ブルロ夢 | ナノ


「だって本当は一目惚れ」



※潔ドイツにて活躍中設定。
※嘘はつけないけど皆に優しい男と嘘は上手だけど優しくはない圧倒的捕食者に捕まった話





「家出してやるっ!!」

そう心で思ったときには声も同時に出ていた。
わたしの婚約者である潔 世一はまさかわたしが家出をする事態になるとまでは想像もしていなかったんだろう。いつまでもグズグズ言うわたしにどうしたもんかと眉間に皺を寄せていた顔から一変、途端に焦り出し背を向けたわたしの肩を力強く掴んだ。

「ちょ、ちょっと待てって!誤解だって言ってるだろっ」
「ッこれの何処が誤解なの?どう見たって仲良さそうなんだけど」
「なんにも仲良くないし勘違いだって!この子は、」
「バスタードミュンヘンのスポンサーで、そのお偉いさんの娘なんでしょ?それで世一くんを凄く気に入ってる…もうそれは聞いたよ」
「……」

黙って唇を噛み締めた世一くん。そんな顔を向けられたのは、6年も付き合っていて初めてだった。なんだかそんな顔をされるとまるでわたしが悪いみたい。世一くんは消え入りそうな声で呟くように口を開いた。

「…本当になんにもないんだって」
「でもすっぱ抜かれちゃったじゃん」
「それは、」
「…世一くんの優しいところは凄く良いところだよ。長所だと思う…けど、誰に対しても優し過ぎるのはどうかと思う」

わたしの肩から掴んでいた世一くんの手が離れた。
今にも泣きそうで、傷付いた表情がわたしの目に映った気もするけれど、わたしだってこんな報道見たくはなかったし、知りたくなかった訳で、世一くんの言う言葉通りに信用出来るほど冷静でいられなかった。

わたしが出ていく際、もう一度世一くんがわたしの名を呼んだ気がする。だけど振り向くなんてことは出来なくて、するつもりもなかった。

だってこれが1回じゃないんだもん。
世一くんと一緒にすっぱ抜かれたご令嬢、前にも1度世一くんはこの子と写真を撮っている。

それを知ったのは世一くん宛にチームメイトから送られてきたグループLINEにて。
見るつもりはなかった。
親しき仲にも礼儀あり。ましてや恋人のスマホなんて見て良いものは何もないというのは有名な話だし。だけどピコンピコンと間抜けな音立てて、鳴り止まないスマホの画面を伏せていなかった世一くんだって悪いと思う。

"潔、この写真嫁に見られるなよ笑"


「は??」


目に映った世一くんのスマホ画面。
"見られるな"ってなに。"笑"ってなんだ。

そこからはメッセージを見てしまったという罪悪感は秒で消え失せて、震える指でその画面をタップしてしまったわたし、後悔したってもう遅い。一瞬時が止まった。ついでに呼吸も。そうして次にわたしを襲ったのは心臓のただならぬ動悸だ。

そこには少し赤く顔を染めた世一くんと、至極嬉しそうに世一くんの腕に両腕を絡めたご令嬢が映っていた。

「……そういうこと、か」

この女がその時どんな子なのかも知らず、目に映る写真に心臓が急速冷凍されたかのように冷えきっていく。だってもし仮にこの子が世一くんのファンだとしても、これは流石に距離感バグってない?と。

でもわたし、これからサッカー界においての名が知られている世一くんのお嫁さんになるならば、これくらいのことで怒っちゃダメだと寛大な心で謝る彼を受け入れた。そりゃぶっちゃけ本音はもの凄くイヤだし、このご令嬢もくっつき過ぎだし、顔なんて他の女に染めてくれるなよ世一くん!とか心の中で叫んだけれど、許した。何故ならわたし達が婚約しているってのはお互いの両親と、わたしの数少ない友人と、バスタードミュンヘンのチームメイト達しか知らなかったので。時点で世間にまだ公表していないから、知らないものは仕方がないとモヤモヤする気持ちを無理矢理胸に押し込めたのだ。

それなのにまた世一くんはやらかした。
しかも同じ女とかこんなのってどうかしている。あんまりすぎるよ潔 世一。だって今日の報道に至るまで、月日はそんなに経ってはいなかった。ましてや撮られたのは世一くんがご令嬢をホテルへと送って行っている場面である。傍から見れば勘違いを巻き起こしそうな場面ってやつだ。てか既にSNSはきっと賑わっているんだろう。さっきからわたしのLINEも元気よく鳴ってるし。きっと言うまでもなくわたしの友人だ。これはいささかどうしたものでしょうか。

何より世一くん、この報道をわたしが知るまで言うつもりはなかったみたいでして。それが分かってしまったら、流石にわたしも黙っていられない。

「あっいや、マジでそんなんじゃなくて、送ってくれって頼まれてさ!ほんとなんだって!」

「ねぇ、なんでそんな焦ってるの??」
「あっ焦ってねぇよ!!信じて!」

その焦りが浮気を隠したい男にしか今は見えないんだよなぁ。

わたし、仮にも潔 世一の婚約者。
もう一度言うが、いくら潔 世一には婚約者がいるというそれが世に出ていないといえ、わたしは間違いなく世一くんの婚約者なのである。

"落ち着いたら籍入れたいと思ってます"

そう自分とウチの両家に挨拶をし、緊張でガチガチだった世一くん。あのときの世一くんは何処にもいない。双葉を揺らしてはにかむ世一くんも、ボールを追い掛けまさにエゴイストと呼べる世一くんも、わたしの目の前にはいなかった。

そう、そこにいたのはまさに今にも飼い主に捨てられそうな子犬。

飼い主と言ったってどちらかといえばわたしがドイツに来てから世一くんに生活面でお世話になっていたから逆かもしれないけれど。


今しがた、それが逆転した。












頭の天骨頂の双葉が揺れているのが可愛いと思った。お友達と話す際に群青色の大きな瞳が細まったのを見て、同年代より幼く見える表情にきゅん、と簡単に胸が音を鳴らした。なのにグラウンドで走る彼を見掛けたら可愛いなんて言葉はどこかに吹っ飛んで、獲物を狙う動物かのようにボールを追い掛けるんだから、それから目が離せなくなってしまったし、余計と彼を追うようになってしまった。

気付いた頃には恋してて、高一の夏休み前の終業式に世一くんを呼び出し告白したのはこのわたしだ。

「おっ俺でよければ…よろしくお願いします」

きっと同じくらいわたしも顔を真っ赤に染め上げていたんだろうけど、それよりも何故かわたしよりお顔を真っ赤にして視線を合わせてくれなかった世一くん。この日初めて彼の茹でダコのように赤くなった顔を見た。

世一くんの彼女になれたことが信じられなくて、嬉しくて、毎日好きの気持ちは膨らんでいくばかり。彼氏というものが初めて出来たわたしと、彼女が初めて出来た世一くん。何をするにも初めて同士故にあの頃はお互い意識しまくってロボットのようだったのは笑っちゃうけど、初々しくて可愛らしいお付き合いだったと思う。

世一くんの部活が終わるのを待って、拳ひとつ分の距離を保ち、やっとの2人きりなのに何を話したら良いのか分かんなくなっちゃって。トークアプリではいっぱい話せるクセに、面と向かってはドキドキが勝って中々上手く話せなかったんだよね。初めて手を繋いだときは口から心臓飛び出すかと思ったし、初めてキスしたときは顔から火が出そうだったもん。

「俺、お前のことすげぇ好きだよ」

世一くんの家に初めてお邪魔したとき、照れ臭そうにわたしへ好きだと言葉にしてくれた。わたしも大すき、そう自然と口から零れてお互いの唇が触れそうになった丁度のタイミング。世一くんのママが「おやつよ」って金つばを持ってきてくれたあの日の出来事はきっと忘れない。そんな可愛らしい世一くんのママは今でも大好きだ。

世一くんが青い監獄へ行くという話が出たときは、彼の夢を応援したいっていう気持ちの方が俄然強かったから離れるのは超がつくほど寂しかったけれど、笑顔で見送った。だけどやっぱり世一くんのいない学校生活は中々慣れなくて、覚悟してたけど寂しいものは寂しい。あの頃は連絡も取れなかったから、周りのカップルを見ては世一くんを思い出して散々泣いていたっけ。

でもそんな感情が何処かに消え去ったように目を奪われたのはU−20日本代表戦。あの時の世一くん、とっても輝いて見えた。わたしが恋したグラウンドで走る世一くんよりも、ずっとずっと楽しそうに見えたのだ。ああ、これが世一くんのしたいサッカーだったんだなぁて思って、1歩ずつ夢に進んで近付いていっている世一くんを誇らしく思った。

2週間のオフで地元に帰って来た世一くんは青い監獄へ行く前よりも少しだけ大人びて見えて、胸がきゅう、と詰まったような感覚がわたしを襲う。抱きつきながら会いたかったと口にして、あそこがかっこよかった、ここの世一くんは何回も見返した等気づけば熱烈な世一ファンになったわたしは口が止まらず、一生懸命ない語彙力を振り絞り本人に熱弁していたこともある。それに対して世一くんは照れすぎて「もっもういいよ。…恥ずかし。これ以上は、ほんと…勘弁」と口に手を当てて頬を染めた。ハッとした頃には釣られてわたしまで恥ずかしくなって、開いてた口を即座にチャック。

このままいけば本当に世一くんは世界一のストライカーになれるのではないかと思えてしまうほど世一くんは着々と実績を積んで、わたし達が高校を卒業する頃には彼を欲しいと海外からのオファーがたくさん届いていた。それはとってもとっても喜ばしいことなのに、世一くんが日本を離れてしまうという未来を想像すると正直キツかったのは事実。

彼が選んだ先はバスタードミュンヘン。国外へ旅立つ世一くんを見送りに空港へ行ったのに、「ドッ、ドイツの時差ってどれくらいあるんですか」と潤む目で渋って未だわたしは世一くんの服の袖を離せないでいた。困ったように笑った世一くんは数拍置くと、いつもの可愛らしい表情ではなくて真剣な眼差しでわたしの名を呼んだのだ。

「オフシーズンになったら帰って来るからさ」
「う"っ、うん」
「それで俺がまたドイツに戻るとき、ナマエも一緒に連れて帰ろうと思ってる」


「……へ」


わたしの返事を待たず、世一くんは「行ってくるよ」と乗せていたわたしの頭から手を離す。忙しなく人が歩くなかでわたしだけが時が止まって放心状態。どんどん小さくなる彼の背を見て言葉の意味をゆっくり理解していくと、我慢していた涙が寂しさとは別の意味でぶわっと溢れ出した。


…そんな思い出が、死ぬわけでもないのに走馬灯みたく蘇る。

「…くそよいち。ばかあほ」

ドイツに訪れて約半年。こうなる予定は全くなかった。
ちょっとは追い掛けて来いよ!!なんて思うけど、足早で家を遠ざかったせいなのか分からないが世一くんは追い掛けては来ない。自分で出て行ったクセにこんなこと思うのもどうかしているとわたし自身にも腹が立つ。

青い監獄時代からのドイツ。プチ遠距離からのガチ遠距離恋愛をしていたわたし達は、会えばお互い「好き好き!」を全面に出していたからか、喧嘩という喧嘩もこれだけ付き合っているにも関わらずしてはこなかった。

世一くんは優しい。誰に対しても優しいのだ。
例えば、おばあちゃんが重い荷物を持っていたら率先と手に持ち手助けするし、公園でデートをしていれば子供達が寄って来る。それで一緒になって遊んじゃうような人。

世一くんは人助けも出来るし、周りから好かれる。
気付けばいつだって彼の近くにはたくさんの人で溢れてる。

そんなところにもわたしは惹かれた訳で、世一くんの良いところってのはちゃんと分かってるつもり。だけど流石にわたしがいながらも他の子をホテルへ送って行くのはよろしくない。やって良いことと悪いことがあると思う。


「3.5ユーロになります
「あぁ、はい」

適当に入ったカフェの店内。取り敢えずカフェラテでもテイクアウトして頭を落ち着かせようとした矢先。

「…あれ?」

サイフを取り出そうとバッグを漁るもない。チラりと店員を見るも首を傾げてわたしがお金を出すのを待っている。
泣き腫らした目を細めて「えへへ」と笑えば、店員にギョッとした顔付きで見られてしまったけれど、慌てて視線を逸らしてもう一度バッグを漁る。


「……」


ない! やっぱりサイフがない!!

青ざめるわたしに店員は不信感丸出しで顔を歪ませる。ヤバい。勢いで飛び出して来てしまったせいでサイフを机に置いて出てしまったことをすっかり忘れてしまっていた。

「…えと、あのぉ」

後ろに人が並んでいるのが分かる。とにかく今はこの場をなんとかして抜け出さなければならない。今日は朝から本当にツイてないとまた泣きたくなった。謝罪をしようと口を開きかけたとき、背後から声が聞こえてきた。


「おい、後ろが詰まっている。何してるんだ」


「…へ?」


声の主へと振り返る。
深く帽子を被り、サングラスをかけた長身の男性。変装しているんだろうが隠しきれていないオーラと聞き覚えのある声音に瞬きを繰り返してしまった。眉間にグッと皺を寄せ、早くしろと威圧感バリバリ醸し出している見覚えのあるこの人はもしかしなくても。

「…お前、」
「おっ、おかね…」
「あ?」


「お金かして下さい!」
「は??」


ほぼ初対面に近い人と言っても過言ではない人に、あっと思った頃には時すでに遅し。

わたしの婚約者を毎度煽りに煽りまくっていることでも有名なその男は、一瞬ポカン、と口開けた。








「すみませんほんと。ごめんなさい」
「別に?気にしてない。ただ人生で出会って早々金貸せと言われるのは初めてだったがな」
「ヒッ、ぜっ絶対お返しします」

ドイツにあるそれ程までは大きくない料理店。まだドイツへ訪れて半年程しか経っていないけど、店の中は懐かしさを思い出すような装飾と日本食を取り扱っている店だった。そこの2人がけの小さなテーブルでわたし達は向かい合っていた。

不思議そうに茶碗蒸しをスプーンで掬って口にする皇帝と、未だ何も手がつけられず石のように固まるわたし。

どうして、どうしてこうなった。

先程のサイフ忘れ事件からここまでの展開が早すぎて、わたしの頭は未だ状況が整理出来ずにいる。

『ってかそのブサイクな面はなんだ?お前世一の婚約者だろ』
『えっと、その』
『さてはフラれでもしたのか』

愉しい玩具を見つけたかのようにサングラス越しから覗いた天色の瞳が細まった。その瞬間止まっていた涙は再度ぶわっと流れ、ゲェっと顔を顰めたカイザーさんは「うるさい」と口にしてわたしをここまで連れて来てくれたんだけど。道中はちょっと泣きすぎて覚えていない。

「あの、カイザーさん。わたしお財布持ってないのでここの支払いが…」
「初めからお前に一銭たりとも期待してない。貴重品を忘れるバカって本当にいるんだな」
「あっはい…その通りですすみません」

サラりと痛いところをつくカイザーさんに、口をぎゅうと閉じる。なんだかこれパワハラ上司と仕事が出来ない部下みたいなあの感じに似ていると思ってしまったけど、冗談が通じなさそう(当社比)なので口が裂けても言えなかった。
そもそもわたしとカイザーさんは会ったことも話したことも一度か二度あるくらいなもので、しかも初対面時挨拶をしたら無視とまではいかないけど冷たく返された苦い思い出がある。

そうして無言の数秒が1時間にも2時間にも思えて気まず過ぎる。カイザーさんもなにも喋らないから、どうすれば良いのか分からず笑顔を作ってみた。

「あっあの、カイザーさんはここに良く来るんですか?」
「いや?来たことないな」
「あ、じゃあ日本食がお好きなんですか?」
「別に悪くはないが普通」

ダメだ。会話が続かない。変な汗が背中を伝う。目の前の美味しそうな料理たちがキラキラと輝いていたって申し訳ないけど食欲が沸かず、グラスに注がれた水に口をつけた。

「何をさっきからそんなに警戒してる?」
「いえ!そんなことはないです!」
「ふん、"カイザーには気を付けろ"とでも世一から言われてたか?」
「う"っ」
「そんな俺に金をせがんできたのはお前なんだけどなぁ」
「あっアレはちょっとパニックになっちゃって!」

なんで分かったんだこの人!エスパーですかと心の中でツッコミを入れる。世一くんから前にカイザーだけとは仲良くしないでと言われたことを思い出す。当時は仲良くなるも何もカイザーさんと話す機会もあまりないため、こんなことになるだなんて思わず首を縦に振っていたのだけれど。

「で、今日はオフだろ」
「あ…そう、ですね」
「それなのにお前が泣いてほっつき歩いていた理由はなんだ?」
「それは…」

小首を傾げたカイザーさんに、理由を言ってもいいものかと言葉に詰まる。というか、朝からメディア関連で騒がれていたはずだけど、カイザーさんは知らないのだろうか。ソロりと目線を向けるも何を考えているのか全く分からない表情をしているから困っていると、痺れを切らしたカイザーさんが口を開いた。

「当ててやろうか」
「はい?」
「世一がオンナといるところをすっぱ抜かれたから、だろ」

にやぁと口端を上げたカイザーさんにわたしの目が見開いた。


「知ってるんじゃん!!」


またわたしは心で思ったことと同時に口へ言葉にしてしまった。カイザーさんはギャン、と吠えたわたしに小さく笑った。







「…ってことがあって家出して来ちゃったんですけど」

あれから数分。開き直ったわたしは天ぷらをつつくカイザーさんを他所に今日の昼間の出来事を話す。世一くんのチーム内のライバルにこんなことを言っていいものかとも考えたけれど、カイザーさんは黙ってわたしの話を聞いてくれていた。

「カイザーさんだったらこういう時どうします?」
「どうもこうもしない。クソ躾ける」
「躾ける!?ですか。あー…と、参考になります?ね。はは」

全然参考にならない。
多分カイザーさんは思考回路がわたしとは異なっている為、全く予想もしていない回答が返ってくる。乾いた笑いがつい出てしまったけれど、カイザーさんにバレてなくて良かった。

でもあのカイザーさんだもんな。きっと女性関係では選り取りみどりに違いないから、こんな風に悩んだりすることはきっとないんだろう。

「お子ちゃま世一クンの事だからねぇ。オンナのことはサッパリなんだろ。…で、お前はこれからどうするんだ?」
「え?」
「多少はこっちの言葉も話せるみたいだがそのお前が付けてるイヤホン。それなしじゃまともに生活出来ないし働けないだろ。日本に泣きながら帰るのか?」

カイザーさんは自身の耳を指でちょんちょんと当て、冷静に言葉を述べる。

わたしがドイツに渡り約半年。
右も左も分からないとはまさにこのことで、ドイツへ渡ってから初めの1ヶ月はとにかく慌ただしい毎日を過ごしていた。慣れない環境、知人のいない毎日、言語の違い。「本当に大丈夫なの?」とわたしと世一くんの関係を知っている友人は、楽観的に考えているウチの親より心配してくれた訳だけど、「なんとかなるでしょ」と元気良く手を振った自分は間違いだった。なんとかならない。この言葉しか出てきやしない。

買うもの見るもの全て当たり前だけどドイツ語で、日々の生活が厳し過ぎる。わたしの考えが甘かった。勿論ドイツ語は今でも勉強してる。だけど日本を経つ前のたったの1年でペラペラ話せる語学力はわたしにはなく、簡単な日常会話と読みがやっと出来るようになった程度。だから世一くんがくれた翻訳イヤホンはわたしにとって必要不可欠な代物だ。

「…カイザーさんて意地悪ですよね。わたしの家出理由も知ってたのに知らないフリしてたし」
「憐れなヤツを見るとからかいたくなるのはなんなんだろうな」
「ひっど!!」

わたしの口があんぐり大きくあいた。それを見た彼は品良くクスクスと笑うのだ。
ドSにも程がありすぎやしないかこのお人は。カイザーさんの彼女になる人は大変そうだ、そんな事を考えていたら今悩んでいたものがほんの少しバカらしくなってきて、手をつけていない食事に箸を伸ばす。

「ってかわたしカイザーさんに嫌われてると思ってたんで今こんな風に話聞いて貰ってるのなんか不思議です。初めてカイザーさんに挨拶したとき、めちゃくちゃわたしに冷たかったですよね」

こういう所が自分のダメなところだと思う。こういう風に後先考えないで物を言うから後悔したりする訳で。でもこんなこと、誰だって想像出来ない。明るく振る舞ったつもりだったのに、カイザーさんは真剣な眼差しでわたしの瞳を捕らえた。

「俺はお前のこと嫌いだなんて一言も言ってはないが?」
「……へ」
「家に帰りたくないんなら匿ってやろうか」

持っていた箸が勝手に止まった。あと1口分あった天ぷらが転がり落ちてしまったけど、そんなこと気に出来る訳がなかった。それよりもカイザーさんがなんて言ったのかもう一度問いただしてしまったわたしを誰か殴って欲しい。

「お前耳の悪さも1級品か?アイツから匿ってやってもいいと言ってるんだ」

カイザーさんはわたしの反応を試すように淡々とその言葉を口した。冗談、うん。絶対冗談だ。さっきみたいにからかって楽しんでる、そうに違いない。なのに目先にいる男の口調は落ち着いていて、目だって笑っていなかった。

「いや、でも流石にそれは」
「迷う必要が何処にある?世一は昔からあんな性格だ。ちゃんとしたときに断れない男の何処がいい」
「……」
「別にそれが悪いと言ってる訳じゃない。優しく出来ない人間はこの世にわんさかといるからな。それは良いことでもあるんだろうが、仇にもなる。結局こうして誤報であろうと写真まで撮られてしまえば世間は祭りのように騒ぐしな」

カイザーさんの言っていることは多分、一理本当のことだろう。わたしと同じか、もしかするとわたしよりも時間をトータルして世一くんと過ごしているカイザーさんに言われてしまうと、中々違うと言葉に出来ないのが悔しくて、唇を噛み締める。

「俺だったら婚約までしてここまで連れてきた女を傷付けない」

どんどんどんどん、場の雰囲気が変わっていく。カイザーさんの言葉によって、空気がおかしな方向へ向かっていっているのが嫌でも分かってしまう。頭は思考回路が停止して真っ白になりそうだった。それなのにカイザーさんはそんな気も知らずに言葉を吐いていく。

「お前から俺の手を取るって言うんなら俺がお前のことをクソ1番に考えてやる」
「あ、」
「俺ならお前を傷付けることはしないし、面倒だって見てやれる。他の女の連絡先だって消すし、大事な女がいるって口にも出来る」
「あっあの、カイザーさ、」
「こんな優良物件、他にないと思うが?」

押し黙ってしまったわたしに、カイザーさんはゆっくりと目を細めていく。つい最近まで親しくもなかった人間にこんなことを言われたって平常心でいられる訳がない。それにこんなことを言えてしまうカイザーさんのわたしに対しての気持ちだって分からないのだ。

数拍置いて、やっとわたしの口からでた声は震えていた。

「でもわたしは世一くんのこ、婚約者で、」
「まだ、な?お前らはまだ届出を出していないただの婚約者だろ。別れりゃ済む単純な話だ」

毒のように甘い声音で彼は微笑んだ。カイザーさんの視線はずっとわたしを見続けていて逸らすことなんか許してはくれず、わたしの返答を静かに待っている。

「…電話、鳴ってるな」
「あ、」

テーブルに置いてあったわたしのスマホ。
鳴り出している着信に目を向けると我に返った。


"潔 世一"


心臓が大きく跳ね上がる。
伏せていなかったせいできっとそれはカイザーさんの目にも映っているだろう。

出なくちゃ。出なくちゃ電話が切れてしまう。

スマホに手を伸ばしたその瞬間、カイザーさんはわたしより先にそのスマホに手を伸ばし、それを伏せた。


「かっカイザーさん?」
「今お前とお話してるのはこの俺だろ」


乾いた口内にゴクリと息を飲む。
鳴り止まなかった世一くんからの着信が止まると、そこには静寂がわたし達を取り囲んでいく。




そうして先に口を開いたのは、カイザーさんの方だった。






「さぁ、お前はどうする?」










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