密事 | ナノ


※ちょいエロ




 朝から村のいたるところは濃霧による影響を免れなかった。
 山は黒く、川も黒く、緑や青と言う濃い色を示すものはことごとく黒く見えた。かと思えば、建物や人影なんかは白か灰色に見えたのである。
 村は三隅の山に囲われ、その水底に沈んでいた。
 不入谷教会もその日は麓から姿を見ることが叶わず、一番近い刈割の棚田まで足を運んでも、霧に徐々吸い込まれゆく山の緑のもっと先にあるはず、という感じだった。
 変わりばえのない一日の始まりであった。


 羽生蛇村は昔から天候に恵まれない。
 だから今日の天気も珍しい風景ではなかった。雲一つない青空より、雨と霧に沈んでいる姿の方が村人たちにもなじみ深いのである。
 牧野は二十七年この村で生きてきたのだけれど、本当の快晴というものは生まれてこのかた一度も見たことがない気がした。
 三隅郡には羽生蛇村の他にいくつかの村が点在しているが、ここまでの悪天候が常態化しているのは羽生蛇村だけであった。水はけの悪い土地のせいか、山に囲まれた窪地のせいなのか、もっとも村の人間はそれを諦めて受け入れることしかできなかった。

 牧野は朝は八尾と共に礼拝を済ませ、昼には昼食を摂る前に、土地の恵みをいただくことへの感謝の祈りをささげた。
 午後にはかろうじて小雨が止んでいたので、最近滞り気味であった庭の手入れに時間を費やした。誰かが来れば対応に出るが、中には八尾を残してあるので、よほどの用でもない限り構わないと思った。年上でしかも女性の八尾に汚れ仕事をさせるくらいならと、牧野は自分が作業を買って出た。
 花壇の雑草を抜きながら、今日はこのまま終わるのだろうと思っていた。
 何もない、いつもの一日だと。


「求導師さま」
 呼ぶ声に牧野は振り返った。
 灰色の霧に同化しかけている世界のなかに発光するような美しさを感じた牧野は、はっとしてそこに聖母が佇んでいるのかと錯覚した。
 目にしたものは鮮やかな紅色の法衣とヴェールで、しゃがんだ牧野が振り返ったのは教会の壁の角に立った八尾だった。
「求導師さま、宮田先生が」
 一瞬なぜ見間違ってしまったのかと牧野は混乱したが、彼女の短い言葉の中になるべく早くという雰囲気を察したので、「ああ、行きます」とすぐに立ち上がった。

 牧野は幼い頃から傍にいた八尾に母親のような気持ちを抱いてきた。義理の父も早くに亡くし、八尾は本当に母親代わりを務めてきたのである。
 けれど時々、八尾は穢れを知らない、うら若き乙女のように見えることがあった。
 おそらく八尾はこの村で一番美しい女性だと牧野は思っている。それは砂に沈む大粒の真珠とでも言おうか、彼女の美しさには不変的なものを感じるからである。
 ただ如何に真珠とて空気に触れれば見る間に酸化して黒ずんでくるものだが、八尾はそうではなかった。
 今とて時折吹きぬける風が彼女のまとめ髪と赤い布を乱しているのだが、その横顔には玉のような美しさが色褪せていない。
 彼女はどうしてそうあれるのだろうか。彼女は確かに美しいが、その容貌を妖しいと―――とても奇妙なもののように感じる時があった。



 宮田は教会の中に入らず、入り口のコンクリートで固められた段の下に立っていた。
 両手を体の横にぴったりとつけて黒の法衣が現れたのを見るや、腰から上体を折り曲げて深々とお辞儀をした。
「求導師さま。神代の使いで来ました」
 宮田の改まった様子に牧野は自らも背筋を正した。八尾はさりげなく身を引いて牧野の後ろに控えた。
 牧野が一段高い所で対面すると、宮田は白衣の内ポケットから封書を取り出した。 折り目正しく畳まれた手紙には筆書きで用向きが書かれていた。
 しばらくそれに目を通していた牧野は神妙に頷いた。
「……確かに、承りました」
 後ろにいた八尾が解放されたような息をついた。たった数言であったが、仰々しいやり取りは空気を重くしていたのだった。
「先生、良かったらお茶でも飲んでいかれませんか」
「いえ……せっかくですが、まだ仕事がありますから」
 八尾はその返事を予想していながら、やはり残念に思った。
 村に一人しかいない医者の宮田が、はるばる病院から伝令のために神代家を周り、ここまで足を運んでくれたことには以前から感謝していた。いつかその意も込めて労いたいと思っていたのだが、今日も駄目だったと。
「でしたら、あまりお引き止めしない方が良いのでしょうね」
 宮田に気を遣わせないように、八尾はさらには勧めなかった。代わりに自分を顧みる牧野に何かを目配せする。牧野は小さく頷き、帰ろうと踵を返していた宮田にある申し出をした。



 教会から麓の車道に向かう道はまるで洞穴だった。
 背の高い欅の枝が頭上に黒い無数の葉を張り巡らして、簾よりも細かい網目が太陽の光を途絶えさせている。
 一応は昼であるから真っ暗というわけではないのだけれど、晴れた日に見られるとりどりの枝葉が太陽の光を受けて煌めく姿や、道脇に咲く小さな野花の様子などは見る影もなかった。
 そこを牧野と宮田は黙々と歩いていた。点々と続く平石がかろうじて踏み場の道しるべだった。

 八尾がいなければ、二人は自分から言葉を交わすということはめったにしなかった。先ほども八尾が指示しなければ、きっと牧野は見送りを言いださなかっただろう。 それはとても奇妙な光景であった。
 牧野と宮田、二人は血を分けた双子の兄弟であったが、並び歩こうとせず、宮田は早足で先に、牧野は遠慮がちに後を歩いていた。いくらもない距離が、深い谷の両側に立っているかのようにも見えた。
(因果なものだね……)
(ほら、ごらんよあの顔……)
(顔は似てるが……ありゃあ立派な宮田の顔だよ……)
 どこからか苦々しい言葉が聞こえてくる。村中の嫌悪と蔑みの声であった。
 宮田家、人殺しの家系。それが求導師さまと同じ兄弟だなんて信じられない。おこがましい、汚らわしい! それさえなければ求導師さまはもっと清廉で潔白でいられたのに、どうしてあいつが宮田なんだ? 傍にだっていてほしくないのよ、私たちでさえ求導師さまに話しかけてもらえるのは恐れ多いことなのに、宮田なんかが、ねえ―――

 突然、宮田の白衣が翻った。
 荒んだ瞳が牧野を捕える。黒い瞳孔に虚を突かれた牧野は怯み、次の瞬間物凄い力で腕を掴まれていた。
 有無を言わせぬ勢いが牧野を木に押し付けた。欅の幹は何層もの葉に守られたおかげでわずかに乾いていた。
 宮田の眉と目の間に幾筋もの苦悩の跡があった。頬は縦に引きつり、凶暴な表情が今にも何かを牧野に下そうとしている。
 その前に牧野は自ら動いた。目の前の首に手を回し、宮田の唇に唇を押し付けていた。宮田の眼が見開かれる。
 しかし言葉を紡ぐより早く、宮田の舌はそれに応えていた。
 互いに性急で、順序など考えない動き。舌同士がぶつかり合い、絡め合うこともできずに口内を探り合った。息がこぼれ、中で唾液が踊る。
 誰にも見られていない。誰かに見られるかもしれない。限られた時間が二人の熱をさらに高めた。
 宮田は牧野の体ををかき抱き、さらに深くまで舌先が入り込む。けれど牧野も喉を鳴らして受け入れようとする。
 唇が何度も開閉した。舌を食み、相手を感じようと牧野がすれば、宮田もわざと歯列を光らせて甘く肉厚な舌の根を噛む。
 人はこうも狂おしく求めあえるのだろうか。獣のような息づかいが辺りに漏れ、時折悲鳴めいた高い声が霧と藪の中に消えた。
 頬を擦りつけて、ひと時視線が絡み合った。
 牧野の瞳に寂しさが宿り、宮田の瞳に焦燥が現れた。
 背中を抱く宮田の手に牧野の指が絡められ、二人は再び目を閉じた。
 体がもっと深い繋がりを求めている。せめて脚だけが根元を押し付け合って、昂ぶりは一緒なのだと想いを告げた。


 牧野と宮田を見る村人たちの視線はどこまでも陰湿につきまとう。時に牧野の発言でさえ、宮田を貶めるためなら偽りと称して、彼らは広めた。
 それに二人が何も言わなかったのは、ただ従うほかに二人に抵抗の術はないからだ。
 生まれた時から定められた人生だったのだ。諦めて彼らの意に染まり、互いを永遠に結びつかない他人として生きていくことしか許されない。これからも。

 霧に消えてゆく車の後姿を眺め、牧野は痺れた舌を上顎に押し付けた。まだそこをねぶられ続けた快感が、じわりと性器を温めた。
 瞼の裏には先の宮田が焼き付いている。
 けれど牧野は、ああやっぱり今日は何もない日だと思った。


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リクエストくださった方へ
遅くなって申し訳ありません!
三分間の逢引宮牧、いかがでしたでしょうか。
手紙を渡しに来た宮田さんを車まで送り、その途中にひっそりキスや手を絡める逢引を交わす二人。何とも具体的で、お題をいただいた瞬間にその光景が目に浮かんで思わず悶えてしまいました(笑)
切ないお話を自分なりに表現してみましたが、お題の時点で設定が完成されているのでどこまで近づけたかは不安なところでした。
それはそうとして、少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
素敵なリクエストと個人的な萌えを、どうもありがとうございました!
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