彼氏が反社とか聞いてない
※梵天軸
※全てがドンピシャで三途を好きになった女×パンピーな女ってどんな感じ?適当に遊んでみっかぁって思って本気になった三途
就職してから実家を離れ住み続けていたこのワンルームの小さな部屋。決して広くはないけれど、思い出たちが沢山詰まったこの部屋を出るには少々感傷深いものがある。
仕事も辞めた、連絡先も消した、家も出る。
私に残っているものはほぼ無いけれど、独身だったが故コツコツと貯金だけはしといて良かったなぁとこういう時しみじみ思う。
物が片付けられた寂しい部屋を見渡して小さな息を吐くと、スマホが間抜けな音を立てて着信を知らせた。物が無くなった室内にはやけに反響して聞こえ、それが少し寂しい。
「もしもし?あ、うん。荷物は大体片付いたよ。うんうん、明日?…うん、行けるよ。場所?大丈夫だって。あはは、心配し過ぎ」
小さなキャリーケースの取っ手を握り玄関の戸を開ける。
明日から私の新生活のスタートだ。
▽
変な男を好きになった。
出会いは街中、飲み屋街の歩道にて。
次の日休日という事もあり時間も気にせず飲んでいた私は酒に酔っていた。ふらつく足取りで駅へと歩を進めていたとき、スマホを見ながら歩いていたせいで誰かの背にぶつかってしまった。それが春千夜君だ。
「あ"?」
「ぅあっ!すっすみませっっ!」
まるでヤクザとも思えるような低い声が頭上から降りてきたと同時に声の主は振り返る。落としそうになったスマホから顔を上げるとギョッとした。目を疑う程の美人様が眉間にこれでもかと皺を寄せて私を見下ろしていたからだ。
飲み屋街の光に照らされた男は眼球だけを動かして私の頭からつま先まで見ると、不機嫌そうな舌打ちをする。その舌打ちに私の体は金縛りにあったかのようにピシッと凍り付いてしまった。持っていたスマホには自然と力が込められ、数秒前の自分にちゃんと前見て歩けよ!と咄嗟に後悔も押し寄せる。
「あー…この時間の女の1人歩きは危ねェっすよ」
「…へ」
怖いと思ったのも束の間。彼は傷がある両口端を上げにこりと微笑み掛けてきたのだ。数秒前の彼とはまるで別人に思える彼はスーツのポケットに手を入れていた片手を出すと、私の肩をポンポンと優しく叩いてきた。そして低い声なんてまるで出ませんよとでもいうかのように声を少し高めて口を開いたのだ。
「連れはいねェの?」
「あっいやさっきそこで別れたので」
「あっそォ…ま、気を付けて帰った方が良いっすよ。この時間変な輩も多いんで」
「は、はぁ…」
何かを考えているような含みを見せた男はそれ以上は詮索せず、その代わりに私とまた目が合うと再びニコリと微笑みかけた。その途端、私の体は瞬く間に酒とは別の熱が上昇していく。彼の纏う雰囲気、顔、全てが私の好みにドンピシャだったからである。
「…あの!」
じゃあ、と背を向ける彼を引き止めると、若干片眉を下げた彼が私の方へと振り返った。
「なにィ?」
「れっ連絡先を教えて下さいませんか!?」
「…は?」
酒に酔った奴ほど無敵である。
男の人に初対面でこんなナンパもどきみたいな事を言うのは人生で目先の彼が勿論初めてだ。ニコリと笑っていた彼も流石に顔は引き攣っており、多分この顔は間違い無く引いていたと思う。私も逆ならこんな食い気味の女普通に引くし。でも今を逃したらもう会えないかもしれないと私の勘がそう察知したのだから仕方がない。
「あー…いいっすよ」
「え"っ!マジですか!?」
言ってはみたがこんな変な女、次こそ無視されるだろう、そう思っていたのに意外にも彼はスーツの内ポケットからスマホを取り出すと、連絡先を交換してくれたのだ。
それから何故かブロックされることも無く送ったメッセージはちゃんと返って来る。頻繁では無いけれどこうして連絡を取り合い数週間が経った頃、ご飯へ行こうという話になった。1回目も2回目も彼から誘って貰えたことに私は浮かれ、素面で初めて会った日はお淑やかで行こうと決めていた。だがもう彼の中ではあの日の私がインプットされていたせいで、私がフフっと上品っぽく笑ってみれば、
「この間と全然雰囲気違いますね。普段のでいいですよ。今更俺引かないんで」
と言われてしまい恥ずかしくてこの場から逃げ去りたくなった。クスクスと綺麗に笑う彼に、私の全てが見透かされているような気がして羞恥心と共に心臓は加速するばかり。
耳にじゃらつくピアスに目立つ桃色マッシュウルフ。上質そうなスーツを着こなした彼の顔立ちは中性的で、いつ見ても本当に男なの?と疑問を持ちたくなるほど眉目秀麗といった言葉が良く似合う。そして人は見た目で判断をしてはいけないが、ぱっと見チャラついている彼はこんなただの一個上である私に対してちゃんと敬語を使う。そんな彼のギャップにやられない女なんてこの世にいるのだろうか。無論、私の心は絶賛会う度に奪われている最中だということは言うまでもない。
▽
「さっ三途君が良ければ…つっ付き合って欲しいんですけど…!」
「え?今っすか?」
お付き合いに至ったのは3回目のデートのとき、連れて行ってもらった食事の席でのこと。
だいぶ私に慣れてくれたのか距離の近い彼に胸のドキドキは最高峯であった。そのせいで中々メニューを決められなかった私に気が付くと、彼は微笑みかけメニューへと指をさし、「これ、ナマエさん好きそうですよね」と何気なく言ったその最中の発言である。春千夜君の言う通り何故今?が正解だろう。だって私にも分からない。気付いたら言っていた。
やってしまったと後悔しても時すでに遅し。空気も読めず食事も終わる所か始まる前になんてことを言ってしまったのだと私の顔は羞恥に飲まれながら先に続く言葉を無い頭で必死に考える。
「ごっごめん!なんていうか…そう!三途君みたいな人と付き合ったら楽しいだろうなってずっと思ってて!いや、思っただけで深い意味は……やっぱり今のわすれ、」
「いいっすよ。付き合いましょ」
「て…って、へ?」
つけまでもないマツエクでもない、女性なら誰もが羨む天然の長い睫毛がゆらっと揺れると、そのまま彼は目を細めて私の気持ちに頷いてくれたのだ。
「うっうそ!?」
「俺がウソで頷くようなクソみてェな奴に見えます?」
「みっ見えないけども、いやっそのまさかオッケー貰えるなんて思ってなくて」
「ンだそれ。まぁ、ナマエさんが言わなきゃ俺が言ってたとこなんで、丁度良かったです」
「丁度良かった!?」
ボッボッと汽笛が鳴りそうなほど顔を染めフリーズしている私とは正反対に彼は余裕気に笑うと店員を呼ぶ。そして何食わぬ顔で先程私が好きそうだと言った料理を勝手に注文していくのだ。店員がメニューを復唱していく間も耳に入らなかった私とは違い、春千夜君は始終涼しい顔をしていた。
「ナマエさん」
「はっはい!?」
「どんだけ緊張しいなんですか。こんなんで緊張されてっとこの先困るんで早く俺に慣れてくれると助かるんですけど」
「え"っ!!」
薄く笑った顔がそんじょそこらの女性よりも本当に美しい。それでいて可愛く思えてしまうから心臓にとても悪い。サラりと私を揶揄うような言葉を恥ずかしげもなく口にした春千夜くんは、店員が持ってきたワインをグラスに注ぐと私に手渡す。
「じゃ俺今日からアンタの男なんでェ、大事にしてやって下さいね?」
「へっ!あっその、」
「はいカンパーイ」
春千夜君はワインを一口飲みグラスから口を離すと、妖しく微笑みながら私の返答を伺うように小首を傾げる。私は酒を飲むことも忘れ、こくこくと頷きながら小さな声で「よろしくお願いします」と言うのが精一杯だった。
この日が私と春千夜君の幸せ交際の始まりであり、またの名を地獄という名のお付き合いがスタートしたのだ。
▽
初めはそこら辺のカップルと大差が無かったように思う。外資系で働いていると言った春千夜君は忙しかったけれど時間を見つけては会いに来てくれていたし、メッセージも電話もマメにくれていた。
初めて彼が泊まりに来た日、夜ご飯はどうするかという話になった。春千夜君はいつも美味しいご飯屋さんへ連れて行ってくれる為、料理に自信の無い私は外に食べに行かないかと話を持ち掛けたのだ。だけど春千夜君は納得がいかない様子で首を中々縦には振らない。胡座をかきながら私の顔をじっと見続けるから何か気に触ってしまったのかと不安に思う。
「どっどうしたの春千夜君?」
「…普段人の手料理なんか食いたくねェんだけどナマエチャンのは食ってみてェなって思っててさァ…作ってくれないんですか?」
「っ全力で頑張ります!!」
そんな強請るように言われたら頑張って作るしか無かった。しかし春千夜君、私が丹精込めて作ったオムライスを終始無言で頬張る。こうしてガツガツと食べる春千夜君を見るのは初めてでちょっと驚いてしまった。
「…なんですか?」
「あ、いやいつもお淑やかに食べてるの見てたからなんか新鮮で」
「あー…まぁここ外じゃないんで」
「外?…そっか、そうだよね。へへ、素の春千夜くんかなと思ったら見れて嬉しいよ」
これは本音だったのだが、春千夜君はスプーンを持ったまま石のように固まる。大きな瞳をパチクリとさせ私を凝視するから、恥ずかしい事を言っちゃったんだ!と途端に顔は熱を帯び出す。
「変なこと言ってゴメン!」
「あ?あー…アンタはそういうとこすげェ素直っすよね」
「えっ、そうかな?ハハ。でも確かに友達からよく素直すぎて心配だって言われるかも」
「…友達?」
春千夜君の低い声が耳に届く。
部屋の空気が変わったかのように思えたのは気の所為だろうか。
「ダチって女ァ?男ォ?」
「おっ女の子だよ。あ、もしなら今度春千夜君のこと紹介したいな
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「ふぅん」
カチャンとスプーンをお皿に置いた春千夜君と目が合う。何故か分からないけれど横に座っている春千夜君から反射的に距離を取ろうとしてしまった。
「別に良いですけど…そのオトモダチ、俺興味無いんで」
「え?あっそりゃそうだよね!ごめん、急にこんなこと言って」
「いえ。っつかそれよりコレ、また作って下さい。また食いたいです」
「うん!こんなので良ければいくらでも作るよ」
なんで私が謝らなければならなかったのか考える余裕は無かった。でもこの時点で気が付けば良かったのだ。春千夜君は普通の人とは違うってこと。
冷ややかだと思った空気はやっぱり冷えていたし、それでいて恋は盲目って言葉、今ならば意味を心底理解が出来る。
▽
付き合う人は友達でも何でも人を見て付き合いなさいね、と母に言われたことがあるけれど、それって数ヶ月程度の付き合いでちゃんと分かるものなのだろうか。大体の性格は分かるかもしれないけれど、長年付き合っても結婚したら実はこんな人でしたとかいう話もよく聞くし。本性を知るって実は一番難しい事じゃないかとも思ったりする。
春千夜君と付き合って1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月と期間が長くなるに続き、初めは好きすぎて感じなかった感情を今は少し疑問に思う事がある。
それが段々と確信に繋がると、今度は大好きな春千夜君の事が怖いと感じるようになってきた。
「女と飯?…ンなの俺が連れて行きますって」
「春千夜君とも行きたいけどさ、高校の同級生だから久しぶりだし…ダメかな?」
「ダメ。もしかするとその場に男も来るかもしんねェじゃねぇっすか」
「ないよ!誓ってないから!」
「…保証がねェだろ」
…?
「俺が来るまで家出んなって言ってんの何で分かんねェかなァ?バカなんすか?」
「いやぁちょっと支払いが今日までだったから」
「危機感持ってくンねェと困るんすけど」
「大袈裟だって。それにまだ20時だしコンビニここから5分掛からないじゃん」
「時間なんて関係ないです。俺がダメっつーんだからダメです。頼むから学習して下さいよ」
……?
「春千夜君…私のスマホ触った?会社の人の連絡先消えてるんだけど…」
「さァ?でも丁度良くないっすか?上司からの連絡だか何だか知んねェけどウゼェっつってたじゃないっすか」
「そうだけど…でもそれ私こま、」
「あ、今日オムライス作って下さいよ。アレ食いたいです」
「え?あぁ、うん」
………?
ちょっと春千夜君の執着異常じゃない?
春千夜君の考えが普通なの?私がおかしいの?
その他にも色々ある。
私は彼に会社の場所なんて教えた事は一度もない。春千夜君は自分の仕事の話を余りしないから、私の仕事の話も話題に出なかった。だから知っているはずが無い。なのに彼は私の会社の前に車を停めて私を待っていたのだ。
「お疲れェ」
「はっ春千夜くん!?なっなんで会社知ってるの!?」
「なんでって前に教えてくれたじゃないっすか。忘れねェで下さいよ」
「私そんなの教えてな、」
「つーかよォ、その隣にいる奴だれェ?」
車窓から顔を覗かした春千夜君はニコニコと笑ってる。顔付きは普段通りの春千夜君だ。だけど雰囲気がいつもと違う。
「これは、後輩…で」
「へェ。こーはいなんかァ」
私の隣にいたのは後輩のモブ山君という男の子。モブ山君とは退社する時間が一緒だった、本当にそれだけ。いつも元気でお喋りな後輩ですらも息を飲むほど場の空気は重く冷え込んでいた。疚しいことなんて何1つないが、春千夜君はそれを良く思わない。
「ほんとに、さっきのは退社時間が一緒だっただけで」
「別になんとも思ってねェっすよ。仕事だもん、仕方ねぇワ」
そうは言っても何もないと春千夜君に信じて貰うまでに時間は掛かり、やっと機嫌が良くなったのは1週間後。突然モブ山君が社へ出社せず辞めてしまってからだ。その理由をもしかしてと春千夜君に聞ける勇気が私には無かった。
この日から春千夜君は段々と、着実に、私を更に縛っていくようになる。会社の飲み会は禁止、肌が見える服を着るのも春千夜君といる時だけ、異性の連絡先は春千夜君以外親でもダメ。どれか1つでも約束事を破れば春千夜君に怒られてしまう。そういう時のセックス時、彼は私の首を絞めるから、苦しくて生理的に浮かぶ涙を舐めとっては「かぁいい」と喜ぶような変態でもある。
初めの頃は本当にそんな感じは見受けられなかった。普通に会って、泊まって、を繰り返していく内に春千夜君は変わっていったのだ。いや、もしかすると本当の春千夜君はこういう人だったのかもしれない。そうするといつの間にか私は彼に気を使う事となる。
「俺のこと、裏切らないで下さいね?」
「は、はるちよ君?どうしたのいきなり」
「裏切りモンばっか見て来たんで信用すンの…苦手なんすよ俺…」
「ど、どんな人生送ってきたの…?」
「……」
しかしそうは言っても彼が私に弱みを見せたとき、私は何も言えなくなってしまう。胸元に顔を埋める彼はまるで小さな幼子だ。春千夜君は時折こうして不安がりになる。その度に私が抱き締めてあげると、彼は安心したように眠ってしまうのだ。それも最初は可愛くて愛しくて仕方がなかった。わたしって春千夜君に必要とされているんだなと感じられていたからだ。
「はるちよ君…好き」
「俺もすき、大好きです」
好きだと私が伝えれば、彼は照れ臭そうに目を細めて答えてくれる。
ぎゅうっと私が抱き締めれば、細いクセに骨が折れてしまいそうな力で抱き締め返してくれる春千夜君。
愛されているという実感は痛いくらいにある。それは幸せなことだと思うけど、度が過ぎた愛情は…怖い。
こんなこと何ヶ月何年と続けていたら私はきっと息が詰まって死んでしまいそうだ。
「わたしたち、別々の道を歩んだ方が…」
「…嘘は嫌いって言ったでしょ俺。言っていいことの区別出来ないンすか?」
「ゴメンナサイ」
一度別れようと話を持ちかけたりもしたがお察しの通り。
そうなると最終手段は私が逃げる他無かった。人間、追われると逃げたくなる、アレに似ている気がする。
執着心が人一倍強い春千夜君、彼の愛情はちょっと人より歪んでいるだけなのだ。それでもお付き合いをこの先続けていくことを考えると、将来は見えない。
職場も知っている、家も知っているとなると、彼とお別れするには全てを捨てなければいけない必要性がある。でもそんな事直ぐには出来ないと頭を抱えたとき、一件の着信が鳴ったのだ。ディスプレイに映るのは見知らぬ番号。それもその筈、異性の連絡先は一切消してしまっていたからだ。出ようか一瞬まだ迷いがあったが、私はそっと通話ボタンをタップした。
「……もしもし?」
▽
あれからひと月が経過した。今日は早出だと言った春千夜君をいつも通り起こして、いつも通り支度を始めた春千夜君の横で私も仕事へ行く支度を一緒にする。
「…連絡すっからちゃんと電話出て下さいよ。今日は会えないんで」
「うん。寂しいけど春千夜君の帰り待ってるから」
「…ん」
春千夜君と触れるだけのキスをする。最近は春千夜君の家に泊まっておりほぼ半同棲状態だった為に好都合だった。名残惜しいようにきつく抱き締めてくれた春千夜君とバイバイすると、私も間を置いて家を出る。その足取りは軽いが心は重たい。
…ごめんね、春千夜くん!
胸は痛むけれど私は会社へは出向かず、自分の住む家へとタクシーを捕まえて帰宅した。
−−−−−そして冒頭に戻る。
春千夜君のことは嫌いではない。嫌いではないし寧ろまだ好きな気持ちは残っている。でも私も良い年をした大人で、この先こんな時間ばかりを送ってしまってはきっと籠の中の鳥になるだろうとさえ思ってしまうのだ。勝手に居なくなる私を許してはくれないだろうが、最後にメッセージだけを入れておいた。
「………ハァ」
ひと月前から会社に辞表を出し、有給を使っては家探し。荷造りも無事終えて、いつ春千夜君にバレてしまうかヒヤヒヤしていたがなんとかバレずに済んだのは奇跡と言えよう。
ただほんの少し、すこーしだけ寂しいけれど、この先の事を考えたらこれで良かったのだと両手で軽く頬を叩いて目を覚ます。
これから新しい道に進む、そう思ったのだ。
「どーもォナマエチャン」
「っひぃぃ!!」
逃亡生活2日目、まさかこんな呆気なく見つかってしまうだなんて。
まだ新しい家に住める状況でなかった私は、取り敢えずビジネスホテルに宿泊していた。そして本日、元より約束していた新しい職場へ行こうとした際、呼び止められたのだ。よく聞き慣れたその声が聞こえた瞬間、私の体はビクッと跳ねる。
恐る恐る振り返ればそこにいたのは思った通りの人物、春千夜君が立っていた。
「そんなビク付かれると俺悲しくて泣いちゃうンすけど」
「えっ、えっとぉ…」
嫌な汗が体に伝うと同時に春千夜君はゆっくりと私に近付く。私が距離を取ろうも後ろへ下がるよりも早く、彼は私の前に立つと愉しげに笑った。
「良かったなァナマエチャン」
「…へ?」
「俺がアンタの事好きじゃ無かったら今ここに立ってらんねェよ」
それは…どういうこと?
トン、と胸に色白の人差し指が充てられる。微笑んでいるかのように見える春千夜君は冗談で言っているようにはとても思えなかった。
「ここ、人も結構いるんで俺の車に行きましょうよ」
「で、でも」
「いーから。言うこと聞けって」
私の腕を取り簡単に車へと連れ込む春千夜君の背を見ながら、わたし、終わったかもと憎いぐらい晴れ渡っている空を見上げた。
▽
エンジンを掛けるも発進はせず、春千夜君は煙草に火をつけると煙を逃がすように車窓をほんの少し開けた。
「あの…なんでわたしの居場所、分かったの?」
バクバクと音を鳴らしている心臓とは逆に、口から出た声は思ったよりも落ち着いていた。春千夜君はふぅ、と白い煙を外へと逃がすと私に目を移す。春千夜君の香水と、煙草の香りが混じって少し会わなかっただけなのに、情けないが懐かしく感じてしまう。
「…アンタの事なら何でも知ってる。電話は繋がんねェ、お前の家はもう空っぽでェ、仕事も辞めて俺と会えない日狙って鬼ごっこってかァ?ひでぇもんだワ」
「っそんなつもりは…」
「まぁ何処まで逃げんのかなって少ぉし泳がせてたらンなやっすいビジホに泊まってよォ。挙句の果てには九井とお友達でぇソイツから紹介して貰った職場に就職予定?聞いてねェなぁそんな話」
「そっそれは…って、え?こっ、ココのことも知ってるの?」
「ンなもん俺が九井の上司だからに決まってンじゃないですか」
「まっマジで!?」
つい大きな声が漏れてしまった。春千夜君の顔が歪むと私はハッと押し黙る。でもまさか高校の知人と春千夜君が同じ職場だとは思わないじゃないか。しかも春千夜君が上司ってどういうことだと頭は回らず真っ白になっていく。
「俺に黙って九井と連絡取ってたっつー話は後に置いといてェ…あのメッセージ何?」
「なっなにって、」
「別れようってどういうことかって聞いてンだけど?」
エンジンを掛けたままの車内はエアコンが良く効いていて少し肌寒い。小首を傾げる春千夜君は、本当に何故別れを告げられたのか分かっていない様子だった。
「水くせェじゃないっすか。俺とアンタの関係ってンな一言で終わっちまうってワケ?」
中々口を開かない私に、待つことが得意でない春千夜君は「早く言え」と言わんばかりに威圧感をさらけ出す。
「…って」
「あ?」
「だって春千夜くん私のこと何にも信じてくんないじゃん!女の友達って言っても信用出来ないって言うし、会社の後輩が来なくなったのもホントは春千夜君が何かしたんでしょ!あとお父さんとも連絡取っちゃダメなんて酷いよ!アホなの!?」
「は、はぁ?」
「な、仲直りのえっエッチの時だって首締めてくるし、っ辞めてって言ってるのに、ッ聞いてくんなかったじゃん!!」
「あ?ちょい待て泣いてんの?おっおい、泣くなって」
「うぅ
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「こっ殺すワケねェだろうが!」
「しゃっしゃっきフラグ立てるようなことッ言ってたじゃん
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「あ?あー…それは」
春千夜君はどうしたら良いのか分からないとバツの悪そうな顔をする。私も私で今まで言えなかったことをパニックになりながら口にしている為、涙で顔もぐちゃぐちゃ、口も上手く回らないし最悪である。ぐずぐずと泣き喚く私に春千夜君は困ったようにセットされたピンクの髪を無造作に掻くと、煙草を灰皿へと押し潰した。
「…人好きンなったことなんかねェからどうすりゃ良いのか…分かん、ねェ。お前の言う信じるってどうすりゃいいんだよ」
「は、」
掠れたように小さく呟いた春千夜君は自信の無さそうに眉を下げた。そして私の方へと顔を向けると私を抱き寄せる。
「…お前が…」
「っ、ぅ」
「…お前から告ってきたんだろうがよ。そのクセ俺が好きンなったらなったで次は別れたいだァ?勝手過ぎねェ?俺にはお前しかいねぇのに。……今なら、今なら許してやるからさァ…」
俺から逃げんなよ、そう口にした春千夜君の声は今にも消え入りそうな声だった。
「はるちよくっ、はっはなじでぇ」
「無理。俺諦めわりーから」
「でも苦しっ」
「じゃあ別れるっつーの無しにして。ずっと俺のこと好きでいて……俺多分アンタ以外好きになれねェ」
春千夜君と付き合って来た期間はそんなに長くないけれど、ここまで彼が必死に私のことを好きだと口にするのは初めてだった。執着心は強いと言えど、彼は自分が言葉にするよりも、私の言葉を求めてくることが多かったから。
別れたいって思ってたのに、離れたいって思っていたのに、こんな春千夜君を前にして、今そんな感情が湧かない私はきっとどうかしている。春千夜君の背にそっと手を回すと彼の体はほんの少しだけ跳ねた。
「じゃあ…もう少し自由が欲しい」
「……どんな?」
「私も春千夜君を不安にさせないようにちゃんと大好きっていっぱい伝える…から、たまには友達と遊びにも行きたいし、家族との連絡先ぐらいは許して欲しい。…っ、それと信じるっていうのは…先ずは相手を疑わない事だと、思う。…簡単じゃないけど」
「…それ許したらアンタは俺といてくれるんすか?」
「うん、ずっと一緒にいるよ。…わたし春千夜君のことやっぱり大好きみたい、だから」
「
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鼻をすすりながら言葉にするも、彼は堪らなくなったかのように口を閉じ抱いている腕の力を更に込めた。しかし春千夜君、加減を知らない。そのせいで私の喉から「
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▽
「つーワケでェ、コイツ俺の嫁になっからわりぃけど別の奴探せや」
「は?待てよ。話の流れが分かんねェんだけど?」
あの後、春千夜君は善は急げと「俺ら結婚しましょ!」と私にプロポーズをしてくれた。特段考えずこくん、と頷いた私を見て春千夜君は見たこともなく上機嫌になり、「アンタの家、解約しとくんで今日から俺ンちが帰る場所っすね!」なんてはしゃいでいたのだ。そんな彼が子供に見えて可愛く思うのだから、今の私は間違いなく幸せだろう。
そうして連れて来られたのは一件のビル。春千夜君に連れられ事務所らしきドアを開ければ、髪型は変わっているが面影は昔のままの懐かしい友人がそこにいた。ただ見た感じ少しやつれているように見える。そして春千夜君は私の友人、ココの前に立ち堂々と結婚宣言をしたのだ。
「お前、コイツと付き合ってたワケ?」
「あ、うん。ココと春千夜君が同じとこで働いてたなんて知らなかったんだけど」
「知らなかったって…」
久しぶりの会話がこれでは少し寂しい気もする。そう思っているのは私だけなのか、ココは前に会った時よりも随分と長く伸びた髪をかき上げて、より一層深いため息を吐いた。
「仕事の件は仕方ないにしても本当に良いのか?」
「なにが?」
「何がって…俺も誘ったし人のことは言えねェけど、結婚っつったらお前覚悟出来てんのかって話。俺らの仕事分かった上でコイツと付き合ってんだろ?」
「……へ?」
キョトン、と首を傾げる私を見るもココは春千夜君に「言ってねェのかよ」と言いたげに面倒くさそうに口を開いた。
「お前"梵天"って聞いたことねェ?」
「え?あー…ニュースでよく聞く危ない組織だよね?」
「それ、ウチ」
「は?」
「コイツはボスの次に一応偉い奴」
「え?は?」
…何それどういうこと??
春千夜君へ即座に視線を向けると、彼はニッコリと笑っておりまるで三日月のようだった。
「がっ外資系って言ってたじゃん!!騙したの!?」
「ハァ?別に騙してねぇワ!海外との取引もあンだから間違ってねェもん」
わたし、分かる。それ絶対違うヤツだ!!危ない取引に違いない!!
ココが私を誘って来たのにも言いたいことはあるけれど、それよりも春千夜君がまさか悪すぎる事で有名な組織で働いているだなんて付き合ってる期間、全くもって何も知らなかった。私は彼の職業を確かに詳しく聞いてはいなかったが、外資系で働いているといった春千夜君を信じて疑わなかったのだ。
「わっ、ちょ春千夜くんっ」
「行くぞ」
春千夜君は私の腕を引くと事務所のドアを開け出ようとする。最後にみたココの顔は「変な奴に捕まっちまって」と憐れむような顔付きだった。私から好きになり告白しただなんて知れたら彼はどんな顔をするのだろうか。聞ける時は無いかもしれない。
事務所を出て春千夜君の車の助手席に座らされる。
さっきとは違う、甘い雰囲気の中に形容し難い感情が私を取り巻いた。ドンッと運転席のドアを閉めた春千夜君。ゆっくり振り向くと彼は私を見るも目を細めた。そのまま顔を近付け、鼻先が触れ合うと私にキスを落とす。
「でェ、さっきの続きで言いたいことあるんですけど」
「…な、なにかな?」
「……これからの俺、全部ナマエチャンにくれてやるからさァ」
唇がそっと離れた至近距離の彼からは香水の香りがふわっと香り、安心すると共に胸はこんな事態でもきゅんと音を奏でた。自身の唇をペロッと舌なめずりした春千夜君は私の瞳にとても妖艶に映る。
「俺にもアンタの全部、下さいね?」
告げた言葉とは裏腹に照れ臭くなったのか私の頭を荒く掻き回した春千夜君に、言葉が出ない程に心が満たされていくのを感じると同時に1つ。私はもうこの先何があっても彼が私を離さない限り一生彼から逃れることは不可能だと悟った。
だってだって、
彼氏が反社だったとか聞いてない。
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