その話は唐突にやってきた。
「頼むよ"、ゲホッゲホ!ッ君にしか頼めないんだ」
「だっ大丈夫ですか…?」
電話口の声は掠れ声で、大丈夫だと言いつつもかなり辛そうに咳き込んでいる。
「むっげほっン"ン"!彼来週にはオフシーズン入るんだけどそれまでの仕事を君に頼みたくてっ」
「でもわたしにそんな大役務まるかどうか…」
「大丈夫、日本語話せて今手がフリーなのが君しかいなくてさ、ッケホ。お願いだよ」
そんなことを急に言われましても。
しんどそうな声の主はわたしの上司、ジローランさんである。そしてその上司は世界で活躍しているプロサッカー選手、糸師冴のマネージャーを務めている方だ。
「向こうももう了承済だから詳しいことは…ァックショ!! ズズ、メール送るから」
「わっ分かりました!分かりましたから取り敢えずお大事になさって下さい」
悩む時間もなくつい勢いで承知してしまった。
咳き込みながらのお礼の言葉を聞き、電話を切る。マネージャーを引き受ける以前にジローランさんの元へ看病しに行った方がいいのではと思えるくらい上司はキツそうであった。恐るべし、風邪。
そんなことを考えている間に仕事が早いジローランさんからメールが届く。そのメールを開くとわたしが課せられた期間は明日からの5日間。5日間わたしは糸師さんのマネージャーを代理で務めることになる。
「…出来るか?わたし」
つい出てしまった弱音の独り言。彼のことはいつも慌ただしいジローランさんからたまに聞くぐらいで直接の面識はない。5日間の仕事内容に目を通し、メールの文末を見ると不安がわたしを襲った。
"彼はドライに思われがちだけど気にしなくて大丈夫だからね"
ドライとは?クールな性格ということですか。確かにテレビでインタビューされているときや雑誌に映っている彼を思い出せば朗らかに笑っている顔は見たことがないかもしれない。明日からのことを考えると緊張で少しお腹が痛くなってきた。
グッと息を飲み、文字をタップする。
"こちらの事は心配なさらないで下さい。お大事に"
ジローランさんには入社当時から大変お世話になっている方である。当時仕事が上手くいかず落ち込んだ日にわたしを励ましてくれたのは彼だ。そのお陰でわたしは今もこの仕事を続けていられている。そんな上司がわたしを頼ってくれた。だったら頑張るしかないじゃないか。幻滅させない為にも期待に応えなければ!
緊張を伴いながら送られてきた彼の連絡先を社用スマホに登録し、通話ボタンをタップする。
「……」
しかし出ない。話が通っているとはいえ、忙しいのかもしれない。電話で一度挨拶をしておきたかったのだけど、それは諦めてメッセージを送っておくことにした。
"明日から代理でマネージャー業を務めさせて頂くナマエと申します。明日の午前9時、お迎えに上がりますので宜しくお願い致します"
シンプルな自己紹介と明日の予定を文字で打ち、送信。
だけど待てど待てどもその日返信は来なかった。勿論かけ直しの電話もこない。
不安ばかりの仮マネージャー生活、これが0日目である。
▽
本日、緊張し過ぎてあまり眠れなかったわたしの顔は浮腫んで悲惨なことになっていた。今になって眠たいと叫んでいる頭を無理矢理覚ますようにベッドから起き上がり顔を洗う。
メイクをして、クリーニングしたてのスーツに袖を通せば、見栄えだけは仕事が出来る女に仕上がった(自称)。
小さなソファに座り彼に送ったトークメッセージを開くも結局返信はそれからもなく、いつの間にか既読だけがつけられた文面に見てはくれたみたいだと安堵のため息がひとつ。"今から向かいます"と文字を送信したけれど、やっぱり返信は返ってこなくて、彼の自宅へ向かう道中も不安しかしなかった。
「誰だオマエ」
「えっ!!」
彼の住むマンションに着きチャイムを鳴らす。1分程度で玄関のドアを開けた彼は先程起きたばかりなのか大層不機嫌な様子でわたしを見下ろした。上から下までジトッとした目つきで眼球を動かすその視線に、自然と肩に掛けていたバッグを持つ手に力が入る。
「あっ!おっおはようございます!怪しいものじゃなくて、そのっジローランさんから話は伺っているかと思うんですけど、」
「はぁ?」
キリッとした眉が眉間に寄ると、その威圧さにわたしは怯んだ。まるで忘れていたかのような素振り。そうしてほんの数秒黙り込んでいたと思ったら、彼が小さく舌打ちしたのをわたしは聞き逃さなかった。
「…入れ」
彼はそれだけ言うと背を向け歩を進める。この場で帰れと言われなかったことにホッとしつつも、その背は明らかにわたしを歓迎している様子はない。
「おっお邪魔します…」
「……」
わたしより彼は年下であるが、わたしよりも良い暮らしをしていると胸を張って言えるこの室内。流石は糸師冴である。だけれど場の空気がひんやりとし過ぎて、とてもじゃないが話しかけられる雰囲気ではない。
彼に対しての第一印象、こわい、ニガテ。
気を落としそうになったけど、脳裏に浮かぶはジローランさんの笑顔。まだ糸師さんとは出会って数分。挫けちゃいけないと頭の中で首を左右に振った。愛嬌はどこにいっても大切だ。これから5日間、代理とはいえ彼のマネージャーとして仕事をするのだ。そんな相手に苦い顔は見せられないと笑顔を作る。
「あっあのぉ…わたしが送ったメッセージ見て頂けました、か?」
「……」
勇気を出して話しかけたのに、糸師さんの耳には届いていなかったのかだんまりである。
「いっ糸師さん?」
「……」
彼の名を呼ぶも、糸師さんはわたしの方なんか一切見ずにそのまま何処かの部屋に入るとドアをパタンと閉めてしまった。
「……え?」
一人になった室内。広いリビングで突っ立ってるわたし。
え?え?あれ、わたしの声聞こえてたよね?
ジローランさん、ごめんなさい。やっぱりちょっと挫けそうです。そこにいない上司を思い浮かべ、この糸師冴のマネージャーをもう何年も前から担当している彼を素直に尊敬した。彼は人見知りなのだろうか。今日からの5日間をシュミレーションすれば、果てしなく長く感じて胃が痛い。
今日の予定は午前中にスポーツ誌の取材が1件、午後はファッション誌の撮影が1件。
スポーツ選手といえど顔が整っている彼はこうしてファッション誌でも特集が組まれてしまうのだから驚きを隠せない。彼からすれば海外誌ではあるが、仏頂面(失礼)ではあるものの、やはり本物はテレビや画像で見るよりも数倍綺麗な顔立ちをしている。
はぁと深いため息を吐く。どうやってこの糸師冴という人物の心を開こうか。一応彼のことは一通りこの業界で働く上で知ってはいるつもりだけど、なにぶん会話をして貰えないことには意味がない。
「お前さっきから何してんだ」
「ひぐっ!」
声の主に驚き振り返ると糸師さんがタオルで髪をゴシゴシ拭きながらわたしに怪訝な目を向けている。
「ふっ服は!?」
「うるせえ。声のトーンをもっと落とせ」
「すっすみません!」
「俺の言ったこと聞こえてねぇのか?」
わたしの横を素通りし、冷蔵庫からペットボトルを取り出し水を飲む彼に直角90度レベルで頭を下げる。極端に言ってしまえばこの姿は何かをやらかし謝罪する平社員の姿に見えるであろう。
「で、今日は?」
「はい?」
「バカなのかお前」
頭上から降り注いできた罵倒に顔を上げると、先程よりも更に不機嫌な顔をして彼は「予定」と口にした。あわててバッグからスケジュール帳を取り出す。
「えと、今日は11時からスポーツ関係の取材と、午後は14時からファッション誌の撮影も兼ねて、これもインタビューなので取材ですね」
「おい待て。その午後の撮影は断れと言ったはずだぞ」
「え?いやでも」
「なんでサッカーにかすりもしねぇ仕事を受けなきゃなんねぇんだよ」
それはそうなんだけど。しかし今からキャンセルしろと言われても出来ないのが仕事である。というか了承したからこの仕事が今日のスケジュールに組み込まれているのではなくて?
「分かったら午前の取材は受けてやるからとっととキャンセルしろ」
「いっ言いたいことは分かるんですけどもう先方に話がついてる以上今からのキャンセルは無理といいますか」
「だったらお前が俺の代わりに受けろ」
「へ??」
予想だにしていなかった返答が返ってきて思わず耳を疑った。この業界に入りもう暫く経つが、初めてこんな対応に難しい人に出会ってしまった。ジローランさん、ほんとういつもどうやって仕事しているんだ。
これには流石のわたしも笑顔が消える。多分きっと苦笑いも出来ていないかもしれない。
「なんだそのアホ面」
「えっと…」
「早くしろ。遅れたらお前のせいだからな」
石のように硬直したわたしを涼しい顔で見つめる糸師冴選手。寝起きで優雅にシャワーを浴びてたのはあなたなんですけど。ってかめちゃくちゃ失礼じゃないかこの人。
気持ちを表に出さなかっただけでも偉いと誰か褒めて欲しい。
「お前運転なんか出来んだな」
「…どういう意味ですか」
「別に?死にたくねぇから事故すんなって言っただけ」
「……善処します」
ハンドルを握る手に力が入る。もう一度言う。失礼が過ぎる。思ったことを全部言葉にするタイプなのか糸師さんは。後部座席に座った彼はもうわたしに興味がないのかスマホに目を移していた。
わたしがもし糸師さんの専属マネージャーであったら、心が干からびて1日で音を上げていたところだろう。
「えーと、糸師さんは普段どんなトレーニングをしておられますか?」
「その質問前回も答えたんで。それ読みゃ分かるんじゃないっすかね」
「ちょっとちょっとちょっと!」
自己紹介からの質問3問目までは口を閉じて我慢をしていた。しかし4問目にしてつい我慢が出来ず口を出してしまった。だってインタビュアーさんが困ってるんだもの。冷房が効いているはずなのに、汗かいちゃってる。糸師さんがさっきからずっとこんな調子なものだから。
「…なんだ」
「いやその雑誌は別の出版社のものですから!」
「なんでお前がそんなこと知ってる」
「読んだからですよ。ほっほらインタビュアーさん困らせちゃダメですって」
「……っち」
担当者に頭を下げ、糸師さんに笑顔の圧を送る。
そうすると不服そうに普段のトレーニング内容を雑ではあるが口にし出した糸師さん。良かった、これで午前の仕事がなんとか終わる!わたしの頭はこれでいっぱいであり、心の中で拍手した。
「おい、ちゃんと受け答えしたんだから午後の仕事はキャンセルしろ」
「へ?」
「お前の言う通り仕事したんだから対価を支払うべきだろ」
車に戻るなりドシッと足を組んだ彼は当たり前かのようにキャンセル令を命じてきた。まるで王様のようだ。
「あー…、そうしてあげたいのは山々なんですけど、もう無理なんですって。先方も準備してますでしょうし」
「俺は芸能人じゃない」
「分かってますよ。でも糸師さんはサッカー界で実力もある有名人ですし、お顔が綺麗だからファッション誌から声が掛かるのも仕方がないんですよ。糸師さんの下まつげ長くて羨ましいです」
午前の仕事を無事終えただけで達成感に飲まれたわたしの機嫌はすこぶる良い。何故なら単純思考なので。だから特に考えもせずに心の内を言葉にしてしまった。
「…お前ってやっぱりバカだな」
「……なに言ってるか分かんなかったです」
「聞こえてただろアホ」
バカだのアホだのこんな半日で罵倒されたのは人生で初めてである。ちょっとムッとはするが、糸師さんの性格がきっとこんな感じなのだと思い込んだ。多分だけど、悪気はないと思いたい。
「…このまま向かいますよ?」
「……」
無言は肯定と捉えていいのだろうか。うん、もうそうするしかない。どの道今更キャンセルなんて出来ないし。
また適当な受け答えをしたらどうしよう。そんな不安の中の撮影と取材であったが、なんと彼は午後のファッション誌の仕事をちゃんとやり遂げてくれたのだ。
「ありがとうございます!わたしこの雑誌絶対買いますから!」
「なんでお前が礼言うのか意味分かんねぇし、いらねぇだろそんなん」
「欲を言えば笑ったお顔がファンは拝みたかったと思いますが、頑張りましたね糸師さん!」
「ハナシ聞かねぇヤツだなほんと。ってかお前にガキ扱いされる筋合いはねぇよ」
心底不服だと言わんばかりに朝同様、いやそれ以上に顔を歪めた彼のこと、朝はあんなに胃が痛い思いをしたのに1日時間を共にすればそれも少しは慣れる。それに仕事の件とはいえ、こうして会話をして貰えるのは嬉しく思う。
「お疲れ様でした。明日は朝お迎えに上がって、クラブチームまでお送りします」
「それだけか?」
「はい。でも明後日はまた取材が3件、明明後日が午前中に1件、で最終日はスポンサーのパーティですね」
「なんだそのスケジュールは。取材ばっかじゃねぇか」
「オフに入ってしまうからその前にと詰め込んだみたいですね。明明後日の取材は糸師さんに憧れている子供が取材をしに訪れるみたいですよ」
運転しているから表情は見れないが、後部座席からげんなりとしたため息が聞こえた。
マンションに着き、わたしは彼が座っているリアドアを開ける。
「ちょっと大変ですけど頑張りましょうね、糸師さん。ですので明日は存分にボールを蹴ってきて下さい。ではお疲れ様です!」
「舐めてんのかお前」
勿論糸師さんからお疲れなんて言葉は出てこないことは分かっていたが、わたしは今日1日無事に終わりを迎えられたことに大変満足していた。車から降りた彼にニコニコ笑顔を向けるも、わたしよりも随分と高い身長の彼はわたしを見下ろし眉間に皺を寄せていた。
▽
「おはようございます!」
「…朝からうるせぇ」
代理マネージャー2日目。迎えに行けば糸師さんは昨日と変わらず冷めた目つきをわたしに向ける。
わたしと糸師さんの温度差は日本とスペインくらい距離があるともいえるだろう。でも1日目をなんとか終えたのだから、残りの日数もちゃんとやり遂げたい。
道中話しかけてもあまり返ってこないので、いつの間にか自然と静かになる車内。
「では糸師さん、また夕方にお迎えに上がりますので」
「……」
目も合わせてくれない彼だけど、ちょっぴり心は痛むけど、わたしは笑顔で彼を見送った。仕事が絡んでいる以上、5日経った後に"アイツは仕事が出来ないヤツだった"とは思われたくない。小さなプライドである。…まぁウザがられてしまってるけど。
迎えの時刻までまだかなりの時間がある。
一度社に戻ったわたしはジローランさんに昨日の報告をメールで送った。その後パソコンで糸師さんについて調べる。たった5日間でも、相手のことを知らないよりは知っている方が良い。直近で発売された彼が出ている雑誌には目を通したと思うけど、どれもこれも質問の答えが大体同じなので彼についてよく分からない。
「…笑ってるとこマジでないな」
サッカーでシュートをキメたときも、仲間内とサッカーをしているときも、パパラッチに取られたのかプライベートな彼も、どれもこれも笑っていない。常に冷静な顔つきをしてる。
何をしたら笑うんだろう。こういう人って。
そんなことを考えてコーヒーに口付けていたらサボっていると思われたのか、お局に睨まれてしまった。
「行かねぇよ」
「え"!なんでですか!?」
糸師さんを迎えに行き、半日考えていた内容を伝えるもまたしても彼は興味の無さそうにスマホに目を向けて断りを口にした。
「なんでお前と俺が飯食いになんか行かなきゃならねぇんだ。理由がないだろ」
「いやぁ…はは。親睦会、みたいな?」
「親睦深める必要性がねぇ。後3日だろ」
「それはそうなんですけど」
まぁ断られるとは思ったが、1秒も悩まず即答とは思わなかった。全くもって寂しいことをズカッと口にする人だ。またしても心を抉られ仕方がないと諦めて運転していると、糸師さんは口を開いた。
「…どこの店だ」
「え!行ってくれるんですか!?」
それはもうすぐ彼のマンションに着くとき。引き返しますよ!とつい後部座席の方に首を傾けてしまった。
「行かねぇよってか前見ろ」
「あ、すみません。えと、日本食の美味しいお店があるって前に聞いたことがあったんですけど、糸師さんたまには日本食食べたいんじゃないかなぁって思って」
「どこの店だ?」
興味示してくれてる?あの糸師さんが?
ぽけっと口を開けたわたしは慌てて前を向き、緩みそうになる頬をバレないように必死で隠した。夕日に染まった道中が少し眩しい。
「糸師さんのご自宅を真っ直ぐ行った先の角のお店なんですけど、」
「行かねぇ」
「へ?」
「そこは俺がマネージャーに教えた店だ。どうせそこから聞いたんだろ」
「…はい、そうです。その通りです」
そわそわしたのも束の間。呆気なくこの話に終止符を打たれて彼のマンションに着く。
「明日も今日と同じくらいの時間にお迎えに上がります。お疲れ様でした」
「……」
今日も彼からの返答はなし。背を向ける彼を見送りわたしも家路へと直帰する。やっぱり糸師さんの笑顔を見るのは難しそうだ。
▽
代理マネージャーも折り返し地点までやってきた。この先こんなに5日間が長く感じる日は生涯来ないかもしれないと、まだ3日目なのにそんなことも思った。
今日のスケジュールは取材が3件。一昨日のときみたく、だるそうな態度を存分に表へ出しでもしたらどうしようと不安が過ぎる。
だけどそれは杞憂であった。
「なんだお前の顔」
「いや…その、嬉しくて」
「は?」
3件。今日は糸師さんが多分この5日間のなかで1番面倒くさそうにしていた3件の取材を、しっかりとやり遂げたのだ。糸師さんのことを仕事が出来ないとはこれっぽっちも思ってはいない。ただちょっと早く終わらせろアピールが凄いので、取材者達が苦い顔をするというのもジローランさんから聞いていた(1日目で理解したけれど)。
時折ジャーナリスト達がやりづらそうな質問の返しをしていたが、それでも極端に早く終わらそうという前回のような出来事はなく、スムーズに終わったことに感激する。そのせいか顔に出てしまっていたようだ。
「お前が喜ぶ意味が分かんねぇ」
「すみませっ、無事に終われたことが嬉しくて」
糸師さんは片眉を下げる。そうして車へ戻る際、糸師さんは口を開いた。
「ちゃんと終わらせねぇとどっかの世話焼きが口挟んでくるからな」
「そっそれは誰のことでしょうか、ね?」
「お前だよバカ。早く車出せ」
3日目ともなれば糸師さんのバカ発言に何も思わなくなり、寧ろわたしの顔は始終にこにこであった。マンションに着いていつものように挨拶をする。
「では明日は午前中に1件だけですから、頑張りましょうね。お疲れ様でした」
いつも通り背を向ける彼を見送る。でも車から降りてすぐ、彼はわたしの方を振り向くと、たった一言口にした。
「…あぁ。お疲れ」
目も疑ったし耳も疑った。あまり目も合わせてくれることもなかった糸師さんがわたしに対してお疲れとまで言ってくれるとは。明日季節外れの雪でも降るのか?ってくらい信じられない。
少しは心を開いてくれてるのだろうかと、頬が緩んでしまう。その日は特になんにもない日だったけど、ケーキを2つも買ってしまった。
▽
糸師 冴という人物を、わたしはかなり勘違いしていたらしい。
人は第一印象でその人を大体見分けてしまう。この人優しそうだとか、この人はちょっと苦手かもな、だとか。
わたしが糸師さんに向けていた心情は後者の方で、多分こんな機会がなければまず話が合わない人種だろう。だからわたしはこの業界で働く上で第一印象というものをとても大切にしてきたつもりだ。まぁ糸師さんには「うぜぇ」と思われてしまっている訳だけど。
代理マネージャーも4日目。ラスト2日である。
この日の取材は1件で、これもスポーツ関係の雑誌であった。だけど今回は大人が糸師さんにインタビューするのではなく、まだ10才くらいの小さな子供であった。この企画が世に出たとき、かなりの応募数が殺到したらしい。
男の子がキラキラとした瞳で糸師さんを見つめている。それこそ糸師さんがいつものように相手を少々見下した態度を取らないかとヒヤヒヤしたが、全くもってそんなことはなかった。
「僕、糸師選手に憧れてサッカー始めたんです」
「そうか」
「いつかは僕も糸師選手みたいなかっこいい選手になれますか?」
なんとも可愛らしい質問。ありがちな質問なのだろうけど、その子の顔付きは真剣そのものだった。
緊張しているのがこちらにも伝わってくる程の空間に、席を立ったのは糸師さんだ。
「え」
男の子が驚いて顔を上げる。すると糸師さんはその子の座っている椅子まで行くとしゃがんで目線を合わせたのだ。
「ああ、なれるさ。自分を信じて沢山練習しろ」
たった一言。一言なんだけど、男の子はうんうんと頷いてその瞳は潤んでいた。ポン、と優しく彼の頭に置かれた糸師さんの手のひら。わたしは彼がドライな人だと思い込んでいたけれど、それは間違っていたみたい。
多分この人ははっきり物を言う分、勘違いされやすいってのもあるんだろう。でも、根はきっととても優しい人なのだ。
「ごめんなさい糸師さん」
「は?何かやらかしたのか?」
「そういう訳じゃないんですけど…糸師さんて優しい方だったんだなって」
帰りの車内、わたしは彼を送り届けることまでが仕事であるから今日も彼を乗せてマンションへと向かう。
「意味わかんねぇこと言ってんな。別に優しくねぇ」
「ふふ。さっきの男の子、サイン貰えてとっても喜んでいましたね」
「あんなんで喜ぶ意味が分かんねぇわ」
ぷいっとドアポケットに肘を置き車窓に目を向ける彼は照れているのかそれ以上口を開かない。
「…特集組まれた雑誌も読みましたし、サッカーをしている動画もいくつか見ました。糸師さんの」
「あ?」
「5日間とはいえ相手のこと知るのは大事かと思って」
少し気恥しいけど、面と向かっては流石に言いづらいけど、運転している今ならと思い心情を口にする。
「どれもかっこよかったです。けど、今日が1番かっこよかったです」
「……は?」
「明日で一緒にお仕事が出来るの最後ですけど、残り1日宜しくお願いします。それじゃあ、お疲れ様でした」
照れくさいがきっと明日が過ぎればわたしと糸師さんが会うことはまずもうないだろう。だから伝えておきたかった。いつもは糸師さんがマンションに入るまで見送るけれど、今日はとてもじゃないが恥ずかしいが勝ってしまったので、頭を下げてその場を後にする。だから糸師さんがどんな顔をしていたのかちゃんと見ていない。きっと、いつも通りの表情が読み取りづらい顔をしていたに違いないだろうけど。
▽
「おい、そんな格好で行くのか?」
「はい。わたしは仕事なので」
「俺だって仕事だ。マジでバカだな」
最終日は彼が所属するチームのスポンサーのパーティである。いつもと180度違う彼のスーツ姿に写真を1枚撮ってもいいかと聞いたら、物凄く嫌な顔をされてしまったのでそれは諦めた。
いつものスーツよりも少し華やかさを取り入れたパーティスーツ。これはわたしが持っているなかで1番可愛くお気に入りのスーツであったが、糸師さんは何一つ表情を変えずに口を開いた。
「色気もなにもないな」
「仕事!なので!」
もう一度同じ言葉を更に強調し口を曲げるが、糸師さんは眉ひとつ動かさない。5日間の内、一度くらいは彼の笑った顔が見たいと思ったが、どうやらそれは叶わなそうだ。
今日は社有車でなく、タクシーで現地へと向かう。
隣に糸師冴が座っているということになんだか不思議な気分。
あっという間に着いた会場は、大手のスポンサー企業主催とのことでかなり豪勢であった。辺りを見るなりモデルや女優に俳優、見たことある有名なスポーツ選手、並びに関係者。この業界に入りここまで大きいパーティに参加したことはなかったので、圧倒される。
「あら冴、久しぶりね。元気だった?」
「まぁそれなりに」
糸師さんの肩をトントン、と叩いた女性は誰もが憧れるハリウッド女優。こんな凄い方まで来ているのかと思えば、仕事で来ているとはいえ場違い感が半端ない。
ひっきりなしに糸師さんに話しかける方々は皆名を知らぬ者はいないであろう有名人ばかり。そして当の本人糸師さんはいつも通りに表情を変えずに受け流すのだ。
「すっ凄いですね糸師さん。モテモテじゃないですか」
「あ?別に普通だろ。興味ねぇ」
興味ないですと?こういう場で1度は人生で言ってみたい憧れの言葉だろう。モテる人でなきゃ言えない言葉だ。わたしが言える機会が来ることは勿論ないけれど。
「おい、ボーッとしてんな。バカがバレるぞ」
「すっすみません。こんな凄いパーティ来たの初めてで緊張しちゃって。へへ」
「……はぐれんなよ犬ころ」
「はい??」
スタスタ飲み物を取りに行く糸師さん。
糸師さんにとってわたしは代理マネージャーでもなく犬ころであったらしい。解せぬ。
▽
「つっ疲れた」
会場内のトイレでふぅと一息つく。鏡に映ったわたしはひどく疲れきった顔をしている。慣れない場というものはどうしてこんなにも気を使うのか。お世話になっているスポンサーへの挨拶、糸師さんの後ろでお話している方々に笑顔を向ける。仕事だから当たり前だけど、今日はぐっすり眠れそうだ。
震えるスマホに気が付くと、丁度タクシーが着いたらしい。さて、もう少しだ、と思い軽く自分の頬をペチンと叩く。
「いとしさ、」
会場に戻るもその声は途中で止まった。糸師さんの隣に女性が楽しげにボディタッチをしながら笑いかけていたからだ。
いま話しかけるのはとっても空気が読めない人間であることは確かである。どうしたものかと数分考えるも、知り合いもいないからその場で話が終わるのを見て待っていることしか出来なかった。
わたしが先に帰ってもいいのだが、黙って帰れば怒られそうだ。そうしてわたしは1つ案を思いついたのだ。
"タクシー来ちゃいましたけど、どうします?私先に帰りましょうか?"
トークメッセージを送り、糸師さんが分かるような位置で壁側に移動する。すると数分もしない内に彼はわたしの元までやってきた。大層ご機嫌斜めで。
「迎え来たんならとっとと俺のとこに伝えに来い」
「いやでもあの方と楽しそうにお話してたので悪いかと」
「はぁ?……っち。知らねぇよあんなオンナ」
スタスタ歩く彼に足早で追いかける。なんでそんな怒っているのか分からない。チラッと後ろを振り向くと、先程の女性がわたしに対しかなり睨み付けていたので背筋が凍った。絶対なにか良くない方向で勘違いされている気がする。美女の怒った顔も、糸師さんの怒った顔も、こわい。
タクシーに乗り込み向かう先は糸師さんの自宅である。ずっと車窓の方に目を向けている彼は口を開かず、気まずい空気が流れていた。
「いっいとしさん?」
「……」
一向に返事をしてくれない彼は5日前に出会ったときを思い出させる。何がいけなかったのか分からずに淡々と家路まで進む車内は地獄のようだった。
「糸師さん、着きましたよ」
「……」
今日で最後というにも関わらず、わたしは最後の最後で糸師さんの機嫌を損ねてしまったらしい。タクシーから降りる際、このままお別れになるだろうと思っていたわたしの手は彼によりグイッと引かれた。
「っえ!ちょっ、」
「お前も降りろ」
「糸師さっ!?」
「早くしろ」
糸師さんはカードを取り出し運転手に支払いを済ませる。そうして状況が飲み込めないわたしの腕を引き、彼の自宅へとわたしを連れ帰ったのだ。
「しっ支払いは経費で落としますので」
「んなことどうでもいいんだよ」
「そんな訳には」
「お前は仕事のことばっかだな」
玄関先での出来事。照明が着いていない玄関は真っ暗で息を飲んだ。
糸師さんがどんな意味を含めてこんなことを口にしているのか分からない。表情だって暗くて良く分からないし、元々ない頭が停止しそうだった。
「そっそれはどういう…?」
「……はぁ」
糸師さんの吐いたため息に体が硬直する。未だ掴まれている腕を引かれ、わたしは彼の後を小さく追う。
そうしてわたしは寝かされたのだ。ベッドに。
糸師さんの寝室に。
「えっ!?ちょ、糸師さん!?よっ酔ってますか!?」
「今日酒飲んでねぇのお前が良く知ってんだろ」
「いや知ってますけど、糸師さんどうしちゃったんですか」
「どうしたも何もお前がバカな思考回路しか持ってねぇから分からしてやろうと思って」
薄明るい間接照明に照らされて、わたしを組み敷き見下ろした糸師さんの顔が瞳に映る。
「それって、どういう…」
「それは俺のセリフだアホ。俺のことかっこいいだの優しいだのほざいてたクセに俺が女と話してたときのあの態度はなんだ」
「へ?」
「自分は別に関係ねぇって平気な顔しやがって。お前やっぱムカつく」
眉間に皺を寄せた彼はやっぱりいつも通りの糸師さんで、わたしに対しての嫌悪感を顕にする。だけど、どうしてかそれが普段のようにムッとした感情がわたしに襲い掛かってくることはなかった。
どくんどくん、と心臓が音を鳴らす。
こうして糸師さんがわたしを長い間見つめ続けているのが初めてだからかもしれない。
わたしと彼の関係性は、サッカー選手とその仮マネージャーだったはずなのに。
「ムカつくってその、糸師さんそれじゃまるで…」
糸師さんはわたしの口にした言葉により顔をそっと近付ける。その距離にわたしは咄嗟に顔を背けてしまった。
「…お前」
「いや、だっだってこれは彼氏彼女がするものですから!そっそれに明日また糸師さん早いでしょ!?」
「残念だな。明日からオフだ」
そうだった!!
頭がパニックになって思考能力が随分と落ちている。目の前の状況だって理解が出来ない。背けたことに糸師さんは不満だったのかわたしの前髪をさらりと撫でると優しく逃げられないように固定する。
そうしてわたしの耳元で小さく囁いたのだ。
「なんでこんだけのことして俺がお前を口説いてるって分かんねぇんだよ」
わたしの瞳が大きく見開く。そうしている間に鼻先が触れ合い、重なった唇。
「これで既成事実作っちまったから逃げらんねぇな?マネージャーさん」
その日初めて糸師さんの笑顔を見て、胸がきゅん、と音を鳴らした。