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夜遊びし慣れていない私が友人に連れられ初めてクラブという場所に出向いたときのこと。耳から鳴り響く重低音と、狭い室内に集う人の窮屈さに圧倒され、そのまま「はいお水」と知らない人に渡されて飲んだものは無色のアルコールだった。圧迫された狭い空間と体内に流れ込んだアルコールのせいで私は数時間もしない内に酔ってしまい、今にも胃から嘔吐しそうな感覚を両手で必死に押さえ込んだ。覚束無い足取りでなんとかクラブの外へ出ようとしたとき、前をよく見て歩かなかったせいで人にぶつかってしまった。それが蘭ちゃんだった。

「すっすみませっ」
「あー、青白い顔してっけど大丈夫ゥ?」
「は、吐きそおっ…うっ」
「トイレこっちなんだけど、歩けそ?」

うっぷともう喉のスグそこまで来ている気持ちの悪い感覚に、蘭ちゃんは見ず知らずの私の手を引きトイレまで連れて行ってくれたのだ。

吐き終えて未だゲッソリしている私を蘭ちゃんはトイレの外で待っていてくれていて。初対面の人に対する蘭ちゃんの優しさと申し訳なさと自分の失態に恥ずかしくて泣きそうになった。

「本当にすみません…」
「別にいーよ。それよかちゃんと吐けた?まだ気持ち悪そォだけど」
「さっきよりは…平気、です」

多分このときの私は寝起きと同じくらい顔は不細工だったと言っても過言では無いと思う。蘭ちゃんはそのまま音の響く室内へと行く訳でもなし、「外の空気吸った方がいんじゃね?」と私の手を引き店の外へと連れ出してくれたのである。窮屈な空間から一点、外の空気を吸い込んだ私は数分経つとかなり体が楽になり、その間も蘭ちゃんは何故か私の側でずっと付き添ってくれ、私にペットボトルのお水まで買ってきてくれた。

「ほんと私、知らない人に…ハァ。すみません」
「だから別に良いって。こういうとこ初めて?知らん飲みモン勝手に飲んじゃダメなぁ?変なの入ってる場合あっから」
「へっ変なの!?」
「そ。だから気ィつけろよ?はい、水あげる」
「あ、ありがとう…ございます」

ゴクリと手渡されたお水を飲めばひんやりとした冷たさが喉に伝ってそれがとても心地良かった。落ち込む私に蘭ちゃんはにっこりと笑うものだから、余計に申し訳なさが募ってしまって、もう絶対にお酒は飲みたくないと思った瞬間でもあった。

「あの私、なまえって言うんですけど。その…何かお礼をしたいのですが」
「お礼なんか別にいらねーよ。たまたまあの場にいただけだし」
「いや!でもお水まで買って貰ってトイレまで連れて行って貰ったし」
「んー…」

蘭ちゃんは少し考えた素振りを見せたかと思うと、私の方へ顔を向け首を少々傾ける。綺麗に結われていた三つ編みがほんの少しだけ揺れると私の心臓は少しばかりドキン、と音を奏でた。

「じゃあ付き合ってくんね?俺、お前に一目惚れしちゃったかも」
「へ??」

これが私と蘭ちゃんのお付き合いの始まりである。





出会って数時間も満たずに始まったお付き合いは、初めは単なるお遊びにされるかなと高を括っていた。しかしそれは私の見当違いだったようだ。蘭ちゃんはどちゃくそに愛が重い男だったのである。付き合いもそこそこ、お互いを知れば知るほど、彼の重たい愛情はどんどん月日を追うごとに積み重なっていくばかり。初めはそれだけ愛されているのだと実感が湧き嬉しくて、彼が大好きだった故にその異常さを何とも思ってはいなかった。友人達は皆口を揃えて「私だったらムリ」と言ったけれど、私はその言葉に耳も貸さずあんな良い男に愛されてるのに!?とか思ってしまう程には蘭ちゃんが好きだったから。

愛が重たいと言ってもその度合いは人それぞれだと思う。蘭ちゃんは束縛が激しく執着心が強いタイプ。男は勿論、女友達と連絡を取るのでさえ最近は良い顔をしなくなり、蘭ちゃん以外の人と出掛けるのを嫌がった。女友達だからと何度言っても自分を一番に見ていて欲しいからダメだと一点張り。私が異性と話して許されているのは唯一の彼の弟、竜胆君だけである。

「なまえには蘭ちゃんがいれば十分じゃん?」
「友達と遊びたい?俺がお前の行きたい所全部連れてってやってんじゃん何が不満なワケ?」
「は?買い物?俺がいねェのにナンパでもされたらお前どうすんの?」

こんな事は日常茶飯事、いつも遊びに誘ってくれていた友達は私がことある事に断りをいれていたせいで今では滅多に誘われなくなってしまった。私はそれに泣き、蘭ちゃんは嬉しそうに笑う。しかし私が蘭ちゃんに強く反論する事も、またや離れる事もしなかった。この時の私もまだ蘭ちゃんが好きだったからである。

こんな事が続いて早数年、彼はいつの間にか犯罪組織の幹部というとんでもない立ち位置になり、私はというと彼の家に自然と転がり込むような形になってしまった。そしてあれだけ私のことは縛っているのにも関わらず、仕事を終えた蘭ちゃんのスーツからは女物の甘ったるい香水の匂いがする事が途端に増えた。

「蘭ちゃん女物の香水の匂いするんだけど。これ私の物じゃないよね。なんでかな?」
「あ?仕事だよ。今日キャバに金の回収行って来たからそンときのじゃねェの?」
「そっかぁ…」

「ねぇねぇ、最近朝帰り多くない?」
「仕事が忙しくてさァ、九井が帰してくんねェの」
「それなら仕方ないね……」

「えっ!今から仕事行くの?ご飯一緒に食べるって言ってたのに?作っちゃったよ!?」
「仕事の呼び出しィ。蘭ちゃん嫌になっちゃう」
「…………」

蘭ちゃんの口から悪びれも無く出る「仕事」というワード。いや、本当に仕事かもしれないけれど何でもかんでも流石に仕事で片付けるのって流石にどうなの?

そしてこの不満が徐々に徐々に募っていき私たちは喧嘩に至ってしまったのだ。

「だからそれはダメ」
「何で!?別に良くない?どうせ蘭ちゃんだって帰り遅いじゃんか!たまには私だって外で友達とご飯食べに行きたい!」
「だからそれは仕事だって、仕方ねェだろ。飯なら今度俺か竜胆が連れてってやるから」
「仕事仕事仕事っ!そりゃあ毎日お疲れ様と思うよ!?この際だから言わせて貰うけど、いっつも同じ香水の匂い蘭ちゃんからしてるの気付いてる!?仕事先で同じ甘ったるい香水皆付けてんの!?」
「はぁ?ンな訳ねぇだろ。っつか何そんな怒ってんの?寂しいワケ?」

蘭ちゃんの言葉が私の耳を通過したとき、スっと怒りの感情が消え失せていくのが分かった。人の事を縛るだけ縛っておいて、自分は好きな事をやっているクセに何だこの男は。一瞬にて蘭ちゃんへの思いが冷めていく瞬間だった。

「……たい」
「はぁ?何言ってんのか聞こえねェんだけど」
「蘭ちゃんと!別れたいって言ったの!!もう無理だわ!普通に無理無理!自由になりたい!」
「別れるなんて許すワケねぇだろ何言ってんのお前」
「何言ってんの?はお前の方だろうが!好き勝手やって私だけ縛りに縛って何様だよ!限界っ!ついていけんわ!今までどうも素敵な思い出をありがとう!!!」
「……は?」

ポカンと口を開ける蘭ちゃんに私は着ていたエプロンをほおり投げる。仕事へ行くつもりだった蘭ちゃんはそのまま玄関で石のように固まっている。私がこんな汚い口調で口を開いたのは初めてだったから驚いているんだと思う。だけどそんな事は知らない。そのまま玄関で固まる蘭ちゃんを放置し、寝室からバッグを取り出すと蘭ちゃんに家の鍵をそっと無理矢理持たす。

「もう来ることはないから。さようなら!」

それだけ言って私は玄関のドアを閉めたのである。





言ってしまえば別れたあと、付き合った年数もそれなりに長くなっていた蘭ちゃんに対し落ち込むのかなと思っていたがそれはとんだお門違いだった。私は今、人生で一番楽しくて仕方の無い毎日を送っていた。蘭ちゃんからは連絡は来ていない。あれだけ言ってやったのだ。今頃ふっ切れて他所の女と宜しくやっているのだろう。それでも私は何とも思わなかった。

別れた直後に友達へ速攻連絡を取れば、長年遊べなかった私にも心優しく付き合ってくれた。持つべきものは男よりも友だと感じずにはいられなかった。ずっと行きたかったショッピング、ご飯や飲み方を知ったお酒。それにカラオケ等等。成人してからまともに外に出れなかった私は、今になって青春を取り戻すかの如く遊びまくっていた。なんでもっと早く別れると言わなかったのだろうと後悔をしてしまう程に。

蘭ちゃんの帰りを待つ時間は長かったのに、友人と遊ぶ楽しい時間はあっという間で悔しい程早く過ぎ去って行った。街のショーウィンドウに映る自分はそれはもう目の前にお花が飛んでいるかのように生き生きとしているように見えた。

蘭ちゃんと結婚という形になる前で心底良かったと心から思える。きっと結婚なんてしてしまっていたら私は窮屈すぎる毎日に息が詰まって死んでしまっていたのかもしれない。そうなる前で良かった良かった。











「り、りんどー君じゃないすか〜」
「よォ、なんか雰囲気変わった?」

ショーウィンドウに映る自分の背後、クラクションを鳴らされ振り向けば黒塗りの車に乗った別れた男とソックリのお顔の彼がこちらを見てにっこりと笑い手を振っていた。






「つれ、連れ戻しに来たんですか?」
「それは兄ちゃんから頼まれたけど断った」
「えっ!まじで?ああいえ、ほんとですか?」
「今更敬語やめて?寂しいじゃん」
「あ…ウン」

乗ってと言われて若干ビビりながら車の助手席に乗れば、連れてこられたのは居酒屋。個室に通され、私と竜胆君は正面を向き合う形で腰を降ろしていた。

連れ戻しに来た訳じゃないのなら何の為に竜胆君は私と酒を酌み交わしているのだろうか。その警戒さが顔に出ていたのか竜胆君はぷぷっと吹き出した。

「ただなまえが窓ガラスじっと見つめてんの目に入ったから声掛けただけ」
「そそそっかぁ〜ははっ、恥ずかし」

たらたらと冷や汗を掻いて私はそれを消し去るように酒に口付ける。まさか同じ都内に住んでいるにしても蘭ちゃんの弟に出会ってしまうとは…。今度から気をつけなければ。

「でさ、兄ちゃんと喧嘩して家出してんだろ?泊まるとことか大丈夫だったワケ?」
「え?まぁ泊まるとこは安いホテル泊まったり友達の家に泊まったり」
「はぁ?ンなの兄ちゃん知ったら余計怒りそうだけど。っつか言ってくれりゃ俺部屋借してやったのに」

頼んだ枝豆を口に含みながら竜胆君はふんわりとさり気なく言う。昔から思っていたけれど、竜胆君はこういうさり気ない所が優しいなぁなんて思うと感傷的になり鼻がツン、となる。

「ありがとう。でも流石に別れた元彼の弟にお世話になるのはね。気持ちだけ受け取っとく」
「……は?」
「ん?」

竜胆君の口からポロンと枝豆が1粒転げ落ちた。あっ、と思ったのもつかの間、竜胆君は落とした枝豆なんか気にもとめずに苦笑いを浮かべる。

「別れたって…離婚したワケ?」
「はい???」
「はいってお前、兄ちゃんと結婚してんじゃん」
「んん?? ケッコン?してないしてない!え?何で?してないよ!?」
「いやしてるだろ。俺証人になった覚えあっけど」

はて、それは誠の話だろうか。ぜっんぜん知らないしそんな話は蘭ちゃんからも聞いた事が無ければ身に覚えもない。何その冗談やめてよ竜胆君。しかし竜胆君の表情は至って真剣でとても嘘をついているようには思えなかった。顔はみるみる青ざめて放心状態の私に、竜胆君は個室の襖が開いた音がしたかと思うと顔を歪める。そして私はその声に体がビクッとこれでもかというくらいに跳ね上がった。

「竜胆ォ、なまえ見つけたら即連絡寄越せって言ったよなァ?」
「ヒイッッ!!」
「兄ちゃん…ンな事よりもコイツ結婚してねぇとか言ってっけど?」
「はぁ?お前サイン書いたじゃん。俺と二人で酒飲んで酔っ払った後に。お前は俺のヨメだよ」
「は、はぁ?いつの話!?知らない!私そんなの知らないよ!?」

竜胆君は「アホくさ」と言って席を立ち上がる。待って、行かないでっお願いだから!その言葉は口から出ることは叶わず竜胆君は面倒くさそうに去って行ってしまう。シン、と静まり返った個室に別れたと思っていたはずの私と、結婚していると言う蘭ちゃん。まるで意味が分からない。すると蘭ちゃんは私の隣にそっと座り言うのだ。

「お前が言ったんじゃん。"こういう道進んだら蘭ちゃんと婚姻届きっと出せなくなっちゃう!だから今のうちに蘭ちゃんのお嫁さんになりたいの!"ってさぁ。だからこうなる前に婚姻届出し行ったのになに、お前マジで忘れちゃってんの?俺的にかなりショックなんだけどぉ?」
「あ、いや!?ほんとに覚えてな…あ?」

蘭ちゃんの顔を見て私は言葉に詰まる。にこにこと余裕のある笑みを浮かべる男。あの頃は20代そこそこ。お酒をもう飲まないと決めたあのクラブの日からそんなに年月は経ってはいなかったはずだ。今でこそ自分の飲める最適な量を覚えたが。

…私きっと嵌められたんだ。酔わせて結婚したいと私に言わせるように蘭ちゃんは仕向けたんだ。独占欲が人一倍強い蘭ちゃん、それくらいの事は安易に考えられたはずだ。頭の思考回路がもはやショート寸前、口をポケッと開く私に蘭ちゃんはふふっと笑うと、長い自身の指で私の頬を擦るようになぞった。

「わ、わたしをワザと酔わせた、の?」
「んー…、どうだったかなァ?」

そうだ!この蘭ちゃんの顔は絶対にそうだ!愉しそうに、人を揶揄うように笑うこの顔は、絶対に当時のことをよく覚えているという顔をしている。伊達に長年この男の隣にいた訳ではないのだ。これくらいの事ならば私にでも分かる。

「でもさぁ、俺もあれから反省したワケよ。お前に寂しい思いさせちゃったなーとか不安にさせちゃったなぁとかさ。長く一緒に居ンのに俺がお前に依存しすぎだって竜胆に怒られちゃったワ。もうちょい信用してやればって。…女の事も本当にゴメンなァ?もうお前が悲しむようなこと二度としねぇから。友達とも好きなときに遊びに行ってもいいよ。お前が楽しいと思うンならそれでいい。俺、もうお前がいない家に帰んの寂しくて寂しくてマジで死ぬかと思ったの。だから別れたくねぇ」
「…らんちゃん」
「二週間の家出生活は楽しかった?」
「うん…すっごく楽しかったよ」

蘭ちゃんは家を飛び出した私に怒るわけでもなく、またや皮肉めいた私の返事にも怒っているようにも見えなかった。私の頬を撫でていた指でそのまま私の頭を撫でる。そしていつも私が大好きだった笑顔を向け穏やかな口調で言うのだ。

「そ?そんなら良かったワ。んじゃなまえ、俺らのオウチに一緒に帰ろうな?」
「あ、えっと…」
「ん?」













「り、離婚して下さいっ!出来れば今すぐっ!!」






「は?……何でそうなんの??」

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