小説 | ナノ

思ったよりも一途で可愛いカレシ


体だけの寂しい関係は、後々面倒臭い感情に苛まれる気がして嫌だった。例えそれが一夜だけの繋がりだとしても噂というものは広がるものだし、月日が経ったところで「アイツとコイツは体の関係があった」という事実が消えることはない。まぁつまり、遊ばれてポイされる女にだけはなりたくなかったし、御免だということだ。

「ひでェ、俺そんな男に見えてんの?」

くつくつと楽し気に笑っている彼の三つ編みがゆらりと揺れた。名前は知っていたが本人を目の前にするのなんて今日が初めてで、噂通りの綺麗な顔付きだと内心見て驚いた。

「見える見える。灰谷君、良いウワサ聞かないし怖い話しか聞かないもん」
「へぇ…ウワサってどんなァ?」

たまには遊びに来て、と知り合いである先輩が働いているクラブに顔を出した。前に一度訪れたことのあるその場所は、幾分雰囲気が変わったように思えたのはこの男がいるからかもしれない。

「んー…綺麗なお姉さんに貢がせては可愛い女を使い捨てて、男には半殺しじゃ済まないくらいの悪逆非道なことばかりしてるとか?あっあと弟溺愛してるってのも聞いたな」
「ッハ、なんだよソレ。俺とんでもねぇクズじゃんウケんだけど」
「…このウワサってホント?」

頬杖ついて笑っている彼に小首を傾げれば、 薄藤色した瞳と視線が合わさる。わたしの手に持っていた酒のグラスを彼は奪うと、品の良い笑みを浮かべて呆気からんと答えた。

「さぁどっちでしょ。つーかウソでもホントでもどっちだって良くね?まぁ後者は否定できねーワ」

後者とは弟のことを言っているのだろうか。そんなことを考えていれば甘くて重い香水の香りが鼻を掠める。きっとこの男の距離が近いからだ。彼の顔がゆっくりと近付いてくる。お互いの唇まであと一歩の距離でわたしの人差し指を彼の口元にあてがうと、まさか拒否されるとは思っていなかったのか彼の細めた瞳はぱちぱちと瞬きを繰り返した。

「あ?」
「彼氏じゃない人とそういうことしたくないんだよね」

暗くて差程広くない室内に響き渡る重低音。わたしの声が聞こえたのか聞こえなかったのか、否。ちゃんと彼の耳には届いていた。

「オネーサンのカレシになったらちゅーすんの許してくれんの?」
「……わたし可愛くもないし綺麗でもないよ?それに貢げる程のお金も無いしヤリ捨てされるのだけは無理なんだけど」
「ンなの求めてねェし悲観的になり過ぎ。それにさぁ、ヤリ捨てするつもりならこんな風に声掛けねェよ」

わたしより2つ下だと言った彼はすぐに冷静さを取り戻したのか耳元で囁いた。小さく甘い声で「好き」だと一言。わたしの手持ち無沙汰になった手を絡め、誰かに見られているかもしれない可能性を気にせずに、今度こそ彼はわたしにキスを落とす。


出会いは少女漫画のような出来事ではない。よくある、よく聞くような、そんな出会い方。軽いリップサービスに過ぎないセリフを本気にし、鵜呑みにした女が過去何人この男に泣かされたのか安易に想像がつく。ただ一つわたしが思い描いていた灰谷蘭という人物に対して異なっていた点がある。彼は事実わたしをその日に抱いたのだけれど、次の日わたしをホテルに置いてけぼりにしヤリ捨てることはなく、言葉通りに灰谷蘭の"彼女"としてわたしを傍に置いたのだ。そう、偉そうなことを彼に言っておいてわたしはまんまとその日から灰谷蘭の彼女になってしまった。

そして、存外大事にしてくれた。





一人親の一人娘。ウチは母子家庭であるが、なんともまぁ母がよく男に泣かされる女だった。幼い頃から泣いては酒に溺れる母を見ていたからか、ドラマのような仲睦まじい恋人って本当にいるんだろうかと考えたことが何度かある。子供は親の背中を見て育つとはよく言ったもので、絶対に将来母のように男に縋るような恋愛人生だけは送るまいと心に決めたのは確か15才、初めて彼氏が出来たときだ。

男に捨てられるような女より、いざというときはわたしが捨てる立場でありたい。未練がましく男がいなきゃ生きていけない女だけにはならないように、自立した女でいたかった。

だからわたしは灰谷蘭という人物とよく知りもしないで付き合ってしまったことを初めは後悔した。あんな軽く好きだと吐けるような男なんて、絶対飽きたら即切り捨てるに決まっていると思っていたから。


なのに、なのに…!





意外と彼氏は可愛い男だった。






「んぁ?…いま何時ィ」

ど平日の早朝。少しうねりの残った髪をうざったそうに掻き上げた蘭は、狭いシングルベッドの上で半分眠気眼で欠伸をした。

「もうすぐ8時だよ。わたしそろそろ行くからね」
「はぁ?さっき寝たばっかじゃん…仕事なんか休んじまえよ」
「仕事しなきゃ家賃払えないし社会人は簡単にずる休み出来ないの」

昨日蘭がわたしの家に来たのは確か夜中の0時を超えていた。社会人じゃない蘭がたまに羨ましい。というか自由すぎていっそ清々しい。わたしが仕事であろうがなかろうが蘭にしてみれば関係がない事なので、わたしの住むアパートに来るのも蘭の気が向いたときである。

「だから俺ンち住めばって何度も言ってんだろ」
「それは無理だって。竜胆くんが気を使うよ」
「ハァ?なんでそこで竜胆が出てくるワケェ?意味わかんねぇんだけど」

付き合いも一年という月日に差し掛かると、蘭は最近ことある事に同棲の話を持ち掛けて来るようになった。毎回断ってしまっているが、一緒に住むのが嫌だからという理由じゃない。なんなら蘭はしょっちゅうわたしの家に来るので今でも半同棲しているようなものだ。勿論、蘭の家に泊まりに行くこともあるけれど、最近は圧倒的にわたしの家の方が多い。

「竜胆が嫌いなワケ?」
「まさか!寧ろ好きだよ!この間蘭が寝てたとき竜胆くんとゲームしてたんだけどね、楽しかったもん話しやすくて」
「は?好きってなに?そういう冗談求めてねェんだけど」
「蘭の弟だから好きなんだよって意味!ってか蘭から嫌いかって聞いてきたんじゃん」

言い返すことが出来ないのか若干不貞腐れた蘭が可愛い。本人気付いているか知らないが、弟の前だと一切そういう所を見せないのもまたお兄ちゃんぶっていて可愛いのだ。名残惜しいけれど腕時計に目を移せばもう家を出る時間。未だベッドから動かない蘭の柔らかい髪の毛をわしゃわしゃと撫でると、その手はクイッと掴まれた。

「子供扱いやめろって」
「してないよ。可愛かっただけ」

ムスッと眉間に皺を寄せた蘭がわたしの瞳に映る。別に子供扱いしている訳じゃないんだけれど、蘭はいつもコレを嫌がる。

「2つしか歳変わんねぇクセに調子のんな」

仕事前だというのにも関わらず、噛み付くようにキスをされた。朝から変な気分になってしまうからやめて欲しいのに、蘭は自分のペースに持ち込むのが本当に上手い。でも流石にこれ以上はヤバいので蘭の胸をトントン、と叩けばやっとその唇は渋々離れていった。塗ったばかりのわたしのグロスが蘭の唇に色移りする。男の癖にそれがまた妖艶で似合ってしまうのには、何とも言えない気持ちになるけれど。

「……ほんとに仕事遅れちゃう」
「あー…ハイハイ。いってらっしゃーい。でもマジでそろそろ一緒に住まねェ?」

いつにも増して真剣な声音で蘭が言うものだから、つい胸がドキンと音を鳴らした。わたしの返事を待つ蘭に一呼吸置いて、社用のバッグを片手に持つ。

「蘭がちゃんと働いて、自分のお金で生活するようになったら一緒に住みたいな。それまでは、ダメ」

蘭はきょとん、と間抜け顔を晒した。お前今なんつったの?みたいな。そんな蘭の顔がちょっと面白くてつい頬が緩んでしまう。「帰るとき鍵閉めておいてね」とわたしの言葉はきっと届いていなかった。蘭の頭にはハテナがわんさか湧いていただろうから。





事情は詳しく知らないが、蘭たちの家も複雑だと前に竜胆君とゲームをしていた際、聞いていた。

「よくある話じゃね?俺らこんなんだから親から見放されてんの。金だけ置いて後は放任…ってかあんたゲームマジで初心者?おかしいだろこのキル数!」
「ね!?ヤバいよね。自分の才能に今気付いちゃった!」
「っ、もう1戦な。次は俺がキルしてやっからあんたの出る幕ねェよ」

コントローラーをカチャカチャ動かしながら友人と話すようなノリで言った竜胆君。それ以上竜胆君はその件について話題に出すことはなかったし、わたしも詮索はせず話は流れてしまったけれど、頭の片隅には覚えていた。どこの家庭にも一つや二つ、余り人には言いたくない家庭の事情はあるだろう。現、わたしもそうだし。


「ナマエさんってさ、いずれは兄貴と結婚すんの?」
「さぁ?そんなこと考えたこともなかったな。蘭だって結婚とか考えてないと思うよ」
「……ふぅん」

自分で口にすると少し寂しいが、蘭が結婚なんて考えている訳がない。わたしですら考えていなかった。そりゃ蘭と一緒に居れるのは楽しいけれど、蘭が旦那として傍にいるのが想像つかない。特に子供が出来て可愛がっているところなんていくら考えても失礼だが思い浮かばなかった。でも竜胆君のちょっとだけ寂しそうなその表情を見れたことは、嬉しく思う。



それから、暫くこんなゆるゆるとした毎日が過ぎていった。わたしは蘭と知り合ってからの期間がまだ短いからお互いの全てを知りつくしている訳ではないけれど、誰かに「灰谷蘭てどんな人?」と聞かれたら、迷わず「優しい人」だと答えるだろう。

蘭は甘えん坊だ。2人きりでいるときはずっとわたしにくっついてくるような男なのだ。でも甘えん坊な分、ちゃんとわたしのことも見ていてくれる。時折疲れた顔をしていれば「仕方ねぇなァ」とか言ってわたしが眠るまで起きてて頭を撫でてくれたり、買い物に出掛けた際には蘭より歩くのが遅いわたしに歩幅を合わせてくれる。

たまに怪我をしてきては機嫌が悪く冷たい日もあるし、夜中にウチに来ては「腹減った」と非常識な面もあるけれど、それすら許せてしまうのはきっとわたしがかなり蘭のことを好きになってしまったからだ。

蘭はわたしが聞いていた噂通りの人ではなかった。
わたしに何か欲しいものを強請ることもなければ、無理強いをさせることもない。飽きたから捨てるだとか、喧嘩をしても別れるというようなセリフだって一度たりとも聞いたことはなかった。

「…初めて会ったとき、わたし蘭のこと誤解して失礼なこと言っちゃってたよね。貢がせまくってるとかヤリ捨て常習犯だとか」
「ハァ?ンだよいきなり。てか言い方酷くね?」
「特に何もないんだけど、ずっとそれが気残りで後悔しちゃってて。ゴメンね?」

ラブロマンスでもないアクション映画をただ流していたのだけれど、唐突に今謝って置きたいなと何故だか急に思ったのだ。蘭はわたしの膝に置いていた頭を起こすと、そっとわたしの体を引き寄せた。

「素直過ぎてこェーよ。なに、蘭ちゃんに怒られるようなことでもした訳ェ?」
「しっしてないよ!ただなんていうか、思ったよりも大切にしてくれてるな…って思って」

慌ててそう口を開けば蘭はいつになく大人しげにクスクスと笑った。こうした表情がたまに大人っぽく見えるから、その都度わたしの心臓は未だに音を鳴らし続けている。


「…ンなの、お前が大事な女になっちまったからに決まってんだろうが」


「…へ」


ポソりと口にした蘭は困ったように眉を下げた。赤く火照ったわたしの顔を見てにやっと口端を上げた彼はもういつもの蘭だったけれど、嬉しい筈なのにどうしてか分からないが胸がきゅうっと苦しくもなった。

「あー…お前さ、」
「ん?」
「……いや、なんでもねぇ」

含みのある口調に、わたしは小首を傾げる。
それでも蘭はその先を教えてはくれなくて、「なんか腹減ったから作って」と話を逸らされ会話は強制終了。

それから暫く経っても、蘭がわたしにその話を持ち掛けて来ることはなかった。







今日も平日。いつもと同じアラームで目を覚ます。歯を磨いて顔を洗って軽いメイクを施して。いつもだったらもう仕事へ行かなきゃ間に合わないと焦るのに、テレビの時刻を見ればまだ30分も猶予があることに気が付いた。持っていたバッグを小さなソファに置いてぽすん、と腰を下ろす。

ちょっと前から寝起きの蘭と話をしていると家を出る時間が直ぐに迫ってくるから、早起きをするようになった。でもその相手は今いない。朝の忙しい時間帯の筈なのに暇が出来てしまったことにおかしな気分だ。

前より、蘭と会う回数が減った。
全く会えていない訳じゃないのに、どうしてこんなに寂しく感じるんだろうな。きっと一人での過ごし方を忘れてしまったからかもしれない。

「…困ったなぁ」

一人の時間が増えるたび、日に日に蘭がいない生活を考えられなくなってしまっている自分に気が付いてしまった。もし何かの理由で蘭に別れを切り出されたら、今なら母の気持ちが分かる気がする。「嫌だ」とか「別れたくない」ときっとわんわん泣いてしまう。まさか自分がこんなに蘭のことを好きになってしまうとは思わず、昔の自分が見たら呆れるだろうと思う。

スマホを覗いてみても、蘭から着信もメッセージも届いてはいない。

「会える?」と一言聞けばいいだけなのに、踏ん切りが中々つかない。つい1ヶ月前のわたしであったらきっと言えただろうけれど、今それを口にするのには勇気がいる。



蘭はきっと、わたしから離れようと思っている。






「最近蘭て忙しいの?」

先にウチ行っててと蘭から連絡が来て彼の住むマンションにお邪魔すると、竜胆君がいた。前より連絡も減っていた蘭のことが気になって、本人に聞いてみたこともあるけれどはぐらかされてしまった。
久しぶりに会った竜胆君の髪型は前と随分変わっており、マッシュウルフにカットされた髪色は、蘭と同じく紫のツートーンに染められていた。

「あー…」

竜胆君のその声音で、余り良くない事があるんだなと悟ってしまった。いつもだったら「兄ちゃんのことならあんたのが詳しいだろ」とか笑って言ってくれそうなものなのに、今日に限って竜胆君は気まずそうに顔を顰めたから。

「…兄ちゃんからなんも聞いてねェの?」
「……聞いて、ないと思う」

広いリビングに重たい空気が流れてきたような気がした。黙りこんでしまった竜胆君を申し訳なく思い、即座に笑顔を作る。

「ごっごめんごめん!そんな顔しないで!ただ最近余り会えないしよそよそしいっていうか。…好きな子が別に出来ちゃったのかななんて、」
「ンな訳ねェ!それは絶対ェねぇから!」
「そっそうなの…?」

竜胆君が大きな声を出したものだから、驚いてわたしの目は点になる。だけど彼はそんなことを気にもせずわたしに言ったのだ。

「あのさ、早く言わねぇ兄ちゃんが悪いから言うけど…」

全て聞き終えたとき、ああそっかなるほどな、と思ったよりも冷静に理解が出来た。竜胆君はまだわたしに何か言いたげだったけれど、蘭が帰って来た為に口を閉ざした。





テレビのニュースをぼぉーっと眺めたまま、竜胆君が言っていた事を思い出していた。本当だったら、蘭の口から聞くであろう事を、竜胆君から聞いてしまったのだ。別に竜胆君を責めるとかそういったことは全然思っていない。竜胆君はわたしと仲良くしてくれていたから、黙っていることが出来なかったんだろう。

蘭は竜胆君含め裏社会の道を進んだ。わたしにはいえないようなことを主に仕事としていると竜胆君は言っていた。言わば反社会的勢力というわけだ。

わたしは一般人だから、その手についてはニュースで見るくらいの知識しかない。そう、一般人だからこそ蘭はわたしにそのことを言えなかったのだろう。

竜胆君は言った。「俺らが選んだのはそういう道だからいざとなったら命だって保証がねぇ」と。

優しい蘭のことだから、わたしがそれを聞いたら泣くと思ったのかもしれない。わたしの事を一番に思ってくれる彼のことだから、「俺に着いてこい」なんて言えないのかもしれない。…わたしが「嫌だ」と言うと思って、別れを切り出せないのかもしれない。

だったらわたしはどんな判断をすればいいんだろう。蘭のことは大好きだ。蘭がいない生活に戻れないくらいには沼に落ちてしまった。

だけどこの先蘭の重荷になるくらいなら、わたしから手を離してあげるべきなのではないか、そう思っては蘭と会えていないこの期間頭を悩ませた。

深呼吸して、微かに震える指先で蘭の連絡先の通話ボタンをタップする。

数秒も掛からず鳴り出すコール音に心臓はバクバク音を鳴らし、やっぱり出ないでくれ!なんて思うも、こういう時に限って、わたしの一番安心する声が耳に届く。

「ナマエ?」
「あ、と…らん?」
「ん、どうしたァ?」

いつも通りの声に涙が出そうになった。だけどこんな所で泣いてちゃいけないと蘭にバレないように鼻を啜る。


「あのね話がある…んだけど」
「……奇遇。俺もお前に話があるんだよなぁ」


短い会話にプツリと切れた電話。
どうやら私たち、最後の最後は思っていることが同じだったらしい。








今日の仕事はいうまでもなく手付かずだった。
ずっと考えていることは蘭のことで、今こんなくよくよしていてこの先一人になっても大丈夫かなんて考えては涙腺が緩んで仕方がない。家に帰ってもそれは同じで、蘭が来るまでの間何度ため息を吐いたか分からない。

だけど時間は嫌でも過ぎていく。
スマホのメッセージに"着いた"と連絡が入ると、わたしは一度自分の頬を軽く叩いて玄関に向かった。

「…らん」
「久しぶりィ。何その顔。俺に会えなくて寂しかったわけェ?」

いつもと変わらない蘭の笑顔と、出会った頃から変わらない香水の香り。綺麗にセットされた髪型にスーツを着た彼にはまだ見慣れないけれど、やっぱり似合っている。でも少し、三つ編みだった頃の蘭が恋しく思う。

「ハハッ、泣く程寂しかったのかよ」
「っくっ」

絶対に泣かないと決めていたのに、蘭を見たら早々に自分への約束を破ってしまった。





「これじゃあどっちが年上か分かんねェなぁ?」
「っらんが2つは変わんないって言ってた」
「あー?そうだっけ?」

クスクスと上品に笑った蘭はティッシュボックスから1枚取り出しわたしの涙を拭う。
別れる女に対してそんな気を使わないで欲しい。余計と離れ難くなってしまうじゃないか。そんなことを思っているだなんて知らない蘭はめそめそ泣いているわたしとは正反対に楽しそうに笑顔を向けた。

「寂しい思いさせちまったから蘭ちゃんからお詫びにプレゼントしたいもんがあんだけど」
「…へ?」

蘭はスーツの内ポケットからそれを取り出すと、わたしの目の前に翳す。

「…カード、キー?」
「そ。お前と俺の家のヤツ」
「え?ん?」

涙は途端に引っ込んで、代わりにわたしの頭上には意味が分からないとハテナが現れる。そんなわたしに蘭は満足げに笑って言うのだ。

「お前まさか忘れちまったわけぇ?昔お前が俺に言ったんだろ。"自分の金で働いたら一緒に住んでやる"とかってさァ」
「あ…言った、けど。へ??」
「あんなこと言われたの俺初めてでさァ。絶対ェお前と暮らしてやるとかムキんなって、やっと自分の稼いだ金でマンション一室買ってきた」
「かっ買ってきた!?」
「そー。っつかなに、もっと喜ぶと思ったのになんでンな顔してるわけ?嬉しくねぇの?」

眉間に皺を寄せ、不服そうに蘭はわたしを覗き込む。
ちょっと待って。わたしが思っていた展開と全く違うんだけど。

「今更一緒に住めねェとかいう冗談笑えねェからやめろよ?ンなこと言われたら流石の俺も、」
「やっ、違くて」
「ん?」
「そうじゃなくて、その…わたしてっきり今日別れると思ってた、から」
「は?誰と誰が?」
「わっわたしとらんが」

蘭のキョトンとした瞳と視線を交え数十秒。
どうしたら良いか分からず視線を逸らせば蘭がそれを許すはずがなく、わたしの両頬をぎゅう、と片手で摘んだ。

「どういうことか意味分かんねェんだけどォ?」
「しょっしょの、」
「はァ?」

意外と強く摘まれているせいで上手く話せず蘭の手を頬から退かす。そうして拳に力を込めて、視線をそろっと蘭に向けた。

「あの…詳しいことは聞いてないんだけど竜胆君から蘭たちの仕事聞いてて。それで最近会えてなかったし、連絡も少ないし、蘭の口からも仕事の件教えて貰ってなかったから、」
「……」
「別れたいのかなって思っちゃって。でも蘭は優しいから、わたしに言えないんだろうなって考えたら、わたしから蘭に別れ告げた方が良いのかなって…思いまして、その、ッヒ!」

泳がしていた目線を蘭に移せば、わたしを見てにこにこ笑顔を作っている。わたし、分かる。この顔はかなり怒っている蘭の顔である。

「ふぅん…あっそォ。じゃあお前は今日俺と別れようと思ってたってワケね?」
「いや、ちがっ…くないけど……はい」

こういう時の蘭は無駄に勘が鋭いというかわたしが顔に出やすいからかウソはつけない。冷や汗が背中にたらりと流れると、蘭はわたしのサイドの髪を耳にかけた。

「で?お前は俺と別れて平気なワケ?」
「え?」
「今日もし俺がその別れに了承してたらお前平気なのかって聞いてんだわ」

別にいつもと同じ蘭の声の筈なのにその言葉を口にされた瞬間、止まっていた涙は再度溢れ出す。

「へっへいきだったら会ってすぐ泣いてないよ!っ、うっウチの親みたいに男がいなくちゃ生活出来ないような女になりたくなかったから今まで本気にならないようにしてたのに…っらんと付き合ってからどんどん蘭のことが好きになっちゃって、重荷になるくらいなら自分から別れよって思ったのに、正直もう一人でいられる自信が、ない」

今まで言ったことのなかったことを、初めて今蘭に告げた。多分嗚咽混じりで全てを伝えられている自信はないが、これが本音である。暫しの沈黙が襲うとそれだけで不安に駆られた。

「…前に俺が言ったこと覚えてねェ?」
「ん?」
「お前が俺の大事な女だよっていうはなし」
「覚えてるけど、」
「俺だって同じだよ。昔は確かに遊んでたこともあるしひでェことしたのも事実だけどさァ。お前と出会ってから見方が変わったんだよなぁ。絶対ェ離したくないと思ったのも離してやれねぇって思ったのも、大事にしねぇとって思った女も、全部お前が初めてだよ。…俺もお前がいない生活考えらんねぇくらいに、好き」

蘭はあやす様に背中をぽんぽんと叩いた。何度か喧嘩をしたことはあるけれど、小さな子に優しく言い聞かせるように言葉を繋ぐ蘭は初めてだった。わたしの手を取りカードキーを持たせると、蘭は柄にもなく緊張しているのか短く息を吐いた。


「俺こんなんだからさァ、竜胆から聞いた通り全うな職につけなかったのは…ごめんな?でも必ずお前のことはこの先泣かせねェって約束するから、これからも俺の隣に居て傍で笑ってて欲しいんだけど」
「…らん」



わたしが涙ながらにこくん、と頷けば、蘭は安堵したように柔和に微笑んで、わたしをキツくぎゅうぅっと抱き締めた。







−−−−−−−


「ねぇ蘭、なんでわたしに働いていること隠してたの?」
「はぁ?別になんでも良くねェ?」
「教えてくれなくちゃ泣くけど…」





「……好きで堪んねェ女と暮らす為に一生懸命働いて金貯めてましたなんて素直に言えるワケねぇだろ」


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