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少年院に入っていた頃、更生の一環として読書活動という時間を取らされたことがあった。普段雑誌や漫画なんかはよく目を通していたがここにそんな物がある筈は無く、ブックスタンドに並んだ小説を一冊適当に取り出した。それぞれ色んな箇所から紙の擦れる音が聞こえ、横にいる兄を見ればつまらなさそうにペラペラとページを捲っている。それもそうだ、小説なんか読むことは小学生以来。あの時はまだ母と暮らしていて、本が好きだった母はよく俺らに絵本やら児童文学の本なんかをよく読ませていたが、兄と二人暮らしするようになってからはこんなずらずらと文字が並んだ本とは無縁な生活をしていたのだから。

適当に読んで時間を潰そうと思ったとき、ある一文が俺の目を引いた。

"恋は交通事故みたいなもので、望むと望まないとにかかわらず勝手にやってくるものだ"

他の文章は頭に余り入らなかったのに、この文章だけは何故か覚えていた。何が俺の中を動かしたかは分からないがこの文章だけは年少を出た後もずっと頭に残っていた。





年少を出て数ヶ月。あの頃と変わらない六本木に安堵しながらも毎日夜な夜な兄と街に繰り出ては遊んで喧嘩して、朝方帰ってきて昼まで寝るという生活を繰り返していた。それはそれで楽しいが、最近の俺はそんなことも言ってられなかった。

「兄ちゃん、俺もう行くからな」
「あ〜?んー、もう行くわけ?」
「行く。兄ちゃんの飯作ってあるから食べろよ」
「ん〜〜」

ベッドから兄が半分寝ながら返事をする。あ、これ聞いてないやつだなんて思いながら携帯を見ると時間が刻々と迫っていることに気が付いて、俺は焦って玄関のドアを開けた。





定時制高校。別に勉強なんかは昔から好きでは無かったし、必要かと聞かれたら自分の未来には必要ないのかもしれない。だが18にもなって馬鹿とこの先思われんのもなって理由のほんの気まぐれだった。そんな俺を兄は「学校?めんどいし無理だって」と笑ったが、通信制は選択式で昼間、夜間と分かれている為これなら自分の時間も取れるしと思い定時制を受けたのだ。

定時制には色んな年齢の奴がいる。良い歳した大人から俺ぐらいの奴だったり16歳から入る年相応の奴。そんな中でいつも俺に話しかけてくる女がいる。この学校は自由席で空いた席はいくらでもあんのに何故か俺の隣に毎回座ってくるのだ。

「おはようございます!竜胆さん!今日は私の方が遅刻しちゃいそうでしたねっ」
「…はよー」

ニコニコと屈託のない笑みを浮かべるなまえは、入学当初からこんな感じだ。最初は彼氏でも作りたい女が近づいて来てるのかと思ったが、話している内にどうもそんな感じは無くその考えは徐々に消え失せていった。いつものように俺の隣に座ると彼女はコンビニで買ったらしきミルクティーとパンをコンビニ袋から取り出す。

「飯食ってねぇの?」
「はい!今日寝坊したので朝ごはん食べる時間無かったんです。あ、食べます?」
「いや、いらねぇ。バイト忙しかったん?」
「ん"ん"!…昨日は…アニメ見てたら夜更かししちゃって…」

えへへと恥ずかしそうにはにかみながら彼女はパンの袋を開ける。頬杖つきながらそんな彼女をちらりと見ると、小さな口を開けて美味しそうにパンを頬張っているからつい頬が緩んでしまった。

「竜胆さん、今笑いましたね?私ばっちし見ちゃいましたよ!」
「ばっちしってお前。朝からウマそうに食ってんなって思っただけだわ」
「…やっぱり食べます?」
「いらねぇ」

彼女は不思議な子だった。少し天然というかズレているというか…雰囲気がふわふわしている気がした。忘れ物も多いし、何にもない所でコケそうになっていたり。そんな彼女を見ていると少し心配になったりもする。変な男に引っかかって簡単に捕まってしまいそうで。そう思った頃にはとっくに俺は彼女への恋心を自覚していた。

「お前今日バイト?」
「そうです。学校終わったらそのまま直行しますっ」
「じゃー送ってってやるよ」
「えっ!?だだだ大丈夫ですよ!一人で行けます」
「駅前んとこのファミレスだろ?俺もそっちに用あるから丁度良いじゃん」

本当は用など無い。しかし彼女が前に道中ナンパされて困った事を聞いてからいても立ってもいられなく、どう理由をつけて着いて行こうか考えていたのだ。

彼女の親は片親らしい。母子家庭で育った彼女は一人っ子で、夜は働きに出る母に少しでも楽をさせようと定時制を選び、学校が終われば金を稼ぐ為にバイトをしていると前に聞いた。ただの気まぐれで定時を受けた自分と、16歳という年齢で母を思いながら生活する彼女に、心の中で俺ってダッセェと思ったのは今でも変わらない。





昼過ぎに学校は終わり、二人並んで歩く道になまえは頬を染めて俺の横でちょこちょこと歩を進めていた。いつも元気に話しかけてくる奴が顔を染めて恥ずかしそうにしているのなんかみると、つい可愛いなって思ってしまうのも無理はない。

「り、竜胆さん、私かなり緊張していますっ」
「見りゃ分かる。つかそんな緊張されると俺まで緊張してくんだけど」
「ええっ!?竜胆さんでも緊張するんですか!?」
「お前、俺の事何だと思ってんの?」

彼女は口にした言葉通り相当緊張しているのか表情や仕草がぎこちない。まるで小さな飼いたての小動物を見ているみたいで俺の口元はゆるりと笑ってしまう。こんな感覚初めてなのだ。彼女の素振りを見る感じ、きっと男とこうして歩いたりするのは初めてなのだろうと伺える。そう思えば嬉しく感じて胸は高鳴り、この先彼女の隣を歩くのが自分であれば良いのにだなんて思えてしまうのだ。

「いや、竜胆さんは何て言うか……うん、そうそう。女の子に慣れていらっしゃるような感じがするので」
「はぁ?それどういう意味だよ。別に普通だわ」
「すっすみません!竜胆さんって、か…かっこいいから」
「っは!?」

彼女と呼べる程のものでは無いかもしれないが、女が確かに過去にいなかった訳ではない。格好良いと言われるのも初めてではないのに、なまえに言われたということにひどく喜びを感じて照れ臭くなった。きっとだらしなくなっている顔を見られぬように彼女の小さな頭に手をやり艶が掛かった髪を掻き回した。

「うわっ、何ですかっ」
「うっせ……ってかお前がいいならさ」
「はい?ああっ、もうっ髪がボサボサになりますって!」
「あー……」
「りんどうさん?」

一瞬、まだ言うときではないと頭の中での俺が囁いたが、俺の手を小さな手で持ちながら顔を覗き込むなまえを見たらやっぱり我慢出来なかった。

「……俺の彼女になってくんない?」
「………はい?」

自分から告白したのなんて生まれて初めてだった。こんな普通の道で、こんなムードも無く、告白するつもりなんて毛頭無かったのに…してしまった。兄が見ていたらきっと指を指して笑ったに違いない。なまえの俺を見る大きな瞳が更に大きく開いていて、口が間抜けにあけている。その顔すらもどうしようも無く可愛いなと思えてしまって、愛しいという感情が俺の中で膨らんでいった気がした。

「うっ嘘!竜胆さんが私を好きになるなんて!マジ止めて下さいっ!そういうの傷付くんでっ!!」
「あ!?嘘じゃねぇし!…あー…んー、俺さ本気でなまえが好きなんだけど……ダメ?」
「……後々嘘だったら死んじゃいますよ?わたし」

ボソボソっと口を小さく尖らせながら上目で見る彼女の顔は鼻まで真っ赤だ。多分これが彼女なりの返事なんだろうと思ったら、嬉しいのと斬新過ぎる彼女の反応に人生初の告白だったというのにも関わらずプハッと笑いが込み上げてきてしまった。死んじゃうって大袈裟過ぎんだろって言えば「本当ですもん!」と赤面しながら恥ずかしがるなまえを絶対に幸せにしようって思えた忘れられない日だった。








彼女と"お付き合い"ってのが始まってから、俺の知らなかった彼女を見れるのが俺の楽しみの一つになった。なまえは人前じゃ明るく毎日振舞っているが、本当は寂しがり屋で毎回デートの後は必ず寂しそうな顔をする。そんな彼女が心底愛々しくてこれを計算でやっていないのだから他の男に捕まる前に俺と付き合ってくれて良かったと安心する。

彼女の初めてを貰ったとき、俺の部屋のカーテンを締め切ってはいてもカーテンから漏れる陽の光のせいで彼女の表情が伺える。今日まで俺が見てきた中で一番真っ赤に顔を染め上げているのが直ぐに分かった。俺がきっとそのことを言えば彼女は瞬く間に"この話は無かったことに!"とか言いかねないから黙っていたけれど。

「り、竜胆君、私…こういうの初めてで」
「うん。じゃなきゃ驚く」
「うぅ…」

布団を握り締めながら彼女は体を隠す。好きな女が俺に今抱かれようとしていて、恥ずかしがっている姿に堪らなく興奮して唾を飲み込んだ。そっと彼女のふっくらした唇に自身の唇を重ねてみればそれだけで体が強ばるのを感じて、あぁ壊さないように優しくしてやらねぇとって思った。とは言っても可愛い彼女が裸で目の前にいるってだけで自分も結構緊張していたし、余裕も無かったからそれを彼女にバレないようにするのにも必死だった。

自分も服を脱いだ時、俺の半身に描かれたタトューを見て彼女は目を見開く。その顔を見て、ヤベっと思った俺は急いでまた服を着ようとしたのだ。

「やっぱ怖ぇよな。ゴメン、こんなん見せて。服着っから」
「えっあっ、違うよ!?そんなんじゃなくてこういうの私初めて見たから凄いなぁって思っただけでっその……えと、どんな竜胆君も、好き…なので」

服を着ようとした手を彼女は引き止めるように俺の手を握る。いつも俺から好きを伝えることが多かったから、珍しく自分から言ってくれた気持ちに、舞い上がってセーブしていたものに歯止めが効かなくなりそうになった。

「あーもう、余り煽んなよマジで。ほんっと、ヤバい」
「あっ、竜胆君!布団取らないでっ」
「…お前が悪いの」

行為中の彼女は今までで自分と関係を持ったどの女よりも美しく愛くるしかった。俺の名前を呼ぶ度に理性が保てなくなりそうで怖いほど。好きな女とするセックスってこんな気持ちが良いんだなって素直に感じたし、俺がなまえに対しての好きという感情も増していった。俺って今まで幸せって感情を知らなかったんだなって思う。



「りんど、君」
「んー?」

結局少し無理をさせてしまった彼女に反省しつつ、薄暗い部屋で彼女の髪をさらりと撫でていれば、なまえは俺の名を呼ぶ。

「竜胆君は、私が初めてじゃないんだよね?」
「あー…わりぃ」
「あ、違う!そうじゃなくて、それは分かってたんですけど…」
「ん?」

モジモジと仰向けにしていた彼女は俺の方へと体の向きを変えくっつく。彼女の体温が暖かくまるで子供みたいだ。なまえはぺたりとくっついて顔を俺の胸に疼くめた。

「竜胆君の初めてにはなれなかったから…えっとぅそのぅ」
「ん?何?教えろよ」
「さ、最後の人になれたら良いなって思うよっ!?」

「ああ〜っ!」と滅茶苦茶に恥ずかしがりながら俺の体にぎゅうとしがみつくように力を込めるなまえ。今の俺、多分今までで一番かっこ悪い顔してると思った。だってそれってさ、逆プロポーズに近いもんがあるじゃん?もうそう思ったらどうしようもない気持ちが膨らんでいってなまえを抱き返せば「あうっ」と小さな声が彼女の口から漏れる。

「ッお前ほんと最高。なんで疑問形なんだよ」
「わ、分からんであります…」
「ふははっ、可愛すぎ。じゃあさ、俺はお前の最初で最後の男な」

そう言った俺に、今度はなまえが耐えられなくなったのか布団の中に頭を引っ込めてしまった。でも俺の耳にはちゃんと聞こえていた。小さな小さな声で「うん」と言っていたのを。







「りんど〜終わったぁ?」
「うん。骨折ったからもう動けねぇと思うよコイツ」
「やるぅ〜。兄ちゃんの弟は極悪非道で怖いなぁ」
「兄ちゃんがそれ言う?」

警棒で相手の顔を気絶するまでタコ殴りにしていた兄に言われてもなぁなんて兄を横目で見れば、俺らの足元に転がっている男たちをもういないもののように踏み付けて歩く兄は心底楽しそうに見える。あれから二年が経過しようとしていて、もう時期俺は二十歳になる。なまえとは順調に付き合いが続いていたし、あの頃から何ら変わらず好きという気持ちにも変わりはなかった。

深夜の六本木が寝静まることは無い。もう何年この景色を見ていても飽きないし寧ろ安心感がある。兄の横をいつも通り歩いていると珍しく兄が真剣な素振りで口を開いた。

「竜胆、お前どうすんの?」
「どうするって何が?」
「マイキー達んとこに行くかっつー話ぃ」
「あぁ」

そう、あれから二年経てば環境も変わってくる。俺たち二人はマイキー達から誘いを受けていた。これに着いて行くとなれば本当に堅気の世界では生きてはいけないであろう。そもそもとうの昔に道理に叶わない道へと進んでいた俺が、今更普通の仕事に就いて全うな生活なんか送れる訳は無いと分かってはいたのだが。…問題は彼女だった。正直な話、彼女には俺が年少へ行っていたことを話してはいないし、こうして夜な夜な街に繰り出ては喧嘩や抗争に出ているなんてこと彼女は知らないのだ。本来ならば言わなければならない事だとは思ったが、それで嫌われてしまったらだなんて笑ってしまう程の不安を抱えてしまって、喉まで出掛かっては毎回言えずにずっと隠し通してきてしまった。彼女のことは一番大事だしそれはこれからずっと変わらない。しかしこの道を選ぶのならば、彼女を引きずり込むことはどうしても出来ない。

「いーじゃん連れて来ちゃえば。兄ちゃんならそーするけど?」
「は?何言って」
「彼女だろ?竜胆長続きしてるもんなぁ」

口角を上げながら口を開く兄に俺は驚愕する。なんで分かったんだと言わんばかりの俺に「何年お前の兄ちゃんやってると思ってんだぁ?」と兄は言った。俺だって出来ることならば同じ道へ連れて行って一緒にいたいと思うが、彼女が大切だから故それが出来ないのだ。危ない道を真っ白な彼女には絶対に歩かせたくなかった。何度も迷って悩んだけれど、考えても結局一つの答えしか出せなかった。





「映画、さいっこうだったねぇっ!あそこの所で助けにくるのヤバいよ〜!」
「ん、そうだな」

土曜日の映画館は混んでいた。前からなまえが見たいと言っていた映画を見にきた訳だが今日は言わなければならないことを決意してきた日でもある。正直朝から気が滅入ってどうしようもなく心苦しかったが仕方がないのだ。今日で最後になるであろう彼女の迎えに行けば、彼女の頭には寝癖がついていて「アニメ見てたら夜更かししちゃった」なんて恥ずかしそうに言っていて。付き合う前となんら変わらない彼女に安堵しながらも胸がひどく痛む。大好きなのに別れなくてはならないって本当にあるんだなって思いながら彼女の髪を整えてやって家を出た。

映画を見終わった頃にはもう外は日が沈んでいてほんの少し肌寒い。冬が近い証拠だ。いつものように彼女を家まで送り届けたとき、彼女はバッグからゴソゴソと一つの小さな箱を取り出したのだ。

「はいっ竜胆君!」
「は?…これってネックレス?」
「絶対に似合うだろうなって思って!付けたげる!」

箱から出したのはシルバーのチェーン状のネックレス。彼女から初めてもらった形のあるプレゼントだった。何も話さない俺に彼女は背伸びをしながら俺の首へとそれを回しつける。

「ん!やっぱり似合うねっ。絶対に竜胆君に似合うと思ったの」
「……これ高かったんじゃねぇの?」
「ふふん、ずっと貯めてたの。お返しがしたくて」

ネックレスが入ってある箱を見る限りブランド物で、俺が問えば彼女は「いつも竜胆君には沢山のものを貰っているから」だと言った。…物とかあげても遠慮して中々受け取らねぇクセに。離したくなくなっちゃうじゃん。俺ん所に付いて来てって言いたくなっちゃうじゃん。浮かばない表情をする俺に、なまえは不安そうに眉を下げて俺を見る。

「や、やっぱり気に入らなかった?ゴメンね一緒に買いに行けばよかっ」
「別れようぜ」
「……え?」

彼女の口が止まる。本当は今すぐ抱きしめたいのにその両手は彼女まで届くことは許されず、だらしなく垂らされて拳に力が入った。今にも泣き出しそうにしている彼女を見て心の中で何度もゴメンと謝る。

「な、んで?私なんかした?竜胆君の嫌なことした?…他に好きな子でも出来た?」
「…元々長く付き合うつもりなんか無かったんだわ。お前考えがガキくせぇからもう無理」
「そ…んな」

自分を偽り冷たい目でなまえを見下ろす。涙が溢れる彼女に罪悪感が生じる。綺麗に別れられたら良いのだろうが、映画のように上手いこと互いに笑顔で終わるだなんて無理だろう。だったらせめて俺の事を嫌いになって、真っ当な奴と幸せになった方がなまえの為には良いと思った。彼女が泣くところを見たのはこれが初めてだった。泣くだろうと承知はしていたが、やはり彼女の泣き顔を間近にするのはキツい。

「あ、でっでも私は竜胆君が好きだもん!ヒックっ、わ、私の最後に、なってくれるって…言ったじゃん」
「……そーいうのが面倒臭いし重いんだよ、分かれよ」
「あっ、待って!り、んどっ君っ、もっと頑張るから、嫌いに…ならないで、ック」
「……ゴメンな」

泣きじゃくる彼女に手を差し伸べる事も出来ずに、俺はなまえから背を向け歩く。段々と歩いていくにつれ小さくなる彼女の嗚咽がいつまでも耳に残り、初めてそこで自分が泣いていることに気が付いた。本当に彼女が大切だったし愛していたのだと再度そこで思う。離れたくはないしこれからも一緒にいたかったに決まっている。それでも俺はこの道を歩むと決めたのだから。彼女が俺の為に選んでくれたネックレスは捨てることが出来なかった。





あれから10年という月日が立つ。詐欺やら賭博に闇金、クスリの買収や裏切り者への制裁。人には言えないであろうことをほぼ全てやってきたと思う。こんな汚い道に選んだことを今更後悔はしていない。ただ、彼女のことを忘れた事は一日たりとも無かった。今でも彼女が俺にプレゼントしてくれたシルバーのネックレスは首元の刺青の真下で揺らつかしている。自分から決めて振ったクセに、我ながら今でも思い続けてしまっているのだから笑える。彼女に別れを告げた後、気まぐれで通っていた定時制の高校も結局中退してしまった。彼女の連絡先も着拒して削除してしまったから、今彼女がどうしているかは分からない。28歳にもなれば誰かと結婚して子供だっていてもおかしくは無い。そんなことを毎回思う度にズキリと痛む心臓は俺が彼女のことをまだ好きだと証明させる。

「兄ちゃん、俺今日酒飲み行く気分じゃねぇんだけど」
「いーじゃんいーじゃんたまには。最近見つけた飲み屋がスナックなんだけどさ〜。こじんまりしてんのに良い酒あるんだわ。あっ、ここなぁ?ここで降ろして」

兄は運転手に告げ半場強引に俺を降ろす。何件かあるその内の一件に兄は慣れたようにその店への階段を登っていく。来てしまった以上仕方がないと俺も一緒に中へ入った。

「あら、いらっしゃ〜い。蘭さん久しぶりね」
「おー。あ、コイツ俺の弟ね」
「あらまっ!兄弟でイケメンなのねぇ」

兄と行けば毎回同じことを言われるセリフに俺は軽く会釈だけ返した。おしぼりを受け取りながら適当に酒を飲んだら早々に帰ろうなんて思った矢先、店のドアが開いて一人の女が入ってきた。

「ママ!私普通に仕事帰りなんだけどっ!お花重い」
「あ、なまえごめんね、助かったわ。忙しくて取りに行けなかったのよ」

は?今なまえって言った?
頭の中で何度もその名前を呼んで、忘れたことは一度も無かったその名前が耳に入り、まさかとは思いながらもつい俺の目はその名が呼ばれた女の方へと目がいく。

なまえ…?

目を疑った。彼女だ。髪型や化粧なんかが変わって随分と大人びているが目に映った彼女は間違いなく〇〇だった。固まる俺に兄が俺の前で手をヒラヒラとかざす。

「竜胆?おーい、りんどーう」
「あっ、バカっ名前呼ぶなっ」
「え?」

慌てて兄の手を払い口元へ手をやったが遅かった。持っていた花をカウンターへ置くと同時に彼女は俺たちへと目を向ける。

「りんど、君?」

名前を呼ばれて何も答えない俺に兄は「呼ばれてんぞ。知り合い?」と首を傾げている。

「…人違いじゃないっすかね?」

やっと出た言葉がこれだ。ダサすぎるのは百も承知だがまさかこんな所で彼女に会えるだなんて思っていなかった俺は、想定していなかった状況で言葉が咄嗟にこれしか出て来なかった。
席を立ち上がり店を出ようとすれば彼女は俺の手を引きつい足を止めてしまった。

「やっぱり竜胆君だよね!?」
「だ、から人違いだって」
「ううん!絶対そう!私が竜胆君を見間違えるわけないもんっ」
「はっ!?」

その言葉を聞いて彼女と目線を合わせてしまった。その瞳には別れた時のように大きな瞳に涙を沢山溜めている。兄やこの店のママ、他の客たちの視線が此方に降り注ぐ中静寂を切ったのはなまえだった。

「竜胆君…こっち来て」
「あっおい」

店の外に連れ出され、連れて来られたのは店裏に当たる場所だった。俺を掴んでいた手は微かに震えていている。手がゆっくり離されていくと彼女はこちらを振り向き、我慢が出来なかったのか大粒の涙を流しながら俺をキッと睨みつけた。

「わ、わたし竜胆君と別れたくないって言ったのにっ、もっとちゃんと、話合いたかったのに!ッ学校まで辞めちゃって…れ、連絡先も繋がらないし…うぇっ」
「……本当ゴメンな」

小さい幼児のように泣きじゃくる彼女を見て謝ることしか出来ない俺は本当にダサい奴だ。

「あれから竜胆君忘れようと思っても、っ全然忘れられないんだよ」

もう何年も経っているのに嗚咽混じりの彼女の思いを口から聞いたとき、俺は気付いたら彼女を抱き締めてしまっていた。なまえの体が大きくビクッと跳ねたのが分かったが力を緩めることがどうしても出来なかった。

「ゴメン本当に…傷付けてゴメン。…俺、お前の前では普通な男演じてたけどさ、本当はこんなどうしようもねぇ奴なんだよ」

なまえは静かに俺に抱かれたまま耳を傾ける。

「お前と付き合ってるときだって喧嘩とか日常茶飯事だったし…今の俺、もう見て分かると思うけどさ…こんなんなんだよ。捕まっちまったら即刻アウトなような仕事しかしてねぇの。だから…お前をこっちの道連れて行けるワケねぇじゃん」

俺の言葉を聞き終えた彼女は、ズビッと鼻を大きく啜ると抱きしめていた腕から離れようとした。…やっぱりこうなるよなって思いその手を離すと、彼女は両手で俺の頬をペチンと弱く叩いた。

「……は?」
「ばかっ!馬鹿バカばかっ!っそんなの別れる理由にならないよ。私どんな竜胆君も好きだって言ったじゃんかっ」
「そ、それは聞いたけどさ訳が違うっつーか」
「何にも違わない!私は竜胆君が優しいこと知ってるもん。…わたし竜胆君以外の人好きになれなくなっちゃったんだよ。ずっと、ずっと…会いたかったんだよ」

止まっていた涙がまた溢れ出した彼女の瞳に、俺は堪らなくなってそれを拭うように口付けた。店の窓から漏れる明かりから彼女の真っ赤に染まった顔を見ると、今盛大な告白をしたようにはとても思えない顔つきだった。二十代になってもあの頃と変わらない彼女に俺は深く呼吸し、また彼女を抱き締める。

「普通の彼氏彼女と違ってデートとかあんまし出来ねぇかもよ?」
「いいよ」
「帰りが遅くて寂しがらせるかもしんねぇ」
「それでも帰ってきてくれれば良いの」
「…ずっと、好きだった。あの日からお前を忘れた事なんて無かった。本当に傷付けてゴメン」

すると彼女は顔を上げ背伸びをし、俺へと口付ける。一瞬だったけど彼女はもう笑顔だった。これが初めて彼女から俺にしたキスである。

「もういいよ。竜胆君とまたいられるならそれで良い」
「……普通と違うその分、幸せにするって誓うから。もう本当に離してやること出来ねぇけど、いいの?」
「いい。竜胆君じゃなきゃダメ。竜胆君がいるから私幸せなんだよ」







少年院に入っていた頃の読書活動の時間に読んだあの本。この道を歩んでから思い出すこともしなかったあの文章の一文が頭の片隅からふいに流れて思い出した。

"恋は交通事故みたいなもので、望むと望まないとにかかわらず勝手にやってくるものだ"

前はただ印象的に覚えていただけだったのに、今はその意味を良く理解しているつもりだ。


あの後の俺らは、兄が長年思い続けてきた俺を冷やかし、あの店のママがなまえの母だと兄から聞いて、急いで菓子折り持って謝罪と挨拶をしに行った。

「いくつになっても青春ねぇ」

と案外普通に受け入れてくれたことに驚いていたら隣でなまえがクスクスと笑っていた。

暫くして、都内のマンションに一緒に住むようになって毎日があの日に戻ったかのように幸せに色付いている。

「まだこのネックレス持ってくれてたの?」
「あー、うん。お前と別れてからもずっと付けてた」
「えっそうだったの?えへへ、年季入ってるねぇ」
「オッサンみたいに言うなよな」

仕事に行きたくなるくらいに平々凡々とした会話に二人で笑い合う。帰ってきたら彼女が待っている、それだけで何でも出来てしまいそうな気さえする。

殺戮とした世界で生きる俺について来てくれた彼女へ感謝するようにそっと彼女の唇にキスを落とした。未だ恥ずかしがる彼女が可愛くて堪らない。今日は仕事を終えたら予約してある店に指輪を取りに行く予定だ。彼女が好きそうなデザインと俺のヤツ。今日帰ってきたらプロポーズしようと前から決めていた。そんなことを知らないなまえに、まだ朝だというのにも関わらず彼女の反応を見るのが楽しみで仕方がない。

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