小説 | ナノ

夢にするにはやや生々しい


いま思えば、出会ってしまったのが運の尽きだった。

その日久しぶりに中学時代仲の良かった男友達と会うことになり食事をすることになった。自分で行くから大丈夫だと言ったのに、迎えに行くと頑なに許さなかったわたしの友人に対し、心配性な所は中学の頃から変わらないなぁなんて思いつつ懐かしさも感じて素直に頷いた。

迎えに来てくれる人を待たさないようコートを羽織り家の外で待っていれば、数分もしない内に黒塗りの車がわたしの目の前に止まったことに驚いた。この辺では中々目にすることがない高級車だったからだ。そうして助手席側の窓を開けこちらに視線を移した男に、12月の厳しい寒さも忘れてわたしの目は奪われてしまった。


それがわたしの旦那、灰谷竜胆だ。





後先のことを考えて行動するべきだと言う人がいるが、当時のわたしはあまりそういったものを深く考える性格ではなかった。今がよければ全て良しだったものが仇となってしまったことを今更ながら後悔してる。単純に年齢も今より若く、考えが子供だったこともあるけれど。

わたしより3つ年上の竜胆くんは、何もかもわたしの心にドンピシャと当てはまってしまうくらいの良い男だった。

思わず触れたくなってしまうふわふわのマッシュウルフは、いつの日か水族館で見たクラゲを連想させて髪色が目立つのに似合っていたし、仕草や声、香りも本当に全部が全部、好きだった。まさに恋は盲目、その通り。

竜胆くんは、出会った頃から女の子扱いに長けていた。気遣いが出来て、話題がいつも豊富で、無言の気まずい空気を作らない。そして女の子の喜ぶ言葉を沢山くれる。それはもう、つらつら淡々と。
会えば会うほど好きになる。竜胆くんと会う前は死ぬほどドキドキして、帰る頃には今日1日楽しかったなぁって寂しく感傷的にもなって。メッセージが返って来ない間はそわそわするし、次の約束ができるとわくわくした。裏社会に身を寄せている竜胆くんが、わたしの前では一切怖い顔も見せずにいてくれたこと、竜胆くんには言ってはないけどちゃんと分かってる。だから今でもわたしは彼が仕事をしているときの顔を知らない。

そんな毎日を送っていたが、一目惚れに近い恋をしたわたしには気持ちを伝えることに躊躇していた。住む世界が真逆のわたし達は3つの差とはいえ送ってきた短い人生の中で重なる点が少なすぎたから。だけどそんなわたしを家に送り届けた竜胆くんは車の中で腕を掴み言ったのだ。

「なぁ、こうしてお前と普通に遊ぶのも楽しいんだけどさ。そろそろお前の男になりてぇっつーか…このまま帰らせたくねぇんだけど」

春と呼ぶにはまだ早い空気が澄んだ季節。
竜胆くんはわたしに好きだと言葉にしてくれた。

これがまた夢のようで信じられなくて、女慣れしていていつも余裕のある彼が、わたしなんかに緊張した面持ちで思いを伝えてくれたのが何より嬉しく、心は満ち溢れていくばかりだった。


そうしてわたしは竜胆くんの彼女という立場になり、そのままトントン拍子に話は進んでいき交際期間は僅か3ヶ月。

「俺の苗字、貰ってくんね?寝て起きた時とか、帰ってきた時にはお前に居てもらいてぇってずっと思っててさ」

竜胆くんが連れて行ってくれたご飯の美味しい予約制のレストラン。この日の竜胆くんは普段よりも言葉少なだったのを不思議に感じながら、デザートを食べていた最中の出来事。竜胆くんの口からまさか結婚の話が出るなんて思わず、フォーク片手にその場で泣いてしまった。そんなわたしを彼はちょっと困ったように眉を下げて笑っていたのを覚えている。
世間で言えばスピード婚と言える交際月日だったけれど、そんなの関係ないと言わんばかりにお互いが夢中だったんだと思う。泣きながら頷くわたしを「可愛い」だとか、「お前が嫁になってくれんの人生で一番嬉しいわ」とか言って、垂れ目がちな瞳を初めて愛しいものをみるかのように細めて気持ちを伝えてくれた竜胆くんの事を、わたしよりも年上なのに愛らしくみえて大事にしたいと、本気で思った。

わたしにはこの人しかいないと、そう思ったのだ。

婚姻届を出せない内縁という形を取る結婚に、わたしの友人は「お前がこの先笑って暮らせるんならそれでいーけど、後に戻りたくても戻れねぇぞ。本当にいいのか」と何度も念を押す。秒で頷くことが容易く出来てしまったくらいには、この頃わたしは竜胆くんに溺れていた。





結婚してからも仕事の話を家に持ち帰らず、仕事が忙しくてもわたしの作ったご飯を美味しいと言って食べてくれる。一緒にお風呂に入って、お互いの髪の毛を乾かしたりなんかしちゃって、寝るまでくっつきながらテレビを見たりゲームをして。初めの2年くらいはドラマで見るような新婚生活を送れていたと思う。

独占欲が思った以上に強かった彼からの愛情は、義兄になる蘭さんから「重すぎねぇ?ゲロ吐きそ」とからかわれたりもしたが、苦にもならなかった。

「お前は?俺はお前さえいりゃ他はどうでもいいと思ってるんだけど」
「わっわたしもそうだよ。竜胆くんが居てくれるなら、それでいい」
「ン。…好き。すげぇ好き」

わたしの返答に頬を緩ます竜胆くんのことが、好きで好きで仕方がなかった。

女友達だとしても長電話はダメ、仕事をしないで竜胆くんの帰りを待つ。誰かと遊ぶ際は必ず名前を言って竜胆くんの送迎が可能な日じゃなきゃ許しを貰えない。普通であったら我慢が出来なくなるようなことを、わたしは竜胆くんの言う通り文句も言わず従った。

友人と連絡を取らなくなれば付き合いも自然と途絶えて、休日も竜胆くんとだけ過ごすようになった。長年務めていた会社も人が良く働きやすくて好きだったけど、それも辞めた。どれもこれも今まで付き合いがあった人と疎遠になるというのは寂しいと感じてしまったのは事実。だけど竜胆くんが満足気に微笑んでくれるから、この感情は胸の内にしまった。肉親である両親の元に帰省するのも良い顔をしない竜胆くんだったけど、それも受け入れた。竜胆くんが大好きだったが為に自分の行動に制限がかかってしまっても我慢が出来たし、竜胆くんの嫌がることをしたくなくて常日頃心掛けるようにもなった。

だってこの先自分の両親よりも長くいる好きな人を悲しませたくなかったのだ。

だけど、竜胆くんはどうか。


「竜胆くん、おかえり」
「ん。ふは、ただいまナマエ

微妙に呂律の回っていない竜胆くんは、わたしの頭をわしゃわしゃと撫で回して寝室のベッドへ倒れ込むと即刻寝息を立てる。

その際にふわりと香る香水は、竜胆くんから香るのに竜胆くんのものじゃない。女物の香水だ。心の中がざわめいて、バクバクと音を鳴らして頭の思考回路はぐちゃぐちゃになっていく。

あ、まただ。また甘ったるい女の香水つけて帰って来た、って。

帰宅時間はこの日深夜の1時。一旦冷静になろうと思ってコップの水を口に含んだけれど、一向に喉は潤わない。

これは浮気じゃない。仕事の関係だって何度も心の中で頭を振るう。だって竜胆くんはこうしてちゃんと家に帰ってくる。帰ってきて酔って寝ちゃっても、明日の朝にはわたしの頭にキスを落としてくるような男だもん。

きっと接待か何かに違いないって、そう思い込んだ。

友人に聞けば教えてくれるかもしれない。だけど昔からとにかくわたしを心配してくれてこの結婚も大丈夫かと気にかけてくれていたから、心配をこれ以上掛けたくはなかった。蘭さんには言えない。絶対面白がりそうだし、竜胆ラブである彼は間違いなく竜胆くんの味方だろう。

じゃあ、わたしはどうすればいいんだろうか。
この先ずっと自分はこの家の中で旦那の帰りを待つだけの寂しい女になってしまうのか。

竜胆くんはわたしに仕事の話をしたがらない。これは付き合っていた頃から今の今まで変わらない。もしわたしが聞いたとて、それこそ接待で、と言われたらわたしは本当に何も言えなくなってしまう。

「…たまたまだよね。だいじょうぶ」

自分自身に言い聞かせてみるも不安は募るばかり。こうした事が度々起こるようになったのは、わたしと竜胆くんが結婚して2年経った頃からだった。

そうしてやっぱり次の日起床した竜胆くんは、わたしの頭を何事もなかったように撫でて仕事へ行く前にぎゅう、ときつく抱き締めキスを落とす。



1人きりになった部屋で竜胆くんの残したコーヒーが入ったマグカップを見てふと思う。

あれ待って、本当にこのままでいいの?って。

1人の男に溺れて、1人の男が好きすぎるが故に言うこと全て聞いて無我夢中になっていたわたし、とんだアホじゃないかと突如思ってしまったのだ。

竜胆くんの為にご飯を作って、竜胆くんが帰って来てくつろげるように掃除もして、竜胆くんが例え女といたとしても何も言わず朝仕事へ行く彼を見送る。…しおらしいが過ぎるでしょ、わたし。

自分は仕事(多分)とはいえ飲んで酔っ払って女の匂いつけて帰ってきて、わたしが同じことをしたら竜胆くんは絶対許さないのに。わたしなんか女友達と遊びに行くのですら竜胆くんの許しを得なきゃならないのっておかしくない?

何処からが浮気というのは皆それぞれ考えが違うだろう。
異性と2人きりになったら、体の関係を持ってしまったら。色々あると思うけど、簡単に言ってしまえば相手に堂々と言えない事をしでかしてしまったら、だろうと思う。極端のものは異性と話したら、というものだけで浮気に分類する人もいるらしいから、一概には言えないかもしれないけど。

先程まで泣きたいくらい沈んでいた気持ちはいつの間にかふつふつと湧き上がる怒りに変わり胸がいっぱいである。よくよく考えてみたら香水の香りがつくって、余程その相手と距離が近くなければつかないし。

「……」

いや!これは黒!浮気!!
これが1回や2回じゃないしもう両手で数え切れない回数だもん!誰がなんと言おうとわたしからしてみれば浮気!!

心の底で考えないようにしていたことに結論が出ると、鏡に映った自分の顔はまるで般若のようだった。
そこでピロンと鳴るメッセージ。

"今日は早く帰れるから一緒に飯食お"

間抜けなスタンプまで添えてきた送信者は紛れもなく灰谷竜胆。ハン、と乾いた笑いが口から零れる。絶対反省させてやらなきゃ気が済まない。

わたしはいつまでもニコニコと竜胆くんを待つだけの嫁でないと分からせてやらなければ。







「本当にごめんな?俺だって行きたくねぇんだけど仕事の関係でさ、いくつかウチが受け持ってるキャバに金回収に行かなきゃなんねぇんだよ」
「そうなんだ…でもべろべろに酔っ払って帰ってくるじゃん」
「あ…それはオーナー達が飲んでけってうるせェんだよ。兄貴が最初に飲んじまうからさ、そのまま俺まで勝手にグラスに酒注がれて成り行き?みてェな。あ、信じらんねェんなら兄貴に聞く?」

竜胆くんが帰宅して夕食の時間。
腹が立ち過ぎてお腹が空かなかったわたしはいつ言おうかとタイミングを見計らっていた。竜胆くんは変なとこで鋭いので「なに、お前食欲ねェの?」とすかさずわたしの異変に気付く。だから言うなら今しかないと竜胆くんの最近の行いを口にしたところ、はて。おかしい。

「ううん。蘭さんは竜胆くん命だから何かあっても絶対竜胆くんの味方だもん」
「ハッ、なんだそりゃ。っふふ、そんなことねぇしお前以外のオンナなんて俺からしたら蟻みてぇなモンだから。ってかもしかして、ヤキモチ妬いてくれたワケ?」

なんだかどんどん竜胆くんのペースに丸め込まれているような気がする。ヤキモチ?これってヤキモチとかいう可愛い話なの?って俯いていた顔をあげると、仰天。
竜胆くんは至極満面の笑みを浮かべ、それを隠そうと唇に線を結んで手で覆っているではないか。

「……?」
「こんな時にわりぃんだけど、スゲェ嬉しい」
「へ?」
「お前今までそういうのあまり表に出してくれなかったろ?俺愛されてンだなって。…でもホントごめんな。お前に嫌な思いさせちまって。次から気を付けるから。許して?」

ガタンと席を立ち、わたしの座っている横に移動した竜胆くんはそっと大きな手で頭をぽんぽん、と撫でた。そうしてわたしの顔を覗き込むように上目遣いで表情を伺うその子犬のような顔つき。それにわたしは滅法弱い。

「っ、…浮気したら許さないから」
「するワケねェだろ。俺にはお前しかいねぇから」

竜胆くんの顔が近付いてきて、唇が触れ合った。数秒の可愛らしいキスに、わたしは今でも顔を染めてしまう。

「ホント、可愛すぎなんだよお前」

竜胆くんは女の子の扱いに長けている。
こうして過去幾多の女を手のひらで転がしてきたに違いない。そうしてかくいうわたしのことも、こうなった時どうすればいいのかをちゃんと熟知している。それが分かっているのに、わたしは竜胆くんの背に手を回してしまった。





それからまた月日は経ち事件は起こる。

"竜胆さん!今度はゆっくり会いに来てくださいねっ"
"りんちゃんが可愛いって言ってくれたドレス着て出勤してるよ早く会いたいなぁ"
"竜胆さんこの間は送ってくれてありがとうございました!竜胆さんて優しくてかっこいいし奥さんが羨ましいなっ"

は?は?は?何してるのこの人は。
え、竜胆くんのお仕事ってキャバの送迎役かなんかですか?

目が点になって一瞬考えることを放棄してしまったくらいにはわたしの頭上に理解が出来ないハテナが沢山浮かんでいた。

あれから暫くは大丈夫だったと思う。
今となっては本当か知らないけれど、お金の回収に行っているとか言っていた竜胆くんからは香水の匂いをつけて帰ってくることも酔っ払って帰ってくることも減った。

あれでも一応反省してくれたのかな。わたしの気持ち少しは考えてくれたのかな、なんて思っていたのに。

また灰谷竜胆はべろべろになって帰ってきた挙句、ご丁寧にシャツにリップをつけて帰ってきた訳だ。

ぐぅぐぅ呑気に寝ている竜胆くんのスマホを手に取り、わたしの誕生日というありがちなパスを入力すると出るわ出るわ女の子とのやり取りが。

竜胆くんにはお気に入りのキャバ嬢が数人いるらしい。何がお金の回収でとか成り行きで飲んじゃってだよ。しっかり貢いで帰って来てるんじゃん。

彼が寝ている布団を荒く剥ぎ取る。「ぅえ?さむっ!?なにっ!??」とか眠気眼でほざいている竜胆くんを冷めた目つきでわたしは見下ろしていた。


「起きて。話がある」





冬の真っ只中になると暖房をつけなきゃ朝はかなり冷え込む。寒波の影響で本日かなり厳しい寒さになるかもしれないと昨日の予報で言っていたが、その通りの寒さであった。

まだ薄暗い室内に電気をつけて暖房も着けずに水を1口飲んだ。竜胆くんは寒過ぎて目が覚めたのかとりあえずソファに座ろうとしたのをわたしは即刻阻止する。

「ダメ、竜胆くんはここ座って」
「は?何怒ってんだよ」
「理由が分からないことにも怒ってるの」

寝癖がついたマッシュウルフ。いつもは可愛らしいと思えていたのに何故か今は間抜けに見えてしまう。カーペットの上に座らせて、わたしは立ったまま口を開いた。

「ねぇ、竜胆くんわたしに隠していることない?」
「…別にねぇけど」
「そう。じゃあこれ何?」

竜胆くんのスマホのトーク画面を本人の前に翳す。すると眉間に皺を寄せていた竜胆くんは即座に顔を青くした。

「いや、それはちげ、ってか勝手にスマホ見たのかよ」
「見たくなかったけどシャツにリップつけて帰って来られちゃあね。そのリップつけた女はどれ?△△ちゃん?それとも××ちゃん?」
「ちょ待って」
「待たない。仕事なら仕事で仕方ないよ。でもこれは流石におかしいでしょ。送迎までしたとか何してるの?これで浮気してないって言われても流石に無理があるんだけど」

竜胆くんは開いてた口を閉じ押し黙る。
子供が親に叱られたような顔をするの、本当にやめて欲しい。まるでわたしが悪いみたいじゃん。出会った頃とは想像もつかない彼の姿にため息まで出てきそうだ。

何も言わない竜胆くんに痺れを切らしたわたしは更に口を開く。

「竜胆くんはわたしのこと好きじゃなくなっちゃったの?竜胆くんはわたしに飽きたから、」
「そんなワケねぇだろ!!」

冷えた室内にわたしの乾いた小声は竜胆くんの大声により遮断される。目先の男は焦っているようで、今やっと自分のしたことを自覚したらしい。

「…悪かった。飽きる訳ねぇだろ。っ俺が好きなのお前だけだから!あんなんウチで働いてるただのオンナだからっ」
「そうなの?じゃあなんでわたしの嫌がることを平気でするの?竜胆くんの職場の人はああいう所で働いてる女の子に対して皆そうなの?」
「それは、」
「ねぇ竜胆くん。竜胆くんはわたしが同じことしたらどう思う?わたし家政婦じゃないんだよね。竜胆くんが好きだから美味しいご飯食べて貰いたくて頑張ってたし竜胆くんの疲れが少しでも取れるように頑張ってたの。1人で竜胆くんの帰りを待って、友達と遊ぶとか親に会うのすら全部我慢してわたしは竜胆くんの帰りをずっと待ってたんだよ。全部竜胆くんが嫌だって言うから。でも竜胆くんはわたしの嫌なこと、平気でするんだね」

竜胆くんの瞳は色を失い今にも泣きそうだ。
いつもこの顔にわたしは騙されてしまっていた訳だけど、今日の今日は許せない。

「ごめん…本当に、ごめん。自分のことしか考えてなかった。でも誓って体の関係は持ってねぇから!お願いだから…それだけは信じて」

最後の方は少々声が震えて聞こえにくい。
体の関係があったにしろなかったにしろ、その場にわたしはいなかったんだから信じられる訳がない。わたしの顔つきで言いたいことを察した竜胆くんは焦りを隠せない。

「ほんとにっ本当にマジで俺にはお前だけだから。…俺から離れて行こうなんてしないで。お前がいなくなっちまったら俺どうしたらいいか分かんねぇよ」

騙されちゃいけない。この手の男はまた繰り返す。
そう分かってるのに、本気で泣きそうな竜胆くんを見ていると、胸がぎゅうと締め付けられてしまう。その場に力なく座り、今更事の重大さに気付いた竜胆くんに、バカなわたしは手を差し伸べてしまいそうになってしまうのだ。

「…竜胆くん」
「なぁ悪かったよ。…お前が前に俺に香水の香りつけてくるのが嫌だっつってたじゃん。普段お前ってあんまり自分の気持ち言わねぇからヤキモチ妬いてくれたのが嬉しくて調子に乗っちまっただけだから」
「はい??」
「すげぇ俺の事必要としてくれてるとかさ、俺って愛されてんだなって思って。…またヤキモチ妬いて欲しくなって」

待って待って待ってください。
何を言ってるんだコイツは。頭を鈍器で打たれたような衝撃。だってわたし達、中学生じゃないんだよ。もうれっきとした大人な訳で、竜胆くんはもう30にもなる男なんですけど。

そうしてわたしの口から自然と出た一言は、

「呆れた」

である。固まる竜胆くんと、顔を顰めるわたし。
竜胆くんの顔を見るのも嫌になって、わたしは玄関に向かう為背を向ける。

「おっおい!どこ行くんだよ」
「どこでもいいでしょ。今竜胆くんの顔見たくない」
「待てって!家出するなんて許さねェ!」
「許さねぇって、竜胆くんのせいでそうなったんでしょ」

靴を履こうとすれば竜胆くんは慌ててわたしの肩を強く掴む。

「ここ以外に行くとこなんてないだろっ!待てって!」

彼の薄藤色の瞳と視線が重なる。その瞬間、竜胆くんはわたしの顔を見て怯んだ。



「行くとこなら心配しなくてもあるよ。竜胆くんがちゃんと自分のしたこと反省するまでここには帰らないから」


竜胆くんはそれ以上口を開かず、追い掛けて来ることもなかった。







「…で?ここでの生活はもう慣れた?」
「うん、大分。ありがとうね。部屋までかしてもらっちゃって」
「別に。こんくらいなんてことねェ。ってか俺言ったろ。マジでアイツと結婚なんかして後悔しねぇのかって」

たい焼きを頬張り目の下に濃い隈を作っているわたしの友人は、佐野万次郎ことマイキーである。その問いには答えず代わりに笑顔を作った。差程興味がないのかマイキーはたい焼きをまた1口齧り、それ以上深くは聞いて来ない。それがわたしにとってはありがたかった。

早いもので元の竜胆くんとの自宅に帰らず1ヶ月。竜胆くんと結婚してから会っていなかったこの友人に訳をはなし、今はこの彼が用意してくれたアパートに住まわせて貰っている。

「…竜胆くんはどう?元気?」
「……元気も何も荒れ狂ってて九井の死期が絶対ェ短くなってる」
「あはは。それは九井さんて人に悪いことしちゃったね」

あれから竜胆くんとは勿論会ってはいない。わたしがいなくなったことが相当堪えたのか毎日謝罪という名の電話やメッセージが日に何通か届く。

"お願い。戻って来て欲しい。今どこにいんの?"

そうしている間にもメッセージが届き受信先は竜胆くんだ。

「それ、灰谷?」
「え?ああ、うん。今どこにいるのって」
「ふぅん。…お前ソイツのとこに戻んの?」

スマホの画面からマイキーに顔をあげると、相変わらず何を考えているのか分からない顔をしてる。昔はもうちょっと表情豊かだったのに。

「ん。その内戻るよ。もう一回話してみないと本当に反省してるか分かんないし」
「そう」
「だけどもし別れることになったらお金が必要でしょ?竜胆くんのお金は使いたくないからまた働かなきゃなって。ここの家賃もマイキーに返さなきゃだし」
「別にそんなん気にしてねぇけど」
「気にする!本当にごめんね。助かったよ」

疎遠になってしまった家族の元へは帰れない。だからわたしはマイキーを頼るしかなかった訳で。あの時二つ返事で部屋を用意してくれたマイキーには感謝が計り知れない。

「…丁度今人探してたから紹介してやるよ。仕事」
「へ?」

目を瞬きしたわたしを他所に、マイキーは自身の口端についたたい焼きの餡子をペロッと軽く舐め取った。

















「いや紹介してくれるのは有難いけどさぁ!ここってアレでしょ!?梵天じゃん!?竜胆くんの職場じゃん!?」
「別に関係ないだろ。お前の仕事は俺の秘書。三途だけじゃ手が回んねェから丁度良かったんだよ」
「いやいやいや!?関係大ありだしそういう問題じゃなくない!?」
「問題ねぇよ。危ない仕事はやらせねぇ、給料もそこらの会社より弾んでやる。金が欲しいなら悪い話じゃねぇじゃん」

それは…そうかもしれないけれど。
連れて来られたのは何処かのビルの一角。わたしは竜胆くんの働いているこの梵天のアジトの場所までは把握していなかったが為にまさかの事態に頭はかなりのパニック。

「で、どうする?」

そんなの無理一択に決まっている。何れは竜胆くんとちゃんと会ってもう一度話す予定ではあるが今とかここ1週間の内で、とかの話じゃない。ここはやっぱり辞退しようとしたその矢先、最悪な展開が起きてしまった。

「マイキー、報告書の件だけど…って、ハ?」

時が止まった。

今きっとわたしはひどい顔をしているんだろうが、目の前の旦那である竜胆くんも同じくらい目を見開いてわたしを凝視している。ここで落ちついている男はただ1人、マイキーだけだ。

「な、んでナマエがここにいんだよ」
「いや、それは」
「俺が連れて来た。コイツ今日から俺の隣で働くから」
「「は!?」」

まだ返事をしていないのにも関わらずマイキーはもう決定事項のように竜胆くんへ何食わぬ顔で告げる。

「は、はぁ?話が理解出来ねぇんだけど。なんでそんな事になってんの?ってかお前今までどこにいたんだよ。どこ探してもいねぇから俺心配して、」
「ってかそんなことよりも何お前、浮気したんだって?」
「は、」

マイキーはポッケに両手を突っ込んだまま竜胆くんの元に歩み寄る。そうして壁に背をつけた竜胆くんに対しドンッと大きな音を立てながらドアを蹴った。

「お前、俺のダチに相当ひでーことしてくれたらしいじゃん?」

息を思わず飲んだ。わたしからはマイキーがどんな表情をしているか分からなかったが、それでも場が凍えた事だけは分かった。
わたしの話を聞いても顔色ひとつ変えず微動だにしなかったあのマイキーが、怒っている。

「ッマイキー落ちつけって。ナマエにも言ったけど浮気なんてしてねぇから」
「コイツが悲しんでんだからどっちにしろ同じだろ。殺すぞオマエ」

止めなきゃ。この場にはわたしと竜胆くんとマイキーしかおらず、この場を収めるのはきっとわたししかいない。

そうしてわたしが口を開き掛けたとき、マイキーはくるりと白髪の髪を揺らしわたしの方へ振り返った。


「丁度いーじゃん。今ここでコイツと別れろ。そんで今住んでるアパート引き払うからウチ越して来い」
「……へ」


わたしも竜胆くんも、耳を疑う。
マイキーの放った言葉の意味が咄嗟に理解が出来ないし、理解しちゃダメだと思考は止まる。

やめて、言わないで。そう思うのに、目先のマイキーは容赦なくその先の言葉を口にした。





「ナマエが幸せならって黙っててやったのにお前らバカじゃねぇの?昔から好きだった女が他の男のことで泣いてんの許せるわけねぇだろ。…お前は俺が貰うから」








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