見つめている1 | ナノ


大学生パラレル、宮牧←モブ




「あ、あの……すいません、ちょ、ちょっと訊きたいんですが」
 牧野は驚いて振り返った。駅の改札を出て出口に向かう途中のことだった。
 声を掛けてきたのは分厚い眼鏡をかけた男で、背丈は自分と同じくらいだった。
「はい…?私に……ですか?」
 ジャンパーのフードについたファーとマフラーで顔がはっきりせず、モノトーンの全身が夕闇から伸びた影のように見えた。
 牧野は反射的に視線だけで周囲を見回した。しかし今しがた下りた駅は終点で、改札を通った乗客は皆遠い出口に向かって散り散りになり、近くを歩く者は一人もいなかった。
「あ…あ、あ、あ…そうです……あなたに…訊きたいことが……」
 男の声は緊張しているのか震えと吃りを一緒に口から吐き出したような喋り方で、頭は下を向いたり上を向いたり、ポケットに突っ込んだ手をぐちゃぐちゃと中で動かしたりして、何となく気味が悪かった。
 もし大学の知り合いにこんな人物がいたら、同講生の格好の的だったろう。おい変なやつがいるぜ、と即刻笑いものになって、あっという間に除け者コース。二十歳前後の未来ある若者たちをそろえて、身体に見合うだけの精神を有している人物はいくらもいない。牧野が今通う大学はそういうところだった。
 そんな風潮は好きではないと思っていたとしても、下手に正義感を気取れば、逆にそれが目を付けられて人間関係を壊しかねない。無事に単位を取り、卒業という目的を達成するためには迎合していくよりほかないのだ。牧野を含め大多数の生徒は、中学生と同レベルの風潮に目をつぶることによって、あるいは恭順することで平和な大学生活を送っていた。
「なんですか?訊きたいことって……私、急いでるんです」
 あとはアパートに帰るだけだったが、話を早く終わらせるために嘘を言った。男には普通に受け答えをしてみせて、誰かが近くを通ればその隙に立ち去るつもりだった。
「あ……そ、そうなんですか……で、でも!訊きたいのは今日のことじゃないから……」
「はぁ…」
「あ、あ、明後日!明後日の今の時間……だったら、空いてますか?」
「えっ……何ですか?」
「だから明後日!予定ありますかって……き、訊いてるんですけど……」
 そんなことで大声を出すなよ。聞き取れなくて訊き返しただけじゃないか。
 こんな状態では予定云々以前の問題だ。……と言い聞かせなければ分からないのだろうか、この男は。
 既に牧野の中で話は終わっていた。唯一分からないのは、女性でもなく女性に間違われるような容姿でもない自分が、なぜ初対面の人間にそんなことを訊かれなければならないのかであった。が、この場を立ち去る方が優先だと感じた。
 明後日は土曜日で予定は入っていない。けれどこの男にそのままを伝えるのは危険だ。そもそも伝える気もなかった。
「その日は用事があります」
 そう言うと男は「えっ」とあからさまに落胆の声をあげた。
「そ、それじゃあいつだったら……」
「あなたにそんなこと教えられません」
「な、な、なんで……」
「何でって、知り合いでもない人にどうして教えなければならないんですか?……では私、急ぎますから」
 咄嗟に機転を利かせて今まで目指していた方とは別の出口に向かって歩き始め、少しでも早く男から遠ざかろうとする。
 すると男は慌てて牧野の前に立ちはだかり、大きく両手を広げた。
「ま、待ってください!し、知り合いじゃないけど!お、俺ずっとあなたに声を掛けたいと思ってて!だからあなたは知らなくても俺は知ってるんです!」
 しんとした駅の構内に男の声が響いた。
「あなたは知ってたとしても……私は知りませんし、急に声を掛けられたら気持ち悪いじゃないですか」
「だ、だったら!……ど、どうすればいいんですか、どうすれば……来てくれますか……?」
「来てくれますかって……」
 牧野はむっとして男を見た。
「どのみち私は行きません。嫌いなんです、そういうこと」
 牧野は男の返事を待たずに歩き出した。今度は早足で。ついてくるなと行動で示しているつもりだった。出口までの長い階段を駆け上がり、カーブを描いた最後の角を曲がって振り返ったら男はいなかった。無性に安堵を覚えて牧野はさらに走った。
 地上に出て通りを歩く人を見た瞬間、ようやくほっとした。もう後ろを振り返らずに、牧野は一目散に家まで帰った。


「っていうことがあって、」
 暖房のリモコンで設定温度を1℃下げながら、牧野はベッドの上で天井に向かって伸ばした足をぶらぶらと揺らした。
『すごいじゃないか、兄さんもナンパされるようになったってことだろ?記念すべき第一回目のナンパは、お…お…男からだったけどな、ははっ』
 電話越しの相手は初めから茶化すつもりで話を聞いていたらしく、途中から自分の言った言葉に耐えきれなくなって笑い出した。
「笑い事じゃないよ、もう!地味に怖かったんだから……」
『どうせあれだろ、大学で兄さんを見かけたやつで、合コンの人数合わせに兄さんを駆り出そうと思ったんだって。この時期そういうの多いしな』
「そうなの?」
『そうなんだよ、兄さんは知らないだろうけど』
「また馬鹿にして」
『してない、してない。でもあれだな、兄さんが出る合コンも見たかったな。声かけたやつも兄さんでどうにかなると思ったのかな、』
 く、くくっ、と語尾にまた笑い声が混じる。
「もう司郎!私、真剣に話してるのに!」
『はいはいすみません、それで?何が怖かったんだっけ?』
「私だってさ、何で自分なのかなって……そしたらその人『あなたの着てる服とか、髪型とか、可愛いなってずっと思ってて』って言ったんだよ?怖くない!?」
 受話器越しの笑い声がぴたりと止まった。
『そいつ……結構ヤバイな……』
「でしょう!?だから初めからそう言って……司郎が面白おかしく言うから!……ねえ、私どうすればいいと思う?」
 改札を出た先で話しかけられた―――それは、男は牧野と同じ区域に住んでいるか、牧野に声をかけるためにつけてきたということだった。宮田が言う大学生説を採用するなら、尚更また鉢合わせになる可能性がある。
 牧野はもう二度と会いたくなかった。構内でも会いたくなかったし、あまつさえ人気のない時間に近所で会うなんてまっぴら御免だった。
『だったら、まずは帰る時間帯をずらすことだろうな。それと出口は改札から一番近い所に替える、と』
「それでもう会わずに済む……?」
『いや……それだけで完璧じゃあないな、見られていたら終わりだし……兄さん、誰か同じ駅で降りる友達とかいない?できれば、出口を出てからも同じ方向に帰るやつであればもっといいんだけど』
「友達は……いるにはいるけどみんな帰る時間が違って……バイトとかしてるし……」
『それなら、一駅前で降りたらいいんじゃないか?あそこなら人に紛れて行き先をごまかすのもやりやすいだろ。一駅くらいなら大した距離でもないから、チャリでも停めておけばすぐ帰れるし』
「ああ、確かに……」
 一駅前は市内で一番大きな駅だった。バスターミナルや地下鉄、JR、新幹線と様々な乗換機関があるその駅では、乗客の九割が降りる。津波のような人の流れが無数にある改札と出口へ一斉に流れていき、地下街や地上へ散らばっていくのだ。行先をごまかすにはうってつけの場所だった。
 さっそく、牧野は翌日からそのコースをたどることにした。
 宮田のアドバイスに倣って用事はないが朝早くからアパートを出ることにして、大学の図書館で時間をつぶした。
 宮田曰く、合コン野郎(猫も杓子も合コンに参加する阿呆のこと)は年末年始のこの時期がもっとも出没頻度が高いらしい。だからこの時期を過ぎれば、危険は一旦落ち着くだろう、それまでは辛抱して警戒を怠らないことだと言った。
 宮田は牧野の弟であり、今は牧野とは別の大学に通っている。
 兄弟だからと同じ大学に入る訳ではない。目指すものが違うのも人が惹かれるものが違うように当然のことだ。
 宮田は医者を目指し、牧野は教員を目指していた。住んでいるのは県を三つほどまたいだ政令指定都市で、新幹線を使って二時間の距離だった。会えないというには近い。けれどすぐに会えるかといったら遠い場所に二人はそれぞれ住んでいた。
 高校に進むまで二人はどちらがどちらか分からないと言われるほど仲が良く、性格も一見すると同じように見えた。しかし住み慣れた村を出て県内有数の進学校に進むと、二人はぴったり重なり合っていた心を引きはがされ、少しずつ本当の自分を引き出されていった。
 全体が身内のような村での暮らし、温かく二人を包み込んでいた雰囲気は一変し、いじめや成績重視の競争社会、親のいない人間を見る世間の冷たいまなざしが彼らを苦しめるようになった。
 けれど全てが悪いことばかりではなかった。
 宮田は正義感が強く、真っ向からぶつかっていく方で、かと言って優しさがないわけではない。
 牧野は好戦的な宮田を諌め、できることなら互いが理解し合う方向を模索し、苦しい時はじっと耐え忍ぶ方だった。しかし言いたい時ははっきりものを言う潔さもあった。
 二人は互いが互いの欠点を補い合い、良いところは吸収し合って生きていた。二人は二人だからやってこれた。励まし合い、勇気付けながら見事、希望する大学へと進むことができたのも、苦しい日々があってこそだった。
 卒業して離れ離れになっても苦難を生き抜いてきたその絆は決して切れることがなかった。あの日々が一人でも社会に出て生きていける地盤を作ったのだった。それを一概に悪いと断言することはできない。



 季節は冬から春になった。
 二人は無事に進学し、その喜びを電話で報告し合っていた。大学入学以来、週末の電話で互いの近況報告は習慣になっていた。手始めに発泡酒で乾杯し、新しくやって来た教授が頭が固くてくだらない講義をすることについてなど、愚痴に花を咲かせる。その折、宮田がふと尋ねた。
『―――そういえば、最近どうなんだよ』
「どうって何が?」
『例のストーカー』
「ああ、あれね」
 今の今まで忘れていた。あれから牧野は余った時間をバイトに当てるようになり、すっかり忙しくなったのだった。バイトは同じゼミの友人から紹介された学童保育である。保育園の場所は定期券の範囲内だが大学からもアパートからも離れているので知り合いと会う危険は全くない。
「もう全然。あれから一回も会ってないよ。もしかしたらウチの学生じゃなかったのかも」
『ふぅん、ならいいけど』
「それよりさ、今度の週末来るんだろ?こっちに」
『ああ、うん。住んでるとこちゃんと見ておきたいから』
「ちゃんとってなんだよ、オートロックだしちゃんとしてるって」
『そういうことじゃなくてさ、人通りとか死角がないかとか、見ておきたいんだよ』
「なんだよそれ?」
 牧野は新しい缶に手を伸ばした。
『だから、またいつストーカーが出るとも限らないだろ』
「またまたぁ、大丈夫だって言ってるじゃん、あれから一回も会ってないだよ?一、回、も、」
 酔いにやられたテキトーな返事のあとにプルタブを引っ掻く音が聞こえた。宮田は深いため息をつく。
『もうそれ以上飲むの止めろよ、あんまり強くないんだし』
「司郎もだろぉ?いいんだって、明後日からしばらくお迎えが遅い子見なきゃならなくなったし、あんまり飲めなくなるんだ」
 固いプルタブにしびれを切らして牧野は携帯を顎に挟み、両手で缶を開けた。
『学童の?遅いって何時になるんだよ』
「うーん、十時くらいかな、まちまちだけど」
『帰るのはそれからだろ、バイト先からアパート結構遠くなかったか?』
「そうなんだよ、だから着くのはだいたい十一時かな」
 宮田は黙り込み、しばらくしてから言った。
『なあ、本当に気をつけた方がいいと思う。今は歓送会の時期だし、それに前聞いた感じだと何か、ただのコンパの数合わせって感じじゃない気もしたから』
「もう〜おどかさないでよ、だいたい司郎は前からそうだよね、何かにつけて心配性っていうかさ」
『冗談じゃないんだって!』
 指先で軽く持っていた缶が倒れた。ローテーブルに置かれたつまみのパッケージがみるみる炭酸水に浸かり、テーブルの向こうから透明な滴がラグに染みを作る。
「び、びっくりするなぁ……なんだよ、いきなり……」
 牧野は近くにあった布巾を取り寄せ、テーブルを拭きながら視線をさまよわせた。耳元の怒鳴り声が隣で言われたようで実は部屋に弟がいるんじゃないか、という気持ちになった。
『だから冗談じゃないんだよ。そういうやつは本当に異常なんだ。俺が勉強してるのはそういうことなんだ、だから言ってるんだよ。俺たちと同じことを考えていると思わない方がいい。……分かるよな?』
「うん……分かったよ、ちゃんと気をつけるから」
 しおらしくなった牧野に宮田は優しく言った。
『ならいいよ。俺も怒鳴ったりしてごめんな』
 牧野は立ち上がって流しに向かった。手にした缶は中身がまだ半分残っていた。携帯を左手に持ち替えて缶の方を逆さまにし、残っていた中身は全部流しに捨てた。

 バイトで遅くなる時は必ず表通りを通ること、派手な服装はしないこと、前後の人間との距離に気を配り、常に鞄の携帯で誰かに連絡することを意識しながら歩くこと。牧野は宮田に言われたことを必ず守って行動した。
 初めは宮田に脅されたのもあって常にビクビクしていたが、時間が経つにつれて彼を怒鳴らせたのは自分のせいだったことに気がついた。離れて状況もつかめない、助けに行くこともできないから心配でつい声を荒げてしまっただけなのだ。むしろ彼をそうさせてしまった自分の甘さを反省すべきかもしれない。
 テレビでストーカー被害のニュースを見る度に、牧野はあれは他人事ではないと考えるようになった。宮田を安心させるためだけではなく、自分自身のためにも防御策は必要だろう。このご時世、いつ何が起こるか分からないのだから―――
 行動は次第に習慣化し、それが功を奏しているのだろうか、冬のあの日から牧野は平和な大学生活を送っていた。
 季節は夏になっていた。


 コンビニの自動ドアを過ぎてちらっとみた店員の顔に牧野は内心まいったなぁと思った。
 安いからと通いすぎたせいで、この時間の店員に完全に顔を覚えられてしまった。男性店員の割によく喋る人物で、先日「またこのアイスですか、一気に食べるんですか?」などと訊かれてしまった。良いだろう別にアイスを二個食べても、ほっといてほしい。
 帰り時間を押していた学童のバイトについては、「牧野くんがいれば安心ね」と未だにそのままなのだった。
「親御さんも遅くまで見るのがバイトの人だと心配だったみたいだけど、――くんも牧野先生大好きって言ってるらしくて、牧野くん仕事も几帳面だから不安もないですってこないだお礼を言われたのよ」園長じきじきにそう言われては「ところでシフトのことなんですけど」と言い出せるはずもない。心付にいただいた立派な桃を持たされて、自分の押しの弱さを嘆きながらとぼとぼ帰るしかなかった―――のが数日前。
 現在はアイス用の冷凍庫の前でうろうろしていた。またあの店員に指摘されるかと思うと同じアイスは選びたくない、けれどそのほかに食べたいアイスもない。
(やっぱりアイスはやめようかなぁ……)
 冷凍庫から一旦離れ、牧野はレトルトや缶詰コーナーを覗いた。お金がない時にパスタは意外と重宝する。レンジでゆで上がるタッパもあるし、あとは適当な具材があればどうにでもなるからだ。
 そういえばシーチキンを切らしていただろうか、牧野はその中で一番安い三連の缶を取ろうとした。
「あっ」
 指がぶつかった。ちょうどそれを取ろうとしていた人物が牧野以外にもいたのだ。
「すみません…!」
 牧野は咄嗟に指を引っ込め、「お先にどうぞ」とぎこちない笑顔で相手に譲った。
 しかし相手の男は牧野の顔をじっと見て、首だけを小さく上下させると黙って回れ右をした。
(は……はあ?)
 これを取りたかったんじゃないのか、牧野は怪訝な表情で男の後姿を見つめ、別の列に消えていったのを見送ってから、変わった人もいるもんだと改めて缶を手に取った。
「あ、今日はアイス買わないんですか?いっつも買っていくのに」
 例の店員は案の定、牧野が出した商品を見て余計な一言、二言を付け加えた。
 まただよ、もう今度言われたら客のプライバシー侵害で店長にクレームを入れてもいいよな、牧野は心の中で毒づき、今度言われた時のために店員の名前を記憶した。アイスを買っても買わなくても結局何かを言われるなんて気分が悪い。

 自転車はコンビニの前に停めておいた。230円のプリンがシェイクされないように牧野はレジ袋をハンドルにひっかけ、支えていたスタンドを蹴り上げて顔を上げた。
ふと、それを見た。流れるように通り過ぎていく景色の中でどうして目を留めてしまったのか。それだけが異質だったからだ。
 遠くから自分だけを見つめる視線。店内から射抜くようにこちらを見ている人物と目が合って、牧野は凍り付いた。缶を取ろうとして手がぶつかったあの男だった。
 なんで、どうして自分を見ている。
 レジに並ぶ客、レジを打つ店員、雑誌を見ているサラリーマン、誰も男に気づいていない。そこにいるのにどうして気づかない。陳列棚に体を隠し、積み上げられた商品の隙間から監視でもするように見ている。二つの目玉が、牧野を見ている。
 ヒュッと細い音が喉を通った。悲鳴だと思ったが、ただの息だった。
 牧野は突然咳き込んだ。ガハッ、ガハッと大量の空気が肺を圧迫し、喉を締めつけた。ハンドルからレジ袋がずり落ちて、ぐしゃっとアスファルトの上で音を立てた。
 息ができない。牧野は固く目をつぶって、懸命に息を吐き出した。深呼吸、とにかく深呼吸をしなければ。
 通りを走る車の音に混じって自動ドアが開いた。馬鹿みたいに軽快な入店音が鳴って牧野は弾かれたように顔を上げた。男がこちらに向かってくる。
 牧野は全身が震えるのにも構わずレジ袋を掬い上げ、かごに放り込んで自転車に跨った。ペダルを踏もうとして踏みそこなった。勢いよく空転するペダルが脛に思い切り当たったが、牧野はそれさえも放置して直接足で蹴り出した。右足が何とかペダルに乗り、体重の全てをそこに乗せる。踏む、踏む―――

 アパートの部屋に着くまで牧野は震えっぱなしだった。
 真っ白の指で携帯を取り出して耳に当てた。宮田の声が聞きたかった。
『ただいま電話に出ることができません。ピーッという発信音が鳴ったらご用件を―――』
 そうだった。今は宮田は実習中で病院に泊まり込むことも少なくないと言っていた。電源は入っているけれど返事はいつ聞けるか分からなかった。
「もしもし……慶です、あの……実習中で悪いとは思ったんだけど、さっき怖いことがあって……」
 怖いのはさっきの出来事なのに、弟の声が返ってこない空間に自分だけが喋り続けているとまた恐怖がぶり返してきた。耳と頬に押し付けた携帯の表面が濡れていることにも気づかなかった。
 司郎、司郎、と心の中で名前を呼んだ。
 会えないことが分かっていても、なぜ今宮田はここにいないんだろうと離れた距離が恨めしかった。
 やっぱり駄目だ、私は一人では生きられない、司郎がいなければ生きられない。
 怖い、助けて、司郎、早く電話をかけてきて―――
 かぼそい声でメッセージを吹き込んだ牧野は、とにかく騒がしい気配に身を置いていなければ正気を保っていられなかった。テレビとパソコンと部屋の全ての明かりをつけた。
 もしかしたら泊りではないかもしれないという可能性に一縷の望みを賭けて、ベッドの隅で蹲った。そして朝まで携帯を握りしめていた。



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