小説 | ナノ

つまり常識は必要ないってこと


※梵天軸

※交際0日婚した話



大学生ってお金がかかる。
月に一度のジェルネイル、新作コスメにスキンケア用品。あぁ、あともう時期季節が変わるから、今流行りの服も揃えないと。美容院にも行かなきゃいけないし、週末は友達と可愛いカフェに行く約束もしてて。大学生って生きてるだけでお金がかかるの。大学生っていうか、女の子。

「へぇ?ンでここでバイトしてるんだ?」

自分から「何でキャバなんかやってんの」って聞いてきたから答えたのに、質問してきた張本人は興味の無さそうに組んでいた長い足を降ろすと、吸っていた煙草を灰皿へ押し潰した。

「辞めちゃえば?そういうの」

煌びやかなシャンデリア、一人が座るには広すぎるレザー調のふっくらとしたソファ。ローテーブルには1本ウン十万するシャンパン。一般の客では入れないこのフロアはVIPルームと呼ばれ、選ばれた者しか入る事を許されない。勿論しがないバイトの私も足を踏み入れることは通常出来ないワケで。

「やめちゃえばって?」
「言葉の意味そのまんま。表面上だけ綺麗に着飾って無理に周りと合わせてたって仕方ねェだろ。ガキはガキらしく駄菓子食ってお布団でネンネしてりゃいーんだよ」
「別に無理してる訳じゃ…っ楽しむ為にはお金が必要なんです!ってか駄菓子は好きですけど、わたし今年21ですよ?ガキじゃないですから!」
「あっそうだったワ」

でも俺からしてみればガキ、と上品に笑う彼に一緒になって特別面白くないのに笑ってみた。友達と遊ぶのは楽しいし、好き。だけど何をするにもお金が必要だからお金を稼ぐ、当たり前のこと。

この時折失礼なことをさらりと吐くこのお方は灰谷さんといって、ウチのお得意様らしい。何時ぞや彼が店へ訪れたとき、目が合ってテンプレのようにニコリと微笑んだ彼を少し怖く思った。すぐに目を逸らしてしまったのだけれど、その日の内に何を思ったのか指名されたのが私と灰谷さんの始まりだ。青い顔をした黒服に「くれぐれも失礼のないように!絶対だからね!?」と何度も念を押され、そんなに凄い人なのだろうかと肩に力が入るもなんてことは無い。彼は話してみれば物柔らかな口調だし、ただちょっと発言が斜め上をいっているだけの人ってだけだった。その後も彼が来た日に私が出勤していれば指名され、今日まで至る。

ゴホン、とわざとらしく咳払いを1つすると彼は小首を傾げて私の方へと軽く体を傾けた。

「ここ、辞めようかと思ってるんですよね」
「なんで?」
「…灰谷さん以外でわたしを指名する人なんていないんですよ。いつも呼ばれてもヘルプです」
「え?お前こんな面白いのに?」

信じられないと言わんばかりに灰谷さんの彫りの深い目が大きく見開いた。ちょっと面白いのでオジサンっぽくオーバーリアクションするの辞めて欲しい。

灰谷さんはこの店の上客であると同時に働く女の子からとても人気。私はまだここでバイトとして働き始めて半年未満。入店早々灰谷さんに目をつけられたが為に、私が指名されると他の働いている女の子からの視線が突き刺さって痛いこと。睨まれて疎まれる私を見て楽しいのだと灰谷さんは言っていた。本人に言えないけれど、性格は中々ねじ曲がっていると思う。

「えー俺オマエに会う為にここ来てんのにつまんなくなるじゃん。…まぁ向いてはねェと思うけど」
「さっき面白いって言ってくれてたじゃん!」

彼の言うことを鵜呑みにしてはならない。ウソなのか本音なのかいつも分からないんだこの人は。現に今、一瞬心臓が跳ねる言葉を吐いたと思えばもうこの通り。上げて落とすのが非常に上手、しかも悪気がないから怒るに怒れない。

上品にシャンパンを口にする灰谷さんの喉元の刺青がごくりと動いた。ワイシャツを腕まくりしていたときに覗いた腕にまで入っている墨といい、一体何のお仕事をされているのか…気になるけれど聞きたくない。どうせ聞いても教えてくれないし。きっと聞かぬがなんちゃらって奴だ。多分。

「あ、イーコト思いついた

彼の訪れる頻度は月に一度か2ヶ月に一度あるかどうか。だから私たちはまだ何にもお互いのことを知り得ていない。灰谷さんは私を指名すると、大体いつも話のネタはわたしに関することばかり。"お前って何が好きなの?"とか"いつも何処遊びに行くの?"とか、そういうの。私が逆に彼のことを聞いても、当たり障りのない返事か逸らされてしまうばかりでフェアじゃない。灰谷さんは30歳だと前に聞いたので、私よりも9つ上。絶対この顔立ちからして品があり落ち着いているように見えて、裏ではじゃんじゃん遊んでいるに違いないと私は踏んでいる(いじわるい所もあるけど)。そしてニィッと怪しさ満点、子供のように口端を上げた灰谷さんのこの笑みは、絶対に私が予期しないことを考えている顔である。

「結婚しねェ?」
「意味わからん」

予感的中、つい心の声が出てしまった。それも地声で。だって灰谷さんの口調はまるで「明日ヒマ?」と友人に約束を取り付けるかのように軽かった。ちょっと低めに出てしまった私の声に驚く訳もなし、クスクスと笑って彼はまた煙草に火をつける。

「いいじゃん。俺そこらのオトコより金あるし、旦那にするには申し分なくね?」
「そういう意味じゃないんですよね。正気ですか?狂ってる!」
「ははっ、最高の褒め言葉どもォ」
「うっうぐっ!ごめんなじゃっ」

容赦なく灰谷さんの手が伸びてきて私の頬をこねくり回していく。加減しているんだろうけど、いたい。
確かにお金は欲しいが、それに目が眩んで結婚だなんて流石にどうかしている。私はよく灰谷さんにバカだとからかわれるけれど、人生一大イベントを考えも無しに頷くほどおバカではない。

「ひ、明日ほっぺ腫れますぜったい」
「ンなことくれェで腫れねェから安心しろ」
「腫れたら責任とって下さいね」
「ん、だから結婚しよって。こういうのはノリと勢いが大事じゃん?」
「いやいやいや!?なんでそうなるんですかってかまず順序色々間違ってません!?」

灰谷さんの手が離れた頬は軽く鈍い痛みが走ることから、これが夢では無いと悲しくも実感する。痛がっている私の顔が面白いのか灰谷さんの表情はいつもと変わらず、いや寧ろいつも以上にニコニコしているように見える。この人前から思ってたけど絶対ドSだろ。

「因みに、何でわたしを結婚相手に?灰谷さん私のこと別に好きじゃないですよね?」
「あー…女避け、が欲しいんだよなぁ」
「はい??」

思っても見なかった返答に、私のお目目は点である。…女避け?どういうこと?理由を聞いたのは私だけど、そんな素直に本人目の前にして女避けだなんて普通言うか?

「…最低だ!」
「あはは、言われると思ったわァ」

悪びれもせず無邪気に笑う灰谷さんとは逆に、私は未だ理解が追い付かず頭上には沢山ハテナが浮かび上がる。

「なんで女避けが欲しいんですか?」
「なんでってそりゃお前、俺がモテるからでしょ」
「ソウデスネ」

当たり前のことを聞くなと言わんばかりに蘭さんは当然と自信ありげに口開く。凄く自信に満ち溢れた人である。

「まぁだから勘違いするオンナばっかりで嫌になっちゃったワケよ。…で、どう?」
「どっどうと言われましても無理に決まってますよ。それに灰谷さんよく私にガキガキって子供扱いするじゃないですか。もっと大人の女性をお探しになった方がいいかと思います」
「へェ、そういう判断は出来ンだね。んでもさァ、大人でキレーなオンナが家で慎ましい生活してると思ったら大間違いよ?」
「えっそうなんですか?」
「そぉそぉ。見た目だけ良くてもダメなんだって」

どこか遠い目付きをする灰谷さんは、どこぞの女と一戦交えたことのあるかのようにため息混じりでフッと嘲笑った。一体どんな恋愛人生を送ってきたんだろう。ちょっと気になる。

「だからさ、俺気付いちゃったワケ」
「へ」

いつの間にか2本目の煙草を吸い終えた灰谷さんは、私に向き直ると顔を近付ける。吸ったばかりの煙草の匂いにプラスして、甘くて重たい香水の香りが間近で香ると思わず体に力が入った。

「お前ぐらいの女の方が何気に上手く一緒に生活していけんじゃね?ってさァ」
「うぉっ!っ意味わかんないってちかっ!近いです!ちょっと離れて」
「んー?別に家事なんかしなくていいし、お前は好きなことやりゃいいじゃん?今まで通りネイル行ったり美容院行ったり、オトモダチと遊んだり?」
「いやっ、それじゃ灰谷さんにとって何にも得ないじゃないですかっ」
「オレ?だから女避け出来りゃそれでいいんだって。お互いに詮索しない。俺は嫁がいるって言えるし、お前は好き放題。悪い話じゃないだろ」
「えぇ…」

好き同士じゃない分、気兼ねしないじゃん?と灰谷さんはセールスマンの口説き文句のようにつらつら言葉を吐いていく。一方私はめちゃくちゃ近いこの距離を何とかしようと彼のスーツの胸元を押すがビクともしない。返事は待たないと言わんばかりに更に距離は縮み、今にもキスされてしまうんじゃないかと鼻先が触れ合った瞬間、灰谷さんは低い猫なで声で甘く囁いた。


「ね?しようよ。結婚」


灰谷さんの、薄藤色の瞳がゆっくりと細まった。

私は灰谷さんの言う通り、バカであることを認める。だってこんな理由で結婚だなんて誰が聞いたって頷かない。なのに思考とは裏腹に、私は頷いてしまった。灰谷さんの大きな手が、セットされた私の頭を撫でていく。やっぱり夢なんじゃないかって自分の頬を抓ってしまうと、「お前のそういうとこ、ホントおもしれぇ」と彼は形の良い唇の端を上げた。抓った頬はやっぱり痛かったし、夢なんかじゃなかった。




次の日、お前の気が変わらない内に、とかなんとか言われ、連れて行かれたのは誰もが知っているCartier。

「こっここまでするんですか?」
「はぁ?結婚すんなら指輪は欲しいだろ」

ナマエはバカだなぁとさり気なく手を引かれるも、わざとらしくならないようにその手をふりほどく。店に入るなり彼を見た店員は「灰谷様」と頭を下げるものだから驚いてしまった。名前を覚えて貰えるくらいこんな所で買い物してるの!?って。恥ずかしいから表に出さないようにしていたけれど、多分バレていただろう。

「どれがいー?俺的にはこっちのお前に似合うと思うんだけど」
「え!?ちょっとわかんない、です」
「ん?オンナってこういうのに憧れとかあんじゃねェの?」

あるよ!あるけど!あるけども!昨日結婚、今日指輪だなんて頷いてしまったにしろキャパオーバーだ。行動に移すのが早すぎて関心してしまうほど私の脳内は理解が追いつかない。

ショーケースの前で物色する灰谷さんとそれ所ではないわたし。私に比べて随分とはしゃいでいる灰谷さんのその姿はまるで女の子みたいであった。結局私は決められず、灰谷さんが選んだのだけれど値段が目に入ると今度は目眩を起こしそうになる。

「こっこんなのむりっ!ダメです!もっと安いのにしましょう!」
「その顔もっと見たいからこれにするワ」
「えっ!?そんな理由で!?」

キョドっている私の顔が相当面白かったのか灰谷さんは即決する。私を無視して販売員に話し掛ける灰谷さんは値段なんか全く気にしていない様子だった。

「ふふ、可愛い奥さまですね」
「おくさまっ!?」
「そーでしょ?こういうの慣れてないから緊張しちゃってんの」

私の肩にポン、と手を置きながら店員に相槌をうつ灰谷さんに、私はそれ以上口を開くことが出来なかった。


後日、オーダーしたサイズの指輪が店舗に届いたと連絡が来て、小さな箱を開けて見るもやっぱり可愛い。リング全体にダイヤが埋め込まれたデザインのもので、蘭さんが選んだけれど、私好みでもある。魅入ってしまうくらいとても可愛いんだけど、お値段が全く可愛くない。

「こんな高価な指輪、わたし似合わない…」
「見合う女になればいいだけじゃん」
「…きっとおばあちゃんになっても指輪だけ輝いていると思います」

「俺がはめてやろっか?」と何処か楽しげな彼に丁重にお断りをした。もう既に灰谷さんの薬指にはアクセサリーをつけるかのように自分でマリッジリングをはめていたし、何より私たちは恋愛結婚ではないのだし。人生の一大イベントなのに、余りの軽さにまるでおままごとみたいだと幼い頃をぼんやり思い出す。指輪をつけたって実感が湧かず、薬指に光るダイヤをぽけっと眺めていた私に、灰谷さんは満足気に柔和な笑みを浮かべた。




「じゃあこれからはお前も"灰谷サン"、ね。よろしく。奥さん?












−−−−−−そしてこの日から3年。

すぐ「お前もう用無し」と笑って捨てられるかもしれないということまで想定していたが、私はまだあの日から変わらず"灰谷さん"をしている。
大学は「せっかく行ってんなら行けば?後1年だろ」と言ってくれた為に無事卒業、ただ就職はせずにそのまま蘭さんが用意した家に住み、毎日代わり映えのない生活をして家の中で過ごしている。つまり、専業主婦ってやつだ。

3年私は灰谷という苗字を名乗っているけれど、正確にいえば私の苗字は元の自分の苗字。私がここに越したとき、蘭さんは言ったのだ。

「ちょっと大人の事情で婚姻届出せねぇんだよなぁ」

それってどんな事情?と気になったけれど、初めに"詮索しない"という条件での事だったから、少し探りを入れて見てもそれ以上のことはやはり教えてはくれなかった。だからぶっちゃけてしまえば家族は私が結婚している事なんて知らない。楽観的に考えているウチの親は金持ちの彼氏と同棲しているぐらいにしかきっと思っていない。

蘭さんは、掴めない所もあるけれど基本的には優しい。というよりも、放任主義という言葉があっている。その名の通り私には自由が許されており、ご飯を作れと言われることも無ければ、友達と遅くまで遊んでいようが、蘭さんが帰宅する頃に寝てしまっていようが、何をしていても彼は私に文句を言わない。本当に女避けをしたいが為の結婚だったのだ。その証拠に、この3年間口説かれることも無ければ、私をただの妹みたいに可愛がり、体の付き合いなんて一度もないし寝室は別室。いくらこれが恋愛結婚でないにしろ、少しクるものがある。え!?私も女ですが!?男女ひとつ屋根の下で暮らしていてそんな魅力的でない!?と落ち込むほど、蘭さんは全く手を出して来なかった。因みに、ヤリたい訳では決してない。

始めの頃は若さ故に"いぇい!何でも出来て働かなくていいなんて超ラッキー"と人間として最低なことしか考えていなかった。だけど私にも人としての心がちゃんと残っていたようだ。次第に彼に対し何にもしない事での申し訳なさが募っていくようになった。そもそも正式な夫婦ではない私はただ養われているだけ。これではただのヒモである。金持ちの蘭さんには金は必要ないかもしれないが、足しにはなるだろうとバイトをしたいと何度も提案したけれど、蘭さんに必要ないと鼻で笑われてしまった。このやり取りは2年半前から続き、現在進行形である。

そして月日が過ぎ、3年。たかが3年、されど3年。この間わたしはとんでもない感情を彼に持ってしまったのだ。

3年もいると、何にも知らなかったお互いのことを少しは知れる。実は弟いんの、と竜胆さんを紹介されたとき。「げっ、兄ちゃん結婚てマジだったのかよ。しかも若ぇガキじゃん」と引き攣らせる竜胆さんに対し、かなり溺愛しているのか「んだよ竜胆、ヤキモチかぁ?」と竜胆さんにくっついているのを見て、そこで初めて素の蘭さんを見た気がした。こんな小さな出来事なんだけど、それからの私がすごくおかしくて。私の前ではたまに悪戯好きの男の子のように笑っていてもやっぱり蘭さんは大人の人だし、考え方もぶっ飛んではいるけれど、違う。私の知らない彼を知ってからというもの、 凄く彼のことが気になりだしてしまい、客として蘭さんと接していたあの時の緊張とは別の感覚が私を襲うのだ。




「料理なんか作んなくてもいいって言ってんのに」
「…毎日ヒマなので。あ、でも食べて来たなら無理に食べなくて大丈夫ですよ!」
「そうは言ってねェだろ?本当オマエ素直じゃないね。"蘭ちゃんとご飯食べたくて待ってたの!"とか言えば俺喜んじゃうのに」
「はっはい!?そっそうじゃないってば!ちがうっ!違うからっ!」
「はいはい。でもお前が作った飯はうまいから食うよ。ありがと」

仕事から帰ってきた蘭さんは疲れているだろうに私に笑顔を向ける。徐々に熱を上げていく体の体温、ドキドキ加速していく心臓の音。蘭さんの顔を余り直視出来ない。そして最悪なのは、蘭さんの言う通り素直になれないことである。なんで可愛げのある言葉を1つや2つ言えないのかと自分に呆れる日々。

「…1人で食べるより、2人のが美味しいので」

精一杯の心の内を口にするも、私の態度のせいでから回っている気すらする。可愛くねぇ!と自分で思う。蘭さんはそれ以上からかう言葉を吐かずジャケットを脱ぎながら少し困ったように笑うだけ。

「また腕上げた?この味噌汁ウマいよ」
「味噌汁…蘭さんでも出来ますよ。お味噌溶くだけだもん」
「あのしょっぱ過ぎた味噌汁が恋しいわぁ」
「お椀、片付けますよ」

あぁ、ほら。またやっちゃったよ。せっかく褒めてくれたのに、どうして私は素直に"嬉しい!ありがとうございます!"と一言口にする事が出来ないのだろうか。蘭さんを目の前にすればするほど、上手く言葉にすることが出来ない。



お風呂に入って、与えられたベッドで横になる。枕に顔を埋めながら思うことは最近毎日同じことだ。
本当に、形だけの結婚。女避けの為とはいっていたけれど、蘭さんから女の話を聞いたことがないから、はたしてこの結婚は効果があるのかどうかは聞いた事がないから分からない。

「…こんなんでいいのかわたし」

誰もいない事を良いことに、ポツリと吐き捨てる独り言。蘭さんのことをもっと知りたいのに、聞けない。蘭さんの目に映る私が一番可愛いと思って貰いたいけど、所詮子供扱い。いくら私が歳を重ねても蘭さんに近付くことはないから当たり前だけど、近くにい過ぎるせいで前より接し方が下手になった気がする。それに9つの差って物凄く大きい。私が知っている知識は大体全て蘭さんは知っているし、経験だって豊富だ。

俺の分は必要ないと言われていたご飯を今日のように作ってみたり、2人分も変わらないと蘭さんの洗濯物を洗ってみたり、色々してみたけれど、何も状況は変わらない。




変わるはずがない。





だってわたしは、





もう時期多分、離婚を言い渡される。







「今日帰り遅くなるわァ」
「あ…分かりました。気を付けて行ってきて下さいね」
「ん。寂しかったらLINEしろよー?」
「なっ何言ってるんですか!」

出会った頃と同じように、蘭さんは笑う。皺1つないワイシャツに質の良いジャケットを羽織り、あの頃と変わらない香水の匂いを香らせながら仕事へ行ってしまった蘭さん。わたし以外誰もいなくなったこの部屋は、蘭さん1人いないだけで随分と静かに感じるし、広すぎる。

蘭さんを見送りリビングへ戻る。目に映るのはキャビネットの上に置かれた蘭さんのアクセサリースタンド。そこにはいつも彼がよく身につけるお気に入りのアクセサリーが置いてあるのだけれど。





私たちの結婚指輪は、そこに寂しくぽつりと置かれている。




別に驚かない。今日が初めてではないから。ただいつから指輪を外していたかはわからない。前は仕事行くときも着けていたと思うけど、毎日指先まで見ていなかったから、気が付かなかった。

そういえば、最近蘭さんの帰宅時間が前よりも遅くなることが増えた気がする。それに蘭さんのシャツから、蘭さんの香水ではない女物の香りがすることも。

「あ…」

そこで私は思い出すと同時に気付いてしまった。蘭さんはモテるんだった。顔も良いし意地悪なことを言ったと思えば必ずどこかで褒めてくれるし、話していると変な発言もたまにするけど、楽しいのだ。普段ならば私がお返しをしなければならない立場なのに、何でもない日に「はい、ご褒美あげる」と言ってケーキなんかを買って来てくれる人、中々いないと思う。そんな男がこの数年、私だけの筈がない。というか絶対世の女が放っておかない。

蘭さんが前に言っていた"大人の事情で婚姻届出せない"という言葉の意味。もしかしたら彼女ではなく本妻がいたりして?いや、それは流石にあの蘭さんでもないか。それなら私は速攻で切られているはず。でも分からない。本妻がいないのなら彼女はいるのかもしれない。考えてもキリはなく、どんどん勝手に自己解釈が生まれてくるだけだった。どの道、私の答えは既に決まっていた。

伝える前に終わる恋は、本来ならば失恋大号泣となるだろう。しかしその前に自分の行いについて恥が襲ってくるばかりだった。蘭さんがダメだと拒むとはいえ、働きもせずにちょこっと家事をやる程度で蘭さんの帰りを待つだけの私を今更ながらぶん殴りたい。

ご飯なんて作れなくてもコンビニがあるから死にはしない。洗濯だって誰でも出来るし、掃除だって元より忙しい蘭さんはそんなに部屋が汚れることもないだろう。


…あれ?私マジでお役御免じゃん!



「出ていかなきゃ」

バクバクした心臓を抑えたいのに、中々動悸は治まらない。出ていく際には、蘭さんに対して可愛くない態度ばかり取ってしまっていたことをちゃんと謝罪しよう。だから泣くだなんてお門違い。



ごめんなさい蘭さん。気付くのが遅すぎて。甘えまくってしまった分、去り際は潔く去りますので。



とはいえアクセサリースタンドに置いてある蘭さんの寂しく置かれた指輪を見ていたら誰もいない事をいいことに、やっぱり少しだけ泣いてしまった。








テレビもつけていない部屋には時計の秒針が鳴り響く。
時刻は23時を回ったところ。ガチャンと玄関から音がして、私の心臓は一気に跳ね上がった。

「おっおかえりなさい!」
「え?何そのテンション。いつも寝てンのに今日は元気だねェ」

少し疲れた顔で笑みを見せる蘭さんに、胸は心做しかズキリと痛む。今まで気付かなくてごめんなさい。本当は今すぐにでも本命の彼女の所に行きたいだろうに。情に厚い蘭さん、とても好きでした。

普段私が出迎えることを余りしなかったからか蘭さんは不思議そうに小首を傾げる。そんな顔も今日で見納めかと思えば鼻がツン、と痛んだ。破裂しそうな程音を上げている心臓を誤魔化すかのように息を吸う。

「あっあの!」
「なー、腹減ったンだけどォ。お前今日はなんか作ってくれてねェの?」
「はい?」

昼食うの遅かったから食い逃しちゃってぇ、と蘭さんはネクタイを緩めながらキッチンの冷蔵庫を開けた。

「あ、すいません。今日はちょっとご飯作れなくて…カップラーメンならあります」
「え?ねェの?俺楽しみにしてたのに」
「へっ!?」

蘭さんの口からサラッと出たその言葉に私は驚きつい目を見開く。蘭さんは良いことも悪いことも素直に物事を発言するけれど、私のご飯を楽しみだと口にしてくれたのは今日が初めてで変な声が出てしまった。

「まぁ俺も帰ンの遅せぇっつってたしなァ。ってか体調わりぃの?生理?」
「せい…!!違いますよ!ちがうっ」

思ったことをそのまま述べてデリカシーに少々欠けている所も、やっぱり蘭さんは蘭さんだった。


「そ、じゃなくて。あの…」


蘭さんの顔を直視することが出来ずに下を俯く。どうした?と蘭さんの声は穏やかだけど、一向に口を開かない私に何かを悟ったのか、蘭さんは隣へ腰掛けると不思議そうに私の顔を覗き込んだ。ふわりと香る蘭さんの匂いに、安堵と共に緊張が走る。

「えっと…その、」
「んー?」
「わっわたし…ここ、出て行こうかなって思っていまし、て」

そろっと俯いていた目線を彼へと上げると、言葉に躓いた。三白眼の彼の瞳は一瞬にして色を無くしたように目が据わっていたから。

「えー何オマエ。そんなこと考えてたワケ?」

大袈裟かもしれないけれど、その目付きだけで人1人殺せるのではないかと思ってしまった。まるで蘭さんだけど、別人みたいだ。

「あ…らん、さん?」
「なに?」
「えっと、その…」
「何が不満?」
「あ、いや不満、とかじゃなくって、」
「じゃあ何?聞いてやるから言ってみ?」

彼は、静かに怒る人なんだと初めて知った。静かに、ゆっくりと、私が口を開くのを待っている。

蘭さんから視線を逸らすことが出来ない。1秒1秒が長く感じて、自分の服の袖を掴んだ手にはいつの間にか汗をかいていた。口元は笑っているのに、声も目も、ひどく冷たい。

「…ゆび」
「指?」
「蘭さんの、指輪」
「ゆびわ?」

自分の手に目を向けた蘭さんに、ここまできたら、もう逃げ道はない。

「あーそれはさ、」
「いいんです!分かってます!分かってますから!」
「…は?」

蘭さんは眉を寄せ、顔を顰める。

「私を女避けとして結婚したのもちゃんと分かってますので!蘭さんに本命なのか本妻なのか分かりませんが、本当にごめんなさい!」
「…や、待ておま」
「大丈夫です!蘭さんに本命がいるのに、気付くの遅くなってしまって本当にごめんなさい」
「……」

少しの間を置いて唇をきゅ、っと結んだ。言い逃げで申し訳ないとは思うけど、私は彼に何もしてあげられる事が出来なかったけれど、彼は許してくれるだろうか。

「3年間私は一応蘭さんの仮妻としてお役には立てていなかったと思うけど、楽しかったです。ご飯も、いつも褒めてくれて、本当は…嬉しかったです。あと、





すごく蘭さんのことが好き、でした」

言うつもりなんてなかった。大事な人がいる人に告白なんて迷惑に決まってるのに、もう会えないと思えば伝えてしまった。潔くと決めていたのに、最後の最後で気持ちを伝えてしまった。こんなこと言われたら、蘭さんだって困ってしまうのに。唇を噛み締め泣くのを堪えている私がゆっくり蘭さんへ目線を移すと、彼はきょとん、と瞬きを数回繰り返した。

「あー…待って。ちょい待ち。訂正することあんだけど、待って」

蘭さんは形容しがたい表情を浮かべるものだから、私はどうすることも出来ずにただ蘭さんが言葉の続きを待つことしか出来ない。その間が長く感じて気まずくて、走り去って逃げたいくらいの気持ちだし泣きたいわで早くこの時間が過ぎて明日になって欲しい、とすら思ってしまった。

「俺のこと好きってほんと?」
「……へ」

蘭さんに目を向けると、いつもの彼の顔より少しだけ赤く染まっているように思えた。それが信じられなくて、目を疑ってしまう。

「…いつから好きでいてくれたわけ?」
「それは、その…りっ竜胆さんと蘭さんが一緒にいるときの蘭さん見てたら、あんな風に素だと笑うんだなって、」
「まじ?」

こくん、とゆっくり頷けば蘭さんは私の手を握った。そしてふはっと柔らかく笑ったその表情は、わたしが見た中で一番柔らかく優しい笑顔だった。

「俺さぁ、昔っから大抵の事は何でも叶ってきたし、手に入らないモンは何をどうしても手に入れて来たんだよね」

私の左手から指輪をそっと外すと、蘭さんはダイヤが埋め込まれた指輪を親指と人差し指で挟みながら見つめる。


「他のこんなら大体上手く事が進むのにさ、お前の事だけは上手くいかねーの。もーオレ振り回されまくりよ?」
「え」
「お前って素直じゃねぇじゃん?それは俺が店に通ってた頃からそうだったけどさぁ。俺が買ってやった物も遠慮ばっかして中々受け取らねぇし、こんだけ一緒にいても寂しいの一つも言わねぇの。嫌われてんのかなぁって思ってたわ。でもお前その割にちゃんとウチにいて俺の飯作ってくれたり笑顔で仕事見送ってくれたりしてさぁ。難しいオンナだよほんっと」
「それは…ごめんなさい。自分の気持ち伝えるのが上手に出来なくて、だからせめてご飯とかぐらいはって思ってたんですけど」

視界が潤むなか、蘭さんは私のサイドの髪を耳にかけながら「違ぇよ。謝ることじゃなくて」とあやすように優しく言葉を繋げる。



「お前を落とすのは難しいなってことだよ」



こんな長ぇ片思いは初めてだといつもの口調で笑う蘭さんとは逆に、私の顔はポポんと染まったまま動かない。そんな私をまた笑って、蘭さんは私の左手をとった。

「お前があん時、急にバイト辞めるなんて言うから柄じゃねぇけど俺焦っちゃってさぁ。連絡先聞くとか全部そういうの頭から抜けちゃって女避けに結婚とかって言っちまったけど、無駄じゃなかったわ」
「なに、それ」
「あー…ほら。"鉄は熱いうちに打て"とかって言うじゃん?あれだよ、アレ」
「そっそんな事ってありますか!?」

ギャン!と喚いた私の唇に、そっと蘭さんの柔らかな唇があてがった。


「だからお前が俺を好きになる前から俺はお前が好きだったよ。…ずっと、ずーっと好きだった」
「あっ」
「指輪、嵌めていい?」


返事をする代わりにぱくぱく、と口を開けてしまう私に蘭さんは飛び切り甘い笑みを見せて私の左手には指輪が嵌められた。










「嘘じゃん。もう一回言って下さい」
「お前のその枯れた声ウケんね。ガラガラじゃん」
「サイテー!ってそうじゃなくて!」

私の正式な旦那となった蘭さんは、そのまま私を初めて彼の寝室へ連れていった。2人で寝ても有り余るような広さのベッドに驚く間もなく組み敷かれ、「こんだけ俺が一度も手を出さずに3年も我慢したの。責任とれよ」と耳元で囁かれたら、私だって我慢が出来るはずがなかった。そうして蕩けるような幸せな時間を過ごした訳だけど、三十路の精力を普通にナメていた。私の声がそれを物語っている。

「だからァ、お前も聞いたことくらいあんだろ?」
「いやそりゃありますけど…え?」
「そこで働いてんの、オレ」

賭博、詐欺、売春、殺人。日本中の知らない人はいないであろう悪の意味で大有名な犯罪組織、梵天。
その幹部の1人が、蘭さんであると?

「ハハッ、嘘はやめて下さい嘘は」
「嘘じゃねぇよ。でも言って速攻逃げられんのも癪に触んじゃん?探す手間増えるし」
「にっ逃げませんよ!」
「皆そう言うの」

蘭さんは優雅に煙草の煙をふぅと吐き出す。
え?そういうこと?結婚する前に言っていたことを思い出す。オンナが慎ましい生活してると思ったら大間違いとかなんとかって、もしかして蘭さんから逃げる女を捕まえては逃げられまた捕まえて、を繰り返していたからとか…そういう感じ?

「あ?変なこと考えてンだろ。違ぇよ?竜胆がそれで前に泣いてたからさァ」
「いいいえっ!?りっ竜胆さんですか!へぇ凄いですねっ」

ニコニコ私の頭を煙草を持っていない手で撫でる蘭さん。私の体は冷凍庫に入れられた魚のようにカッチコチである。

「でぇ、俺ら汚れ仕事もする訳じゃん?大事な指輪が汚ねぇ血で汚れんのも嫌だなって思ってさ。家に置いてたんだワ」
「ひぇ…」
「でもそうだよなぁ、ワケ言わなかった俺が悪いわ。ごめんなぁ?」
「あっいえ、とんでもねぇ、です」
「あはは、急に他人行儀かよ」

蘭さんは煙草をじゅうっと灰皿に押し潰す。そして私の上に覆い被さると、私を見下ろした彼の目は三日月型をしていた。




「そんなビビんなって。お前が俺から逃げさえしなきゃ俺がお前を裏切ることはしねェから」




わたし、やっぱり蘭さんのことまだ何にも知れていない。どうりで私が蘭さん自身の事を聞いてもはぐらかされてしまう訳だ。きっと蘭さんは初めからここに辿り着くまで自分のことを晒す気なんてなかったに違いない。


「ほら、もっと口あけて舌だして」
「…ん」


絡めたお互いの左手薬指には、リングが2つ、カーテンから漏れる朝日で煌びやかに光っていた。







×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -