小説 | ナノ

恋の奥底は蜜より甘い


※梵天軸

※竜胆と政略結婚したけれどまさかのまさかだった話



お先真っ暗とはまさにこの事。
わたしの父が経営している会社がなんと、倒産寸前の危機に陥った。

赤字続きから始まり人員削減、ボーナスカット、そして最後に倒産。負の連鎖は一度入り込んでしまうと抜け出すことは中々難しい。
だが幸運と呼べば良いのか悪いのか。頭を抱えた父に倒産以外で選択肢を1つ増やしてくれた人物がいる。理由は至ってシンプル。まだ使えると向こう側が踏んだからだ。海外経由での取引を主としていたウチは、わたしが知らないだけで裏取引にも使われていた仲介業でもあったから。

「立て直せるだけの金は工面してやる。その代わりお前、娘いたよな?」

つまり、大袈裟に言ってしまえばわたしは父が金だけ貰って逃げないようにする為の人質みたいなものだったんだろう。父は最後まで渋っていたが、そうもいってられない状況がすぐ側まで来てしまったとき、わたしに初めてそれを打ち明けた。そんな深刻な状況になっていただなんてこの時まで何も知らず、脳内お花畑で生活をしていたわたしは開いた口が塞がらない。背を小さく丸めている父の姿をただ呆然と見ていることしか出来なかった。





そうして花の名前を、父から聞いた。

まだ顔合わせすらしていないのにその名を一度声に出して復唱すると、心臓が大きく跳ねる。この人が私の夫になるんだなとか、これからずっと一緒に生活していく人なんだなだとか、そんな未来のことを一気に想像してしまっては、またもう一度胸が音を鳴らした。最低なのは重々承知だけど、「ごめんな」と肩を震わせ謝る父の姿を元気付けるよりも先に、その人のことばかりを考えてしまったのだ。







指定された個室の一部屋。わたしが着いた頃にはもう彼は待っていた。女将さんに「こちらです」と通されて、緊張を胸に襖の前で深呼吸を1つ。襖が開くと同時に、その人物がゆっくりと顔を此方に向けると視線が合わさった。

「はじめまして」
「……」

挨拶に応答なし。あれ、ここで場所合ってるよね?なんて焦って女将さんを見るも、にこやかに私の名を呼んだから間違いではない。

「あ、えっと」
「……」

目にかかりそうな重い前髪。長めのマッシュウルフは綺麗なツートーンに染められて、見るからに上質なスーツを着た彼、灰谷竜胆さんはわたしを見つめるも形の良い唇をぽけっ、と開けて凝視する。余りにもジッと見つめてくるものだから、ちょっとこわい。その目付きに耐えられなくなりそうで、つい「えへ」と反射的に笑ってしまったのだが、視線はすぐに逸らされてしまった。

「……」
「……」

無言の挨拶を交わし取り敢えず席へと座る。懐石料理が私たちの前に運ばれても未だわたしと竜胆さんは口を閉じたままだった。かなり気まずい空気に冷や汗はかくし、一向に料理に手をつけない竜胆さんを前にしてわたしも食べる訳にはいかないから静かに待つ他なく。どんよりと圧迫されたこの空間を今からどうしたら良いものか。"粗相のないように"を何度も頭にインプットしてここまで来た筈だけど、これでは粗相も何もない。

彼の態度を見るに機嫌が悪いとかそういった感じには見受けられない。けれど顔合わせ5分にしてこの空気は流石にヤバい気がするし、この先本当にわたしは彼と一緒に生活していく事が出来るのだろうかという不安も余計と襲ってくる。この結婚はウチの父と彼が身を置いている梵天のボス、佐野さんとの約束なのだから不服なのは分かるけど。

「……りんどう」
「へ?」
「…聞いてるかもしんねェけど。俺、灰谷竜胆つーの」

静寂の間、それから約10分ほど。やっと口を開いた彼は思ったよりも随分小さな声量だった。

「あ、存じております。わたしの名前は、」
「うん、知ってる。ナマエだろ?」
「はっはい、その通りです」
「……」
「……」

軽い自己紹介を遮られ、ここでまた来る沈黙。一向に喋らない彼を前に、それならば私が動くしかないと意を決して噛んで閉じていた唇を開けた。

「きょ、今日は良いお天気ですね?」
「……うん」
「……」
「……」

ダメだった。わたしは彼の話し相手にすら値しないのかもしれない。接点のなかった人ほど無言の時間はキツいものがある。ましてやこの方は父の会社を救う手立てに結婚を余儀なくされた方だ。本当に申し訳ないと心の中で土下座する。

一秒一秒が長く感じ、暖かい筈のお料理もこれでは冷めてしまっているのではないだろうか。私はどちらかというと普段はお喋りの方なので、気まずい人ほど何かを話さなくては!と謎に焦ってしまう性分。めげずに他にも話題を出してみたりしたけれど、竜胆さんの返ってくる返答が「ふぅん」とか「…そう」ばかりなので、話も続かず話題も早々に尽きてしまった。生放送なんかで質問を繰り返すテレビの司会者は凄いと思う。わたしは一生なれる気がしない。そして困ったことに会話は続かないのに竜胆さんがチラチラと視線を何度かわたしへ寄越す為、その度目が合い逸らされの繰り返しである。

「…けっこん、本当にいいワケ?」
「はい?」

やっと口を開いたと思ったら、決定事項を疑問形で問う竜胆さん。重たい前髪から覗いた瞳は少々不安げで…いや、そんなことある訳ないない。絶対見間違いだ。

「わたしは大丈夫ですけど」
「…後になって逃げたりしねェ?」
「え?」

逃げるとは?浮気とかそういう類でってことだろうか。
そんなことではないけれど、竜胆さんにとっては愛のない結婚だということは初めから百も承知。だから先々色事云々で竜胆さんが例え家に帰らなくなろうが浮気しようが文句を言うのはお門違い。これに我慢が出来ず逃げようものならウチの父が次こそポックリ逝ってしまう気がする。…それだけは避けたい。

「しませんよ!するわけないじゃないですかっ。竜胆さんに捨てられない限り一生一緒にいるって決めてここまで来たので!」
「…オマエそれ、恥ずいこと言ってるっつー自覚ねぇの?」
「えっ……あっ!?ごめんなさっ」

うつむき加減だった竜胆さんが顔を上げる。つい口から出てしまった自分の失言を慌てて謝罪した。料理が目の前になかったら、今頃机に頭をぶつけていたに違いない。顔合わせ初日で言うことではなかった絶対に。なんだコイツってきっと思われた。全身から汗が吹き出したのを感じ、穴があったら即刻入ってそのままどうにかして逃げたい。

「こっこれはその」
「やべ、すげぇ嬉しい」
「…はい?」

思わず顔を上げれば今日初めて見る竜胆さんの笑顔。口をきゅっと結んで目尻を下げた彼に、"竜胆さんこそわたしが結婚相手でいいんですか?"と聞く前に、言葉は喉で止まってしまった。

彼も知っているだろうが歳はわたしと同じ。きっとこの顔立ちならば大層おモテになるに違いない。髪型のせいか雰囲気のせいなのか分からないけれど、歳の割に幼さが残る顔つきは笑えばより可愛さを引き立たせる。彼は日本で最大の犯罪組織"梵天"の幹部様だと父から聞いていた。きっと私が知ってはいけない恐ろしいことにも手を掛けている人の筈なのに、その表情はまるで普通の男の人(失礼)のようで拍子抜けしてしまったのだ。

「えっえっと、」
「あっわり!飯食おうぜ。あとさ、俺らタメだしサン付けとか敬語みてぇなンな堅苦しいの無しにしてくれていいから」

にこりと微笑んだ顔にきゅん…じゃなくて!
突如元気になられた竜胆さんを目の前に、今度はわたしがポケッと口を開く番だった。


その後の食事も無事終了。なんなら初めの人は誰だったのかと思うくらい竜胆さんは色々な話題を振ってくれて、わたしが答えることの方が多かった。帰る頃にはこの短時間で距離が少し縮まった気さえする。

「またすぐ連絡するから。家も決めねェとだし、家具とかも時間作るから一緒に見に行かね?」
「あっうん。でも竜胆さん忙しいんじゃ」
「そういうのは別。これから一緒に生活してくんだしさ、オマエの好みも知りてェじゃん」
「えっ!!」

裏返ったわたしの声に竜胆さんは綺麗な顔を崩して笑った。竜胆さんの言葉と、笑われてしまったことに羞恥心でグンと平均体温が上がっていく。

「ふはっ、なんつー顔してんだよ。ってか言ったろ。"竜胆さん"じゃなくて"竜胆"な?」
「いやでもそれは」
「今から敬語もサン付けもマジで禁止。オレそういう風に話されんの得意じゃねぇの。これから長ェ付き合いになるんだし?」
「う…わかり、わかった」

竜胆さん、改め竜胆くんの口元が弧を描く。彼こそかなり恥ずかしいことをサラりと言ってのける人ではないだろうか。それに、彼本人に一緒に生活していく人だと言われてしまったら急に実感が湧いてきて、途端に竜胆くんの顔が見れなくなってしまった。サカナのように口をぱくぱく開ける私に、彼は未だクスクスと上品に笑いながら脱いでいたスーツのジャケットを羽織る。

「今日どうやって帰んの?」
「あっ、一応もう迎えに来てるとは思うんだけど」
「そか。…ンじゃ送ってやりたかったけど仕方ねぇな」

ちょっといじけたように眉を下げた竜胆さんが目に映る。初めはあんなに固い表情だったのに帰る頃には柔らかい顔を見せてくれた彼に対し、胸は別の意味で慌ただしく動き出す。名残惜しそうに「またな」と口にする竜胆くんにこくこく、と頷いて、微笑んだ顔に今度は見惚れてしまいそうにもなってしまった。顔合わせ1日目にして胸ときめかせるってどんだけ単純な女だよ!とすかさず心の中でツッコんだ。ツッコんだけど、帰ってからもずっと彼のことばかり考えてしまったので、こまってしまった。









一緒に住む家の内見、約束通りに家具探し。竜胆くんは本当にわたしと1から10まで全部一緒に選ぶ気だったらしい。2人で選んだ家具がマンションの一室にどんどん運ばれると、子供みたいにワクワクしてしまったのは事実。今までずっと実家暮らしだったというのもあるけれど、何より竜胆くんと何かを選びに行くお出掛けが本当に楽しかった。思い出しては自然とにやけてしまうわたしに、「ガキかよ」と意地悪く口端を上げた竜胆くんはわたしの頭にポン、と大きな手を置きわしゃっと撫でる。

「あっりんど、くん」
「ん?あ、わり。ガキっつったの拗ねてんの?」

ちがう。違うのだ。
わたしと竜胆くんはまだこうして近くの存在になって日は浅い。それなのにわたしの胸は一々忙しない。だって彼は距離の詰め方が上手すぎる。

例えば、そう。街に必要な物を買いに出掛けたとき。さり気なく私の手からショップバッグを取り、手を繋いで来たときは口から心臓飛び出すかと思った。適度に休憩を挟んでくれるし、私の好きなそうな物を見つけては無邪気に見せてくるものだから、この人本当に悪いコトしてる人なのかと疑ってしまう。反社じゃなくて、実はどこかのおとぎ話に登場する王子様じゃないかと柄にもなく思ってしまったり。それくらい彼は女性に対する扱いが上手かった。

おかしいな。同じ歳なのに、こうも違う。わたしが男であったらここまできっと動けないし考えられない。余裕の違いもそうだけど、全体的に竜胆くんは女性が嬉しいと思うことを自然と出来てしまうから、こんな今まで親に甘えまくって生活していたわたしがお嫁さんでは勿体ないと素直に頷けるし、寧ろ恥ずかしい。

わたしに出来ることは限られている。だからこれから彼に見合う妻にならなきゃなって、竜胆くんがどこに見せても恥ずかしくない女になりたいなって、そう思ったのだ。





「竜胆くん。わたしこう見えて家事炊事勉強したからちょっとだけ自信あるんだけど、好きな食べ物とか教えてね!」
「は?なにオマエ。わざわざそんなん勉強したの?」
「もちろん。竜胆くんの奥さまになるわけですから!竜胆くんが自慢出来るくらいの人になりたいなって思って。へへ、お母さんに色々教えて貰ったから任せて!」
「おれの為?」

ふふん、とドヤ顔を晒すわたしに、お気に入りだと言っていたビールグラスが入ったダンボールを持っていた彼はドスッと真下へ落とした。

「えっ大丈夫!?今の音割れたんじゃないの!?」
「…どーでもいい」
「よくないよ!お兄さんとペアって言ってたじゃん!」
「割れてりゃまた買えばいいから…ってかさァ、んなことよりさっきの。すげー可愛いんですけど」

落としたダンボールを拾おうと真下に向けていた目線を彼へ移すと驚いた。なんと綺麗なお顔がまっかっか。

「りんどう、くん?」
「まじなんなんオマエ」
「あ…いや、竜胆くんがいつも優しいので」
「…お前ってたまにそういうとこあるよな。言われンのはすーぐ照れるクセに、平気で煽るようなこと言っちゃってさ。実は計算?」
「けっ計算なんてする訳ないじゃん!」

真っ赤に見えた彼はすぐに元の顔付きに戻り私へにぃぃっと口端を上げる。逆に私が真っ赤になってしまってそういう意味じゃないと否定するけれど、竜胆くんはいたずらっ子みたいに揶揄うからこういう時の彼はちょっと意地悪い。

「本当にそんなつもりじゃないからねっ。そんなわたし頭良くないから!」
「ハーっ、分かってるわ。マジで計算が出来るオンナはンな分かりやすく顔赤く出来ねェもん。ってかさ、オレ誰にでも優しいワケじゃねぇよ」
「ぁえっ」

竜胆くんの薄藤色の瞳が細まって、わたしに微笑みかける。

それって……どういう意味ですか!?

変な声が出てしまったのに竜胆くんはそれ以上意地悪い訳でも揶揄う訳でもなく、口を閉ざして先の言葉は教えてくれない。

「早く片付けて飯にしようぜ。今日はお前の考えたヤツでいーよ。それ食いたい」
「あ…はっはぃ」

言葉の端が小さくなってその場で動かないわたしとは違い、竜胆くんは何事も無かったかのように引越し作業を再開した。わたしだけがドキドキしてる。竜胆くんこそさっきまで顔赤くしてたのにもう平常心で余裕でさ。急にウソなのか冗談なのか分からないその表情と言葉。ほんとう、心臓に悪い。











わたしが本格的に竜胆くんの元へ嫁いで2ヶ月経つ頃。
竜胆くんは仕事がどんなに多忙でもちゃんと家に帰って来る。この家に帰って来て、ご飯を食べて、わたしと一緒に眠ってくれる。抱き枕にされるのはどれだけ眠気があってもパッチリと目が冴えてしまうし、眠るまで時間が掛かってしまうからやめて欲しいと伝えても「絶対ぇヤダ」と離れてくれない。絶対こんなの慣れっこないと思っていたのに、今では子供体温の竜胆くんに安心してしまって、その度香る竜胆くんの匂いも嫌いじゃない。

愛のない結婚でもこうなってしまうのだから、本当に好きな子にはどんな接し方を竜胆くんはするんだろう。なんで竜胆くんはこの強制的な結婚相手にここまで優しく接してくれるのだろう。一緒に過ごす時間が増えれば増える程、一日一回はそんなことを考えるようになってしまった。その都度本気で好きになってはいけないと何度も頭を横に振るけれど、気付けば落ちてしまいそうでそれがこわい。でも大丈夫。ちゃんと立場は弁えているつもりだし、竜胆くんだってきっとそんなつもりはないと再度頭に叩き込む。そんな自分が少し情けない。









でもさ、でもさでもさ。



そんなのは建前だけで、好きにならない方がおかしいんだよなぁ。





「なァ、ちゅーしたいんだけど。…いい?」
「いっ今?」
「ん、いま。今してぇの…ダメ?」
「…ダメじゃない」

わたしは経ったの2ヶ月でどんどん竜胆くんのペースに飲み込まれていく。洗い物していようが、お風呂に入ろうとしているときだろうが、竜胆くんに甘えられたらわたしは断れない。だってやっぱり好きだと自覚してしまった。初めはドがつくほど緊張しまくりだったのに、今では触れて貰えるのが嬉しいのだ。

それに竜胆くんは欲しい言葉も沢山くれる。

「嬉しいけどさ、いつも頑張りすぎ」ってわたしを褒めてくれる。「お前の顔見たくて早く帰って来たんだけど…怒る?」と1週間前に帰宅して早々、私を抱き締めながら顔を擦り寄せてきたときは本当どうしたもんかと思った。怒る訳ないじゃん、寧ろ嬉しいです。極めつけに夜眠る頃、「ナマエといんのが一番落ち着くし楽しいわ」と眠そうにわたしの前髪をき撫でながら口にしてくれたとき、わたしも眠かったはずなのに何故か涙が出そうになってその日の夜は眠れなくなってしまった。

こんなこと日々言われて好きにならない人っているのだろうか。いないだろ。わたしが保証する。いくらわたしが頭に"これは決められた結婚!故に愛はなし!"と叩き込んでいたって普通に惚れる。好きになっちゃうに決まってる。

期待させる言葉をくれる竜胆くんに、わたしの心情毎日揺らぎまくりだ。嬉しくてドキドキしたり、きゅうぅと苦しくなったり。

わたしの作ったご飯を食べてる顔が好き。朝起きたときに行きたくないとボヤいている竜胆くんが可愛い。「ん」とわたしからキスをして欲しくて求めてくる竜胆くんは愛らしく、情事中にウザったらしく自身の前髪をかきあげる仕草はいつ見ても男らしく艶やかで、見惚れてしまう。

可愛くて、格好良くて、優しい旦那様だよ竜胆くんは。

竜胆くんの好きなところ、いっぱいある。1つ1つ拾い上げたら多すぎて朝になっちゃう。まだ結婚生活が始まって経ったの2ヶ月なのに、こうも私は彼のことを本気で好きになってしまった訳で。こんなハズでは無かった。形だけの結婚は、気持ちがなければ寂しいものだ。割り切れず片恋ならば尚更だと思う。


この歳で片思いを拗らせてしまうだなんて厄介にも程がある。「オマエ立場分かってる?」なんて誰かに鼻で笑われるかも。でも勝手に思うだけなら、それは悪いことじゃないよね。







接待で帰るのが遅くなると竜胆くんからLINEが入った。こういう日はたまにある。毎日一緒にいるのに竜胆くんに早く会いたくて堪らないわたしは、彼を待つ時間も嫌いじゃない。23時を過ぎて帰宅した竜胆くん。わたしの知らない匂いを着けて帰ってきた。

わたしを見るなり竜胆くんは眉を顰め、お酒が入ってほんのりと赤い顔がバツの悪そうにわたしから視線を背けた。なんでいんだよ、みたいな。

「お疲れ様」
「あー…うん」

2、3歩距離があるのに竜胆くんから香る彼のものではない別の香りが鼻を掠める。フローラル調のとことん甘ったるい香り。だからすぐ分かった。女の子と一緒にいたんだなって。バクバクと音を立てる心臓を沈めるように、わたしの拳にはきゅっと力が込められる。

「りんどう君、女の子のところ行ってたの?」
「え」
「楽しかった?」
「は?」

わたしから口にされると思わなかったのか、驚きを隠せない彼は目を見開く。

「…怒んねェの?」
「怒るっていうか…怒ってはない、よ」

普通に、を何度も頭の中で復唱する。怒ってはない。怒ってはいないけれど、とてもヤダ。心の中ではぶっちゃけ動揺しまくっている。心臓バクバク、冷や汗タラタラ。

わたし、今どんな顔してる?

「ンだよ。それ」

竜胆くんの一等低い声がわたしの耳に届く。冷めきった声音にわたしの体は凍りついた。逸らしてしまっていた視線を竜胆くんへ咄嗟に向けると、三白眼の瞳が色をなくしてわたしを見つめていた。

「楽しかったってなんだよ。旦那が他のオンナの匂い着けて来たら普通怒んじゃねぇの?泣きそうな顔してるクセにンで問い詰めねぇんだよ」
「り、りんどうくん」
「おれ、旦那である前にお前のオトコなんだけど」

そう言ってわたしの肩を掴む竜胆くんに顔が痛みで歪む。

「っ、悪い」

わたしの表情を見てかすぐに竜胆くんはハッとして掴んでいた手を離したけれど、そのままわたしの腕を掴みソファへと座らせた。

どんよりとした空気が私たちを囲む。先に口を開いたのは竜胆くんだ。

「…さっきのマジで言ってる?」
「えっと、」
「俺のことどうでもいいからンなひでーこと言うの?」
「ちっ違うよ!どうでもいい訳ないじゃん!」

先程より打って優しくわたしに質問を投げ掛ける竜胆くん。咄嗟に出た大きな声に、竜胆くんは困ったように眉を下げて笑っていた。その瞬間、胸が誰かに握り潰されたような痛みを感じた。

「まっ前はね、浮気されようが愛人作ろうが仕方がないなって思ってたよ。…ほら、私たちって普通の結婚じゃなかったし」

そう、普通じゃない。普通の恋愛結婚じゃないから、竜胆くんが何処で何をしていたって咎める権利はないのだ。竜胆くんの顔を見れなくて、自分の握った拳を見る。そうしたら、わたしの名前をもの柔らかに呼ばれた。

「だから俺のこと好きって言ってくんなかったの?」
「え、」
「今日はマジでただの接待だったんだけどその場にオンナも何人かいてさ。嫁がいるっつってンのにベタベタくっついてきやがったから先に俺だけ抜けて帰って来たんだわ。お前が他のオンナの匂いして帰って来たらそれこそ悲しむだろうと思って。俺もイヤだし」

竜胆くんの指先がわたしの耳元へと移動する。少し擽ったくて、お互いの鼻先が触れると彼はキスを一つ落とした。ゆっくり唇が離れると、不安げな薄藤色の瞳がわたしの視線を奪い取る。

「…俺はめちゃくちゃお前のことが好きだし、これからも一生大事にしてぇなって思って今まで接してきたつもりだったんだけど。お前のことなんも分かってやれてなかったみてェ」
「それはちがっ」
「なぁ、俺のこと…好き?」

わたしの返答を聞くのが怖いのか。いつもの元気な竜胆くんの姿はどこにもない。緊張しているのか小さく呟いた彼はわたしよりも不安気に見えて息を飲んだ。竜胆くんの手のひらが、わたしの握った拳の上に重なる。

「あのね、」
「ん」
「竜胆くんと生活するようになったら、毎日が楽しくて。竜胆くんのいなかった生活に戻れなくなっちゃうくらいその…好きで。今竜胆くんが他の子の所にいっちゃったら、どうにかなっちゃいそう」

恥ずかし過ぎて何処かに消え去りたい。自分でも何言ってるのか分からなくなってきた。黙ってわたしの話を聞いていた彼は「それ、マジ?」とわたしの顔を覗き込む。コクン、と頷くのが精一杯。なにも言葉にしない彼に恐る恐る目を向ければ、キュッと口を結んで堪らないようにわたしを抱き締めた。

「あっ、竜胆くっ」
「戻んなくていいよ。俺はずっとお前といるって決めてるから。…俺らまだ一緒になってンな月日経ってねぇし、これから教えて?お前のこと。好きな事とか嫌なこととか、全部知りてェ」
「…わたしも竜胆くんのこと、もっと知りたい」

潤みそうな視界のなか、竜胆くんのシャツの袖を握った。竜胆くんの瞳はぱちくりと瞬き数回。そしてわたしの知らなかったことを口にした。

「……おれ、お前のこと本当はこうなる前から知ってたんだよな」
「へ?」

わたしは元より父の会社には殆ど携わっていなかった。その為会社のパーティ等で出席したのは数回程度だ。彼がその場に出席していたのなら覚えていないはずがない。

首を傾げるわたしに、竜胆くんはわたしの大好きな笑顔でぷはっと笑うとわたしをそっとソファに押し倒す。

「ちょっりんど、くん」

冬が近付くこの季節は少し肌寒いと感じるのに、竜胆くんの手は暖かい。擽ったくて、気持ちが良くて、蕩けてしまいそうになる。わたしを見下ろした旦那様の顔は色っぽく魅惑的だ。

「…中学。一緒だったんだよお前と俺」

反射的に迫る快楽から逃れようとしたわたしの体はぴたりと止まる。目先にはとてもとても楽しげに口端に弧を描いた竜胆くん。

「オレ中学殆ど行ってなかったし知らなかったろ。クラスも違ったし、話す機会もなかったし」
「あ、え?」
「一目惚れ」

思考は即座に一旦停止。理解に時間が掛かかり過ぎる。想定内の反応だったのか彼はクスクスと笑って瞬きすら忘れているわたしにキスをする。

「あん時は俺クソガキだったからさ。ダセェけど話しかけに行く勇気がなかったんだワ。あー…高嶺の花っつーの?分かんねぇけど、お前のことは知ってた。でもまぁ月日も経ってるし、どこにお前がいんのかも分かんねぇしさァ」
「高嶺なんかじゃないって」
「俺にとってはそうだったの。お前昔っから可愛かったし…ってか今は綺麗にもなったけど」

わたしそっと起こし、ベッドルームまでひょいっとわたしを抱き抱える。ベッドに降ろされ、着ていたルームウェアを脱がし始めた竜胆くんは淡々とした口調で言葉を繋げていく。

「だからお前の名前ボスから聞いたときびっくりしてさ。まさかなって思ったらマジでお前だったんだもん。お前の最初の結婚相手、兄貴の予定だったんだぜ?」

俺がするって講義すんの大変だったと彼は遠くを見るように笑う。でも待ってまって待って。だってそんなまさか。

下着だけになったわたしをベッドへ組み敷くと、あらゆる箇所にちゅうっとわざとらしく音を立ててキスを落としていく。軽いキスから深いキスへと変わり、思考がぼんやりとした頃、名残惜しそうに離れる唇が少し寂しい。


「もう会うことすら叶わねェんだろうなって思ってたのに。手に入っちゃったわ」


初恋は実らねぇって言うし?と、てかった自身の唇をいたずらっ子みたいに舌をだし舐め上げた。そうして彼の手がわたしのお腹や胸をなぞって、ぴくりと跳ねてしまうわたしの反応を見るのが心底好きだと前に言っていた事を思い出す。

「……りんどうくん」
「ん?」

嬌声混じりに彼の名を呼ぶと、応えるようにゆっくりとわたしへ熱を含んだ瞳で視線を移す。

「っ…知ってたよ。本当はわたしも、ずっと前から竜胆くんのこと知ってる」

「は、」

竜胆くんの首へと腕を回し聞こえる程度に囁いた。

きょとん、とした顔を浮かべる彼に恥ずかしくてどうしようもなくなったわたしはこの日初めて彼の頭を引き寄せ自分から求めるようにキスをした。唇が離れてお互いの視線が合わさると、今までに経験したことのないくらい幸福感に包まれた。


だってベッドルームのオレンジ色の照明からでも分かるほど、彼のお顔は赤く染まっている。

この表情はきっとわたしだけの、わたしだけが見れる彼の表情だ。




「わたしも竜胆くんが初恋の人だもん。…その、わたしも一目惚れで」





Title By …icca

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -