ブルロ夢 | ナノ


バカな私はそれでも好きで、



※女に手が早いカイザーに恋をして、妻になったら女のマネージャーが常に旦那を狙っている状況になってしまった話



初めから、不釣り合いの2人だったのだ。


結婚して2年の月日を超え、出会った頃から換算すれば、もう共に過ごして3年の月日が経つ。

わたしと彼は幼なじみでもなければ生まれた国も違う。育った環境や生まれ持った才能、持ちうるもの全て、わたしと彼は重なる点がない。だから彼の人生に関わることが出来ただけで、奇跡とも呼べる。

ドイツで行われたバスタードミュンヘンについているスポンサー主催の立食パーティ。そのスポンサー企業が日本でも支社を置いていて、そこがわたしの働く職場であり招待されたのが始まりだ。

「あっ、すみません!」
「大丈夫か?」

ドイツ語を完璧に話せるまでにはまだそのとき時間が足りず、元より会議なんかで使用する為に支給されていたかの有名な企業が開発したイヤホンを付けての参加。

ドイツで1番大きなホテルを貸し切って、驚くほど人が賑わったこの空間に、長時間のフライトで疲れが取れていなかったのか、はたまた慣れない場で酒を飲んだせいからか、ちゃんと前を見ていなくて人にぶつかってしまった。


それがわたしの旦那、ミヒャエル・カイザーだ。


日本でも名の知れたサッカー選手の内一人、ミヒャエル・カイザー。青い監獄の1期生と新英雄大戦に出場したときの彼らの活躍といえば、日本中だけでなく世界までも熱くさせた。当時父とテレビの前で観戦しており、わたしの目に止まったのが彼だった。彼の知らぬ間に目で追ってしまうようなプレースタイルには、そのとき高校生であったわたしでも高揚感が治まりきらなかった。

そんな彼にまさかぶつかってしまうとは。

彼は性格に少々難があると聞いていたものだから、わたしの体温は3度程下がり、顔は極端に青ざめる。このような失態は誰であっても決してあってはならない。なのによりにもよってバスタードミュンヘンの顔とも呼べるミヒャエル・カイザーのスーツに酒を零してしまうだなんて。なんたる過ち。

「ごめんなさっ、」
「ん?あぁ別にそんな謝ることじゃないだろ。ワザとじゃないんだしな。俺も見ていなかったのが悪い。気にするな」
「っそういう訳には」

初めて間近で聞く彼の声音は思ったよりも柔らかく、しでかしてしまったわたしの涙腺を刺激した。
パーティはまだ中盤に差し掛かった辺り。もうやだ、最悪。そんなことしか考えられなくて、酒で汚れてしまったオーダーメイドであろう彼のスーツを皺にならないように胸元をハンカチで拭う。

「っふ、」

頭上から降り注がれた笑い声に顔を上げる。初めて目が合った彼の天色の瞳は、わたしを見つめて細めていた。てっきり怒られるものだと思っていたわたしの顔は、間の抜けた顔つきになっていたに違いない。

「オマエ名前は?」
「…ナマエ、です」

ナマエねぇ、とわたしの名を復唱する彼に心臓がドクンと脈打ち立った。咄嗟に目を逸らそうとすると、彼はわたしの腕を引いたのだ。

「えっ!?あっちょっ」
「ここには部屋を取ってあるのか?」
「へっ部屋ですか?いえ、宿泊するホテルは別で、す」
「じゃあ、俺の部屋だな」

その場にいる全員がわたし達を見ている訳ではない。だけど凸凹の2人が歩いているのなんて目立つ他なくて。わたしを引き連れ歩く彼は毛先が水色のグラデーションされた髪を靡かして、周囲のことなんかさも気にしていないように前を向いていた。

連れて来られたのは夜景が素晴らしく堪能出来るような広くて高級感溢れる部屋。スイートルームというやつだ。彼は当たり前のように歩を進め、ジャケットを脱ぎ椅子へと適当に掛けると、わたしに来いと手招きをする。

「…あ、あの」
「ん?なんだ」
「ジャケット、汚してしまい本当に申し訳ありません。弁償しますので、」

恐る恐る彼の方へと歩を進め、2歩ほど距離を開けて頭を下げた。死にそうなほど気まずい空間に目をぎゅ、と瞑る。彼はそんなわたしの頭をゆっくりと上げさせて、柔和に微笑んだ。

「ふぅん…コレ、弁償となれば結構な値段になると思うが、お前みたいな一社員に払えるのか?」
「…え」

彼が顎をクイッと椅子に掛けたジャケットに向けると、わたしの体は凍りつく。そりゃあのミヒャエル・カイザーが着ている物なのだからそれ相応の値段はするとは思ったけど、そんなに高価な物なのかと脳内で自分の貯金額を思い出す。
すると焦ったわたしが面白かったのか彼はクスクスと笑みを浮かべた。

「冗談だ。お前から金を巻き上げる気は無いしあんなジャケットなんか替えはきく。それより元からこんなクソみたいなパーティに出席するのすら不本意だったからな。お前のお陰で抜け出せて丁度いい」
「…そ、それってどういう、」
「こーいうイミ」

頬をなぞるように撫でられて、そのままキスを落とされた。ちゅるりと自然に侵入してくる舌先に息が上手く吸えなくて、上唇をちゅう、と吸われる。名残惜しそうに唇が離れた頃には、わたしの息は少し上がっていた。

「あ、カッカイザーさん」
「ミヒャエル」
「えっあ、カイザーさ、」
「ミヒャエルと呼べ。俺の名前くらい知ってるだろ?」

甘くてどうにかなってしまいそうな声のトーン。まるで幼い子供に話しかけているようだった。自分のことは勿論知ってると言わんばかりのその自信さは、彼が今まで人からどんな対応を受けて来たのかがよく分かる。

わたしの目は潤みながらも頬は勝手に紅潮していき、対して彼のその口元は艶めかしく光り妖しげに口端が上がっていた。そうしてわたしの目元にキスをして、壊れ物を扱うかのようにベッドにわたしを組み敷いたのだ。

"ミヒャエル・カイザーは手が早い"

知人からそう、聞いていた。でもそのとき自分は彼の相手になることなんてありもしない事だと考えもしなかったから、適当にへぇと流してしまっていた。だけどこの想像不可能であった状況が目の前までやってきて、頭の中でその言葉が児玉し理解する。

「怒ってないって言ってんのに、お前は泣き虫だなァ?」

潤んだだけで、泣いてはない。
だけどそう組み取った彼は「可愛いな」とチョコレートのように甘い声で囁いた。女性が喜ぶ言葉を軽々と口にし、手馴れたようにドレスのファスナーに手をかけた。

この時のわたしはある種、彼のただの退屈しのぎの女だったに違いないはずだ。






急にいなくなったわたしに心配した上司のお叱りも、日本に帰った後も、その一時の出来事があまりにもわたしにとって大きすぎて、頭の中は常にゆめうつつの状態だった。

いつもと変わらない日常。仕事して、家に帰って、ご飯を食べて。街中を歩けば彼とよく似た香水の香りがしたと感じ振り向いてしまっては気を落とす。あの日の1日の、たったの数時間程度が、わたしの心にダメージを与えた。断れば良かったと何度後悔したことか。

それでも現実を段々と実感してきて、あの出来事は夢だったのではないかと思い始めたのは2ヶ月程経ったときのこと。

『△△ホテルの○○号室』

ピロンと届いたメッセージに目を疑った。バカみたいに心臓の動きは早いし、何度もそのメッセージを読み返しもした。彼とは確かに連絡先を交換したけれど、一度だって来なかったメッセージ。仕事の疲れなんて吹っ飛んで、直ぐに服を着替えて彼の元へと足を運んだ。

「ミヒャエルさん、なんで日本に?」
「お前に会いたかったからわざわざ来てやったんだろうが。連絡を寄越さないから寂しかったぞ。それに久しぶりに会って開口一番がその言葉か?」

再来年のW杯に向けての練習だけでなく、メディア関連にも幅広く活躍している彼がわたしの為に日本に来ただなんてそんなこと、ぜったいある筈ないのに。ミヒャエルさんだって一度もあれからメッセージを送ってくれなかったじゃないか。そんな事を思うのに、口から出たのは真逆の言葉。

「…会いたかったです」
「俺もだよ。お前に会いたくて出向いてしまうくらいには会いたかった」

きっとわたしの言った言葉は彼からすれば何度も女性に言われてきた言葉だろう。だけど彼はうんと満足した表情でわたしの髪をさらりと撫でた。ふわりと香るあの時と同じ香水の香り。好きでもなかったこの香りが、今はとても安心するものになってしまった。

それと同時に、やっぱり彼は簡単に言葉にする分、今までに幾多の女性を相手にしてきたのだと嫌でも分かってしまうから、胸は痛んだ。

わたしと彼では住む世界が違うから、早く現実を見ろと頭の中で警告音が鳴っている。分かっているんだけど、こんなの泣きをみるって思うんだけど、会ってしまったら最後。自分の気持ちを認めるしかなかった。


だって彼は手放さなかった。こんなどこにでもいるありふれた女のわたしを、手放すことはしなかったのだ。


「お前をドイツに連れ帰っていいか?」
「へ…」


彼のオフシーズンでの出来事だった。貴重なオフに日本へ訪れた彼はこの日、わたしをホテルへと呼んだのだ。何処かいつもより緊張しながら口にした言葉に、わたしの語彙力は抜け落ちる。

「あ、えっと…その」
「なんだ?悪いが断りは聞き入れたくないな」
「そうじゃなくて…あの、わたし達って付き合ってたんですか?」
「…は?」

彼の驚く顔を見て、わたしも同じく驚いた。
だってちゃんとした告白なんてものはなく、曖昧な関係性だと思っていた。日本に来た際の暇つぶしに違いないと思っていたのだ。瞬きを数回繰り返した彼はハァ、と大きなため息を吐くと、眉間に皺を寄せた。

「前に言っただろ」
「え、」
「"お前に会いたくてわざわざ日本に来てる"って言ったのまさか忘れたのか?酷いなぁナマエチャンは」

悪戯気に試すように口を開く彼に首を慌てて横に振る。わたしが忘れるはずなんかないのを知ってるくせに。こういうのを、狡い人だと呼ぶのだろう。

知らぬ間に流れた涙に、彼は笑って涙を拭う。出会ったときと同じように、「お前は泣いてばかりだな」と口にしながら。そうして彼は続け様に言葉を繋げた。


「俺が居ない間、お前のこと誰かに取られるのを想像するだけで反吐が出る」


初めて見せた彼の独占欲。それがどうにもこうにも嬉しくて、彼のプロポーズに頷いた。

だって好きだった。自分が今一番求めていたものが同じように求めてくれている。それがどれだけ嬉しいことか。ここで断ってしまったら、わたしはきっと生涯後悔することになる。

そうしてわたしはミヒャエル・カイザーの妻になったのだ。






わたし達の結婚に、喜んだのは父、喜ばなかったのは母である。

ウチの父親は学生時代にサッカーをしていたこともあり、たまに試合のチケットを取っては遠征するほどサッカーに対して熱い思いがあった。だからわたしがバスタードミュンヘンのスポンサーの支社で働くことを大層喜んでいたし、結婚相手があのミヒャエルともなれば興奮のあまり感極まり過ぎて、まるで父が結婚するかのような感動の仕方であった。

でも母だけは違った。 それはわたしが結婚するということに反対していた訳ではない。

「あのね、反対したい訳じゃないのよ。でも距離が遠すぎる。お母さんはあんたのことが心配なの。慣れない地で住むことがどれだけ大変か一人暮らししてるなら分かるでしょう?それが外国となったら尚更だよ。…それに彼、あんまり良いウワサ聞かないみたいじゃない」

そんな母の心配を、わたしは全く聞かなかった。今となっては恥ずかしい話だが、あの頃はとにかく彼が好き過ぎて、彼のことしか見えていなかったので。

恋愛とは、障害が生じれば生じるほど、どうにかしてでも一緒に居たいと強く思う。最後まで心配をかけてしまった母のこと、申し訳なく思う。離れて気付く母の気持ち。今ならよく理解しているつもり。そうして何度も念を押された古き良き知人の言葉。

「考え直せよ。やめといた方がいい」

そんなわたしを思っての言葉にも耳をかさなかったのだから、わたしにだってきっと非はあるはずだ。






ミヒャエルとの生活にわたしの全ては一変した。まずは語学。わたしが使っていた通訳イヤホンは会社を退職する際返却した為に持ってはいなかった。だからドイツに来てから使っているこのイヤホンは、ミヒャエルが用意してくれたものだ。

「別に無理して覚える必要ないだろ」
「ん、でもイヤホン無しでもミヒャエルと話せるようになったら嬉しいなって」
「なんだそれ、クソ可愛い」

ミヒャエルは、とても大事にしてくれたよ。わたしのこと。時間があれば面倒くさがらずにドイツ語を教えてくれたし、たくさん愛でてくれたし尽くしてくれた。

「…ごめん。失敗しちゃった」
「いや、これはこれで斬新だ」
「ざっ斬新…。次は頑張るから」
「今も頑張ってるだろ。初めから上手くやれるヤツなんて余程の才に溢れてるヤツしかいない。落ち込むな、うまいよ」

彼の故郷料理を覚えたくて日本ではあまり聞かない調味料を使っての料理。それが上手く作れずわたしが落ち込むと、必ず励ましてくれた。ミヒャエルなりの気遣いに気づけばいつもわたしは笑っていた。

疲れているときにわたしの首元に顔を擦り寄せる彼が可愛い。小さな喧嘩をしたときにいつも余裕と自信に満ち溢れているミヒャエルが、バツの悪そうに前髪をかきあげるその仕草も、全部全部好きだった。

記念日には花束を、喧嘩をして仲直りの際には必ず愛ある言葉を。これが出来る男なんて世に早々いないとわたしは思ってる。

だからわたしは彼と暮らし始めて妻になっての2年間、頻繁ではないけれど帰宅時間が遅いことがあることも、たまに香る香水の香りがミヒャエルのものではないことがあることも、全部知った上で容認していた。

だってミヒャエルは魅力的だもの。眉目秀麗、白い肌に映えるタトゥーは元からある彼の色気を更に目立たせる。それに女性の扱いに長けているこの男が単なる平々凡々なわたし一人に収まるはずがない。

最終的にわたしの元へと帰って来てくれればそれでいい。
ミヒャエルがわたしを好きだと言ってくれれば、それで良いのだ。











…なわけがないだろ。




悔しくて悔しくて堪らない。好きで永遠を誓った男が別の女と仲良くしているのを笑っていられる女がどこにいる。わたしはミヒャエル一人の為に家族(母)の反対を押し切ってまでドイツにやってきたのだ。仕事だってやめた。大好きな友人とだって会えなくなるのは寂しかったけれど、全てを置いてココに来たのだ。これは全部ミヒャエルが悪いんじゃない。わたしがちゃんと決めて来たのだから、自業自得でもある。

だから我慢していた。それこそミヒャエルに嫌われたくなくて、ミヒャエルのいない生活にそもそも戻れる自信もなかったから。


だけど、だけどさ。
知らないフリをしているなんて簡単じゃない。それは単純に見ていないから知らないフリを出来るってものだった。


聞いてしまったら、旦那が女と仲良さげに話してるのを見てしまったら、ずっと胸に閉まっておいた我慢なんて崩れ落ちてくに決まってる。



「今日から俺のマネージャー業を務める××だ」
「はじめまして。日本の女性は小柄で可愛いのね」

にこりと微笑んだ彼女に初めから嫌な予感しかしなかった。ふっくらとした唇に乗せられた赤みの効いたリップ。金髪に染められたウェーブの掛かった髪を1つに束ねた彼女は見るからに綺麗という言葉がよく似合っていた。

「これから全力であなたの旦那をサポートさせて頂くわ。よろしくね?」
「…こちらこそ、旦那をよろしくお願いします」

わざとらしくあなたの旦那と強調する辺り、敵対心まるだしのこの女性。だからわたしも小さなマウントを取るように旦那と口にしたけれど、どうともきっと思われていない。だって彼女はわたしを見て口端に弧を描いたのだから。

この××というマネージャーは、仕事が出来る女であった。ミヒャエルの本業、サッカーに対しての練習スケジュールをちゃんと把握し、その中であまり詰めすぎないようにと体調管理まで考慮。それでいてメディア関連の仕事も入れていく。一言で言えば完璧ってやつ。

前回のマネージャーはそれが上手く出来なくて、ミヒャエルに愛想を尽かされて辞めてしまった。その時のミヒャエルの冷たい目付きは今までに見たこともなくて、わたしの前では怒ってもあんな顔をしないから、思わずわたしが冷や汗をかいたほどだった。あれはわたしの知らないミヒャエルの顔だったと思う。そしてこの今のマネージャーはそんなことは一切なく、ミヒャエルにとって大層気に入っている仕事仲間のようだった。


……本当に仕事仲間だなんてわかんないけど。


ミヒャエルが居ない日中のこの時間。
掃除でも洗濯でも、何をしているときでも最近はあのマネージャーとミヒャエルのことを考えることが増えてしまった。わたしの次にチームメンバーかこのマネージャーといる時間が多いであろうこの女性に、自分でも嫌になるほど嫉妬してしまう。

ミヒャエルの口からその女の名前を聞くのが嫌だった。
ミヒャエルがその女に向けて笑顔を向けるのも嫌だった。
仕事の件は仕方がなくても、わたしとミヒャエルがいる時間帯に掛かってくる電話がその女だと分かると嫌な想像ばかりしてしまう。


毎日不安になってる自分に笑えてくる。

それもこれも、ミヒャエル達の試合が近付いているせいもあって、メディア関連の仕事は控えているとはいえ家のなかでは少しピリピリとしていた空気が流れていたかもしれない。

「…ミヒャエル?」
「ん?あぁ、悪い。ちょっと後にしてくれないか」

話しかけてもこんな感じ。試合前の相手チームの映像を見ていた彼はそんな気はなかったのかもしれない。でもわたしにとったらそれが寂しくて。

こんなことは前にもあったのに、今が一番寂しく思う。サッカー選手の嫁ならば、こんなときミヒャエルが過ごしやすい環境を考えなくちゃいけないのに、わたしは自分のことばっかりだ。

「あっ、おかえりなさい!今日はねミヒャエルが好きなもの作ったんだけど、」
「おお、ありがとう。でも先に風呂入る」

そうしたときにフワりと香るその香水。
マネージャーに送迎して貰っているのだから自然と着くであろうその香りは、ミヒャエルではなくあのマネージャーのものだ。

だいじょうぶ、だいじょうぶ。
そう思い続けてきて何ヶ月と月日が過ぎた。
でも、そんなの長くは持たない。


「ミヒャ酔ってしまったからホテルに泊まらせたわ。今はぐっすりのはずよ」
「え…」

普段はあまりこの家に来ないマネージャーのあの女が、初めてあったときと同様に赤みのリップを光らせてわたし達の家にやって来た。

そうして知らぬ間にミヒャと呼ばれたわたしの旦那の名前。いつからそんな親しい仲になったの?

「そっそうなんですか?でもミヒャエルからそんな話は聞いてなかったんですけど、」
「あら聞いてない?試合後の打ち上げだったからかしら。明日からオフだものね。でも普通奥さんには言うはずだけど。今日の彼は一弾と楽しそうに飲んでいたわよ」

なんだろう、何が言いたいんだろうこの人。わざわざそれだけを伝える為にここまでやって来たというのだろうか。
わたしの顔を見た彼女は嬉しそうに口角を上げた。

そうしてわたしに言ったのだ。


「ミヒャってね、すっごく魅力的じゃない?だからどこに行っても声を掛けられるのよね」
「…どういう、意味ですか」
「え?ふふっ、そうね。ミヒャは墓場まで持っていくつもりだったんだろうけどあなたが不憫で可哀想だから教えてあげる。仕事もしてない、ただ家にいてミヒャの帰りを待つだけのあなたに、ミヒャが一所に留まっていると思う?ちゃんと支えになれてるの?」

女の顔はそれはとても楽しげにわたしを見て笑っていたってことだけはよく覚えている。

1人になった空間で、椅子に座って考えるこれからのこと。そうだよね、初めから何もかも差があり過ぎる二人だったよね。

わたしは女優の演技のように臨機応変に対応する事は出来ないし、モデルのように綺麗で可愛いわけでもない。あのマネージャーのように仕事が出来る訳でもなければ、ミヒャエルの帰りを待つことしか出来ない。

「けどさぁ…好きには自信があったんだよなぁ」

ミヒャエルのことを世界で1番好きなことだけには自信があったのだ。

バカみたい。だったらわたしは最後に彼へ何をしてあげられるだろう。ダイニングの照明だけを着けて、メモ用紙を1枚とペンを手に取る。


いつか捨てられると不安になるくらいなら、わたしから手放してあげる。


そんな気持ちを込めて、書き置きを残し、早朝ミヒャエルが帰って来る前にこの家を後にした。















「いっいしゃぎ!もう我慢の限界
『はぁ!?なんだよお前泣いてんのか!?カイザーか?だから俺言ってたろ!』
「っく、ずっと我慢して来たけど、やっぱり潔とかお母さんの言うこと聞いて置けば…っふぅ、良かったぁ…っぅう、」
『ちょ、落ちつけって!お前今どこにいんだよ』


「……にほん」

昨日からオフシーズン。電話の相手はバスタードミュンヘンに籍を置き、今やカイザーと肩を並べる程の実力の持ち主の潔 世一。中学からの同級生だ。電話を掛けると数秒で繋がった彼にわたしの涙は止まらない。

中学も、高校も同じ。潔とはずっと仲が良かった。恋愛なんて感情はなかったけれど、女友達と同様に仲が良かったのだ。だから初めてミヒャエルを見たあの新英雄大戦だって、同級生の潔を応援するつもりで初めはテレビを眺めていたのだ。


『カイザーは知ってるのか?お前が日本に帰って来てること』
「し、知らない。書き置き残して来ちゃった」
『はぁ!?書き置き!?』
「…むかついたから、"クソお世話になりました"って書いて出て来ちゃった」

潔のお前なぁと言った言葉が耳へと届く。
本当はそれだけじゃないんだけど、今はそれしか言えなかった。

『…今どこにいんの』
「駅前の、ファミレス」
『俺らの地元のとこだよな?俺も日本に帰ってきたから今から向かうよ。絶対そこから動くなよ』

念を押した潔にうんうんと頷き電話を切ってはまた涙が流れる。嗚咽を漏らすわたしに通りすがる店員や客はギョッとした目を向けた。でも今は恥ずかしいなんて思っている余裕なんてない。


だってわたしの夢のようで夢じゃなかった恋が終わりを告げてしまったのだから。







−−−−−−−−



小さな紙切れを見つけたカイザーはその場で立ち止まる。

「…なんだこれ」

昨日はカイザーとしたことがそれなりに圧迫したスケジュールに伴い試合後の打ち上げ参加。早々に帰る予定であったが疲れが溜まっていたのか気付けば朝だった。

急いで家に帰れば笑顔で出迎えてくれるはずの彼女がいない。この時間なら起きている筈だと寝室へ向かうも何処にも彼女はいなかった。

そうして見つけた書き置きに、カイザーの額には嫌な汗が流れた。




「珍しいわね、ミヒャがお家に招いてくれるだなんて」
「…お前俺に言わなきゃいけないことがあるだろ」
「え?いえ別に。あら?そういえば奥様はいらっしゃらないの?夫が今日からオフだっていうのに、何をしてるのかしらね」

しらばっくれる女にカイザーは舌打ちをする。そうして家の壁に彼女を押し付けた。

「ちょっ!なにす、」
「分からない低脳なら教えてやるよ。アイツが残したこの紙に、俺が他所の女と遊んでるだのなんだの書いてある。ご丁寧に名前付きでな」
「へぇ?でも仕事関係でしょう?」
「俺はアイツに家で仕事の件は話さない。好きな女を不安にさせたくないからな。だがどうにも俺の女は勘違いしているようだ。俺が浮気しまくってるってな」
「それが、なに?」
「マネージャーのお前か関係者しか知らない女優の名前を、なんでアイツが知ってる?」

続け様にカイザーは、嫁を知っているのはお前しかいないと付け加えた。そこでやっと女の顔つきが曇り始める。

「って、だってあんな女の何処がいいの!?仕事もしないで家にいて、ドイツ語だってイヤホンがなきゃまともに話せないあんなただの女の何処がいいのよ!」

女の叫びに近い声が広い部屋に響き渡った。
しかしカイザーは表情1つも変えない。寧ろ変えない所か人一人今にでも殺しそうな目つきで女を見下ろしていた。息を思わず飲んだ女を見て、カイザーは鼻で笑う。

「ハッ、滑稽だな。仕事が出来て綺麗で可愛けりゃ良い女なのか?だったらお前の考えは狂ってるな。残念ながらアイツに仕事を辞めさせたのも語学にしろ家にいさせているのも俺のワガママだ。俺がそうして欲しいからそう頼んだ」
「…は、」
「仕事だけは出来る女だと思っていたが大誤算だな。失せろクソオンナ。明日から二度とそのツラを俺の前に晒すな」
「み、みひゃ?」
「俺の名も気安く呼ぶな。俺の女を傷付けたんだからそれ相応の代償を支払って貰うことを忘れるなよ。分かったらとっとと出ていけ」

泣く女を無理矢理外へと出させる。その女が泣こうが喚こうがカイザーにとってはどうでもいいことだった。

ブロックされている彼女の電話は一向に繋がらない。

書き置きと一緒に置いてあったマリッジリング。それを大切に握ると、カイザーは顔を顰めた。



「……絶対ェ連れ帰す」









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