小説 | ナノ

「本当は前から好きだった」


※梵天軸

※塩対応な竜胆に蘭が動く話




藍色を被ったクラゲのような髪型が印象的だった。重たい前髪から見える瞳は薄藤色で、笑うとタレ目がちな目元は幼さが残っている。シャツの袖を捲った健康的な肌の色の、少し焼けた腕から覗くタトゥーは一体どんな物を体に彫っているんだろうと気になった。高くもない、低くもない、聞きやすいその声で、私の名前を呼んで欲しい、そんなことも思った。



私の好きな人、灰谷竜胆さん。
梵天の事務員として働いている私は彼に出会い、そして落ちてしまった。ここで働く上で初めから九井さんに仕事の量は多いと聞いていたし、残業に関しても分かっていて入社した。ただちょっと思っていたよりもハードなだけで、それ以外は基本的に皆さん優しくしてくれるから、まだ入社して1年足らずだけど辞めるという選択肢は持ち合わせていなかったのだ。だけど竜胆さんとだけは余り接点がなく、私の前ではいつもムスッとしている感じが見て取れる。

あまり好かれてないんだろうなと分かるくらい、竜胆さんは私に対して初めから素っ気なかった。でも人は寂しいけれど好き嫌いが必ずしもあるわけで。だからその日、遅くまで残業していた私に「お疲れ」と缶コーヒーを1本くれるとは思わなかったのだ。即座に胸には緊張が走り、顔を上げればいつものように仏頂面の竜胆さんが薄い唇を開いた。

「それ飲んだらもう帰れよ。後は俺がやっとくから」
「え!?あっ、いえ!大丈夫です。竜胆さんこそお先に帰って下さい。私はあともう少しなので、頑張ります」

コーヒーを受け取り、お礼を告げる。
まさか好かれていない相手から話しかけられる所かコーヒーまで買って来てくれたなんて信じられず、つい竜胆さんを凝視してしまった。

「なに?」
「あ…な、なにも」

真横にいる至近距離の竜胆さんに私の顔はあからさまに動揺してしまって、そんな顔を隠すようにパソコンに目を向けた。早く終わらせなきゃと資料に目を動かすけど中々内容が頭に入って来ない。竜胆さんがその場を動かず私をジィっと見下ろしていたのが分かったからだ。

「…あとどれ?」
「え」
「どんだけ残ってんの?手伝うからそれ貸して」
「あっ」

私が返事をする前に、私の手元にあった資料を手に取る彼は「これ三途の奴じゃん」と眉を顰めた。
竜胆さんが私から離れたその一瞬、ふわりと香る香水の匂いに顔が熱くなって、「ありがとうございます」と出た声は自分が思っていたよりも随分小さな声。聞こえているかどうか分からなかったけれど私の横のデスクに座り、終わるまで一緒に手伝ってくれた竜胆さんの事がその日を境に気になってしまって頭から抜けなくなってしまった。きっと彼にとったら気紛れ、というよりもいつまでも社に残って仕事をしている私に見兼ねただけだと思うけど。

「ありがとうございました。お疲れだったのにごめんなさい。助かりました」

竜胆さんのお陰で数倍早く仕事が片付いた私は、今度はちゃんと聞こえるようにお礼を告げる。私の声が耳に届いた竜胆さんはゆっくり綺麗な顔をこちらに向けると、私のデスクに手伝ってくれた資料を置いた。長めの前髪がゆらりと揺れて彼の瞳が細まると、ドキンと私の心臓が大きく音を鳴らしたと同時に、彼は鼻で笑ったのだ。

「別に。どうせコレ、出来ねぇのに出来るとかって言って引き受けたんだろ」
「へ」
「自分の仕事の量も分かってねェくせに。出来ねぇもんは断れよ。そういうの俺すげぇキライ」

私に向けるその瞳は余りに冷たく、そして嫌悪感を隠さないその声音。カタンと席を立つと竜胆さんは事務所を出て行ってしまう。事務所内に一人残された私は一瞬何を言われたのか分からずに、その場の景色が静止してしまったかのように放心状態。

自分の性格は、自分が一番がよく知っている。竜胆さんに言われたことは正論だ。私は昔から頼まれ事を断れない性格で、後になって泣く羽目になった過去もなくはない。直したいけど、性格というものは中々直ぐには変われない。


「…さいあく」


私が彼のことで初めて知ったことは、"私のことを嫌っている"ということだった。








「えー、俺も竜胆とそっくりっしょ?たまに双子みてぇって言われるよ?」

きゃぴ、とわざとらしく目を潤ませた男の顔をジッと見る。竜胆さんと同じ髪色によく似た顔立ち、それにプラスして同じ瞳の色。持っているスーツもいくつか揃いでオーダーメイドしたと聞いたこともあるし、実際に見たこともある。彼らは兄弟なのだから似ている部分は多々あることに間違いないのだけれど、蘭さんと竜胆さんは似ている部分もあってやっぱり違う。

「ちがう。全然違います」
「ひでェ。お前酒入るとすげぇハッキリ言うじゃん」
「う…すみません。えと、なんていうか、顔は似てると思いますけど…違いますよやっぱり」
「ま、そりゃそうだよなぁ」

でもオレ、竜胆の考えてることは分かるよ。とゆっくりグラスに注がれたウイスキーを口に運びながら、彼は竜胆さんよりも随分甘く、柔らかなトーンで微笑んだ。

「なんでも、分かるんですか?」
「うん だって俺ら仲良しだから」

元より蘭さんは竜胆さんのことを溺愛していることは知っているけれど、この口ぶりは別に私へマウントを取ろうとしている訳でも、兄弟の仲を自慢している訳でも多分ない。本当に、竜胆さんのことを知っているからこその言葉なんだろう。ゆらりと宙に煙を浮かし、人差し指と中指で煙草を挟む蘭さん。彼の吸っている煙草の匂いは少し独特だから、銘柄まで覚えてしまった。

「なんか竜胆の事で知りてェことある?今なら教えてやるよ」
「…いえ。大丈夫、です」
「そ?つまんねぇの」

蘭さんは意外と表情が豊かである。私より年上のクセして今だって口を尖らすものだから、ちょっと笑ってしまった。竜胆さんの知りたいことは沢山ある。だけど例えば好みのタイプを聞いたとして私がそれに近付けたとしても、振り向いて貰える確率はきっとゼロに等しい。

「…意味分かんない恋しちゃっててほんと自分がどうしようもないです」
「仕方ねぇよ。ウチの竜胆可愛いもん」

最近仕事頑張ってるからご褒美に、と連れて来てくれたバーで酒を酌み交わしもうすぐ2時間。「もう予約しちゃってんだよね」と定時になるも速攻で私を車に乗せた蘭さんは、誘うというよりも強制連行だった。蘭さんとの日常会話は幹部の人たちの中で割と多いけど、こうして飲みに誘われたのは今日が初。若干の緊張を伴いながら談笑し、3杯目の酒を注文した頃にはいつの間にか話しやすい彼に自分の心情まで打ち明けてしまっている。

竜胆さんの実の兄にこんな話をするもんじゃないって事もちゃんと心の中では分かっていた。明日になったら絶対に後悔するに決まっていると。だけど竜胆さんとよく似た顔立ちの男が隣にいたら、所々で竜胆さんを思い出してしまう。蘭さんという人は、周りのことをよく見てる。顔に出さないように気を付けているつもりだけど、疲れていたり、ミスをしてしまって落ち込んでいるとき、その場に彼がいるといち早く気付いて声を掛けて来てくれる、そんな人だ。竜胆さんの話をしたのもそうだった。蘭さんが「悩みがあるならオニーサンに言ってみ?」と物柔らかな口調で私の頭を撫でたから、つい自分の気持ちを頭で考えるより先に口走ってしまった。

「嫌われてるのに好きとか…ほんと、迷惑過ぎる」
「ふはっ。まぁ竜胆素直じゃねぇから。許してやってよ」

何にも面白くないのに蘭さんはケラケラと笑う。許すも何も、私が勝手に恋してウジウジしているだけで。蘭さんとは逆で、ズシンと沈んでしまった気分に酒も入っているからかちょっと泣きそうになった。そんな私を他所に蘭さんは空になった私のグラスを見てマスターに酒を注文している。

「はぁ…すみません。せっかく誘ってくれたのにこんな話を蘭さんにしてしまって」
「あ?別にいいよ。俺が聞いたし?つか悩みが可愛くて羨ましいワ。竜胆に告ってみれば?案外オッケー貰えるかもよ?」

蘭さんは優しいけれど、その分思考も少し変わっている。今の話を聞いて可愛い悩みとは?告れとは?

「なっ!なに言ってるんですか!フラれるの分かってて告白なんて出来る訳がないじゃないですか!」
「当たって砕けろっつーじゃん」
「蘭さん、わたしが砕けてるとこ見たいだけでしょ」
「よく分かってんね。フラれたら頑張ったねヨシヨシって慰めてやるよ」

流石にムッとして睨んでみたが全く相手には効いていない。口が裂けても言えないけれど、蘭さんはきっと女に困ったことがないから簡単に気持ちを伝えればと言えるんだろう。フラれたことなさそうだもんな。

「…慰めて貰ったら余計に泣いて喚きますよ、わたし」
「マジ?お前が泣くトコちと見てみたいわ」
「ギャーギャー泣いてその場で石みたく動かなくなるかもしれません」
「邪魔そこどけってどついてやるから大丈夫」
「ひどい!」

何を言っても返ってくる返答が斜め上過ぎて私の口があんぐり開くと、蘭さんの整った顔が少年のように笑いに崩れた。何がそんなに面白いのだろうか。ツボに入ったのかまだ肩を震わせている蘭さんを放って、マスターから酒を受け取った。

「…諦めなくちゃなぁ」

ボソッと呟いた独り言は蘭さんに聞こえていたかは不明だ。竜胆さんとの会話は、嫌われているから当然かもしれないが挨拶以外で他の幹部の皆さんと比べて極端に少ない。仕事の都合上、竜胆さんにどうしても確認して貰わなきゃいけない件だったり、渡さなきゃいけない書類があるときは話してくれるけど、冷たいのもいいとこで。そんな彼に胸は毎回鈍い痛みが襲い、勝手に落ち込む日々を過ごしている。でも蘭さんと一緒になって三途さんをからかって笑っている楽しそうな姿や、九井さんに何でもかんでも経費で落とそうとするなと怒られしょげている竜胆さんを見ていると、どんな彼だって行き着く先は結局今日も格好良いな、好きだな、と思ってしまうのだからどうしようもない。

嫌っている女からの好意なんてウザいの一言に尽きる。だから早く諦めなくちゃいけないのに、職場が同じってだけで大体毎日顔を合わすから、中々諦めに踏ん切りがつかない。

「ぅげっ、このお酒めちゃくちゃ度数強くないですか?」
「あ、バレた?それね、明日の朝しんどいヤツ」
「えっ!明日仕事なのに勘弁して下さいよ」
「休むなよ?休んだら竜胆に今の話ぜぇんぶ言っちゃうから」
「…蘭さん恨む」
「覇気がねぇし怖くねぇ

ジワっと焼けるように熱くなる喉に顔は秒で歪む。対して蘭さんは私の反応を見て口端を上げ楽しんでいた。絶対私のブサイクな顔を見たくてこの酒を頼んだんだ。ちょっと前から思っていたけれど意地悪だよ、蘭さんて。あのかの有名な頭痛薬、バファ○ンの半分が優しさで出来ているのなら、蘭さんの半分は優しさで、もう半分が意地悪で出来ていると思う。


「あ、そうそう。竜胆を諦めたいお前に頼みたいことあるんだけどさァ」


諦めたいと呟いていたのをちゃんと彼は聞いていたらしい。蘭さんは頬杖ついて私に少しばかり顔を傾けた。酒に頭が侵食された脳内は、処理能力が普段より劣る。つまり正常な判断が咄嗟に出来ないわけで。蘭さんの声音は今まで聞いたことのないくらいに優しく、そして強請るように私の髪をサラりと大きな手で撫でると、ひとつのお願い事を持ち掛けて来た。






「あ…いや、でもわたしは、」
「叶わねェならずっと追ってたって意味がねぇだろ」

ピシャリと言い切る蘭さんに、私の語彙は失われる。
蘭さんは周りのことを見ているし、理解している。だからきっと私の性格だって知っている上で口にしたのだ。竜胆さんの"出来ないなら断れよ"という言葉が反響して聞こえて来た気がした。









ズキンズキンと痛む米神に手をあてて、次の日遅刻せず起きられた私を褒め称えたい。昨日の出来事は余りにも私の小さな脳みそでは衝撃が大きすぎてキャパオーバー寸前。家に帰ってからもそのことばかりを考えて、寝たのは結局日付が変わって3時間後のことだった。やっぱり嘘であってくれ、夢であってくれと呪文のように唱えてもう事務所は目の前。やっぱり私には無理!謝って断ろう!と胸に刻み、事務所のドアに手を掛ける。

「おはようございま、す」

足が止まる。なんと最悪。
事務所にいたのは、九井さんと蘭さん。


それと、竜胆さんだ。



私が事務所に入るなりその3人が私に視線をこぞって寄越してきたものだから、つい身構えてしまった。嫌な予感しかしない。その通り、蘭さんはソファに腰掛けていた体をそっと起こすと私の前まで歩み寄り、ニコリと意味深に微笑んだ。

「おはよ
「ひっ!おはっおはようございます」

私の肩に腕を掛けてきた蘭さんに少々よろめき、声は吃って裏返る。

「昨日は大丈夫だったァ?お前フラッフラに酔ってたから送ってくの苦労したんだけど」
「え"っ!?」
「歩けませんとか言うからさァ」

ニコニコ笑顔を崩さない蘭さんに、私の顔は強ばっていくばかり。更に蘭さんは畳み掛けるように薄い唇を開き、目を細めたのを私は見逃さなかった。

「可愛い彼女に可愛くおねだりされたら断れねェじゃん?」
「そっそんな事わたし一言もっ」
「言ってたよ?蘭さん一緒に来てお願いって」

お願いして来たのは蘭さんじゃん!
遂に私の開いた口からは、魂がお空へ飛んで行ってしまった。最悪過ぎる今日の始まりは、少し早く社に着いてしまったせいでまだ勤務時刻にもなっていない。わたし、今日これからどうして生きていけばいいの。

でも二日酔いではあるが記憶は幸いなことにある。昨日絶対に私は蘭さんに家まで着いて来て欲しいだなんて言っていない。確かに蘭さんと同じタクシーには乗ったが、私より先に「用があるから俺はここで降りるけど、ちゃんと帰れよ?」と蘭さんが先に降りてしまったからだ。


何この人!平然と嘘吐くんですけど!?


蘭さんから恐る恐る視線を2人に向ける。九井さんは呆れたように息を吐き、「他所でやれよ」とかなんとか言ってもう仕事をし始めた。そして1番知られたくなかった竜胆さんは、竜胆さんは私と目が合うと、興味のなさそうにふいとすぐ様視線を逸らされてしまった。

「…」

…そりゃそうだよね。竜胆さんにとったらどうでもいいことだもん。否定した所で意味なんてない。ただ私が知られたくなかっただけだ。ズキン、と痛みが伴う心臓。蘭さんはそんな私の心情関係なしにご機嫌で事務所を出て行こうとするから、私も慌てて後を追った。

「ちょっ、蘭さっ!蘭さんってば」
「なに?」
「なっなんであんなこと言うんですか!」
「あんな事って?昨日のこと?お前了承したじゃん。今更無理とかって笑えねぇからやめろよ?」

昨日蘭さんは私にそれはもうとても軽い口ぶりで仕事と称して頼み事をした件。嫌でも鮮明に覚えている。

『しつこい女が一人いるんだよね。なに言っても諦めてくんねぇんだよ。だからお前に偽装でいいから彼女役して欲しいんだわ』
『いや…え?はい??』

何でわたしが?と頭にハテナが沢山募り、流石に無理だと顔を振る私に、「お前にしか頼めねぇの」と眉根を寄せて私の瞳をじっと見る。

『俺に本命いるっつったら流石に諦めるだろって。まぁこれフリでいいからさ』
『フリって言われても…無理ですよ流石に』
『んー…お前のが都合が良いんだよなぁ。他の女じゃ後がダルいし。その女が諦めたらこの関係は終了。竜胆諦めんなら別によくね?違うことに目を向けてみんのも手だよ。忙しけりゃ嫌でも忘れんだろ。ね、お願い』

今すぐ返事をしろと威圧感を半端なく醸し出す蘭さん。
半ばヤケもあったかもしれない。いつまでも嫌われている相手に好意を寄せていても仕方がないもの。ゆっくり小さく頷いた私に蘭さんは「ありがと、助かるワ」と更に上機嫌。

いつかは諦めなくてはいけないし、そのキッカケがこの話だった訳で。だけど、だけどさぁ!


「っ竜胆さんがいる前でってか人がいる前でわざわざ言わなくてもよくないですか!?それに私が言ってないことも言うし!」
「え?お前昨日のこと記憶あんの?酒弱いフリしてた系?うわ、詐欺師じゃん」
「あんなこと言われたら酔ってたって誰でも覚えてますよ!ってか蘭さんの方が…はぁ。もうダメです。今日仕事出来ない…帰りたい」

相変わらず何を考えているか分からない笑みを見せた蘭さんは、半泣き状態の私へ覗き込むように少し屈んだ。

「まぁまぁ、ンな怒んなってぇ」
「皆さんにはやっぱり付き合ってるのはフリだって言いましょ!ね!?」
「ダメ。敵を欺くにはまず味方からっつーじゃん。 お前と俺だけの秘密にして」
「ひっ秘密って、」

意味分からない!と喉から声が出かけた所でそっと私の唇に人差し指を当てられ阻止される。私を見つめる蘭さんの表情に、喉がひゅっとなった。

「言ったっしょ?これも仕事の内と思えばいーからってさァ」
「う…は、ぃ」
「ん、いいこ」

ワントーン下がった声音に、体はピシャリと凍る。直ぐにその声はいつもの穏やかさを取り戻していたけれど、私の心臓はバクバクと心拍数がこれでもかというくらい上がっていた。こういう所で反社感を出すのはお願いだからやめて欲しい。こんな怖い人にそこまでしつこくする女って一体どんな人なの。昨日に戻れたら私は絶対にこの件について頷かないのに。こんなに昨日に戻りたいと思った日はきっとない。お酒のせいにしてはいけないけれど、当分禁酒しようと心に誓った。

蘭さんと別れデスクに戻る際、一瞬竜胆さんがまだいたらどうしようかと思った。諦めたい気持ちはあるのに、毎日顔を合わせる人をすぐに諦めることなんて本当に出来るのだろうか。重い心情に深呼吸を1つして、ドアを開ければ竜胆さんはもうそこに居なかった。九井さんだけのいつもの空間に安堵していると、彼はタブレットから私に視線を移し変えた。


「お前が好きなのって蘭だったんだな」
「はい?」
「お前っていつも他のヤツに比べて竜胆の前だけ緊張してんだろ。だからてっきりアイツが好きなのかと思ってたわ」


蘭さんに加え九井さんまで。この人たちは一体何処まで人のことを見ているんだろう。それとも私が単に分かりやすいだけだろうか。分からないけど、やっぱり少し怖い。







蘭さんとは1ヶ月経った今でも関係(偽装)は続いている。その間、時間が合う日はご飯へ誘ってくれたり、家まで送ってくれたりと傍から見れば恋人に見えるだろう。でも偽装なのでそれ以上のことは当たり前だけど何もなく、至って健全な関係だ。甘いムードもへったくれもない。

仕事帰りに寄った居酒屋で、その場に似合わぬスーツを着た男と普通の女が2人。蘭さんはかなり浮いていたが本人全く気にしていない様子だった。禁酒を有言実行にする為、頑なに酒を飲まない私に蘭さんは連れて来た意味がないと始終つまらなさそうだったのは少し申し訳なく思った。

「そういえばどうなりました?あのしつこいって言ってた女の人」
「あー…まぁもうちょい、ってとこかァ?」

もうちょいとは?
それきり蘭さんはその件について聞く度にはぐらかされて会話は終了。てっきり私はその女性に私を紹介して諦めさせるとかそういう行動を起こす為のものだと思っていたのだが、そんな事は1度もなかった。こんなので彼女の役割本当に果たしているのかと疑問が浮かぶけど、蘭さんはこれでいいらしい。







「お前マジで兄貴のオンナなの?」

偽装彼女が1ヶ月になろうとしている頃。給湯室でコーヒーを入れていた私のすぐ横で、久しぶりにちゃんと聞いたような声音に私の胸は分かりやすく跳ねた。

「あっえっと、」

今まで一度だってこんなことはなかったのに竜胆さんはグイッと私へと距離を詰め寄ってきたから、平常心でいられず顔がつい引き攣ってしまった。そんな私に竜胆さんは冷めた目付きで私に視線を向けるて、イラついたように小さく舌打ちをしたのが耳へと届く。

「…コーヒー」
「へ?」
「俺にも頂戴」

潤んだ視界は一瞬で止まる。急いでコーヒー用の紙カップにコーヒーを入れて手渡すと、竜胆さんはスティックの砂糖を1本コーヒーに溶かし入れた。

ウチの事務所の給湯室は狭い。竜胆さんはカップを手に持ちその場を後にせずその場で1口啜るから、私は出口を竜胆さんによって塞がれている状態。どうしたらいいのか分からず気まずい空気が流れる。

「兄貴のどこ好きンなったの?」
「どこ、ですか」
「どっかあんだろ。好きになった要素」

そんなことを言われてもすぐ様答えられない。何せ私たちは本物の恋人同士では無いのだから分からないのが事実。諦める気でいるのに、竜胆さんが間近にいるだけで心臓は途端に加速して情けない。

「ハッ、まさか顔で好きんなったとか?」
「いや!そんなことはっ」
「じゃあどこ?教えろよ」

刺すように吐かれた言葉を否定する。もう本当はこのまま"違うんです。この関係は本当のお付き合いじゃなくて"と言ってしまいたくもなった。けれど口止めされている以上言えないし、きっと竜胆さんは本当の事を知ったところで状況は何も変わらない。

「…優しいところ、とか」
「優しい?兄貴オンナなら誰にでも優しいけど」
「そっそうなんですか」

ダメだ。泣きそう。この1ヶ月、確かに仕事が忙しかったり蘭さんと数時間過ごして竜胆さんの事ばかり考えていたあの頃の私ではなかったと思う。でもそれは気が紛れるってだけで、竜胆さんがいれば結局目で追ってしまう私はあの日から全く変わっていない。

「……」

なんで竜胆さんはこの場を動かないんだろう。いつもなら絶対に私がいると長居しない筈なのに。出ていく所か竜胆さんは給湯室の壁に寄り掛かる。一秒一秒長く感じて、この場にいるのが苦痛だった。竜胆さんが行かないのなら私が出て行くしかない。

「あ、すみません。わたしまだ仕事が残っているので失礼しますね?」
「ハ?待てよ」

竜胆さんのカップを持っていない手が私の腕を握り引き止める。

「りっりんどう、さん?」
「話、まだ終わってねぇだろ」
「え…と」
「……お前見てると、ムカつく」

高揚しかけた気分は一瞬にて転落、竜胆さんの表情はあの時と変わらず、寧ろ一番冷ややかな目付きをしていて、苛立ちを隠せてはいなかった。

ムカつくってなんだろう。ムカつくってどういう事だろう。色々なことを頭の中で考えようとするけれど、竜胆さんに言われたこの一言で、即座に言葉は出て来ない。

「いろんな野郎にいつもヘラヘラ笑って、仕事も何でもかんでも引き受けちまって、何でお前ってそんなお人好しなワケ?」
「それ、は」
「そういうのやめろよ」

眉間に皺を寄せた竜胆さんは、どう見たって怒っている。三白眼の瞳が真っ直ぐ私を見つめて、低いトーンで言葉を放つ竜胆さんに私の体温は底冷えしていくのを感じた。

「…そういうお前見てると、」
「分かってます」
「は?」
「りんどうさんが私のことを嫌ってることくらい、分かってますから」

竜胆さんの目が見開いたことが分かった。けれど私はすぐ様顔を足元へと俯かせる。泣きたくなんかなかったのに、泣いたら余計とウザがられるだけなのに、私の声はもう震えていた。

「なに、お前泣いてんの?」
「なっいてないです!大丈夫です…ほんと、大丈夫ですから。…ごめんなさい」

慌てて涙を拭うけど、一度スイッチが入った涙を止めるのは難しい。思考とは逆にボロボロ出る涙に嫌気も刺す。そんな私に竜胆さんは自分の袖で涙を拭った。

「あっ、や。竜胆さっ」
「…わりぃ。八つ当たりした」
「…っ、ぅ」
「あー…兄貴呼ぶわ。今ならまだ事務所にいるし」

小さい子に言い聞かせるように「待ってて」とその場を後にしようとする竜胆さん。私の涙を拭ったスーツの袖が離れると、ついクイッと引っ張ってしまった。

「っおい、」
「らっ蘭さんは大丈夫、ですから。っ私たち、本当のお付き合いじゃない、ので」

竜胆さんは私へ振り返ったまま固まる。蘭さんごめんなさい。約束を破ってしまって。

「お前、兄貴のオンナじゃねぇの?」
「私の、好きな人はずっと…竜胆さん、で」
「は、なに言ってんだよ」
「嫌われてるの、分かってるのに…ごめんなさい。その、キモいなって、自分でも分かってるんですけど。どうしても竜胆さんのこと諦められなくて。そしたら、蘭さんに諦めるなら彼女役して欲しいって頼まれて」


竜胆さんは意味が分からないと言わんばかりに顔を顰めて、困惑している。伝えることは一生ないと思っていた言葉を、気付いたら口にしていた。どうせフラれるならこっ酷くフラれた方がきっと諦めもつく。

「忙しければ、竜胆さんのこと諦められるかなって思ったんですけど、」

言葉に詰まりながらも事の経緯を話すと、竜胆さんは静かに黙って聞いていた。お互いが無言になり、それまで掴んでしまっていた袖から手をそっと離す。すると竜胆さんは私の手を引き寄せたのだ。ふわりと香水の香りが鼻を掠める。誰のものでもない竜胆さんの香り。竜胆さんに抱き締められていると分かると涙は引っ込み、頭はパニック、体は急速に熱を帯び出す。

「りっりんどうさん!?」
「それってマジ?俺を諦める為にその偽装レンアイにノッたってわけ?何それ、バカ過ぎて心配になんだけど」
「ごめんなさ、」
「いや、ちげぇわ。俺が…悪い」

竜胆さんの胸元にあった顔を上げると、息が止まる。竜胆さんの顔がそっと近付いてきて柔らかな感触が唇に触れる。それがキスだと分かると声すら出なくなってしまった。

「まだ好き?」
「…え?」
「兄貴と嘘でも付き合って、俺のこと諦められた?もうどうでもいい?」

不安げなその声に、私はふるふると首を振る。

「諦めたいのに、諦められないです。この間まで嫌いって言ってたのに…りんどうさん、意味わかんない、です」
「…ごめん」

ぎゅううっと苦しくない程度の力でもう一度私を抱き締めると、私の肩に顔を埋めた。

「お前がいろんなヤツにいい顔してんの見るのが嫌だった。仕事頑張ろうとする精神は良いと思うけどさ、お前何でもかんでも引き受けるじゃん」
「っそれは…断るの苦手で」
「断れよ。俺らとお前とじゃ訳がちげぇんだから。お前が俺らと同じ仕事量こなしてたらいつかぶっ倒れるぞ」
「流石にそれはないと思うんですけど…」
「…俺が嫌だっつってんの」

言うこと聞けよ、と顔を上げた竜胆さんの顔はひどく不機嫌だ。だけど、ちがう。ムスッと眉を顰めて私を見下ろしている竜胆さんは怒っているけれど、その声はとても優しい声音だった。

「あと、」

小さなリップ音を鳴らして私にもう一度キスを落とした竜胆さんは言葉を繋げる。

「九井にも三途にも、兄貴にだって優しくすんのやめて」
「…あ」
「皆にニコニコすんのムリ。俺だけにして。俺だけに優しくして。俺以外でお前が笑ってんの見ると…すげームカつくから」

ポポンと赤く紅潮した私を他所に、返事を待たず竜胆さんはちゅ、と3回目のキスをする。ゆっくり唇が離れて竜胆さんと目が合ってきゅ、とスーツを握った。


「…すき、です。竜胆さんのこと」
「俺も。…俺だってお前が好きだったよ。お前は俺のモンだから、これからは俺のことだけ見てて」


困ったように小さく笑った竜胆さんに、私は顔を染めたままこくりと頷く。


「お前のその断れねェ性格も何とかしねぇとな。誰かに押されたら俺がいても頷いちまいそうだし」
「そっそれは流石に」
「兄貴と付き合ったじゃん。俺が好きなら了承すんなよ」

口を尖らした顔は、蘭さんの時より幼く見えた。だってあの時は自暴自棄になっていたし、竜胆さん凄く私に対して嫌っていた態度取ってたじゃん、とは言えず。

根っからの末っ子気質とは実に恐ろしい。蘭さんが前に言っていた素直じゃないところがあるの意味を理解した。竜胆さんは、一度素直になるととことん甘えたになるらしい。その証拠に、先程までの明らかな私への対応に違いに、私の知っている竜胆さんじゃないと頭の中で言い争いが起きている。

「なぁ」
「はっはい!」
「兄貴と付き合って、嘘のカノジョでもときめいたりした?」

いじけるようなその目付きに私の心臓はきゅん、と早鐘をつく。でも余りにも彼の塩対応に心は毎日干からびていたので、ちょっとだけ仕返しを思い付いてしまった。


「…ちょっとだけ」


竜胆さんは怒りに顔を歪め、噛み付くように私へとキスをした。







甘い時間もそこそこ、ここが給湯室でなければどうなっていたか分からない。竜胆さんが「兄貴にちょっくら物申す」みたいなことを大層不機嫌に言うから止まりかけていた心臓は途端にバクンバクンと音を変えた。蘭さんに内緒にしろと約束していたのにも関わらず守れなかった私は、今日がもしかしたら命日になるのかもしれないと気が気でなく青くなっていたのだが、それはとんだお門違いだった。

「あ、やっと付き合ったのお前ら」
「は?」

事務所にいる蘭さんに会いに行けば、私たち2人を見るなり平然と分かっていた事のように言い放った蘭さん。そろっと竜胆さんに視線をずらすと、私と同じ反応をしていた。え?え?と固まっている私と竜胆さんに、蘭さんは弄っていたスマホをテーブルへ置くとにこりと微笑んだ。

「竜胆は○○目の前にすると上手く話せねぇクセにヤキモチ妬きまくるし、お前はお前で嫌われてるだなんだウジウジしてるし、どうしようもねぇお前らに俺がひと肌脱いでやったの」

「俺のお陰。感謝して」と蘭さんは種明かしを淡々としていく。

「え?じゃっじゃあしつこい女がいるっていうのは…?」
「あんなんウソに決まってんじゃん。なに、○○チャン信じちゃってたわけェ?」

ぷぷぷと笑う蘭さんに開いた口が塞がらない。竜胆さんは、はぁぁと深い深いため息を1つ吐く。蘭さんは私と竜胆さんの前にゆっくりと立ち、目を細めた。


「竜胆、素直じゃねぇとこあるけど可愛いヤツだからさ。大事にしてやってよ」
「ちょっ兄貴!余計なこと言うなよ!」


お怒りになった竜胆さんは私の手を引いて事務所を出ようとする。ドアから出る際振り返れば、蘭さんはヒラヒラと慣れたことのように手を振っていた。

「らっ蘭さんて凄い人ですね?」
「兄貴昔から何考えてっか分かんねェとこあっから。でもこれは想定外だったわ。俺まで騙すとかタチわりぃ」

拗ねた竜胆さんが今では怖くないし、可愛く思える。
蘭さんが内緒にしろと言っていたのって、まさかこうなる事を読んでいたのだろうか。いやそれは流石に考え過ぎか?でも…。

「おい」
「あっ、はい!」
「…兄貴のこと考えてたんだろ」
「そっそれはその」
「……もう今日は早退」
「えっ!?ちょっ私まだ仕事がっ」

スタスタ早足で私の手を引いて歩く竜胆さんは、歩く速度を緩めると次第に歩みを止めた。




「俺はもうお前に優しくするって決めてんの。だからこんな事でヤキモチ妬きたくねーの。…家着いたら好きって沢山言わせて」







−−−−−−−−−−−




「お前…人の為に動けるヤツだったんだな」
「ん?あぁ、ココちゃんいたの?話し掛けてくれりゃ良かったのに」
「普通にいたワ。っつかあの場で俺が出たらどんだけ空気読めねぇヤツだよ」
「まぁそりゃそうだよなぁ。ウケる」
「…っつかいくら竜胆の為とはいえナマエと付き合ってまで行動に移すとは思わなかったわ。アソビは程々にしとかねぇと竜胆にしばかれるぞ」

九井の呆れた口調にドアに手を掛けていた蘭は、ゆっくりと振り返った。



「え?俺アソビでアイツと付き合ったなんて一言も言ってねぇけど?」


「は?」


「俺も今日は帰るわァ。おつかれココちゃん



パタンと静かに閉められた室内に目を瞬きさせる男、九井一が1人。






「え?…え?」






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