HAPPY X−DAY!! | ナノ


教師パロ



「はい次、上着上げて。…後ろも見せて、裾は?」
「ひざ上……10cm、ですね」
「はいじゃあ君はそっち行って、喜代田先生に替えのスカートもらって」
 不満顔の女子生徒を隣に送り出して、手元の用紙に校則違反理由と詳細を記録する。
 次の生徒は見るからにひざ下だから測る必要もないだろうが、検査に例外はないから同じくスカートの丈をチェックする。

 しかし校則というのはつくづく面倒だと思う。
 俺が生活指導の担当になってからもう二年になるが、そもそもなぜ自分にこの分掌が割り当てられているのか、未だに腑に落ちない。
 薄々分かっていることはある。俺が生徒たちから“怖い先生”として認識されているからだ。
 考えてみてほしい、たとえばこれがもし“牧野先生”だったら。
「う〜ん、本当は駄目なんだからね、分かった?じゃあ次からは気を付けてね」
 などと言って校則違反者は見逃しまくり、いざという時も強く言えない。
 おそらく校則が校則として成り立たなくなるに違いない。だからこういった手合いは強面の教師の方が都合がいい。
 しかしそうなると自分が不愛想で無感情の冷血人間と言われているようではないか。いや、教師や生徒の誰から面と向かって言われたという記憶もないのだが。

 校則の存在意義については、いつの時代も生徒たちから不平不満が多く聞かれる。厳しすぎる校則をめぐって生徒と教師が対立する、なんてのも珍しくない。
 だがそれらは生徒たちの将来のため―――学校とは社会の縮図であり、今後世間に出ていく彼らに世の中の在り様を理解させるためのものだ。
 と同時に品格を保ち、風紀を乱さないことが学校のためにもなる。
 校則があるからこそ明確な基準でもって教師陣は生徒たちを指導することができるし、何でもかんでも自由にしたからといって生徒が人間的に成長するわけでもない。
 むしろ開放的になった生徒たちはさらなる自由を求めやすくなり、貴重な青春時代に「なぜこうあるのか」と深く考えるのでなく「なぜこうならないのか」と相手にばかり変化を望み、現状の意味を考えなくなってしまう傾向が強くなる。
 若くて吸収力のある時期にこそ考え、やるべきことがあることを、彼らは知るべきである―――。
 と一介の教師らしく偉そうなことを考えてはみたものの、勤務時間の半分を全校生徒の身だしなみと持ち物のチェックに費やされていれば、いい加減それもうんざりしてくるというものだ。
 もうひざ上とかひざ下とか靴下の色とか上着の丈とかどうでもよくなってきた。今だけは俺も生徒と同じ校則反対派に回りたい。


「もう、何でよりにもよって今日なのぉ?」
「ホント、最悪だよねー」
 先に席に戻った女生徒たちの声が聞こえてくる。
「ああ!これが昨日か明日なら良かったのにぃ!」
 アホか、今日だからやる必要があるんだろう。
「だよねー、せっかく彼氏に渡そうと思って持ってきたのにさ、さっき――…宮田先生に取られちゃって」
 まだ廊下に俺がいることを踏まえて声を小さくしたのだろうが、悪いな、俺の地獄耳は筋金入りだ。
 俺からすれば、その発想が既に愚考であると言わざるを得ない。
 バレンタインデーだからチョコレートを学校で渡す、など。
 本当に渡したいなら家まで行って渡せばいいだろう。それが無理なら行きか帰りに買って渡せばいい。
 会いに行けないほど遠方の彼氏で、どうしても手作りがいいというのなら下駄箱か部室なんかに置いておけばいいわけだし、見つかったら即刻没収という危険を冒してまで常にバッグに入れておく理由が分からない。
 結局のところ、見つけられる方にも問題があるということだ。
「はい、では男子は廊下に出て並ぶように」
 クラスを移って、再び男子生徒の制服チェックから開始する。
 女子に比べて男子は切るスカートがないから楽だと思われがちだが、ズボンを腰で履くやつが裾を切っている場合がある。従ってこれもメジャーで確認しなければならない。
 全く、みっともない下着を見せながら裾を引きずって歩いて何を格好いいと思っているんだろうか。謎だ。
 たまにケツそのものがはみ出ているやつまでいる。そんなやつは即指導だが。
「ええ次は―――…」
 須田か。コイツの場合は服装というより頭髪だな。
「お前のそれは地毛か?」
「まあ、地毛レベルならもうマックスっていってもいいくらいですよね!」
「染めてるんだな、はい違反」
 隣の喜代田に目配せして、黒染めのヘアスプレーを出させる。
「ええー!これ、染めたの結構最近だったのに……」
 やっぱり染めたんじゃないか。
 須田はケープを首に巻かれ、新聞紙を持たされた。カチカチとスプレーを振る音がして、喜代田が明るい茶色の上にスプレーを振りかけていき、みるみるうちに髪の毛はインクをベタ塗りしたような黒一色に変わっていく。
「やべェ、須田チョーだせぇ」
「マジだ、テカテカじゃん」
「うるせぇって、ああ…ホントだ、これじゃペンキ被ったカラスじゃん」
 渡された鏡で須田が後頭部を見ると、襟足までどぎつい真っ黒に染まっていて、また「うわあ」と声を上げる。
 うるさいどうせ洗えば落ちるんだからぶつくさ言うな、半日我慢すれば残りの大半を許されると思えば安いものだろう。
 これは生活指導担当としては戸惑う部分なのだが、こうした検査をする時だけ生徒には厳しく指導するが、それ以外はどれだけスカートを短くしようが髪の毛を茶色くしようが、度を越してさえいなければ呼び出して今のような処分はしないことになっている。検査だけ見れば厳しく思えるが、基本的にうちの学校は大らかだ。
 しかし生徒に守らせるという意味ならそのやり方では意味がないし、その程度までOKだというなら校則をそのように改正すべきなのではないだろうかとも思う。
 だがそんなことになったらまた新しい校則でチェックしなければならなくなって、書類は作り直さなければならないだろう。
 全校生徒・教員に指導基準を周知徹底するためには新たな指導計画を作成し、適宜追加・修正する。それを一定期間毎に評価して、職員会議で報告、さらにはPTAや教育委員会にも報告書を提出しなければならない。
 例えば私服にするとしたらどこまでがOKでどこからがNGなのかやはり基準というものが必要になり、となると生徒たちのファッション事情も勉強しなければならないだろう。新しいものが出てきて「校則にないから」と言い逃れできるようでは規則を作る側としてあってはならないのだし―――
 校則反対の話はやっぱりナシだ、面倒臭すぎる。

「宮田先生」
 淡々と検査を進めていると、髪が乾くのを待っている間ヒマな須田が話しかけてきた。
「今日ってさ、バレンタインだよね」
「…それがなんだ」
「牧野先生、今日誰かにチョコ渡すみたい、…って知ってた?」
「……」
 知らなかった。牧野さんがそんなものを持ち込んでいること自体、気づかなかった。当然か、自分と牧野さんは出勤時間を別々にしている。なぜかは言うまでもない。
「俺、今日珍しく早くに来たんだけど、その時見ちゃったんだよね〜」
 第二駐車場から走ってきた牧野先生が大事そうに持ってた白いふ・く・ろ。
 何を期待しているのか、須田は気色悪い声で「ふくろ」の部分を発音した。嬉しそうとも言う。
「先生からもらう分には仕方ないですよねー、先生の持ち物チェックなんてしないんだろうし」
 呆れた。須田は自分がもらえるものと思っているらしい。すると須田は俺がそう考えるであろうことを予測していたのかこう言った。
「別に俺だけにくれるとは思ってないっすよ、ただ牧野先生なら一人にってわけないだろうし、渡してるところに出くわしたら絶対くれると思うんだよね」
 なるほど、そういう魂胆か。
 確かに、午前の大仕事を終えて昼飯時、それとなく職員用の冷蔵庫を使う様子をうかがっていたら、牧野さんは冷蔵庫を開ける女性教員にその都度「場所を取ってすみません」と謝っていた。
「場所を取って」というくらいだから須田の言うように一人分とは考え難い。
 だが教師は皆忙しい。ひとところに留まることはほとんどなく、見かけた人物から渡していくのが得策だと言える。ところが牧野さんが誰かに菓子を配っている姿は全く見られなかった。
 朝礼の時にこっそり渡していた?
 いや、牧野さんと同じ空間に身を置く場合は必ず彼を意識しているつもりだが、そのような様子は一切なかったと思う。
 だったら帰り?
 放課後は部活や校務以外の分掌で教師たちがばらけて一番不適当だと思うが……
 あれよあれよという間に時間は過ぎ、時刻は六時を回った。予想通り、数週間後に控える入試で部活顧問以外の教師たちは忙しそうだった。
 特に各クラスに割り振られる数名の教師の中で責任者に任ぜられた牧野さんは、書類やら模造紙やらを持っては職員室を出ていき、またすぐに戻って来ては何かを探して、また出ていく。
 写真部での仕事が終わって喫煙室からその様子を眺めていた俺は、ただの傍観者になっていた。
 違和感だらけの頭をした須田を見るまで、自分は何でこんなことをしているのかさえ忘れていた。

 辺りをぐるりと見回した須田は目当ての人物がいないことにがっかり、という顔をしたが、教員もまばらな職員室の片隅の個室にいる俺を見つけると、意気揚々と近づいてきた。
 手がぶつかったんだかノックなのか分からないような音の後に喫煙室のドアが開かれる。
「宮田せん……うわっ、煙すっごい!」
「おい、開けっ放しにするな」
 いや俺が出るしかないのか、三本目の煙草を灰皿に押し付けて喫煙室を出ると、隣に立った俺に須田が「煙草くさい」と顔をしかめる。
「何か用か」
「用って、朝話したじゃん、牧野先生誰かにチョコ渡してた?……渡してましたか」
 俺がにらむ前に敬語を使えばいいのに、まったくコイツは……
 須田は最近になって積極的に話しかけてくるようになった。特に牧野さんがらみのネタがあると必ず俺に振ってくる。
 学校では牧野さんと仲が悪いことになっているから正直言って迷惑なのだが、コイツはそれを物ともしない。
 どうも文化祭以降から妙になれなれしくなったような気がするが……
「牧野先生は入試の準備でずっと忙しくされている。チョコだのバレンタインだの、くだらんことにうつつを抜かす暇はないはずだ」
「はず、とかはいいんですって、渡すものがあるのは確実なんすから、あとは現場を押さえるだけでしょ!」
 現場を押さえるとか、牧野さんがチョコレートを渡すと犯罪になるのか?
 …うん、まあ犯罪だな。
「でも問題は牧野先生がいつどこで渡すかなんだよなー」
 腕を組んだ須田は首を上下させ、うんうんと頷いている。
 俺は別に須田に協力しようと思っていたわけではない。が、何となく気になって冷蔵庫を開けてみた。
 ……ない。
 現物を一度も見たことがないのでどんなものか正確には把握していないが、少なくともこの中に白い袋はない。それらしきものもない、あるのは数本のペットボトルとコーヒー缶、それと先週都内の研修に行ってきたという教師の土産菓子だけだ。
 だが確実にあったという証拠は残っていた。
 不自然に高くされた庫内の仕切りと、端に寄せられた缶・菓子。中央にはちょうど両掌くらいのサイズのスペースが空いている。
 急に焦燥感がやって来た。誰だ、誰に渡した。
 よくよく考えればそれがバレンタインの菓子かどうかなんて分からないのに、俺は自分以外の誰かに牧野さんが物を渡している姿を想像して無性に腹が立っていた。
「社会化準備室は」
「ああ、そこなら来る前に見てきたけど、……きましたけど」
 冷蔵庫に入れておかなければならないものを取り出してどこかに置いておくはずはない。すなわち、数分の間に誰かに渡すつもりなのだ。
 しくじった、喫煙室の窓からは牧野さんの上半身しか確認できなかったから、先ほどの出入りで牧野さんがそれを持ち出していたことまでは分からなかった。
「社会科準備室?」
 ふいに通りがかった恩田(妹の理沙の方)が会話に参加してきた。
「社会化準備室なら、きっと今頃おやつタイムですよ〜」
 職員室以外の(居場所がある)先生はおやつ食べれていいですよねぇ、この時間って一番お腹空きますし、のんびりと言って腹をさする、相変わらず緊張感のない女だ。
 例えるなら十年くらい前に流行った“癒し系グラビアアイドル”だろうか。一部の生徒や教師には人気があるらしいが、俺にはその良さが全く分からない。
 第一、グラビアアイドルには必要不可欠の身体的特徴が圧倒的に不足しているだろう……なんでこんなことを考えているんだ、俺は。
「おやつタイムって?」
 須田が尋ねる。
「さっき牧野先生が冷蔵庫に入れてたお菓子持っていってましたから、これから皆で食べるんじゃないですかね」私も社会の先生だったら一緒に食べれたのにぃ、まだ能天気なことをつぶやいている理沙は放置して、俺たちは一目散に目的地へ向かった。



 社会化準備室に到着したはいいが、小窓のない引き戸に遮られ中の様子は全くと言っていいほどわからなかった。
「入試の……は…………ましたか」
「はい、あとは………で、先生は………よね?」
「ええ………が……」
 声もこの通り、途切れ途切れにしか聞こえない。
 すぐさま当然のように俺と須田は扉に張り付いて、戦国時代の忍者よろしく中の声を聞き取ろうと耳を当てる。そうするとぼそぼそとしか聞こえなかった声が、今度ははっきりと聞こえてきた。
「今日は先生にお渡ししたいものがあるんですよ」
「今日は何かあったのか?」
「先生はご存じないんですね、今日はそういう日なんですよ」
「そうか……私はそういうことに疎いからな」
「ふふ……だと思いました。いつもお仕事ばかりに熱心で、ご自分のことを忘れがちですもんね」
「いや、そんなつもりはないんだが……」
「あら、無自覚でした?でも、それが先生の良いところなんだと思います。だから先生のクラスの生徒たちは皆いい子なんでしょうね」
「いや、私よりも生徒たちの自主性だろう、彼らはあれで……」
 話は続いている。
 唐突に俺の中に破壊衝動が生まれた。このむずがゆい空気をぶち壊しにしたい。何かこう、いじられ芸人の結婚式みたいに、めちゃくちゃにしてやりたい。
 いや待て、結婚式ってなんだ。牧野さんが俺以外の人間と結婚するわけないだろう。恋人は俺なんだから。
 今朝の須田の「チョコをもらえる発言」も大概だと思ったが、この時の俺も相当におかしくなっていた。牧野さんが自分以外の誰かを特別に扱うことなんてないと思い込んでいたからだ。
 社会化準備室のある階は部活で使われることも少ないので人気がなく、偵察にはうってつけだった。
 だがこの状態を誰かに見られたら一環の終わりだ。俺は立ったまま扉に張り付いて、須田はしゃがんで通気口の部分に耳をくっつけていた。
 その須田が、なぜだか小さく震えていた。
「……おいお前…どうした…?」
 青い顔をして、口をパクパク動かしながら何事かを伝えようとしている。俺は耳を傾けた。須田は吐息のようなかすれ声で、
「牧野先生……ついに本命を見つけちゃったのかも……」
「はあ?」
「だって、二人っきりっておかしいじゃん…チョコ渡すだけならこんなとこでイチャイチャしなくなっていいわけじゃん…」
 まだイチャイチャしてると決まったわけじゃない。イチャイチャなど俺が許さない。
 それにまだこの話し相手に渡すと決まったわけでも―――
「先生、甘い物って大丈夫ですか?」
 決まった―――頭の中でサッカー中継の実況のような声がこだました。嘘だろう兄さん、そんな、俺という恋人がいながら……
「甘い物か…。まあ苦手ではないな、一度に沢山食べたりはしないが」
「良かった、じゃあ二人で半分にしたら、それならきっと丁度いい量ですね。……あら、フォークが一つしか……まあ交互に使えばいいですよね」
 いや全然よくない。理屈も分からない。
 俺と須田が顔を見合わせて、もう一度室内の音に聞き耳を立てていると、
「はい、先生どうぞ」
「いや、牧野くん、そんなことは私が自分で―――」
「でも先生、その報告書急いでるって言われてたじゃないですか。だから、はいどうぞ」
「そんなものだろうか…?」
「そんなものです」
 少しの間室内が静かになる。それから、
「どうですか?」
「……甘いな」
「ふふ、それはそうですよ。でも先生用に甘味を抑えて作りましたから、あんまりくどくはないんじゃないですか?」
「それはそうだな……しかしこの齢になって食べさせてもらったのは初めてだ」
「気にしないでくださいよ、今日は先生が遠慮してはいけない日ですから。報告書を書き終えるまでは、私がお手伝いしますね」
 ふふっ、と笑う牧野さんの笑顔が目に浮かんだ。
 力一杯噛み締めた俺の歯がギリギリと鳴る。食わせてもらっているだと?俺だってめったにしてもらえないというのに―――――
 忘れもしない数日前、「食べさせてください」と言ったら「あなたは赤ちゃんですか?手があるんだから自分で食べられるでしょう」と冷たく返されたことを俺はまだ根に持っている。
 俺が目の前の扉を殴りつけたい衝動を必死に抑えていると、突然引き戸がビシャンと全開になった。須田が勢いよく中に飛び込んだのだ。
「牧野先生――っ!」
「あ、馬鹿野郎…」
 誰かコイツの乱入癖を何とかしてくれ。デバガメして乱入とか最悪だ。
「えっ!須田くん!? わ、どうしたの、その頭」
 驚く牧野さんの声とガタガタッという物音。監督者責任ということで仕方なく俺も須田の後ろに続いた。

 壁際に資料や教材がわんさと積まれた社会科準備室。中央には事務机が四つほどくっつけられており、その上には件の白い袋が口を大きく開けた状態で置かれていた。袋から半分ほど見えている箱は空で、そこから取り出されたのが真っ赤ないちごの載ったワンホールケーキだった。
 一般的なショートケーキを二つ合わせたくらいの大きさのそれは、端が少し欠けている。さっき牧野さんが食べさせたからだろう。
 肝心のあーんをしてもらった人物―――牧野さんから見ると机を挟んで向かい側に座っていたのは、社会科の教科主任である竹内だった。牧野さんと同様に目を丸くしている。
「竹内先生……?何で?」
「何でと訊かれても…社会科の教師だからここにいるんだが」
 そりゃそうだ。
「だってそのケーキ……」
 須田の指が牧野と竹内の間にある小さなケーキを差す。
「ああこれ?今日は竹内先生の誕生日なんですよ?」
「誕生日……」
 二人分の視線が向けられ、竹内は「いや……」と口をもごもごさせて頭を掻いている。
「バレンタインだからじゃないの…?」
「バレンタイン?……あ、そっかぁ、だから昨日製菓コーナーが混んでたんだ」
 そこまで行ってなぜ気づかなかったんだ。
 店側のあざとい販売戦略によって、もっともバレンタインを感じる場所じゃないか。この人は相変わらず鋭いところと鈍感なところの差が激しい。
 まあだけど、一番大切なのは相手が牧野さんの本命ではなかったということだ。浮気の可能性がないのなら俺は安心できる。
 年がら年中、万人に笑顔と厚意を振りまいている牧野さんにいちいち嫉妬していたら身が持たないのだから―――そう、これは恋人として単純に心配だっただけで、俺は決して我を忘れたりなんかしていない。
 そうやって俺はあるべき大人の対応として牧野さんの行動を理解したというのに、それでは納得できないガキは文句を垂れていた。
 牧野さんがバレンタインデーを忘れていたことを追及し、先生から何かもらえると思ったのに、とあからさまな物欲アピールまで始めている。
 須田だって本当は分かっているはずだ、ワンホールケーキではおこぼれにあずかることもできない。
 けれど須田は牧野さんに後輩としての好意以上は感じていない竹内とも、恋人という大前提に守られて優位に立てる俺とも違う、純粋な片思い青年だ。
 ここで「わあ先生誕生日なんですか、おめでとうございます」と一緒になって祝えたら、牧野さんの株も上がるかもしれないのに、だからガキだと言うのだ。
 そういえば今思い出したが、竹内は須田の担任ではないのか。
 普段世話になっている担任を差し置いてそのケーキを寄越せとは、(そう言ってはいないがほぼ同じことだ)須田もよほど切羽詰まっているらしい。
 一方、主賓の竹内は生徒の自主性に重きを置くタイプで教え子が何かをやらかしても基本的には本人が気づくまで黙っているのが信条らしい。
 我関せずと手元の書類に手を付け始めてしまったので、牧野さんも困ったという顔をしていた。
 うーん、須田くんにあげたいけどこれは竹内先生のために作ったものだし……そんな心の声が聞こえてくるようだ。
「そうだ、じゃあ須田くんには私の分を分けてあげますよ、はい」
 考えた末に牧野さんはケーキを半分に割ってそこから一口分を掬うと、小うるさい口に放り込んだ。
 しばし訪れる沈黙。
 小動物のように頬を膨らませた須田がもくもくとケーキを咀嚼している。
 食べている時が一番静か、というのは赤子から小学生くらいまでを指す言葉かと思っていたが、高校生でも通用するんだな。
 そういえば須田は若干リスに似ているかもしれない、なんてことを考えていたら、食べ終わった須田が再び口を大きく開いた。
「スッゲェ美味い!牧野さん、天才!」
「そう?」
「こんな美味いの初めて食べた!牧野さんの手作りケーキ!しかも牧野さんからもらった!」
 いや、牧野さんの料理の腕は普通だぞ。俺は毎日家で手料理を食べさせてもらっているから分かる。
 菓子作りも趣味でちょくちょく作っているのは見かけるが、味見をしても特別に大絶賛するほどではない。食べ慣れているから普通に思えるだけだろうか?
 それよりも重要なのは須田が喜んでいるポイントだった。
 おそらくコイツは食べさせてもらったということに狂喜している。大好きな牧野さんの手作りケーキを牧野さんに食べさせてもらうなんて、義理チョコより何倍もの僥倖だろう。
 だが須田、お前はそれでいいのか?一応、竹内とも間接キスしてるんだぞ。
「本当?おだてるの上手なんだから…じゃあもう一口あげるね」
「やったぁ!」
 こいつ……。
「いい加減にしてください牧野先生。今日は校則検査の日ですよ?それでなくとも、生徒の昼以外の飲食は禁じられています。教師が率先して校則違反を促すような言動は慎んでいただけませんか」
 口を開ける須田に二口目が入る寸前で俺は言い、牧野さんは「ああ、そういえばそうでしたね」と言ってフォークを収めた。
 あーん阻止のためなら死力を尽くす、これが恋人の義務である。もちろんこれは本来の職務を全うすることでもあるので、須田に反論権はない。
 ないと言っているのに、須田は最後までうるさかった。「ええー何だよぉ、横暴だろそんなのー」と騒ぐヤツを廊下に押し出して準備室の扉を閉めると、さすがにそれを開けてまで再び乱入してくることはなかった。ようやく準備室が静かになる。

 残されたケーキがなんだか切なげな影を落としている。
 すっかり書類に集中してしまった竹内と須田が入って来ないかまだ気が抜けない俺、一人ぼけっとしている牧野さん。
 ぼけっとしているのはいつものことだが、ここでは俺を苦手としているということを忘れないでほしい。
 先ほどのケーキを須田に食べさせるというのは須田を黙らせるには得策だったが、俺に弱みを見せることになるから“牧野先生の行動”としてはおかしいだろう。まあ完全に忘れていたんだろうけども。俺もまさか須田が突然入っていくとは思わなかった。
 だが須田には前科があるから全く予想できないはずではなかった。先ほどの様子で何だか以前の裏側を見たような気がする。
「ふう、終わったか」
「わあ、文章書くの早いですね、竹内先生」
「ああ、せっかく君が作ってくれたケーキをそのままにしていたのか、申し訳ないな。宮田先生もどうですか、コーヒーの一杯でも」
 あの一連のドタバタ劇の中で本当に書類に集中していたのか。竹内という教師もなかなか図太い。
 この後もあーん合戦が繰り広げられるかと思ったら阻止するべく留まりたいというのが本音だったが、残念ながらそれ以外に長居する理由はない。俺は扉の外から須田の気配が消えたのを確認したら、あとは出ていこうと思っていた。
「いえ、私は結構です」
「そうか、牧野くんも私に気を遣わずに食べてくれ」
「いいえ私は、本来は竹内先生のプレゼントとして作ったものですから、私は先生が食べれなくなった時に」
 もごっと変な声がして、伺っていた廊下から視線を後ろに向けてみると、机越しに身を乗り出した竹内の手にはフォークが握られ、牧野さんの口元がクリームまみれになっていた。
「ふぁっ、はへうひへんへぇっ」
「あ…すまん、失敗してしまった。さっき君がしてくれたから今度は私がしてやりたいと思ったんだが」
 牧野さんは口元をクリームまみれにしているだけでなく、頬も膨らませていた。入れられたケーキが大きすぎたんだ。
 明らかに一口を超えるサイズを飲み込むまで牧野さんは喋れなくなる。懸命に口を動かして、時折口端に付いたクリームを舐めとって、それを黙って二人に見られるのは少し恥ずかしかったようで―――
 頬を赤らめるのは反則だと思う。
 普段俺のを咥える時でも、すっかり玄人になってしまった牧野さんが恥ずかしがることはない。そんな目を泳がせて気まずそうに瞬きをしたり、両手で顔を隠そうとしたり……
 正直に言おう、全力で勃った。
 咄嗟に前を合わせて白衣を直す振りをする。まずい、これは場所を移さなければいけないレベルだ。
「そろそろ須田も、帰ったようですから、」
 いかん、絶対声が上ずった。だがそんなことには構っていられる余裕もなく、俺はあーん阻止からペニスの塔建設阻止に目的を切り替えて退散するしかなかった。
 くそ、帰ったら絶対してもらう、あーんも絶対してもらう。



「先生は砂糖半分の濃いめでしたよね」
「ああ、すまない、私の方が近いのに」
「いいえ、なんたって今日は先生のお誕生日ですから」
 真っ黒に白い縁のマグカップと植物のつたがプリントされているマグカップを持って牧野は自分の席に戻り、黒い方のカップを竹内に渡す。
「はい、どうぞ。さっきポット再沸騰させておきましたから、ちゃんと熱いと思いますよ」
「ありがとう。節電が必要と分かっていても、ぬるいコーヒーだけは辛いものがあるからな」
 一口すすって竹内がしみじみ言う。
 羽生蛇高校では以前から節電に取り組んでいたのだが、数年前から市内の全学校においてもさらなる節電が必要と自治体から通達があり、二本の蛍光灯を一本にしたり電気ポットのコンセントをこまめに抜く必要に迫られていた。厳しい世情は社会化準備室にも現れているということだ。
「ええ分かります、何だか急に美味しくなく感じちゃいますよね」
「しかし牧野くんといるとそれを忘れてしまうよ」
「節電ですか?」
「ああ、おそらく不便がないからだろうな。まったく君はよく気が利く。君のような嫁がいてくれたら、毎日に苦労なんてないんだろうな」
「えっ?」
 やや驚いた声を上げて牧野が見つめ返しても、竹内は優しい瞳を逸らすことはしない。本心ということだ。
「そんな……先生、そういうことは実習生のあの子に言ってあげるべき言葉だと思いますよ?」
「安野に?どういうことだ?」
「それも無自覚なんですか?これは安野さん、大変だなあ……」
「ん?それはどういうことなんだ、牧野くん」
「いえいえ、さすがの竹内主任にもそればっかりは」
 甘いひと時の終わり、牧野と竹内はカップを傾けて一日とコーヒーの余韻に浸っていた。


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