をしている。古株社員が抜けた穴は派遣社員が担っていて、課長と牧野以外は全員若い女子社員だった。今日は金曜日だし、これからどこぞ行くところでもあるのだろう。
「そこ知ってる、夜景が綺麗なとこじゃない?」
「そうそう、会社でまとめて席取ってあるらしいよ」
「ウッソ〜、私ここで働いてて良かったかも〜」
 牧野も早く彼女たちと同じように(決して彼女たちに合流したいと思っているわけではない)仕事を片付けてしまいたいのだが、これが終わってもまだもう一つ確認項目が残っていて、それは人待ちだった。
 と、女子社員の一人が独立した最奥のデスクに向かう。
「課長、一緒に行きませんか?オープンエアでかなり良さげなところですよ」
 パソコンを凝視していた課長は今気づいたように顔をあげて、首を斜めにして横から返事を待つ一人の女子社員を見やった。
「え、オープンなんだって…?ああ、毎年行ってるビアガーデンのあそこかぁ。うん、あそこはかなりいいところだね。景色もいいし、ビルも綺麗だし」
「じゃあ課長も行きますよね」
「それがなぁ。この後システム管理部の人に講習受けさせてもらうことになってるんだよ。残念だけど、今日は皆で楽しんでおいで」
 四人は一斉にええーと間延びした落胆の声をあげた。
「まぁた課長ったら管理部の人と一緒なんだから」「そんなんじゃ奥さんに逃げられちゃいますよ」「ホントホント」
 牧野は片眉を上げ、心の中で課長に対する態度じゃないなぁと嘆息した。
「四人で行っても割引は効くんじゃないのかい?」
「そうなんですけど……」
 顔を見あわせる四人の間には何か理由がありそうだ。そう思った課長は黙々とマウスを操作する牧野に視線を向け、
「じゃあ牧野くんはどうだい?僕じゃなきゃダメって理由は人数くらいなんだろう?」
 牧野は一度に四人分の女子社員の眼差しを受けることになった。
「え、ぼ、僕ですか……?」
「そうだ、牧野さんがいたじゃない。ねぇ牧野さんでも大丈夫ですから、これから行きません?ビアガーデン」
 何だかあまり誇れるような誘われ方ではない。「大丈夫」は男として見られていない時に使われるセリフだ。肉食系ではないにせよ、そう言われて嬉しくなれるはずがない。
「いやでも、僕はまだもう一つ二つやることが残ってまして……」
「じゃあ私、牧野さんの分代わりに打ちこんじゃいますから」
 牧野は課長に言ったのだが、答えたのはセミロングの女子社員だった。横に滑り込んできて、すかさずキーボードを打ち始める。のしのしと迫ってきた彼女の勢いに負けて、牧野はあっさり自分の椅子を奪われていた。
「でも、もう一つは営業部の人に確認することだから……」
「いいですよ、そんなの私が内線掛けますから、営業部のどなたですか?」
 一番行動力のある一人が自分のデスクの受話器を取り、今にもプッシュボタンを押そうと人差し指を伸ばす。牧野は慌てて手を振った。
「いっ、いやもうね、あちらが来てくれることになってるから大丈夫、大丈夫だよ」
 この調子で彼女たちに付き合うことを考えたら、いや、もうとっくに疲れている。
 自分より五歳以上若い彼女たち。ジェネレーションギャップに加えて、コミュニケーション能力不足。
 普段でさえ仕事というクッションが会話をするための緩衝材で、免罪符でもある。それがなければ黙って隅で酒を飲むしかないのだ。黙って人ごみのなか、一人で酔っていろと?
 何とか断れないかと牧野が知恵を絞っていたとき、経理部のドアがノックされた。
「すみません、営業部の牧田です。遅れて申し訳ありませんが、販売データの確認に伺いました。牧野さんいらっしゃいますか」
 セミロングの女子社員が「こちらです」と手を挙げた。扉から半分しか出ていなかった人影が全体を現し、一人の男がすらりとそこへ立った。
 失礼しますと一礼してこちらへやって来る。律儀な男だな。そう思ったのはいいけれど、牧野の逃げ道の方は彼の登場で最後の行き場を失っていた。



「じゃあじゃあ、何から食べる?」
「えっとねー私、これ! この『ドイツ五種類のヴルスト盛り合わせ』ってやつ」
「それに『本場イギリスのフィッシュ&チップス』も入れようよ、ポテト系は絶対いるって」
 一足先にビアガーデン会場に到着した彼女たちの頭の中では、まるで目の前にウエイトレスがいるかのような光景が見えているらしい。事務机のチラシを見ながら、傍にいる課長を気にする様子もなくオーダーの相談を始めている。
 牧野は通勤バッグと共に窓際へ追いやられていた。仕事もデスクも奪われてしまったらほかにやることもない。せいぜい自分のパソコンを覗き込む二人を後姿を見守って、何かあればその時に口出しする出番を待つのみだ。
 背中が熱い。西日で熱せられたブラインドが夕刻を過ぎてもますます暑い外の様子を物語っている。
(これからこの中で飲むんだよなぁ……)
 喉を締めるネクタイを人差し指で弛めて息をついた。
 ビアガーデンに行くのは久しぶりだ。もう何年も行っていない。
 入社当時には同性の古株社員が多くて飲み会にもよく誘われたものだが、牧野自身はもともと飲み会が好きな方ではない。派遣の彼女らが来てからはますます、正社と派遣の間に何か壁のようなものができて誘いづらかった。飲み会の機会が減ればそれ自体が面倒くさくなるのも自然な流れである。
(せめて来週……いや、いつだったとしても同じか……)
 四対一のハーレム合コンという発想は牧野にはない。それよりできるなら早く帰ってクーラーの効いた部屋でゆっくりしたい。シャワーを浴びてさっぱりしたい。
 牧野は室内にいるのにシャツの袖を肘までまくって、額にはうっすら汗まで浮かべていた。設定温度28℃の月間目標が何をするにも気を重くさせるのだ。
 シャツを肘までまくっている、という点では目の前の男も同じ恰好だった。
 牧田といったか、営業部の男は日焼けした手首をひらめかせてパソコンに表示された項目を指差していた。
 営業部というけれど、牧田にそれらしいやぼったさは感じない。牧野はこれまで営業マンにゴマすりと使いっ走りに奔走させられる冴えない中年男を想像していた。そういう人間も多いが、牧田はくたびれたしわくちゃの大量販売スーツではなく、ダークグレーの涼しげなスラックスを身につけている。
 驚いたのは茶髪だ。営業で茶髪なんて言語道断かと思っていたのに、渋めの色ならそこまでおかしくもなかった。左右に分けた短髪と黒縁のメガネが軽そうな印象を相殺しているのかもしれない。
 実際、本当の能無しは三日と営業にはいられないと聞く。この外見も文句を言われないだけのスキルがあるから許されているのだろう。
(だったらこの人と行けばいいんだよ……)
 セミロングの女子社員の横顔には、経理部ではほとんど見ない何かに夢中になっている様子が見て取れた。むろんそれが無理と分かっていながら、牧田が代わってくれないだろうかと一瞬思った。
 営業部の人間なら接待は恒例行事だ。女子社員に一人だけ呼ばれることを不幸と思う自分とは違って、上手く切り抜ける術を心得ているのではないだろうか。
「牧野さん、まだですかぁ?」
「えっ!? ちょ、ちょっと待ってね、もう少しだと思うから……」
 パソコンに向かう彼女でなく、なぜ自分に。急かされた牧野は驚いた。
「ごめん、やってもらって何なんだけど、やっぱり僕が変わろうか…?」
 背を向ける女子社員に近づいて遠慮がちに尋ねると、「いえ、もうこれを保存したら終わりですから結構です」とすげなく返された。
「あ、そう……」
 それなら今そう言ってくれれば良かったのに、喉に引っかかった感情を押し戻して、牧野は気まずくなった。他部署の人間の前で女子社員の尻に敷かれている姿はあまり見られたくない。同じ男としても似た世代としても。
 すごすご窓際に戻ろうとする牧野に後ろから声がかけられた。
「大変ですね、女子社員の方が多いなんて」
 振り返ると牧田が眉尻を下げて苦笑している。あとは保存だけと言っていたから彼のすることももう無いのだろう。
「皆さん派遣さんですか」
「そ……そうなんです、今年度から…」
「ああ、去年の人員削減でですか。うちにも一人いた事務が派遣さんになりましたよ。時間外までいてくれないから六時過ぎると事務の仕事が回らなくって」
「そちら(営業部)もそうなんですか…! 実はうちもそうなんです。あれって派遣元の会社で決まってるんですかね、時間内業務厳守みたいな……残業手当も出るのにあっという間に帰っちゃうから、時間外が全部こっちに回ってきて結構大変で」
 傍の彼女に聞こえないようにやり取りは小声だが、意外なところで賛同者が現れた喜びから牧野の声には力がこもった。
「今までずっと社員だけだったのに、いきなり派遣の大量採用ですから。ネットワークシステムの導入といい、土壇場になってから一気に変えられて、困るのは現場ですよ。お互い苦労しますね」
 義父と義母が経営に携わっている身分の牧野からすると本当は耳が痛い言葉のはずなのだが、平社員の気分が抜けない牧野は牧田の台詞に大きくうなずいた。
「分かります、サマータイムも意味があるのかなって」
「サマータイムなんて、あれこそ本当の無意味ですよ。導入するなら海外と同じく時計を速める方式でやらないといけないのに、一時間早く出社するだけなら単に早朝出勤させられてるだけですから。北海道で実証されているはずなんですけどね」
「北海道って?うちの支社で何かやったんですか?」
「いえ、うちじゃないんですけど……」
 その時、遠くから「牧野さーん」という声が割り込んできた。
「もう終わったんですから行きますよ!」
 いつの間にかデスクにいた女子社員も向こうの三人と合流して、皆、肘や肩に鞄を携えている。
「あっ、もう終わってたんですね、すみません」
「これから何かあるんですか?」
「ビアガーデンです、会社で取ってるいつもの、」
「ああ、いつもの。毎年恒例ですね」
 久しぶりに同性社員とざっくばらんな話ができて、牧野はもう少し話を聞いていたい気分になりかけていた。
 だが仕事を終わらせるために彼に来てもらったのだから、彼女らに待ってもらうわけにはいかない。
「すみません、お引止めしてしまって」
「いいえ、わざわざ来ていただいてありがとうございました。また今度お話聞かせてください」
「それでしたら、名刺だけでもお渡ししましょうか」
 同じ会社で何ですけど、そういわれてああそうかと思い立つ。社員同士の名刺交換は通常行わないのだが、連絡先などを伝える場合、長ったらしいメールアドレスをメモに書いて渡すより名刺の方が早くて書き損じの恐れもない。
「でしたら……」
「もう!牧野さん!話なら向こうでたっぷりしてください!」
 これ以上待てないと入口前で叫んだ女子社員の声に、二人はぽかんと意表を突かれた顔になった。



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