小説 | ナノ

内縁とはいえ"離婚式"をしたいと思います


※梵天軸

※結婚は慎重に、ってな話です





好転!好転!!

なにも知らずに結婚してしまったバカな女の話をちょっと聞いて欲しい。

彼の経営している飲み屋のバーで運命的な出会いを果たしたわたしとその旦那、灰谷竜胆の話を。


わたし達は結婚してもう時期1年という月日が経つ。出会いから結婚までが早く、言わばスピード婚というやつだ。婚姻届はまだ出せていないが、両者共に了承して今は内縁の夫婦である。

彼とはそんなに長い月日を今日までトータルしても過ごしてはいない。わたしの友人は「まだ相手のこと知らないでしょ。結婚は考えたほうが良い」と顔を歪めたし、彼の兄である蘭さんも「正気かよ」と爆笑した後、本気だと分かると表情が消え失せた。それくらい私たちは出会ってすぐの結婚だったのだ。まぁ、交際期間3ヶ月いったかどうかなので言われても仕方がないのだけれど。

惹かれ合うというものは本当に恐ろしく、出会った日から竜胆にプロポーズされるまでのこの期間、いつもお互いを優先していた毎日。1に竜胆2に竜胆、わたしの毎日は灰谷竜胆で埋めつくされていた。あの時のわたし達は例えS極とN極の化学的に離れ離れになる磁石のような運命だったとしても、どうにかしてピッタリとくっ付いてしまったに違いないと断言出来る。つまりバカップルだった訳だ。結局何を言われたって当人同士が好きならどうしようも出来ない。恋は反対されればされるほど、燃え上がってしまうものなので。

わたしの知っている灰谷竜胆という人物は、良く出来た男であった。出会ったその日、独り身だと聞き嘘だと声に出てしまったのは本音と共に事実である。顔が良く、オシャレであり、女性に対する気遣いも出来れば話題の振り方も上手。プラスして重たい前髪から覗く目元はタレ目がちでそれがまた可愛く、時折末っ子力を発揮する竜胆は、女の母性を擽り魅力的だった。
その証拠に、会う度周りの女の子は竜胆のことを目で追っていたし、女だけではなく竜胆が経営しているといった飲み屋の従業員達にも慕われていた。灰谷竜胆という男は、男女共に年上にも年下にも好かれる男だったのだ。





季節はいつの間にか冬に差し掛かる。高層マンションの36階。そこに私たちの住む家がある。防音は勿論、キッチンはペニンシュラ型で二人暮しなのにリビングは無駄に広い。空き部屋は寝室以外で2部屋あり、つまりファミリー向けに建てられたお金持ちが住まうマンションだ。空いた部屋の一室は竜胆の仕事兼ゲーム部屋で、もう一部屋は新しい物好きな竜胆はよく流行りの服なんかを買うのでクローゼットにしまえなくなった服の置き部屋となっている。竜胆と暮らす前の私は狭い1LDKに住んでいたせいか、実家よりも広く、夜景も堪能できてしまうこの家に住み慣れるまでに時間が少々掛かったものだ。

今日竜胆は遅くなると昼過ぎに約束通りメッセージが入っていた。冷蔵庫から水を取り出しコップに注いで一息着く。味がしない水をこんなに美味しく感じるだなんて未だかつてあっただろうか。

「はぁ…」

とはいえ口から出るのはため息である。
ため息は幸せが逃げるというが、わたしの両口端はにぃっと上がりコップを持つ手には自然と力が込められた。


やっと!やっと別れられる!!


プルプルと肩が震える。怒り以外で体が震えることってあるんだね。初めて知った。


「っそうだ!ケーキ!ケーキ買おっ」


竜胆の好きな洋菓子店。まだ竜胆の帰宅するまでにはかなり時間がある。マフラーを首に巻き、家を出た。


「あっ」


帰りに100均寄ってクラッカーも買わなきゃっっ!!


足並みはこれでもかというくらいに軽く、エレベーターで下へ向かう際ご近所のマダムに2度見されてしまったくらいには顔がニヤついていた。








わたしの旦那が嘘つきだった。
嘘つきというか、なんというか。人間、他人に知られたくないことの1つくらいあると思うが、何せ結婚を考えている相手に職業まで隠していたとは流石にどうだろう。知る原因さえなければわたしはきっとずっと知らずにこのまま過ごしていたのかもしれない。

彼の仕事は色んな飲食店の経営が主だと聞いていた。休みは不定期で、休日出勤あり。帰宅する時間は大体20時頃には帰ってくるが、日付を跨ぐことも屡々。

「ごめんな。婚姻届出すのもうちょい待ってくんねェ?今の仕事が落ち着いたらお前の家にも挨拶行くから」
「ううん。忙しいんだから焦らなくても大丈夫だよ」
「っ、お前と結婚出来る俺ってマジで幸せもんだわ」

申し訳無さそうに謝る竜胆に、わたしは気にしないでと紫色のマッシュウルフを優しく撫でる。実際この時既に2人で暮らしていたし、竜胆はわたしの事をいつも大事にしてくれているのが目に見えて分かっていたから、本人の言う通り仕事が忙しいんだなとしか思ってはおらず、疑う欠片なんてこれっぽっちも持ち合わせていなかった。

だが真相は意外なところで知る。わたし達が2人で暮らすようになり初めて蘭さんを食事に呼んだときのこと。竜胆から蘭さんとは一緒に仕事をしていることは聞いていた。ただ"いくつかの店を構えて一緒に経営している"という簡単な仕事内容しか教えては貰えなかった。気になる点はいくつかあったけど、竜胆は家で仕事の話をするのが余り好きではなかったが為に、深く詮索はしなかったのだ。

食事もそこそこ、蘭さんが上機嫌でワインのボトルを2本空けたとき、その話題は突然やってきた。

「そういや昨日は大変だったんだぜ?竜胆ンとこの部下がヘマしちまってさァ。俺もそれ手伝わされてお陰でおろしたてのシャツが汚れちまったの」
「へま?」
「そーそォ。上納金で回収した金を奪って逃げたバカがいてェ…ってアレ?聞いてねェの?」

空になったグラスへワインを注いでいたわたしの視線を蘭さんからゆっくり竜胆へ向けると、それまで楽しく笑っていた竜胆の表情が石のように固まっていた。

え?上納金?お金?奪う?は?

普通の生活をしていて余り聞くことはないであろうその単語たちに頭には疑問ばかりが募っていく。

「え、あれ?竜胆たちって飲み屋とかの経営者なんじゃ?」
「あ?あー…ははっ。まだナマエチャンんなもん信じてんの?ウケんだけど、カワイー。ってかそういうのはちゃんと言っとけよりんどー、お前らフウフなんだろ?まぁ表向きは普通の店もあるけどさァ、昨日は店じゃなくて、」
「ちょっ、兄ちゃん!」

ほんのり赤い顔でケラケラと反社ライフを話し出した蘭さんを竜胆が必死で口止めしようにも不可能で、わたしはただただ空いた口が塞がらない。

そこで知った。わたしの旦那の素性を。
そして出るわ出るわ私の知らない竜胆のお話が。

店の経営は確かに本当だった。ただその裏にはテレビのニュースで聞く悪名高い"梵天"という組織がついてるということ。そしてその梵天の幹部様の1人が竜胆だと蘭さんは言うじゃないか。わたし達の出会ったあの雰囲気がすこぶる素敵だったバー。そこも竜胆管轄のバーであり、裏取引にもたまに使われているらしい。他には冬でも夏でも関係なく足を踏み入れたら凍ってしまいそうなほど寒い冷凍庫にもたまに遊びに行くなどなど…。
ヤクザ映画のあらすじを聞いているようで、処理しきれない情報に目眩がしてきそうだった。

だから、だから竜胆は婚姻届を出せなかったのか。「店が落ち着いたら届け出そうな」とはにかんでいた竜胆の言葉を信じて疑わなかった数時間前までのわたし、もう何処にもいない。

その後幼少期の可愛い竜胆の話をこれでもかと話してくれた蘭さんの話は勿論全く耳には入ってはこなかった。そうして訪れた頃より更に上機嫌な蘭さんは帰り際、竜胆が席を外した際にコソッとわたしに耳打ちをした。

「オレ言ったっしょ?結婚決めんのンな早くてダイジョーブ?ってさァ」
「ひぅ!」
「顔ずっと真っ青で笑えんだけどォ。っま、どっかから聞くより俺から聞いた方がいいじゃん?一応身内、だし?」

なんにもよくないですが!?
確かに蘭さんへ結婚報告をしたとき、マジでいいの?と何度も含みのある言い方をされたのは覚えている。だけどそんなのブラコンによる発言かと思ってたんだもん。裏にそんな理由が隠されていたとか思わないじゃん。

何も答えられずその場で立ちすくむわたしに、蘭さんは更なる恐ろしい発言を残す。

「あっ、竜胆にベタ惚れのナマエチャンならそんなひでーことしねぇとは思うけど、今更別れてぇとかいって竜胆泣かしたら許さねぇから

にこりと竜胆によく似た顔立ちがわたしに向けて微笑んだ。肩にポン、と手を置かれるとわたしの体は反射的に跳ね首を縦に振ることが精一杯。程なくして竜胆が私たちの元までトイレから戻って来たが為にこの話は強制終了。あの時の蘭さんの笑顔は今思い出しても背筋が凍る。





「ねっねぇ竜胆。さっきの、蘭さんが言ってたことって…本当?」

蘭さんが帰宅し静まり返った室内の空気は重苦しく、部屋の温度が下がっている気がする。眉を寄せ少し潤んだ瞳で不安げだった竜胆は、わたしの質問に考え込んだ素振りをしてみせるとテーブルに頬杖つき口端をにぃっと怪しく上げた。

「ホントって言ったらどうする?」
「え?」
「逃げんの?」
「……?」

なんとこの男、開き直りやがった!!

驚愕したわたしの口からはもう一度「エッ??」と変な声が漏れる。いや待って。普通この場合、"逃げんの?"ではなく、"隠していてゴメン"だとか"嫌いになった?"がまず初めにくるものではないだろうか。その言葉のチョイスがもう常人とは違う。

逃げたいです!と声を大にして叫びたかったが、先程の蘭さんの言葉がこだまして口をきゅ、と結ぶ。それに竜胆のわたしに向ける目つきが、普段と全然違う。口元は笑っているのに、冷めく刺すような視線と低い声音。悪いことなんて1つもしていないのに何故だかわたしが責められているようで、背中には気持ちが悪い汗がじとっと流れた。

「にっ逃げないよ」
「えー…マジ?嘘ついてねェ?」

嘘というか隠してたのは竜胆だろ!と心では叫ぶがやはりそれを口にすることは叶わず乾いた唾を飲み込んだ。

「っ逃げるわけないじゃん。ないない」
「ふぅん……信じていーの?」
「うっうん。信じてくださ、ぃ」

声の端は小さくなり、震えてしまったのが竜胆にも分かったと思う。それでもわたしの言葉に安堵したのか竜胆の表情がいくらか緩んだ気がする。そして竜胆はわたしの腕を引き寄せ抱きしめた。

「あー良かったぁぁ。ずっとお前に言わなくちゃなって思ってたんだけどさ、俺自分が思っている以上にお前のこと好きみてェで。…怖がらせんの嫌だなって思ったら言えなかったんだワ」
「はっはぁ…」
「なぁ、好きって言って」
「え?」
「早く。俺のこと好きって言って」
「すっすき…?」
「俺も好き。何があってもお前だけは一生守るから」
「あっあり、ありがとう……」

誓いの言葉に聞こえるこのワードは普通恋愛的、もしくは家族愛からくるものだろうが、真実を知ってしまった今、そうは思えない。

なっ何からわたしを守ろうっていうんですか!?
ヤクザとか危ない人からわたしを守るってこと!?
えっ!!わたしの顔ってそちらの業界人に割れてるの!?

とんでもねぇ男と結婚(内縁)しちまった!!!

竜胆は頬を擦り寄せそのままキスを落とす。甘くなった空間に竜胆は何度もわたしにキスをするが、集中出来るはずがなく心ここに在らず。

今までわたしが見ていた竜胆は、本物の竜胆だったのだろうか。内縁とはいえ一応灰谷竜胆の嫁として1年。なんだかとても騙されていた気分だ。

その日からの竜胆は隠し事が無くなったせいか、前より生き生きとして見える。なんなら「兄ちゃんに感謝しねぇと」と兄弟の絆が深まったほどに。わたしは正反対で、知りたくなかったよと心は曇るばかりであった。

竜胆が嫌いな訳ではない。楽しくて幸せな思い出だってまるで昨日のように思い出せる。だけど蘭さんから聞いたとても世間には言えない数々のあんな事やこんな事を急に受け入れろってのが無理な話で。何も知らなかった頃に戻りたいと何度も思ってしまった私は最低なのかもしれない。もう遅いのは十分分かっているが、相手のことをよく知らずに結婚だなんて絶対にしちゃいけないことだと身に染みて感じた。

そうして1年の時が過ぎ、現在まで至る。

離婚したい、そう思ったのはいつの頃だっただろうか。未だ役所に届出をだしていないことだけが幸いといえる。これで法的に結婚をしていたら離婚までの道のりはきっともっと果てしない。

竜胆はそれからも家では仕事の話を余り持ち込まない。わたしに対しての配慮なんだと思う。けれど事実を知ってしまった以上、怖いものは怖い。家ではその手の話はしないといっても、気を許した竜胆は仕事中に電話を掛けて来ることか多くなった。大体は誰もいない所で電話しているようだが、たまに電話口の向こうから「ガハッ」とか「ごめんなさいごめんなさい」と声が漏れてくることがある。いつも通り平常心な竜胆と、それにビビりまくるわたし。一体何が起きてるの!?と口にすることは野暮ってものだ。聞いちゃいけない。

この先こんな生活がずっと続いていくと思ったら、わたしの心身マジでもたない。本当に結婚するとなったなら、実家の父と母になんて言えばいいの。両親揃ってきっと泣いてしまう。わたしも泣く。

ごめん竜胆。永遠を口頭では誓ったけれど、わたしはあなたが怖すぎる。

しかしそうは言っても竜胆と別れる口実が見つからない。素直に怖いなんて言おうものなら竜胆の兄がきっと黙っていない。わたしの命の保証はないに等しい。かといって大きな喧嘩もない。だって竜胆はわたしにめちゃくちゃ甘く、1年経つ今でも出来る限りの優先順位はわたしが1番だから、喧嘩にならない。

これだけ愛妻家で優しいんだもん。竜胆がわたしに優しければそれでいいじゃないか。なんて考えてみるも、最終的に行き着く答えは"むり!歩み寄ろうとしたって人殺しはおっかないって!"だ。

竜胆が何かの手違いで浮気でもしてくれたら、そんなことを考える日々も次第に増えていった。



そして離婚のチャンスは訪れる。

『尚、梵天は更に勢力を上げ続けこのままでは一般の市民にも被害が、』

ピッ、と小さな機械音と共に映像は真っ暗に変わり、途端に室内は静けさに包まれる。テレビのニュースで梵天の名が上がる度、わたしの心臓は飛び跳ねるのだ。

朝8時。カフェラテの良い匂いが鼻を掠める。少し焦げてしまったトーストを竜胆は文句も言わず口にして、ただのジャムとマーガリンが乗っただけの誰にでも出来る朝食を喜んで食すのだ。

「このパンうめぇね」
「あっ、そっそう?良かったぁ。ちょっと焦げちゃったけど…はは」
「ん、俺こんくらいのが好き」

テレビを消した張本人である竜胆は何事も無かったように笑顔を向ける。一方わたしはカタカタと効果音が出そうなのを必死で堪えて笑顔を作る。

「じゃあ行ってくるけど、また昼頃LINE入れるわ」
「あっうん。いってらっしゃい」

名残惜しそうにオシゴトへ旅立った竜胆を見送り、もう一度テレビをつけてみたが、やはりもう先程のニュースは終わりお天気お姉さんが元気よく全国天気を知らせていた。

「……」

玄関を上がり右手側に部屋がある。竜胆の部屋だ。余り普段から彼が長居することはないし、住み出した頃に機密事項なんかもしまってあるから掃除はいいと言われていた為、わたしはその約束を律儀に守っていた。

バクバクと心臓の音がこれでもかというほど響き渡る。
最近の竜胆は、帰宅時間が遅い。疲れた顔で帰ってくることも少なくない。帰宅して酒の匂いに混じっているのはこれでもかというほど甘い香水の香り。付き合いでキャバクラに行くこともあるだろう。昔は嫌で堪らなかったが、今ではどうぞ行って他所に女を作って来てくれという気持ちでいっぱいだった。

でもまさか本当に作るとは。

この甘すぎる香りはわたしの好みではない。だから覚えている。最近竜胆はこの匂いをつけて帰ってくることが多くなった。でもまだ確信がない。証明できなければ意味がない。

実の所昨日、竜胆がこそこそと書斎に入っていくのを見た。最近の竜胆は全く立ち入ることをしなかったのでもしやと思ったのだ。なにか証拠があるかもって。

でもまさか、まさか本当に証拠をいとも簡単に掴めてしまうとは。

竜胆はわたしを信用しきっている。わたしがこの部屋に普段入らないことを知っている。だからその証拠は小さなテーブルの上に無造作に置かれていた。脱ぎ捨てられた赤いリップがついたワイシャツ。


そのシャツを見て、わたしはいてもたってもいられなくなってしまったのだ。






竜胆の好きなケーキがたまたまホールでも売られていた。なんたる強運の持ち主なんだ。100均に寄る前にスーパーにも行って、竜胆が好きな料理の材料も買おう。気分は小学生の頃の遠足気分だった。

無事100均でクラッカーも買い、パステルカラーの風船まで買ってしまった。ちょっと支度を急がなければならないが、わたし達の最初で最後の離婚式なのだから、派手にいかなくちゃ!

蘭さんもきっと竜胆の浮気が原因ならばわたしを咎めることはしないだろう。うん、きっと大丈夫。タクシーを捕まえ帰宅したわたしは早速準備に取り掛かった。






「ただい…何コレ」
「あっ竜胆!おかえりなさい!!」

メッセージ通り20時過ぎに帰宅した竜胆は数々の料理と飾られた室内を見て目を瞬かせる。そんな竜胆のクラッチバックを受け取りジャケットを脱がせて皺にならないようにハンガーへと掛けた。

「なぁ、今日なんか大事な日だっけ?俺忘れてる?」
「あっううん!違うよ!っはい!これ洗ってアイロン掛けておいたよ!ごめんね勝手に書斎に入っちゃって」

パタパタと竜胆の元へと駆け寄り、善は急げと丁寧にアイロン掛けしたシャツを手渡すとハテナを浮かべる竜胆の顔が引き攣った。

「いやおま、これ」
「今日色々支度してたらクリーニング行く時間がなくって。それお気に入りのシャツだったよね?赤リップは取れにくいからダメだよそのままにしちゃ!」
「は?あ?」
「いいの。言わなくても大丈夫!…分かってる。竜胆に大事な人が出来たってことくらい…分かってるから」

我ながら名演技である。主演女優賞を与えたいくらいだ。仕事を辞めてしまったわたしの趣味はドラマを見漁ること。家事の合間に見ていた映画の名ゼリフを少しパクったものだ。離婚式というのも、その映画で初めて知った。

「なに言っ」

竜胆の口に手を当て遮る。そしてわたしは少しばかり悲しげな表情を浮かべるのだ。

「わたし達、何から何まで色々と駆け抜けていった恋愛だったけど、今日の今まで大事にして貰ったことは感謝してる。いつもわたしを1番に思ってくれていた竜胆が大好きだったよ。何もしてあげられなくて帰りを待つことくらいしか出来なくてごめんね。大事な子が出来たのに、ちゃんと毎日帰って来てくれてありがとう。結婚式は挙げられなかったけど、最後の夜くらい笑顔でお別れしたいなって思って」

もう誰かに拍手を頂きたい。潤んだ瞳に過去を懐かしむように悲しげな声音。なにからなにまで完璧だと心の中でガッツポーズをした。つい口が緩みそうになったが為に視線を下へと移せば、シャツを手にしていた竜胆の拳がぎゅ、と力を込めたのが分かった。

「……」

暫しの静寂。ドキドキしていないといったら嘘になる。でもこの言い方ならば逆ギレはされないはず。しかしどうか、竜胆はシャツをその辺に投げ捨てるかのように手放した。え?と顔を上げれば、釣り眉の竜胆の眉毛が下がり口をきゅっと結んでわたしを見つめていた。

「あ…冷めちゃうし食べよっか?」
「待って、俺の話を聞いて」
「じゃ、じゃあ食べながら」
「食うけど、食うけどもうちょい待って」

わたしの手は竜胆の手に包まれる。
もしかして言い訳タイムに入ってしまう感じ?

「ごめん!!隠す気はなかったっつーか、いやすぐ言わなかった俺が全部悪ぃわ。マジでごめん」
「あっううん、もうそれはいいっていうか」
「いい訳ねェだろ!…聞きたくねェかもしんねぇけど聞いて」

竜胆の必死さが声量と共に伝わってきて思わず「はい!」とわたしも声が大きく出てしまった。

「そのリップつけやがったオンナは俺の管轄内のキャバで働いてる奴なんだけど、ウチの情報を別の組の奴らに横流ししてるって耳に入っちまって、それで俺が出なきゃいけなくなったんだわ」
「………へ」
「本当かどうか確かめる為に泳がしてたら妙に距離近くて終いには俺のこと好きになったとかアホなこと言い出すようになってさ」
「……」

おいおい待ってくれ。今の話が本当だとしたら、竜胆は浮気していなかったということだろうか。いやそんな馬鹿な。

落胆していくわたしに竜胆は気付かずそっと抱き締める。

「嫌な思いさせてごめんな。もうそのオンナいねェし誓ってそれ以外で会ったり触らせたりしてねぇから。安心して?信じらんねぇなら兄ちゃんに聞いてもいいよ。…こんな準備までさせちまって…本当にゴメン」

ぎゅうぅっとキツく抱き締める竜胆に対し、わたしの目からは本格的に涙が零れた。自分の空回りと逃げられないこの状況下に対して。

「これからはお前を悲しませないように何かあった時には必ず全部言うから」
「うっ、っく」

竜胆は優しくポンポンとわたしの背をあやす様に叩く。
中々泣き止まないわたしに、竜胆は少々焦ったのかわたしの涙を拭いながら言ったのだ。


「俺、来月休み取れたんだよ。長期の。最近忙しかったのそれもあったんだけどさ。それで、お前の好きなとこ行かね?お前の家の両親にちゃんと結婚の挨拶行って旅行すんの。国内でもいいけど、海外も捨て難いよな。お前パリ行ってみてェって言ってたろ。…待たせちまってごめんな。この先もずっとお前だけを愛してるから」


竜胆は余計と泣き止まなくなったわたしを嬉し泣きしているのだと勘違いをする。

本当にわたしはとんでもない人に恋をしてしまった。
婚姻届は出せなくとも、本気で竜胆はわたしを愛してくれているが故、両親に会いに行くと言っているのだろう。同じ気持ちでいられなくてごめんなさい。どんなに愛してくれても反社はやっぱり怖い以外の何ものでもないです。

それでももう、わたしに逃げ道は何処にもないのだ。


暗転…暗転…。



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