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一度目。

酷い頭痛で目を覚ました。ボヤけた視界に映るのは見知らぬ天井。痛む頭に手をやりながら体をそっと起こすと、そこは誰かの部屋であるようだった。…寝室、だろうか。自分が寝ていたらしきダブルベッドは自分以外の温もりは無い。そこから見えるのは大きな窓。自分の体に目を移せば、ちゃんと自分の私服を着ている。何がどうなっているのかも分からず、取り敢えずスマホを探してみるも何処にも見当たらない。昨日のことを必死で思い出そうとしても、思い出せないのだ。というよりも昨日の午後までの出来事は覚えている。午前中は朝から美容院へ行き、午後は彼氏の家に行って……そう私は彼氏の家にいたはずなのだ。しかしここは間違いなく彼氏の部屋ではない。彼氏の家からその後の行動がすっぽりと頭から抜け落ちてしまっている。ベッドから足を下ろし、窓へと近付いてみると目に映る景色は東京の街並み。高さからしてここが何処かの高層階の一室だと分かった。

「あ、起きたぁ?」

その声にビクンと体が跳ね、声のした方へと振り向くと紫と黒を混じり合わせたオールバック調の男がニコリと微笑んで立っていた。咄嗟にひゅっと息を飲んだ私に男はゆっくりと私の元へと歩み寄る。

「だ、誰ですか?」
「あ?ん〜、覚えてねぇの?」

男は私の前で立ち止まると私の事を上から下まで観察するように眺めてくる。そんな男の様子を怪しむように見上げると低くくねっとりとした声で口を開いた。

「俺のこと怖い?」
「えっ、と…」

頭が混乱状態の私は上手く言葉を発せられない。そんな私を目先の男はグッと距離を縮めるかのように顔を覗き込んできた。鼻先が触れそうな距離感に思わず後退しようとしても、背後が窓のせいでその場を動くことが出来ない。身体中から嫌な汗が流れる感触が酷く気持ち悪く、もう一度男に目線を合わせればニヤッと笑っていた。

「その様子じゃマジで覚えてねぇのなぁ」
「…き、記憶が曖昧で」

やっとの思いで口を開けば男はまだ微笑みを浮かべている。

「へぇ。どこまで覚えてンの?」
「へ?」
「記憶。教えて?」
「あ、その、昨日は彼氏の家にいたはず…なんですけど。その後の事が全然覚えていなくて」
「ふぅん。ほんとに?」
「ほ、本当です」

男は疑うように私へ問う。本当に分からないのだ。昨日の自分、何故ここにいるのか、そしてこの男は誰なのか。暫く男は私の目をじっと見つめると目を細めて口元を上げた。

「……そ?んじゃいーや」

男は覗き込んでいた顔を上げると元いたドアの方まで歩く。何がいいのかわからずその場で固まっている私に、男はドアノブに手を掛けながら言う。

「俺今仕事中だからさぁもう行かねぇとなんだけど。夜には帰れると思うから大人しく待っとけよ?」
「え?あっ!待っ」

私の言葉が聞こえていたのかは分からないがドアは閉められてしまった。静まり返った室内に緊張していた体は力が抜けてその場に座り込む。

「じょ、冗談じゃない…」

見知らぬ部屋で見知らぬ男の帰りを待つ者など誰がいるのだろうか。数分経つと頭は落ち着きを取り戻して来たが、やはりどれだけ思い出そうとしても昨日の記憶が抜け落ちている。彼氏がどうなったのか気になって仕方がないが連絡手段がない。先程男が出ていったドアに手を掛ける。バクバクと心臓を鳴らす胸に手をやりながらドアを開ければ、誰もいなかった。あの男はどうやら本当に仕事に行ったらしい。…取り敢えずここから出なければ。

一人暮らしにしては広いリビングには煙草の灰皿やブランド物の時計なんかが置いてあり、この家はあの男の家だろうと伺える。恐る恐るリビングから出て玄関に向かうも、靴がない。シューズクロークを開けてみても男物の靴ばかりが目に入る。こんな事に時間を割いていられないと私は裸足のまま家を出た。



エレベーターから降りて外へと出る。すんなり抜け出せたことを良い事に、靴を履いていないことも忘れ私は走り出そうとした瞬間

「やーっぱりこうするよなァ」
「ヒッッ!」

声のする方へ振り向けば先程の男が煙草を吸いながら笑っていた。逃げようと思っていたのに、こうもあっさり見つかってしまうとは。カツカツと地面に靴の音を響かせ私の前に立ちはだかる男に私は体が再度硬直する。男は煙草を地面に押し潰すと笑顔を消して私に言ったのだ。

「待ってろって俺言わなかったっけ?なまえちゃん?」
「あ…そ、の。…な、まえ」
「名前?昨日お前が俺に教えてくれたんじゃーん。あ、ちなみに俺の名前も教えたんだけど覚えてる?」
「わ、分かんない…です」

名前なんて教えた覚えは一切無い。それにこの人、私が外へ出るのを想定して待っていたのだろうか。色々思考を巡らすが何度考えても答えは出ない。男は私の肩に手を掛けると私の体はほんの少しだけ揺らいだ。払い除けれそうな手なのに、何故かそれが出来ない。震える私に彼は笑って言ったのだ。

「蘭って名前なぁ。俺の名前」
「……らん?」
「そうそう、一回目だから許してやるよ。俺優しいからさァ」

口調は子供をあやす様に優しいが、その顔は恐ろしく目が笑っていない、まるで悪魔のようだった。口元は上がり、声のトーンも穏やかなのにその瞳を見た私は彼の言う通り、彼の家らしき一室に戻るしか無かった。暗転。









"逃げたらいけない"そんな気がした。あの後彼は私を部屋へと戻すと仕事に行くと言いまた部屋を出た。もう一度逃げようかとも考えたが、彼のあの冷酷な顔付きを思い出すと逃げられるような気がせず、私はただ知らない部屋で蘭さんを待つこととなった。

「ちゃんといるじゃん、良い子

日付が変わる前に帰ってきた蘭さんは私を見るなり頭を撫でる。その際に昼間は自分の事でいっぱいだった私は気付くことの出来なかった彼の首元にある刺青に目がいった。堅気であればそんな目立つ場所には掘らないであろうソレ。やはり自分の判断は正しかったのかもしれないと素直に思う。


あれから3日が経とうとしていた。怯える私に蘭さんは優しかった。私が素直にはいと答えていれば蘭さんはあの時のような表情を私に向ける事は無い。だから油断していた。私はこの男がどれ程恐ろしい男なのかと理解をしていなかったのだ。

「蘭さん」
「ん〜」

仕事が終わり帰宅した蘭さんはジャケットを脱ぐも私の膝へと寝転んだ。これは私が彼の家へと来た二日目から決まっている行為だ。私を見上げる彼に少しの緊張感が私を襲う。

「私はいつまでここにいるんでしょうか…?」
「あー…ずっと?」

ずっと…?ずっとって、ずっと?
表情が凍りつく私に蘭さんはふふっと小さく笑って私の髪を左手でするりと撫でた。

「あ、そうそう」

蘭さんは起き上がるとジャケットから一台のスマホを取り出し私に手渡す。私のものではない真新しいスマホだ。

「これ、は?」
「それな、お前のスマホ。ねぇと不便だろ?」
「わ、私のスマホは?」
「ん?あー、捨てちゃったかもなぁ」

笑顔で言う蘭さんに私の顔は引き攣っていく。その表情が気に食わなかったのか蘭さんは近付いてきて、私は思わず身構え目を瞑ると柔らかな感触が唇に伝った。驚き目を開ければ整った顔立ちの蘭さんがいる。

「かわいー。そんなビビんなよなぁ」
「…っ、な、何が目的なんですか!?私貴方に何かしましたか?」
「何って…あーそっか。なまえ覚えてねぇんだもんな」

蘭さんは顔を離すと私をソファにそっと押し倒した。彼の甘く重い香水の匂いが間近で香り私を見下ろす蘭さんの顔は凄く楽しんでいるように見える。

「お前なぁ、俺に買われたんだよ」
「……は?」
「お前のカレシ?あれウチんとこで借金しててさー。返して貰いに行ったら女と仲良くしてんだもん。あ、その女ってなまえな?」

私の頬を指先で謎る感触はひんやりと冷たい。この男が何を言っているのか分からず、彼氏が借金をしていたことも知らなかった私の顔は酷く青ざめていく。

「不憫だよなぁ。お前の男ビビって俺に"この女好きにしていいから命だけは助けてくれ"とかほざいてんの」
「な、にそれ」
「んでぇ、お前は俺に買われたってワケ。お前の値段いくらだと思う?200万だぜ?」

自分の女200万で売るとか安過ぎんだろとケラケラ笑う男に、私は恐怖を通り越して呆然と見つめることしか出来なかった。そんな私を他所に蘭さんは楽しげに続ける。

「つー訳で、お前はもう俺に買われちまったんだから仕方がねぇの。もうどうする事も出来ねぇよ」
「……何で私は、その、記憶が無いのでしょうか」
「あーそれなぁ」

少し考え込むように蘭さんは体を起こすと煙草に火をつけ煙を吐き出せば、ニッコリと笑顔を向けた。

「そりゃアレじゃん。忘れさせたから?」

蘭さんの言い分はこうだった。彼氏であった男の交渉を飲んだ後、彼は私の目の前で彼を殺した。目の前で人が死んだという事、いきなりの状況に頭が錯乱を起こして発狂した私に、薬を吸わせたらしい。その時吸わせた薬というものが少々キツいものであり、ショックも伴い記憶障害が起きたのではないかという事だった。

「そ、そんな」
「俺の事完璧忘れられてて寂しかったわー」

思い出したかった筈のあの日の出来事を知り世界が真っ暗に染まっていくのを感じる。寧ろ知らない方が良かったのではないかと思うくらいに。暗転。







それでも私は彼から逃げるのを諦めた訳では無かった。彼氏の事は大好きだったが、蘭さんの言う事が本当ならば私を売るような男だったのだ。そんな男の為に私は一生ここで暮らす訳にはいかない。しかし、蘭さんから逃げる事は不可能に近い気がした私はまず彼と親しくなる事を決意した。一度初めに逃げ出した私は信用を得ることから始めなければ疑われるままだと思ったからだ。

「蘭さん、恥ずかしいです」
「いつももっと恥ずかしいことしてんのに?」
「そ、それは暗いからです!」

蘭さんはいつもよりも早く帰宅してきた。帰ってきて早々に言った言葉は「風呂入ろ」だ。勿論初めは抵抗したが、それを蘭さんは良しとする訳は無く私を引きずりながら風呂場へと連れ込む。ミルクホワイトの入浴剤のお陰で湯に浸かれば体は見えないがそれでも明るい照明で肌を晒すのには抵抗がある。

「あーかわい。好き」

顔を私の首元に疼くめ蘭さんは言葉を呟く。あの件以来私は蘭さんと寝室を共にするようになった。そうなれば自然の流れで体の付き合いが始まったが、私が拒否する事は無かった。蘭さんから逃げ出す為と一心だった。蘭さんは何処にでもいるようなこんな平凡な女に何故か好きと言うようになった。初めはプレイの一環か?と思っていたが、最近は少しそれが分からない。行為中じゃなくても今のように好きと伝えてくる蘭さんに、私はほんの少し戸惑いを感じた。いくら金で私を買ったといえど、愛があるかは別な気がする。人を殺し、ドラッグを吸わせるような男なのだからろくな男では無いはずなのに、好きというその声のトーンは酷く甘いのだ。だからあれ?この人どんな人だっけ?と思ってしまうことも偶にある。

「なぁ聞いてんのー?」
「あ!はい。聞いてますよ」
「絶対ェ嘘。聞いてなかったろ?風呂出たらお仕置きな」
「ちゃっ、ちゃんと聞いてましたって!」

こうなった蘭さんはもう止められない。私は彼に飲み込まれていくのだ。ゆっくり、優しく、時に激しく私の体を余すこと無く知り尽くした彼に、私は自分が自分では無いんじゃないかって思ってしまうことすらある。情事が終われば私はいつも力尽きて先に寝てしまう。そんな私が眠りにつくまで蘭さんは必ず私の髪を撫でてくれる。その度にまた「好き」と言う言葉を口にしてくるからもう訳が分からない。その好きってどういう意味の好きなのだろうか。玩具?ペット?それとも恋という意味で?考えても分からないし聞く気にもなれず私を瞼を閉じた。






二度目。

転機はいきなり訪れた。蘭さんは一週間程海外へ出張へ行くらしい。

「あーダル。なまえお土産何欲しい?何か買ってきてやるよ」
「いりませんよ。蘭さんが無事に帰って来てくれればそれで」
「……お前本当かわいーなぁ」

ニコリと笑って蘭さんに告げれば、蘭さんは私の腰に手を回し唇を奪う。絡み合う舌に苦しくなって蘭さんの胸元を叩くと、蘭さんのスマホが着信を鳴らした。無視し続ける蘭さんを他所にスマホは鳴り続ける。「チッ」と彼は舌打ちをし、私の腰から手を離しスマホを見るもその電話には出ずに画面を消した。

「あー、下で迎え来てっから俺行かねぇとー」
「ふふっ、気を付けて行って来て下さい」
「……ほんっと…はぁ。帰ったら続きすっから蘭ちゃんの帰りちゃんと待ってろよー?」

玄関でもう一度キスを交わし蘭さんは玄関を出る。少しだけチクリと胸の痛みを感じたが、私はそれに気付かないフリをして急いで寝室へと向かい大きなバッグを取り出した。服や下着、何でも蘭さんが私に買ってきてくれたものだがそれを無造作に詰め込んでいく。蘭さんの帰りを待つつもりは無かった。いつかこういう日が来ることを信じいつも頭の中でシミュレーションをしていた。従順に蘭さんの好きそうな女を演じられていたのもこの日の為だ。私はあともう少しで自由になれる。荷物を纏めて玄関を開けると、そこに知らない人が立っていた。

「え?」
「は?」

目の前の男はマッシュウルフのスーツを着た男。私を見るなり目を見開いて、私も同じく目を見開いていた。

「あー…もしかして逃げようと思ってた?」
「あ、どちら様…でしょうか」

私の右手に掲げたバッグを見るもこの男は即座に私に言った。この家に蘭さん以外の人が来たことが無かった私はえらく動揺してしまっていたと思う。

「兄ちゃんがアンタを買ったとき俺も一緒にいたんだけどさ。覚えてねぇか」
「兄ちゃん?」
「らん。俺の兄ちゃん」
「蘭さんの…?」

そう言われてみれば、似ている。目元だとか漂う雰囲気が蘭さんと良く似ている。そんな私に目の前の男は、「はぁ」と面倒くさそうに溜息を吐くと、家の中まで押し入ってきた。

「あ、ちょっ」
「アンタに悪いんだけど、兄ちゃんから頼まれてんだよね。もしアンタが逃げ出すような事があったら"足折ってでも連れ戻せ"ってさ。でも俺女に手上げんの趣味じゃねぇから大人しく諦めてくんねぇかな?」
「……は?」

誤算だった。というか記憶が飛んでいた私に弟がいただなんて想定する事は無理に決まっている。絶望を感じ私はその場にへらっと力無く座り込む。そんな私を見て男は何の躊躇いも無く言うのだ。

「あーそれと兄ちゃんが帰ってくるまでの間見張り付いてるから。アンタが俺のいない時に逃げようとしても無駄だと思う」
「なんで…蘭さんはそこまで私に…」
「んなの俺が知る訳ねぇじゃん」

冷たく言い放たれた言葉が頭上へ降りかかると、待ち望んでいた未来が遠のいていく。多分、こうなるかもしれない事を蘭さんは分かっていたのだろう。信頼されていると思ったが、どうやら違っていたらしい。結局の所、私が今まで彼に演じていた自分は彼にとって意味の無いらしいものだったのかも知れない。この家に来た頃から出なかった涙が頬を伝っていくのを感じた。

「……可哀想な女」

蘭さんの弟は静かに呟くように言った。暗転。





結局あれから私は家から出る事は出来ずに一週間経つと蘭さんは約束通り帰ってきた。帰ってくるなりブランド物のショップバックをいくつも掲げて私にお土産だと差し出した。蘭さんの弟がもしかしたら私が逃げようとした事を蘭さんに言っているかもしれないと不安になっていたが、どうやらそんなことは無かったらしい。彼は機嫌良く帰ってきた。

「アレ?嬉しくねぇの?」
「あ!?いえ、凄い嬉しいです!ありがとうございます」

慌てて笑顔を取り繕えば、蘭さんはにっこりと笑ってキスを落とす。優しくまるで恋人のように重ねる唇に胸がモヤモヤと気持ちが悪い。唇が離れ蘭さんの笑った顔を見ると何故か鼻がツンと痛み泣きそうになってしまうのをバレないように彼の胸元に顔を疼くめた。

「おー、蘭ちゃんいなくて寂しかったかぁ?」
「…そうかもしれないです」

本心か、本心ではないのか。自分でも訳が分からなかった。あんなに逃げたくてこの間まで堪らなかったのに、今は彼が目の前にいて彼の香水が香ると安心するのだ。逃げたいのに、逃げたくない、矛盾した気持ちが私の中を掻き回す。

「…蘭さんて私のこと好きなんですか?」
「どうしたいきなり。いつも言ってんだろ、好きってさぁ」
「その好きって、どういう意味なのかなって」

ほんの少しの沈黙に胸の音だけがバクバクと聞こえる。だっておかしい。逃げたいのに、人殺しで危ない事を仕事としていて人間を金で買ってしまうような人に安心という感情を持ってしまうだなんて。弟に足を折らせても連れ戻せという男なのに。
ぐるぐる目まぐるしく頭に回る思考は私の脳内で処理し切れなかった。涙が滲む私に、蘭さんは顔を近づけ涙をペロリと舐めとる。

「さぁな?んでもこの先逃がすつもりは一切ねぇぐらいには思ってるかなァ」

そう言った彼の顔は初めて私がここの家に来た時のように悪魔のように笑っていた。

「あ、はは」

この男が狂っているのか、私が狂っているのか。
はたまた二人とも狂っているのか。
私は面白くもないのに笑いが込み上げて来てしまった。…暗転?

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