小説 | ナノ

「別れる」なんてもう一生言わない


※梵天軸


「春千夜君別れよ」
「あ?」

ちょっと冗談含めて言ってみただけ。
ウソ、半分本気で半分冗談のつもりだった。

スーツに着替えようとシャツのボタンに手を掛けていた春千夜君の指がピタリと止まる。普段から特別甘い声音で私に声を掛ける事は余りはないけれど、その代わり聞いた事もないくらいの一等低い声が喉から漏れて、私の体はビクッと跳ねると、掛けていた羽毛ふとんを握る手にキュッと自然に力が入った。

季節は冬の真っ只中、夜中の気温は寒波の影響で更に冷え込み、いくら暖房が付いていたとしたって熱が冷めた体には肌寒い。でも春千夜君はそんなことは関係ないと言わんばかりに、未だボタンが嵌められていないシャツをそのままにしてベットへと伸し掛ると、私が掴んでいた布団を荒く捲った。

「あっさむい!寒いからやめてよっ」
「俺がいんだから寒くねぇだろうが。つかテメェもう一遍言ってみろ」
「さむいっ!」
「そっちじゃねェよ」

春千夜君がいるから寒くないって言ったって、今から仕事に行ってしまうくせに実に彼らしい物言いだ。

春千夜君に恋をして中々相手にされなくてもめげずに好きだと言い続けた私は、やっと念願叶って春千夜君の彼女になれた。彼女になれた日は嬉しさの余り、その日は小学生の頃の遠足の前日かってくらいドキドキし過ぎて寝られなかったし、朝方起きたときもこれは夢だったのかもしれないって何度も自分の頬を抓っては現実だと確認していたくらいに浮かれ上がっていた。

春千夜君と付き合えたのならこれ以上何も求めません!と思えていたのは初めの頃だけ。春千夜君をもっと知っていく度に好きの感情はどんどん増していって貪欲になっていくのが自分でも目に見えて分かった。好きから大好きへと感情が変わると、もっと一緒に居たくなって、もっと甘えたくなって、もっと我儘だって言いたくなってしまった。

それでも私は春千夜君との逢瀬をそこそこに、仕事に行くと名残惜しさも微塵も感じられない春千夜君を引き止められず、言い留まってしまう。「行かないで」なんて素直に言える訳がなかった。片思いから恋人になれた日に、春千夜君は私に釘を刺すように言ったからである。

「…ほんとに?本当に私でいいの?」
「何度も言わすんじゃねェ。あー…そん代わりとか言いたくねェけどよ…俺はお前といようが俺が出なきゃ回んねェ仕事があったらそっちを優先しなきゃなんねぇんだわ。毎日お前を一番に思ってやることが出来ねぇの」

そんでもいいなら付き合ってやるよ、と春千夜君はハッキリ私にそう告げた。あまりにピシャリと言い切る彼は過去の彼女とお仕事の事でも揉めたことがあるのだろうか、そんな事を感じさせるような口ぶりでもあったけれど、それでも私は好きだから故に余り先のことは考えず、「分かった」と首を縦に振って喜んだのだ。春千夜君の上目線な物言いはいつもの事なので気にはしない。そんなことよりも私を彼女にしてくれるという嬉しさが込み上げてくると、堪らず顔がへにゃりと自然に緩んでしまった。そんな私を見たって春千夜君は照れる訳でもなく、傷がある両口端を上げて「犬みてェ」と笑っただけだけど。

彼はその言葉通りに私より仕事を優先する男だった。彼女だから特別ってことは何にもないし、寧ろ付き合う前と余り変わらない気さえする。連絡は余り返って来ないし、電話の回数だって多くはない。長電話なんて以ての外。やっと会えたと思ったら数十分でバイバイしたことだってあれば、ドタキャンされた事だってある。春千夜君は私が好きだと口にしても「知ってる」だとか「ハイハイ」と言うだけで、春千夜君が私を好きだと言ってくれたことが一度もない。単なる私の"好きな人"から私の"セックスが加算された好きな人"に昇格しただけなのである。この関係性に私の不安は段々と大きく積もり、あれ?これってセフレの片思いと同じじゃない?とつまらぬ事を考えては頭を横に振り、また同じことを考えてを繰り返し悩むことが増えた。

春千夜君とお付き合いをする上での約束事を了承したのだから仕方がない、とは表では思っても、ぶっちゃけてしまえば心の中ではもうちょっと!もうちょっと彼女らしく大事にしてくれても良くないか?ともう一人の自分が囁き、自分の矛盾さにダメージを受けていく今日この頃。人間の心情とはこういうときほど実に面倒臭いなって思う。人間というか、自分が。

「でぇ?俺と別れたてェ…だっけか?」
「ぅっ、…わ、別れたい…?」
「……ハテナ付ける意味は聞いてやんよ」
「まだ…はるちよ君が…好きだから?」
「はぁ?」

春千夜君は顔を歪ませる。私も逆の立場だったら同じ顔をすると思う。冷たく私を見下ろす目付きが怖い。数十秒目が合ったまま中々次の言葉を繋げる事が出来ない。ただ心臓がぎゅっと押し潰されたように苦しくなって、ドクンドクンとした動悸が襲ってくるだけだった。

「はぁぁぁ」

春千夜君は盛大な溜息を吐くと共に私の頭をガシッと掴むように撫でると、早々にベットから降りスーツに着替えていく。テキパキと慣れた手つきで最後のジャケットを羽織ると、春千夜君は私の方を見ずに部屋を出て行ってしまった。固まっていた私の耳に届いた音はパタンと虚しい玄関を閉めた音。


…え?それだけ?…え?終わった?


室内には暖房の風の音だけが音を鳴らしていて暫くベッドの中で私は放心状態。私の大好きな春千夜君の香水の匂いだけがまだ室内には残っていて鼻の奥がツン、と痛んだ。ベッドからムクリと起き上がり足を降ろして無操作に落ちている服を手に取り着替えていく。

終わったんだ。呆気なく終わっちゃったんだ私の恋は。
春千夜君に別れようと告げたのは自分のくせに、少しぐらいは悲しい顔をしてくれるかもとか、あわよくば別れたくないだとか言ってくれるかもしれないと期待したけれど、そんな事は何にも無かった。

スウェットに頭を通せばぶわっと目から溢れ出る涙。こうなる事も頭内では理解出来ていた筈なのに、別れはやっぱり辛いものだ。そもそも春千夜君は私の事を好きでは無かったのかも知れない。私がしつこく春千夜君に毎度迫っていたから仕方なく付き合ってくれていたのかもしれない。結局の所、好きなのは私だけだったのかと思えばスウェットの袖にはポタリと染みが出来る。

「…はるちよ君」

名前を呼んだって、返事をしてくれる春千夜君はもういない。言わなきゃ良かったと後悔したってもう遅いのだ。





次の日の私はちゃんと仕事に行った。働いている方が春千夜君の事を少しでも忘れられると思ったからである。労働時間中は忙しいこともあってほんの少しは気が紛れ、あっという間に業務時間は終わりを告げる。こういう日に限ってノー残デーだから皆帰れと上司が元気良く言うから帰る他ない。

春千夜君と別れたからといって、次の日から激的に状況が変わった訳でもなく、いつも通りの毎日と何ら変わらない。でも会社を出て一人になった私は、また春千夜君を思い出しては深いため息が出て足なんて鉛のように重かった。会社ではちゃんと笑えていたのに、一人になるとまた泣きたくなってしまう。

やっと着いたアパートの目の前で私の足は立ち止まる。住んでいるアパートは二階建て。すっかり暗くなった外に私の部屋から明かりが漏れている。

電気消し忘れたっけ?それとも泥棒?タラりと嫌な汗を掻きながら、早足で自分の部屋の玄関まで歩を進める。念には念を、と いつでも警察に電話を掛けられるようにスマホを握り締め玄関を開けるとそこには見慣れた靴が一足。

「は、はるちよくん?」

彼の靴だと分かると早足で玄関からそう遠くはない自室のドアを開けてみる。すると狭い室内で腰を下ろし座っている春千夜君と目が合った。

「え?なっ、えっ?なんで春千夜君がいるの?」
「あ?彼女の家に来ちゃワリィのかよ?」
「いや、悪くない…けど、どうやって入ったの?」
「あん?テメェがいつでも来ていいとか言って合鍵渡してきたんだろうが」

春千夜君は私の部屋の合鍵をプラりと目の前に翳す。
確かに私は春千夜君に合鍵を渡していた。私が寝ているときでもいつでも好きなときに来てもいいよっと付き合ったばかりの頃に。だけど春千夜君がその鍵を使って私の家にいるってことは一度もなかったから、この状況に私はただ驚いている。その場に立ちすくんでいる私に、春千夜君はまるで自分の家かのように座りながら、こっちに来いと人差し指を隣に指す。

「春千夜君、私たちお別れしたんじゃ…?」
「はぁ?何言ってんだ俺了承してねェだろ」
「いやでも…昨日春千夜君帰っちゃったじゃん」
「どうしても外せねェ急ぎの仕事があったんだよ。仕方ねェだろ」

仕方ない?仕方ないのかな?それだったら1回くらい連絡を入れてくれても。中々その場を動かない私に春千夜君は小さな舌打ちをすると、いつもの自信に満ち溢れているはずの春千夜君の眉は下がり、目線を逸らすも困ったように陰りのある表現を浮かべた。


「……別れるなんて言うなや」





私の隣に座っている彼はいつも通りスーツをピシッと決めて、桃色の髪色がこれでもかってぐらいに似合っちゃって、口元の傷跡ですら格好良く思えてしまう。つまりどんな春千夜君でも全てかっこいい。出会った頃と思う事は何ら変わりない。起きるとたまにピョンと跳ねた寝癖は言うと怒るから内緒にしているけど可愛く思うし、偶に仕事の関係か機嫌が悪い時の怒っているような顔付きだって嫌いじゃない。だけど今こんな柄にもない表情を浮かべている春千夜君は初めて見るわけで。私は羽織っていたコートを脱ぐこともせずに春千夜君の横に小さく座りながら口を開く事が出来なかった。

「…お前なんで俺と別れてえと思ったの?」
「…えっと」

春千夜君は焦らせる訳でもなく、無理矢理聞こうとしている訳でもなくただ私の返答を待っている。お互いが座っている距離感が今の自分達を映しているようで否めない。春千夜君はそれが気に食わなかったのか、腕を伸ばして私との距離を密着させる。春千夜君のスーツからふわりと香る香水の匂いは私の大好きな匂いでギュッと唇を噛み締めた。

「…昨日まだ俺のこと好きだとかなんとか言ってたけどよォ、だったら何で別れるっつー選択肢になんの?…考えたけどさァわかんねェんだわ」

自嘲気味に小さく笑いながら横目で私を見る春千夜君はいつもの春千夜君じゃない。いつもの春千夜君はもっと余裕があって、私の事を軽くあしらって、子供扱いをするような人なのに。今はまるで不貞腐れてしょんぼりしているただの男の子のようだ。

「…怒んない?」
「お前に怒ったことなんか一度もねェよ」

ちょっぴり困った顔をする春千夜君に胸の奥に鈍い痛みが走って泣きそうになった。知らぬ間にコートを掴んでいた手に力が入り、春千夜君を見たら泣いてしまいそうで顔を下へと俯かせる。

「…本当はね、春千夜君にもっとワガママ言いたくなっちゃって、春千夜君と付き合った頃に約束したから守らないとって分かってるのに…もっと一緒にいたくって…」

春千夜君の私の肩を抱く力がほんの少し強まる。言葉が途切れ途切れになる私に咎めることなんかせず、春千夜君は静かに私の言葉を待っていた。

「それでね…好きって言って欲しくて…春千夜君て、えっエッチしたら帰っちゃうし…私のこと好きじゃないのかもって、不安に思っちゃって…」
「は?」
「セフレと変わんないなって思ったら…初めから無理矢理付き合ってもらったようなものだったし…別れた方がいいのかなって」
「オイオイちょい待て」

私の言葉を遮り顔をそろりと向けると眉間に皺をぐぅっと寄せた春千夜君が目に映る。

「やっやっぱり怒って」
「怒ってねェよ全然」

抱き寄せていた手を春千夜君は私の背に回しぎゅうっと力を込める。

「…なんかねェよ」
「…へ」
「あー…だからお前をセフレだなんてクソなこと思ったことねェし、無理矢理付き合ってやるなんて俺がンな面倒臭ェことする奴に見えんのかよ」
「それは、その」
「お前、俺のこと何にも分かってねえのなぁ?」

その言葉に心臓が抉られるような感覚がして言ってしまったことに後悔が襲ってくる。だって春千夜君の過ごした時間は短すぎて、知りたくても全てを知る時間が無いんだもん。滲んだ私の目が春千夜君の目と視線が合わさると、春千夜君はギョッと大きく見開いた。

「オイ泣くな、泣くんじゃねぇ!ちげェ、そういう意味で言ったんじゃないわ。あー、っと…俺の言った言葉でお前が悩んでたのは悪かった。好きでもねぇ奴いつまでも隣に置いておく程出来た人間じゃねぇよ俺は」
「ぁうっ…」
「あホラ、泣くなって」
「うぇっ…ふぅッ」

背中をポンポンと宥めるように叩く春千夜君の声は少し焦っているように思う。泣くなと言われると余計に涙が流れて来てしまう。 春千夜君が私にこんな気持ちをさらけ出してくれることなんて初めてだし、こんな優しく私を扱うのも初めてだったんだもん。

「連絡取れねぇのも悪かった、寂しい思いさせてんのに一緒にいてやれなくて……謝るから…頼むから俺と別れるなんてこの先絶対ェ言うな。…俺はお前を…離してやる事なんか出来ねェよ」

消え入るような声で放った言葉は私の耳にちゃんと届く。春千夜君式言わなくても分かるだろ精神を全て会得するにはまだ少し時間がかかるらしい。やっぱりお付き合いをする上で、お互いの気持ちをちゃんと理解したいし、言いたいし、言われたいし、春千夜君がどんな風に私を思っているのかもっと知りたいのだ。

「っはるちよ君、好き…だいすき」

春千夜君の目が一瞬大きく見開くと、直ぐに安心したのかのように彼の口元はいつもと同じく弧を描くように笑った。

「かぁわいい」
「えっ!」

思考回路が停止し、顔は瞬く間に赤くなっていく。だってだって嬉しくて仕方が無い。こんな言葉普段なら絶対に言ってくれないのに素直に吐いた春千夜君が信じられない。ポケッと思考停止して動かない私に、春千夜君は着ていた私のコートを脱がすと、洋服の中に大きな手を忍び込ませてきた。

「あっ待って!今それどころじゃないっ、嬉しくて堪んないの!ちょっ、まってってば!」
「あ?俺はそれどころあんだよ、仲直りすんならえっちすんのが一番だろうがよ。春千夜君が素直になってやるって言ってんの。お前もこれからはもっと我儘言えや。仕事も大事なのは変わりねぇけどさァ、」
「やっ、…ちょっはるちっ」
「お前の為なら苦じゃねぇワ」

遂にキャパオーバーしてしまった私を春千夜君は愉しそうに目元を細めてカーペットに優しく寝かせる。彼の長い睫毛が揺れると同時に私の口も閉ざされた。

今日も相変わらず寒いのに、私のお腹に触れる春千夜君の手は暖かくて気持ちが良くて、抵抗なんてまるで意味がないもののようにされてしまい、春千夜君のペースに飲み込まれてしまうのだ。私を見つめる春千夜君の熱を帯びた瞳は、私をまた深い沼底まで簡単に落とし込んでいくのだから堪らない。別れるだなんてとんでもない。春千夜君の事が大好きで仕方がない私は、この先何があっても春千夜君の事が好きだと言えるだろう。


「可愛いよ、お前は。…可愛くて可愛くて…ほんっとに俺の手で殺してェぐれぇ……愛してるわ」


耳を疑う程に甘過ぎて蕩けそうになる快楽とその声音、そして私が一番聞きたかった言葉よりも随分とランクが高いその言葉に、キスによる離れた唇のせいで息がしにくいのか、はたまた心臓がギュッと掴まれて息が詰まってしまったのか、分からない。


「どんだけお前の事が好きかたっくさん時間かけて教えてやっからよォ。そうすりゃ不安なんてクソつまんねぇモンもなくなんだろ」


長い指先は私の喉元へ止まりほんの少しだけ春千夜君が力を込める。てかった薄い唇をペロリと舌なめずりした春千夜君に、私は唾をゴクリと飲み込んだ。





−−−−−−−−


「あっ」
「ん…どうしたの?」
「ゴムねェわ…ナマでヤッていー?」
「いっ良いわけないじゃん!だめっそれは絶対だめっ」
「ここまできておいてお預けはねェだろが!俺が死んでもいいのかよ?おめぇ泣くだろ、あっおいっ足閉じんな!」
「…な、くけどダメ!そんな事で春千夜君は死なないって!あッ、ダメだってばッ」
「はぁ?ダメダメェはしてしてって意味合いなのお前知らねぇの?」
「しらないっそんなの初めて聞いたよっ!!」




「……責任は取ってやるから俺を死なすんじゃねェって言ってんの。そんくれェ理解しろやバーカ」






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