警告 | ナノ


※暴力あり




 闇の中に小さな光が走った。一筋の流線を描いてにわかに消失し、再び灯る。
 暗闇の中では何が起こっているか視認することはできない。光だけが右に左に、流れていっては消え、また現れる。離れた場所からは葉から葉へ移る蛍のような動きにも見えた。
 しかし闇の中心に近づいていくと光の消えた直後、その場所から悲鳴が上がったのが聞き取れた。悲鳴のほかには銃声も聞こえた。さらに近づけば誰かが暴れる音と、もがき苦しむ人の呻きも聞き取れた。
 その家の扉が蹴破られ、誰かが出ていった。光の正体だった。
 頭には白い手ぬぐいを巻き、そこに二つの懐中電灯を括りつけていた。遠くから銃声と悲鳴、異様な光がこちらに向かってくるのを見た女は「二つ目の化け物が来た」と叫んだ。のちに女の声も途切れた。
 同時に村では大規模な停電が起こっていた。
 だがそのことに気づいたのは騒ぎの近辺に住むものだけだ。時刻は真夜中だった。村の中心から少し離れた者は騒ぎ自体に気づかず、未だ眠りの中だった。
 一報は命からがら逃げ延びた女の一人によってもたらされた。
 事態を察した神代家は即刻近場の者から人員を集め、手に懐中電灯と武器を持って犯人を追跡した。明かりを携えた数人の男たちが怒号をまき散らしながら村の中を闊歩する。徐々に人数を増やし、終いにはほぼ村の全員の男たちが一塊の軍勢となって二つ目の化け物を探した。皆、狂気に憑りつかれた目をしていた。
 いつ暗がりから犯人が襲ってくるか分からない。遠くから猟銃で狙撃してくるかもしれない。死の危険を打ち払うように男たちは手にしたバールやスコップを振りかざし「出て来い殺してやる」と叫んだ。口にした言葉の恐ろしさに気づく者はいなかった。



 午前二時、闇の中で扉をたたく音が鳴り響いた。
 牧野宅の扉の前にいたのは神代家からの使いだった。眠い目を擦りながら顔を出した牧野を、戸口に立っていた女性は寝間着の腕ごと引っ掴んだ。門前に停車していた白いワゴンに引きずり込まれる。スライド式のドアが閉じきるのを待たずに、後輪がいきおいよく土を蹴って走り出した。
 牧野はまだ事態が飲み込めない。後部座席のシートに斜めに体をめり込ませてまばたきを忘れていた。
 運転席にいたのは神代淳だった。乗り込む際に一瞬目が合い、神代の婿養子ともあろう人間がなぜここにいるのだろうと思った。運転手など下々の人間の仕事なのに―――考える間もなく女性から見慣れた服が押し付けられる。
「とにかくこれに着替えてください」
 渡されたのは求導師の象徴である黒の法衣と白いシャツで、いかに鈍感な牧野とてこの状況が異様でとてつもなく緊迫しているということは理解できた。
 何となく疑問を口にしづらかったので黙って着替えを始めると、険しい横顔でハンドルを握っていた淳が口を開いた。あとになって牧野はこの説明を聞かなければよかったと思った。
 道理でいつもの彼が現れないはずだ。二人掛けの後部座席の牧野の一つ前に座っている女性は、神代家で女中として働いている人物だった。舗装されていない道の凹凸に車体が揺れる。
 目的地は宮田医院だった。


 村では農耕用の機械利用のため、あるいは頻発する停電のためにと発電機が置かれている家も珍しくない。だが発電機をつけるには家の外に出なければならない。それに夜中に是が非でも必要な作業があるわけでもなく、明るくなるのを待って停電の原因を突き止めようとするのが普通だ。
 その隙をついて犯人は殺戮を行っているらしい。牧野は思わず唾を飲み込んだ。夏の終わりだというのに、額や首筋に驚くほど冷たい汗が浮かんでくる。無意識に目は車の背後を確認していた。
 テールランプのかすかな明かりで見える暗い農道の向こうから、今にも髪をふり乱した山姥のような化け物が現れる気がする。痩せこけた裸足のあしが見えてきて、人間とも思えないスピードで車を追いかけてくる。真っ白な髪は獣のたてがみのようにぼさぼさで、その隙間から覗いた目は真っ赤に血走っている。そんな恐怖が牧野の脳裏を駆け巡った。
 今、宮田医院は野戦病院のような有り様になっている。唯一非常電源が使えるということと、けが人を多数受け入れて看病もままならない状況に陥っている。人手は一人でも多い方がいい、こんな時に皆を導く求導師が不在では示しもつかないというのもある、それに―――
 淳はそこで言葉を切った。
「こういうことは求導師様が適任だというお義父さまの判断だ」
「はあ」
 微妙な相槌を続けていた牧野は淳の言葉の微妙なニュアンスに気づけなかった。自分も人手の一人として駆り出されたくらいに思って、まだ時々後ろを気にしていた。
 ワゴンは暗い畦道を走り抜け、背中を小さな山に支えられるように建つ宮田医院に向かっていた。この時間、真っ暗な村のなかに建物を示す明かりは遠くからでは分からない。しかし今日は淡色の三階建て白や赤のライトに照らし出されていた。みない光景に牧野は座席から身を乗り出して目を細める。
 十台にも及ぶ数の車のヘッドライトと、緊急を知らせる大型懐中電灯の赤いランプなど多数の明かりの全てが病院を中心に集中線を結ぶように向けられている。光源に立つ男衆の数はざっと見て二十以上、皆肩をいからせ、顔をこわばらせながらモルタル塗りの外壁を見つめていた。

 駐車場の端にワゴンが停車すると、全員がそれに気がついたようだったが、その場を動いたのは駐在の石田ともう一人だけだった。牧野が手をかけたドアの向こうでくぐもった声がする。
「石田さん、求導師さまが……よかった、これで救われます」
 ただの手伝いにしては様子がおかしい、牧野は怪訝に振り返った。淳に訳を尋ねようとしたのだが、彼はさっさとサイドブレーキを引いて車から下りてしまい、お前も早く下りて来いと乱暴に手を振った。
 牧野がおそるおそるドアを開けると、半泣きの村人が足にすがりついてきた。
「うちの嫁もいるんです、求導師さまお願いします」
 なにがだ、牧野はもう一度淳を見て説明を求めようとした。が、既にさっきの場所に淳はおらず、「それより早くこちらに」と言う石田の腕に引っ張られ、牧野は村人たちが集まっている方に連れていかれた。
「皆さん、求導師様が見えたので場所を空けてください!」
 石田の声で皆が牧野を振り返り、こんなこと求導師様にはお願いしたくないけど、お願いしますと口々に言った。村人たちの手で押し出され、気づけば牧野は病院の入り口に立っていた。
「けが人、医院関係者、もろとも人質に立てこもっている。あとは任せたぞ、“求導師様”」
 どこかから淳の声が聞こえてきた。逃げるなという意味にも聞こえた。心配しなくても、背後は善意なる村人たちによって完璧に塞がれている。彼らの目にはわずかな希望に賭けるという意思が浮かんでいて、逃げることも、できませんと匙を投げることも許されない。
 視線をあげると自動ドアの奥に何者かの人影が見えた。おそらく犯人だろう。ちらりと手前のコンクリートの階段を見て、入る前に躓いて気を失ったら誰かほかの人がやってくれないだろうかと思った。そんな小細工が許される状況ではないのは分かっているが、何人もの村人を襲った犯人が立てこもっていると聞いて、丸腰で向かうなんて死刑台に向かっているのも等しい。
 求導師の大役は儀式の取り仕切る司祭であるはずだ。こんなところで殺されたら元も子もないのではないか。対して神代が出した答えは「それでも構わない」だった。だから淳が直接そのことを伝えに来たのだろう。もしかしたら最後を見届ける役目も兼ねているのかもしれない。
 それぞれ車に積んでいたらしいすのこや廃材をバリケードにして、牧野だけがそこから一歩前に出たところにいた。一番近くにいた石田の上司が心ばかりの「求導師さまお気をつけて」という言葉を投げかけた。だったら代わってほしい、今からでもいいから。



 宮田医院の外も相当に緊迫した状況であったが、中はそれ以上の状況であった。
 襲われた村人たちの怪我は鋭い刃物で切りつけられたものと、猟銃で撃たれたものの二種類で、刃物は刃渡り三十センチ以上の鉈が用いられていた。なぜそれが分かるかというと、けが人を処置している最中に乗り込んできた犯人が今も目の前にいるからだった。
 少しでも治療スペースを大きく確保しようと待合室から診察室、救急搬入口と繋がるドアを全て開放して処置にあたっていた宮田他三名の看護師は現在、ロープで後ろ手に縛られ、ベッドに寝かされた患者らと共に診察室に閉じこめられていた。
 看護師の一人恩田美奈は、鉈を振りあげた犯人も恐ろしかったが、痛みに呻いている患者たちがいつあの血塗れの鉈の餌食になるか、犯人の男が彼らの傍を通る度にびくびくしていた。部屋の隅に追いやられた自分たちと違って、彼らは自力で動くことができない。だからこそ男も何もせず放置しているのだろうが、入り口を陣取って待合室と診察室の境界線を行きつ戻りつする様子は興奮と苛立ちを限界まで張りつめた様子に見えて、何かのきっかけでそれが暴発しないとも限らなかった。
 お願いだから今は声をあげないでいてほしい、これ以上怒らせたらきっとあの男は躊躇なく鉈を振り下ろすに違いない。
 犯人の男は美奈や宮田ももちろん、村の誰もが知っている男であった。普段は役場に勤めていて病院にもたまに顔を出してくれた。優しい男だと信じて誰も警戒などしていなかっただろう。真面目で人の良さそうな男が、まさか人を殺そうと考えていたとはとても思えなかった。
 目の前にいる男はまったくの別人と言われた方が納得できた。でも口元の髭と垂れた目尻、半分だけ白髪のまじった頭など、男を示す外見的特徴が現実を理解せよと言う。 病院を取り囲む村人たちを警戒した男は、血走った目をぎらつかせて、体内で沸騰する血液を透かしたように顔も体も肌の露出した部分はどこも真っ赤であった。
 腰に巻いたベルトから吊り下がるナイフや金槌などの凶器がカチャカチャと鳴った。ここに来るまでに猟銃はどこかで落としたのだろうか、今は持っていなかった。灰色の作業服には点々と返り血が模様のように付着して、黒縁の眼鏡のレンズと頭に付けた懐中電灯の一つにも、大きな血痕がこびりついていた。
 荒い息口から吐き出し、肩で呼吸していた。齢は五十代半ば、男は汗で滑る眼鏡を左手で直し、その時不意に目が合った。美奈は恐怖で体をこわばらせた。
「み…み…見るな……」
 獣の威嚇のような声と共に、男がこちらに歩いてくる。美奈はしまったと目をつぶり、床についていた足を小さく折りたたむように縮めた。それだけが唯一自分を守る壁だった。
「その目で俺を見るな!」
 男は鉈を振り下ろした。ナースキャップを掠めて鈍い音がした。低い呻きが地を這い、宮田の体が傾いた。
「見るな、見るな、お前のその目が、気に食わないんだ!」
 宮田は一人だけ後ろ手に加えて両足、口まで塞がれていた。それなのに男は何度も宮田の後頭部を殴りつけた。
「この、このっ……どういうつもりだ、お前は……!」
 木でできた鉈の柄に赤い血が付着する。宮田の頭がサンドバッグのように左右に揺れ、ついには床に横たわった。斬りつけないのは男なりの情けなのかと思ったが、最後に振り下ろされた一撃が頭蓋骨を伝って硬いリノリウムを振動させた。美奈は思わず叫んだ。
「止めてください!もう、本当に死んじゃいます!」
 うつ伏せになった宮田の頭部から暗赤色の血が流れ出していく。男は美奈の声にびくりと体を震わせ、顔を上げた。
「何を言ってる…?こいつは殺人鬼なんだぞ……」
「そんな先生が殺人鬼なはずがありません……殺人鬼はあなたじゃないですか!」
 横にいた年配の看護師の制止の叫びにも美奈は応じない。言うべきことは言ってやらなければと思った。
「先生がいないと村の人たちを治療してあげられる人がいなくなります、お願いですからもう止めてください」
 美奈の懇願を聞いた男は、こわばった口角をいびつな形に持ち上げた。
「治療?バカなことを言うなあ……こいつが治療なんてするはずがないだろう。こいつは根っからの人殺しなんだ。 俺は知ってる、あんたも同類なんだろう、恩田美奈。そう言って俺を殺すんだろう?」
「何…何言ってるんですか……」
 想像もしない台詞に美奈はうろたえた。
 先生が殺人なんてするはずがない。自分も人を騙してきた覚えはない。病院で働く者が皆心から村人たちの健康を願って治療してきた。ああこの人は本当に狂ってしまったのだ。
「誰も信用できるものか、やらなきゃ俺が殺されるんだ。今日か、明日か……眠れやしない、いつ殺されるか怯えてばかりだ」
 男は鉈の柄を持ち替えて、鋭い刃を美奈たちの方へ向けた。血と脂に濡れた切っ先は大分刃こぼれしていたが、腕くらいなら易々と切り落としてしまえそうだった。もうだめだ、美奈と他の全員が覚悟を決めた時、高らかな音が響いた。待合室の方からだ。何か、物が落ちたような音だった。
「誰だ!」
 男はすっ飛んで行った。
 乱暴に押された診察室のドアが反動でゆっくりと閉まっていき、遠くで何かを喋っている男の声を遮る。金属の噛み合う音でドアが完全に閉まったことを覚ると、美奈たち全員は飲み込んでいた息を吐き出した。
 心臓が破裂しそうだ。まだ刃を向けられた緊張が全身を震わせている。けれど美奈は尻を滑らせて宮田に近づき、足元で死体のように動かない体をこわごわ覗き込んだ。
「大丈夫ですか、先生」
 声が返ってこなかったらどうしようかと思ったが、小声の呼びかけと同じくらいの大きさで「ああ」と返事が返ってきた。低い声は存外落ち着いていた。
「ああ、よかった……」
 傷は案外浅いのかもしれない。何回も殴られていたが、男の挙動は精彩を欠いていた。手元も動揺からガタガタと震えっぱなしだったから、おそらくまともにダメージを与えたのは最後の一撃だけだったのだ。
 語弊はあるが、意識があるなら無事といえるだろう。大きな胸を上下させて安堵した美奈に思いもかけない提案があった。
「美奈、今のうちにこれをほどいてくれないか」



 待合室は自動ドアから透ける大量のヘッドライトで舞台の上のようにまぶしかった。そこへ光を背負って現れた人物は、まさしく神の使いであったのかもしれない。男は一瞬ひるんだが、己に言い聞かせるように声を張り上げた。
「どうして、求導師様がここに」
「あなたと話がしたくて」
 恐怖で青ざめた顔をしているくせに、牧野はしっかりとした口調で言った。
「私はあなたを救いたいのです、どうか話をさせてもらえませんか」
「話なんて、俺は誰の話も……」
 しかし男は宮田や美奈に見せるような顔とは明らかに違う態度であった。牧野の言葉に忘れていた罪悪感を思い出したような、まぶしさでなく牧野自身を神のように思っているから直視できないという様子だった。
「俺は……私は……たとえあなたであっても信じることができません」
「いいのです、信じることができなくても。 私はどんなあなたであっても構いません。ただお話をしましょう。あなたの、今のお気持ちを聞かせてください」
 その言葉に男は思い詰めたような顔になった。怒りにぎらついた瞳を恐怖で怯えた瞳に転じ、浅い呼吸の合間に次の言葉を探している。
「そちらに行っても?」
 牧野の問いかけに男ははじかれたように反応した。
「駄目です!こちらに来ては……あなたに何をするか分からない、せめてあなたが私に何もしないということが分かるまで……」
「私は何も持っていませんよ」
「だからそれが…信じられないんです。あなたは他の奴らと違う、人を殺したりしない人だと分かっている……だけど、私にはそれが信じられない!」
 男がうつむいた隙に牧野はちらっと後ろを振り返り、困り果てた眉根を小さく動かした。しばらく待って、ではこのままで、と牧野が言いかけた時、男の声が被った。
「あなたが、何も持っていないことを証明してくだされば……」
 牧野はごくりと唾を飲み込んだ。それは服を脱げということか、体の前で重ねた手が固く握られた。この場で、皆が見ている前で脱げと言っているのか。
「そうしたら…きっとあなたのことを本当に信じられると思う」
 迷って立ち止まる背中を押すように男が言った。
「な、なにも持っていないことが分かれば、信じてくださるのですね…?」
 硬い表情で男はゆっくり頷いた。牧野は意を決してケープに手をかけ、ホックをはずした。


 いつ見られたのかは分からないが、あの男が自分の素性と神代の内情を知っているのは明らかだった。人口の少ない村で行方不明者が出れば、どうあっても不審は残る。根も葉もない噂で済むならともかく、実際に犯行現場を見られて始末者を増やすことだけは宮田の名において絶対にならないこととされていた。慣れない頃は義父が周囲に気を配り、義父がいなくなってからは特に注意して行ってきたつもりである。自らを闇に貶める代わりに宮田の人間は人の気配、考えというものをある程度察して動けるようになった。そんな自分が見られたことすら気づけなかったのだろうか。
 あの男はどこで自分の“それ”を目撃した?
 それが最大の疑問だった。最後に“そう”したのは一番最近でも半年前にさかのぼる。地下牢に幽閉している人間は別だが……だとしたらなぜ男は今になって行動したのだろう。逃げ出すなら早い方が良いはずで、凶行に及ぶにしても時間をかけた分、犯行が未然に発覚する危険性が高くなる。
 美奈たち看護師は男に気づかれないように静かに患者の処置を継続していた。
 ドアには既に鍵をかけてあるので向こうからはすぐに入ってくることはできない。宮田は出血していた後頭部を脱いだ白衣で押さえ、美奈に耳打ちした。
「あの男が戻っていた時に誰もいないのでは危険だから、俺はここに残る。代わりに外に出て応援を呼んできてくれないか」
 美奈は無言で首肯した。そろりそろりとロックをはずし、スライド式の窓を横にずらして裏山に面した外に飛び降りる。残った者は息を潜めて壁の向こうの成り行きに耳を澄ませ、宮田は手に馴染むものを探して辺りを見回した。


 最後の衣服が床に落とされ、牧野は全裸に靴だけという姿になっていた。屈辱も恐怖もあるけれど、何よりも恥ずかしい。せめて二人きりの場所でこうなるのならまだしも、このまま死んだら世界で一番みっともない死を遂げることになる。テレビで見たどのドラマより滑稽な自分の死に姿が容易に想像できる。
 しかし男は牧野の裸を見てようやく安心したよう腕を下ろしていた。
「ああ、やっぱり求導師様は求導師様だ……私は信じていました、あなたならそんなことはしないと……」
 羞恥からうつむいていた牧野の視界に男の靴が入り込み、そういえば当初の目的は男に近づくことだったのだと思い出した。
 本当なら私が彼の警戒を解いて、あの手錠で彼の両手を封じるはずだったのに―――
 脱げと言われた瞬間、牧野は自分の精一杯の虚勢もベルトにしのばせた手錠のことも何もかもばれているのだと覚悟した。しかし男は本当に牧野の持ち物を念のため確認したいというつもりらしかった。脱衣の提案も咄嗟の思い付きだったようである。
 それでも隠し持っている手錠が見つかれば終わりである。牧野は必死に考え、おそらくその様子は牧野が脱ぐという行為にためらっているように見えたのだろうが、牧野は手錠を気取られないように体から離す方法―――どうしたら服と一緒に床に置けるかということで頭がいっぱいだった。
 牧野の背中に埃くさい腕が回された。
「求導師様……求導師様……」
 震える声に牧野が男を見ると、彼は頬に涙を流していた。
「どうしたのです、どうして泣いているのです」
「誰も信じられない私を、求導師様は信じてくださいました……こんな恐ろしい姿の私に、全てを投げ出してきてくれました」
 それは、牧野は思い浮かんだ言葉をすぐに打ち消した。今は真実を語るべきではない。
「あなたが私を信じようとしてくださったからですよ、東さん。あなたは本当はこんなことしたくない、でしょう?」
 東と呼ばれた男は唇を噛み締め、かすかに頷いた。
「あなたがいつも役場で一生懸命に働いているのを私は知っています。田んぼの水量を見るために毎日水門の様子を確認したり、台風で切れた電線を修理するのに精を出していたでしょう」
 男の唇が波のように揺らぎ始め、うっうっと嗚咽が漏れる。男は片腕で牧野を抱き締めながら号泣していた。背中に置かれた手が男の感情に比例して力を込めた。痛い、と牧野は顔を引きつらせたが、言葉を続けた。彼は確実に正気を失ったわけではない、その気持ちを自分の言葉で思い出しかけているのだ。
「ねえ東さん、私はこれからも東さんとお付き合いしていきたいです。奥さんや村の人たちもきっと、同じように思ってくれていると思いますよ」
 その言葉で東の顔色が変わった。抱き締めていた牧野を物凄い力で突き放し、牧野は冷たい床に投げ出された。東は大声で叫んだ。
「違う!あいつらは信用できない!家内も隣のやつらも、みんな、みんなだ!」
 突き飛ばされた牧野は横倒しの体勢で痛みに顔をしかめていた。それを見た東は慌てて膝をつき、牧野の腰をかばうように手を差し入れる。
「す、すみません求導師様、でも俺が信じられるのはあなただけなんです……」
「どう、して……」
 そこまで自分を信じてくれるのか、牧野は疑問だった。
 閉鎖的な村の唯一信仰というが、宗教を拠り所にしている人間は年月と共に減少している。七十、八十を超える年寄りには求導師、眞魚教の存在は絶対的であったけれど、その息子娘世代、つまり東くらいの年代になると冠婚葬祭で世話になる程度の認識くらいだと思っていた。どちらかというと同じ役場で働く前田夫妻の方が眞魚教には熱心だ。
 車の中で「東」と聞かされた時も、うっとおしい宗教への恨みから犯行に及んだのだと思いこんでいた。だから自分は完全に彼の怒りを鎮めるための生贄だと思っていたのだ。

 牧野が見ていたのは待合室のカウンターの白い壁だった。膝をついてうなだれる東は自分の体に顔をうずめるように覆い被さっていた。
 にわかに入り口の向こうに動きがあった、ような気がした。壁のライトが光の濃淡をちらつかせ、遠くで誰かが叫ぶ声が聞こえた。
「俺は見たんです……あなたが求導師として立派に振舞われているお姿を……あなたは誰にも暴力を振るわなかった。最後まで、どんな奴らに対しても」
「それは……いつの話ですか…」
 声の数が増え、次第に声そのものも大きくなってくる。一瞬、壁に真っ黒な人影が横切った。突入が近いのだ。
「俺は知っているんです、平然と人間と同じような振りをしている奴らが、ある時化け物に変わって襲ってくることを…!あいつらは、人間じゃないんです!血を流して、あれは、化け物だ」
「ま、待ってください東さん、何のことをおっしゃっているのか私には……」
「神代はそのことを知っていたはずなんです、それなのに何の助けもよこさなかった。気が狂ってる、あの家も、あの男も」
「あの男……?」
 東は牧野の手を握った。
「求導師様、気をつけてください、あの男はあなたに成り代わってためらいもなく人を殺していた。私は知ってしまったんです、あの日中央交差点であなたをこ―――」
 牧野の体に衝撃があった。しかしそれは牧野自身に与えられたものではなく、東が受けた衝撃を間接的に牧野が感じたのだった。
 斜め後方から思いきり後頭部を殴られた東は、勢いのままに牧野の体を越えて頭から床に崩れ落ちる。
「あ、東さんっ……!?」
 体を起こした牧野の前に黒い影が立ちふさがる。
「危ないです、離れてください」
 そこにいたのは宮田だった。
 宮田は点滴に使う金属の棒を持っていた。かと思うと宮田はその手を軽く後ろに引き、助走をつけて東の体を蹴り上げた。硬い靴底が東の腹部にめり込む。先ほど宮田を殴った東の動きとは雲泥の差だった。宮田の動きには情けも動揺も一切ない。しかも素人には分からない急所を的確にとらえていた。東は呻きすらあげることなく沈黙し、動かなくなった。
 宮田が入り口に向けて手を振って合図をし、待ちかまえていた村人や石田たちが雪崩のように突入してくる。幸い東は気を失っただけのようで、凶器を取り上げた後、先ほど宮田たちがされたように東はロープで縛り上げられていた。
「大丈夫ですか」
 手が差し出され、牧野は呆然と宮田を見あげた。この人は本当に医者なのだろうか。それ以外になんだというのか自分にも分からないけれど、先の動きが常人ばなれしたものに思えた。
 牧野が手を取らないので、宮田は思いついたように入り口近くに落ちていた法衣を取ってきた。
「どうぞ」
「ど、どうも……」
 脱いだものを見て牧野は今の恰好を思い出した。遅れて顔を赤くした牧野を見て、宮田は傍のカウンターを指さした。
「すぐに戻るより着替えてからの方がいいですよ。そこ、使っていいですから」
「分かってます…!」
 とりあえず法衣を腰に巻き付けて立ちあがると、ベルトに挟めていた手錠が落ちて軽い音を立てた。
「何ですかそれは」
「それは、石田さんに貸していただいた……あの、それで東さんを拘束するという段取り、でした」
 結果的に自分だけが丸裸になって何もできずに終わったのだけれど、持ち主のせいで出番がなかった残念な手錠をカウンターに置いて、牧野はため息をついた。
「……いえ、おかげで東の意識がこちらから逸れて助かりましたよ。ちょうど死角になる壁の近くにいてくれたことも不幸中の幸いでした」
「そ、そうですか…」
 それも全く予想外だったのだが―――牧野はふと宮田の背中を見てぎょっとした。薄水色のシャツの背中一面に赤黒い血が染み込んでいる。
「宮田さん、怪我をされていたんですか?」
 慌てて尋ねる牧野に、宮田の反応は自分のことなのにそっけない。
「一発殴られただけです、別に大したことじゃありません。 あなたと違ってこういうのは慣れていますから」
 瞬間、変な間が空いた。
 宮田と牧野の二人ともが違和感を感じたようだった。今の言葉に何かが頭をよぎったのだが思い出せない。
 先に口を開いたのは宮田で、しかし違和感についての話ではなかった。
「さっき、東と何を話していたんです」
「え、聞こえていなかったんですか?」
「話の中身なんかに集中していたら機を逃すでしょう、入り口の方も突入寸前でしたからそっちまで気が回りませんでした」
「ああそうだったんですか……」
 牧野は少し考えて記憶に残っている単語を拾い集める。
「えっと、なんか村の人たちが信じられないという話で、肉親や知り合いが急に襲ってくると思いこんでいたみたいです」
「はあ」
 それは普通に統合失調症じゃないかと宮田は思った。
「それ以外には、例えば俺の話とか出ませんでした?」
「宮田さん?宮田さんの話は特に……ああでも、最後に言っていたのは確か、私が危ないからと言っていました。誰かが私の代わりに―――」
 空気を切り裂く銃声が響き渡った。まるで爆発でも起こったかのような衝撃で鼓膜がビリビリと振動し、牧野と宮田と、そこにいた全員が音の中心を見た。
 白いライトの中心で東の側頭部から赤いしぶきがあがる。誰かの悲鳴とどよめき。後ずさる者、周囲を警戒する者、牧野だけでなく宮田も驚愕に眼を見開いていた。



 東勝幸五十一歳。
 深夜に電線を切るなどの行為に加え、村人が襲ってくるなどの妄言を繰り返し、近隣の住人十名に負傷を負わせた罪により射殺。事態の緊急性を重く受けとめた神代の判断により、遠方からの狙撃にて行われた。
 狙撃者は明かされず、神代が内密に雇った殺し屋だとか、村にいる誰かにやらせたのだとかいう噂が流れた。
 噂は実情をよく知らない者が好き勝手にいうことで広まっていく。不思議なことに猟銃に鉈まで振り回した東が殺した人間は一人もいなかった。しかし風に乗って語られるのは気が狂った男の残忍な犯行ばかりであった。
 東の死を目の当たりにした十数名は思い出すだけで恐怖心が甦るのか、口を閉ざして自分から話そうとはしなかった。牧野も義父の死以来、それに近いトラウマを抱え込むことになり、宮田に言いかけた言葉はいつの間にか、話をしていたという記憶ごと薄れて見えなくなった。


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リクエスト下さった方へ
津山某事件で宮牧というのが魅力的なお題でありながら、個人的にかなり頭を悩ませました。
初めは思い切ったギャグにしようかと思っていたのですが、シリアスの方を期待されているかな?と勝手に想像して、このような形になりました。いくらでも長くできるお話だけに、色々カットした部分も多かったのですが、入れようかと思っていたものの一つ、エロの名残は牧野さんの全裸シーンに集約されております(笑)
ちょいちょい含みを持たせた部分は全てあの三日間に繋がっていまして、そういったところも楽しんで頂けたら嬉しいです^^*
ちなみに東さんは映画SIRENで主人公に色々忠告していた謎の男で、下の名前は中の方の本名から取らせていただきました。
素敵なリクエストをどうもありがとうございました!
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