My life
一度脳裏をかすめた不安が、胸に宿りだしてからどうにも落ち着かない。ニアに「重要な話がある」と呼ばれて進む廊下。足取りはすこぶる重い。
「ナナは、どうやって生きていくのか」
思い出すのは、数日前にした会話。いつものニアらしくない問いかけだった。
「え?どうって……ハウスでこうやって。子ども達の成長を追いかけるのが、性に合ってるって感じるし」
「……そうですか」
「何よ、陳腐?」
「いえ」
たったそれだけの、小さな会話。
けれど違和感のある問いかけが、ずっと心のどこかに引っかかっていたのだ。こんな風に、思い出すのだから。
壮大であり緻密でもある問いに、スムーズに答えられる人の方が少ないのではないか。聞かれた時、私はそう思った。
会話が静かに終わった後も、考えていたの。
私がハウスにいる一番の理由は、ニアがいるからなのではないかと。
子ども達の成長を見守るのは楽しい。できなかったことができるようになって、未熟だった性質がそれぞれ豊かに実りゆく様をそばで見られるのは、この立場に許された特権だ。
だけどね、それはニアにも同じことが言える。
Lを継いだニアを、近くで支えること。ニアの生きている様、LでありNであるニアの微細な変化を隣で観察していても良いというのは、この上のない特権だと思う。
ハウスで子ども達のお世話をしながら、実のところ、私はニアと生きていきたい。それこそが突然投げかけられた問いへの正確な答えだったのではないか。
だからこそ今、夢破れる予感がして、勘のいい自分を恨む。
ニアの周りで起こるほぼあらゆることに関わってきた私が想像する「重要なこと」。
データの管理、関係者の把握、事件への関与、そんなことをニアは重要とは呼ばない。彼が言うなら、もっと突拍子もない、日常ががらりと変わるようなこと。
……例えば、ハウスを出ていくとか。
*
元々重かった気持ちが、より重くなる。
小さな四角いタオルを器用に折り、花の形を作っていたニアは、私が室内に入るなり視線をモニターへ移して髪を捻り出した。
ニアは視覚で得る情報に強い。だから普段は必ず、私の姿を確認する。それなのに今日はこちらを見なかった。髪を捻るのは考え事をする時の癖だ。もっとも、退屈な時にもやるけれど。
それらを統合して推察するに、やはり私に切り出しにくい何かがあるのだろう。
「重要な話って?」
問いかけると、ニアは手元のタオルに視線を落として口を開いた。
「単刀直入に言います」
「……はい」
「拠点をアメリカへ移そうと思います」
ほら。
やっぱり。
当たったのが他のことだったなら、有能な秘書になれると自分を誇っていたのに。
ニアが指先の動きを止める。こちらを向かないまま、私たちの間に流れる空気を確かめている。我慢ならずに、疑問が口をついて出た。
「どうして?」
「なんとなく」
「嘘。ここまでのところ不自由なく活動できてたよね? 最近は大きく動く必要のある事件もないはず。その上でわざわざ離れるってことは、あちらの方が諸々の便がいいから? それともハウスを外部攻撃から守る為?」
後継者候補は何人かいる。その他にも、ハウスには世界で活躍できる優秀な人材が山ほどいるのだ。そしてワイミーズハウスは、知る人には知られた存在になってきている。いわばここは、地図に載った宝の在りか。
「……理由は十分に理解いただけるようなので安心しました」
手元のタオルをいじりながら呆れたような声を出したニアは、そう言って自分の言葉を使わずに私の見解を肯定してみせる。
タオルの端を耳に見立て、今度うさぎの形を作り出したニアが、それを手のひらに乗せて、まるで「ナナの様子には興味がない」と示すかのようにしげしげとパイル生地を眺めている。
「全然安心じゃないよ!!」
ハウスを離れるとニアが口に出したなら、もうそれは決定事項で、これが覆らないことくらい、長年の経験で分かる。
だからこそこんなにつらい。ハウスに何の名残もなさそうな、私などどうなっても良さそうな態度を取るニアのこと。
思わず荒げた声に、初めてニアが振り向いた。ちらりと私の顔を捉えた視線は、そのまま私の足元へと落とされる。
「ニアは、それで安心かもしれないけど、わ、私が安心じゃない。勿論、ニアの決断はニアの自由よ。尊重する。でも、私にとってニアは唯一無二の存在で……家族?っていうか、親友っていうか、近くにいてくれると安心できる存在なの。こ、心を開ける特別な人を失うのは、すごく、特別な、痛みなん……だから…………っ」
想いを言葉にしていくと、次第に喉の奥で詰まって声が震えた。一つの台詞に乗せられる感情の量は決まっているらしい。言葉となれずに零れ落ちた分が、水分になって視界を揺らす。
頬に落ちたぬるい涙を隠すように拭って、私は強い抗議を続ける。
涙を押さえる手の向こうで、やっとニアが真面目にこちらへ向くのが見えた。
「いくら、何でも。あなたが世界を動かすLだったとしてもね……、こうやって、近くにいる人が受ける痛みくらい、想像した態度をするべきよ。さっきから、我関せずって顔してるけど、わ、私は、それじゃ寂しいんだから……!」
何を言いたいのか混乱しながら、どうにか思っていることを紡ぎ出す。
そうだ、拠点を移すのは百歩譲って理解できる。問題はあの他人事のような態度なのだ。
私からの強い指摘を受けたニアは、興味深いものを見るような、熱心とも警戒とも言い難い目でこちらを見つめている。そして座っていた椅子から立ち上がると、こちらへゆっくりと歩み寄り、タオルでできたうさぎを差し出した。
「その、まあ、涙を拭いてください」
ニアは、優しい人だ。
無駄を好まないようでいて、隙間を愛している。
言葉で慰めたりはしないけれど、揺らぐことをいつでも許容してくれる。
そうやって私が私でいることを認めながら、ただそばにいてくれることが幸せだったのに。もう叶わない。特別な友達だったニアは、後継者のNになって、世界のLになって、そしてとうとう手の届かないところへ行ってしまうのだ。
いつかこんな日が来るのかもしれないと、分かっていたからこそどうしようもなくつらい。引き留めることができないだけに、私に残された手は打ちひしがれることだけだ。
渡された小さなうさぎでは受け止めきれない、大きな喪失。致命的な痛手。
「これ……うさぎちゃん。崩してもいい?」
「どうぞ」
「うう……」
タオルを元の形にほどいて、顔を埋める。私が洗濯したタオルに、ニアの部屋の匂いが少し。受け止めるものがあると思うと、まして涙が溢れてくる。
ニアがLとして活動するようになってから、ハウスでずっとサポートしてきた。
外部との接触はロジャー、内部での処理は私と手分けして、それなりに役立つことができていると自負していたけれど、それもただの驕りだったのかもしれない。
手放すことができないと、そう思わせるだけの動きができていたなら良かったのに。いつだって、後悔は先に立たない。
「は……あくしている範囲では、顔を明かせるような関係者は、いないように思うけど……。あ、あっちで、誰か……雇うの?」
FBIから少数の人材を確保することならできるだろう。
時折訪れるSPKのメンバーは皆優秀で信頼できる人たちだった。彼らのような人が側近につくならば、私など役に立てることは何ひとつない。
遠く離れた場所にある、架空の高層ビルの中。今度ニアのそばに佇む人を思い浮かべる。性別も年齢も関係なくその人が羨ましい。ただそこに、私がいたかった。
しかし、羨望はすぐに打ち消され、新しい疑問に変化する。
「人は雇いません。あなたもよく分かってるように適した人物がいませんから」
「そ……、それじゃっ、どうするの……?」
拭っても拭っても間に合わない涙をどうにか抑えようとタオルを押し当て、私はくぐもった声を出す。
ニアが一歩こちらへ近寄り、不意にタオルに手を添えた。
そして涙を拭う主導権を私から静かに奪い取って、まるでフィギュアにスポンジで色付けしている時みたいに、気軽な調子で私の目元をぽんぽんと優しくたたいた。
大の大人が情けなくて恥ずかしいけれど、ニアの前にいる、偽りのない私はこんなものだと思う。
慣れた風に刻まれるリズムも、飾らないでいられる距離感も大好きなの。
実感すればするほど堪らなくなって、当たる度にタオルが水分を含んで、顔に涙のスタンプを押していく。
その時さらりと、ニアが言った。
「一緒に来ませんか」
多分、そんな風に言ったと思う。
「えっ」
突然の言葉をすぐに咀嚼できず、私は身じろぎして聞き返す。目を合わせようと顔を上げると、リズミカルに動き続けるタオルが間髪入れずに視界を覆った。
「今なん……てっ? わっ……ふっ……うぇっ!」
タオルを避けようと右へ左へ顔を逸らすけれど、ニアがそれを追いかけてくる。ぽんぽんと次から次に降り注ぐ柔らかな妨害。鼻は塞がれていないのに、何だか息もままならない。
「にっ! ちょっ、まっ……待って!!」
仕方がないのでニアの手を掴んで妨害を止めた。掴んだ手をどかそうとしても、力を入れて抵抗を示される。こんなことで、ニアは男の人なのだということを思い知らされて、それでどきっとする。どかそうとしなければ抵抗をやめるから、どうやらタオルが顔に張り付いたままならそれでいいらしい。
「どうしますか。返事が先です」
そこでやっと。
顔を見せてはくれないニアの、今日私と目を合わせたがらなかったニアの真意が心に流れ込んできた。
この話において、重要な点とは。
急激に湧き上がる”予感”に胸と頭の中が翻弄される。さっきまでとは全く違う感情の波が巻き起こって、別の意味の涙がみるみる溢れ出る。
まだ何の返事もしていない、紡ぎ出せない喉は、息を吸ってばかりだ。
間抜けで、そして世界一幸運な自分を実感しては震え、ただしゃくりあげることしかできない。
「ぃっ……行く」
私はどうにか嗚咽の隙間にそう答えた。
ニアはすぐに返事せず、少しの間を置いて小さく確かめる。
「意味、分かってます?」
近くに聞こえるニアの声はいつもと同じように冷静で、そして現実的だ。
私だって勿論、一過性の、感動に押し流されて言ってるわけじゃない。
「うん」
「ハウスで生きていけなくなりますよ」
「……ニアと共に生きていけるってことで、あってる?」
「罰ゲームみたいなものです」
「そんなことないよ、こんな私で良ければ……」
言いかけたところで、急に身体が重くなって、同時に視界が開かれた。ニアはふざける時にするように私の肩にあごを乗せて、それから手を緩めたようだった。そうまでして、顔を見られたくないらしい。
「ナナ以外に考えられません」
冷たいと評されるニアの声がぬくもりを乗せてそう私の耳に響く。
ニアがじゃれているみたいにくっつくから、私もじゃれるふりをして彼の背中に腕を回す。
二人の間に隙間がなくなって、私たちは組み合わさったピースのようになった。
「ハウスを出るか、私と離れるか。極端な選択肢にどのみちナナは泣くと思いました。が、まさか私に置いていかれると誤解して泣くとは……。移動の理由も現在の状況も難なく的中させておいて、そこ、抜け落ちますか」
「だ、だって、ニアは私にとって特別な人だからっ! 離れたくないあまり、あ……焦っちゃったんだよ……!」
自分でもどうして「共に行く」という選択肢が浮かばなかったのか、取り乱したことがじわじわと恥ずかしくなって、顔に熱が増していくのが分かる。だって、ニアが私のことまで考えてくれるとは思ってもみなかったのだ。
「まあおかげであなたから熱烈な告白が聞けたので良いですけど」
「ずっずるいよ! 私もニアからのアプローチ受けたい」
すっかり気持ちが落ち着くと、何で最後まで落ち着いてニアの話を聞かなかったのか、もったいないことをしてしまったようで悔しい気持ちになる。でも一方で、ニアもまた私の肩にあごをのせたまま不服そうに言った。
「先に話を持ちかけたのは私です」
「じゃあ、緊張した?」
「それはもう。昨夜は全身の震えが治まらず一睡もできませんでしたね」
ニアが茶化すようにわざとらしい言い回しをして、私は軽くニアの背中を小突く。
「また、そうやってふざけるんだから」
震えるなんて、冗談言って。目線の先に見つけたサイコロタワーを眺めながら言う。
でも、私は気がついてしまった。
そのサイコロタワーが、昨日見た時よりずっとずっと高く積み上がっていたことに。
いつの間にか私より大きくなったニアのその手が、タオルを私の肩に預け、大事なものを触るみたいに、ゆっくりそうっと頬を撫でてくれる。
目も合わせず顔も見せてくれなかったニア。
その真意を信じて、私はただ、大人しく目を瞑って身を委ねた。
*
こうして、ハウスで生きると宣言した数日後に私は質問の答えを改めざるを得なくなった。
でもそれは嬉しい訂正で、これこそが最初から、唯一の正しい答えだったのだ。
My life