ブルロ夢 | ナノ


「お前を思わない日はなかったよ」



※私(主)のせいで世話焼きなミヒャエルくんに彼女が出来ないみたいなので離れることにした話




「お前は阿呆だから俺がいなくちゃ何も出来ない」

わたしに対するミヒャの口癖みたいなもの。耳にタコが出来るくらい聞いたし、言われた言葉。

母子家庭育ちである。母はわたしを育てるため、生活するために夜の街で働き、男を作った。わたしが眠る頃にはいつも母がいない。ひとり分空いた冷たいベッドの上で朝まで過ごすのはまだ幼い子供には無理な話で、よく泣いて過ごしていた幼少期。雨が強い日や風の強い日なんかは特に嫌いだった。今でもあまり、得意じゃない。だけど子供といえど働いている母に我儘は言えず、自然と身につくのは我慢だけ。寂しいと素直に言えればいいんだけど、言えなかった。子供だって馬鹿じゃない。小さな脳みそなりにちゃんと考えてる。母が働きに出て、その足で男の家に行ってしまうことも、ちゃんと分かっていた。
ひとりで朝を迎えることが多い。朝方に目が覚めて隣に母の温もりがあると、例え眠りこけて起きてくれなくても嬉しくて仕方がなかった。

わたしの友達のはなし。「遊園地に行ってきたんだよ」とか、「ママがハンバーグ作ってくれたの」だとか、そういった何気ない家族の思い出が、わたしにはいくら頭を捻っても出てこない。羨ましくて羨ましくて、嘘をついてしまったこともある。だけどそんな嘘は結局嘘であって現実ではないのだから、単に虚しくなるだけだった。

「現実にすりゃいいだろ」
「…へ?」

使い古されたボールでリフティングしながら、わたしの幼なじみはなんてことのないようにその言葉を口にした。意味を理解出来ない当時のわたしは半べそかきながら顔を俯かせていたんだけど、その顔を夕日に照らされた彼へとあげる。

「遊園地もハンバーグも、俺が連れてってやるし作ってやる」
「…ミヒャが?」
「ああ。だから、泣くな」

ミヒャが遊園地で楽しそうにしているところだとか料理をしてるところなんて想像がつかなくてポカンと呆けると、ミヒャはバツの悪そうに「俺に不可能はない」と顔を背けた。

いま思い出してみても、産んでくれた母との思い出よりミヒャとの思い出の方がたくさんあるって不思議なはなしだよね。わたしがこの一言に幼きながらどれだけ救われたことかミヒャはきっと知らない。もしかしたら哀れだと思ったのかもしれないし、泣きべそばかりかくわたしに呆れて言ってくれたのかもしれないけれどそれでも心の底から嬉しかった。

「お前の考えていること当ててやろうか?」
「わかるの?」
「顔に出やすいからすぐ分かる。クソ下らないこと考えてんだろ」
「…くだらなくないし」
「そ?んじゃ、そういうことにしといてやる」

たった一人のわたしの幼なじみ。ミヒャにとっても幼なじみと呼べるものはわたしだけ。わたしより3つ上のミヒャはいつだってわたしを助けてくれたし、元気をくれて、気付けばわたしの顔には笑顔が戻ってる。

それなのに、わたしはミヒャに何もお返し出来るものがない。何かを返そうとしたって、結局最後はわたしが励まされてばかりで、ミヒャは「気にするな」としか言わない。

そんな彼に、甘えてしまったのだ。



「おいナマエ、帰るぞ」

友達と夕暮れ時の公園で遊んでいれば、サッカーの練習を終えたミヒャエルが迎えに来てくれる。まだ帰りたくないと駄々をこねるわたしの手を引っ張って、片手には大事なサッカーボールを持ちながらわたしを家まで送ってくれるのだ。この時間が、一等好きだった。

「……この時間って寂しいよね」
「はぁ?」
「なんか、そういうときない?寂しいじゃん」
「俺には…よく分からん」

わたしより一歩前を歩く後ろ背を見ながらぽつり、と呟いた。夕方は意味もなく泣きたくなるときがある。夜の静まり返った闇が怖い。ひとりで食べるご飯はつまらないし美味しくない。真っ暗な部屋が大嫌い。好きな物より嫌いなものの方が多いことにうんざりしてしまう。

「…ミヒャがずっと一緒にいてくれたら寂しくないのに」

自分の親には言えないクセに、何故かミヒャには素直な気持ちが口から洩れた。急に立ち止まったミヒャに驚いて顔を上げると、ほんの一時、ほんの一瞬、振り返ったわたしを見つめる天色の瞳がもの悲しげに揺らいだ気がした。

「そうねぇ…。ふん、仕方ないから寂しがり屋なナマエチャンの為に俺がお世話してやるよ」
「えっ!」
「お前は俺がいなくちゃ何も出来ないからな。光栄に思え」

意地悪く口端を上げたミヒャにからかわれたんだと気付いたわたしは真っ赤になって口を尖らす。さっきのあの顔は見間違いだとでもいうようにケラケラと笑うミヒャ。睨みを効かせてみたって効果は全くないし、寧ろ「照れ隠しか?」とか言われてしまう始末。

「そうやっていつもミヒャは、ぅわっ」
「お前は素直に俺を頼ってりゃいーんだよ」
「うっ…」

ポン、と頭に乗せられた大きな手のひらでぐしゃぐしゃと頭を撫でくり回されると、視界は簡単にぐらぐらと揺らぐ。わたしを見下ろして目を細めるミヒャに視線をつい逸らしてしまう。こういうときのミヒャは決まって大人に見えて、たった3つの年の差が大きく感じる。なんだか胸の奥がチクリと痛むし、きゅう、と締め付ける感覚がいつもわたしに襲いかかるのだ。だけどこの感情に名前をつけることがまだ当時のわたしには難しかった。








わたしが楽しいなって思うときも、寂しくて泣きたくなるときも、いつだってミヒャは傍にいてくれたから、大袈裟に聞こえるかもしれないけどわたしは笑顔で過ごせていられたと思う。巷でサッカー界煽りの皇帝とか言われていても、ミヒャがどれだけ優しい人なのかをわたしは知っている。どれだけ努力家なのも、知ってるつもり。
わたしが泣かないように、わたしが落ち込むことが減るように、何かに理由を付けては大事なオフの日に外へと連れ出してくれて、朝が苦手なわたしを電話で起こしてくれたり、遊園地にはまだ連れて行っては貰えていないけど、ハンバーグだって覚えて作ってくれた。

ほんと、十分過ぎるほど、ミヒャは優しさをくれたと思う。

「うまいか?」
「うんっめちゃくちゃおいしい!コレほんとに初めて作ったの?」
「誰かさんが食べたーいとか言ったからな。そうじゃなきゃ作らない」

時折、ミヒャの何気ない一言に胸どころか頭からつま先までフリーズ仕掛けることがある。きっとミヒャはそんな気はないって頭では分かってるのに、期待をしてしまうような言動をサラりと述べられてしまうと気持ちとは裏腹に胸は一々忙しなく反応してしまう。

「…ありがとう」

誰かと食事をするってだけでご飯は一際美味しく感じるものだ。友達とでもそう思えるけど、それとはやっぱり別もので。わたしがハンバーグ食べたいなんて言ったのはかなり前のことなのに、ずっと忘れないでいてくれたことがどうしようもなく嬉しかった。

ミヒャは切れ長の瞳をぱちぱちと瞬きをさせると、ふっと笑いだす。

「なっなんかわたし変なこと言った!?」
「ん?っふは、いや?素直で良き良き。んっふふ、ほら俺の分もやるから食え」
「嬉しい、けどそこまで食い意地はってないよ!ミヒャも食べなよ」
「俺はお前がそうして笑ってりゃそれでいい。どーぞ」
「え"っ!?…ん"っケホッ」

わたしのお皿に半分残ったハンバーグが置かれる。ミヒャの言葉に逐一反応してしまうわたしは、水を飲んでいたせいでむせてしまった。咳を繰り返すわたしにミヒャは呆れた口調で「おバカだな」とかなんとか言ってティッシュを取って手渡す。だってミヒャが悪いよ。こういうことを言うんだもん。さっきの頬杖ついて柔和に微笑んだミヒャの顔、わたしきっと忘れられないと思う。頬がバカみたいに熱くなって赤面してしまうのをバレたくなくて、どんな顔をしたら良いのかとか、なんて答えたら良いんだろうって途端に分からなくなってしまう。

家に帰って自室のベッドに横たわり、いつもは寝ている時間なのに頭のなかでミヒャを思い出してしまって全然眠れないの。

わたしが泣かなくなったのはミヒャのおかげ。
わたしが笑顔でいられるのはミヒャと会えるのが楽しみだから。
わたしが毎回こんなにドキドキしてしまうのは、ミヒャのことが好きだからだ。

だけどこの恋に自覚することが出来たって、事はそんな簡単に動かない。

だってわたし、勘違いしてた。恥ずかしいな。
こうして幼い頃からミヒャと一緒にいられて優しくしてくれるのは、ミヒャがわたしを特別な女の子扱いをしている訳ではなくて、わたしがミヒャの幼なじみだからだ。

それだけの理由だった。







新世代世界11傑に選ばれてからのミヒャはサッカー界において世界で名の知れ渡る人となった。いつもはサッカー以外では冷静な彼だけど、この時ばかりは嬉しそうでわたしも同じくらい嬉しくてたまらなかったのを覚えてる。「俺だからな。当然だろ」と勝気な表情を浮かべたミヒャに、ついつい頬が緩んでしまう。

「おい、なんでお前がそんな嬉しそうなんだ」
「だって世界の11人に選ばれるってそうそうないことだよ!? それにミヒャが選ばれるなんて嬉しいに決まってるじゃんっ。今日はケーキ買って盛大にお祝いしよ!」
「はいはい。ってかそれはお前が食いたいだけだろ」

「ケーキなんてお子ちゃまねぇ」と小馬鹿にしつつもわたしの好きなお菓子屋さんへ向かってくれるミヒャ。今日はミヒャのお祝いだからと言ってもわたしの好きな物を勝手に選んでくれる、ミヒャはそういう人なのだ。
わたしの事を誰よりも知っているミヒャには本当に感謝してるよ。わたしは応援することしか出来ないけれど、数多くいるミヒャのファンの中でも1番のファンだってそれだけは胸をはって言える。それはこれから幾つ歳を重ねたって変わらない。大人になって、おばあちゃんになっても、ミヒャが将来現役でなくなった歳を迎えたって、1番好きなサッカー選手はミヒャだとわたしは答えるだろう。



「おいカイザー、明日のミーティングの件なんだけどってわりぃ。お取り込み中か?」

とある日の、バスタードミュンヘンの強化試合を見に行った帰り。呼び止められたミヒャは声の方へ振り向くとゲェっと顔を顰めた。

「なんだゲスナー。今じゃなきゃダメな話か?」
「いや、別に大したことじゃねぇんだけどってかその子よく試合見に来てるって言ってた子だろ?」
「…何が言いたい」
「べっつにぃ?コレかなって思っただけ」

ニヤッと笑いゲスナーと呼ばれた人はわたし達に向けて小指をそっと立てる。それが目に映ると瞬く間にぶわっと体の体温が上がっていくのが自分でも笑っちゃうくらい分かった。慌てて弁解しようとしたわたしよりも先に、ミヒャがため息吐いて口を開いた。


「そんなワケないだろ。ホントお前の頭は常時女のことしか考えてねぇな。コイツはただの幼なじみだ」


胸が押し潰されそうになった。上がっていた体温が急速で冷えていくのを感じた。「そうなのか?」と小首を傾げるゲスナーさんに愛想笑いが出来ていた自信もない。ただミヒャのいま言った発言がわたしの中をぐるぐると巡りまくって、頭から抜けてくれない。

「てっきり世話焼いてる子っつーから大事な子なんかと思ってたぜ。お前飲み会とか付き合いわりーしよ」
「下らないお遊びに興味がないだけだ。媚びる女には興味がない」
「ひゅ。モテる男は言うことちげぇな。んでも結構楽しいもんだぜ?お前なら選り取りみどり。この間もお前目当てで来た女がいねぇからって物々言って悲しんでたぜ?」
「そんなん知らん」

ミヒャには、沢山のファンがいる。昔からそうだった。こんなにかっこよくて、こんなに魅力に溢れた人なんだもん。ファンレターやプレゼントは数え切れないくらい貰ってた。ミヒャが今より有名になる前からこうだったんだから、昔よりもっともっとミヒャとお近付きになりたい女がいるのは当たり前のことだ。
今更悲しんだって仕方がないことなのに、急にわたしが今恋をしている人がどんな人だったかなんて現実味を帯びてきて、目の前が真っ暗になりそうだった。

「まぁアンタ可愛いし、同い年くらいのユースのガキでも紹介してやろうか?」
「えっ」
「そうですよ!そうして貰いなさい!」

ゲスナーさんの方へ視線を向けるとその背後からひょっこりネスくんが顔を出した。

「あなたはカイザーに甘えすぎなんですよ。もっとカイザー離れをしたらどうですか」

ネスくんは、いつも通りに発言したつもりなんだと思う。何度か話したことのある彼はミヒャのことが大好きで、そんなネスくんのことも嫌いじゃなかったし、たまに嫌味っぽく言われることもあるけれど、なんだかんだ可愛がって貰っていた。だけど今のわたしにはちょっとキツい。普段なら当たり障りのない返答が出来るのに、それが出来ない。

「ナマエ?」

目の奥が熱くなってきて、鼻の奥が痛む。ホラ、いつも通り言い返さないからネスくんがおかしな顔でわたしを見てるじゃん。別にこの2人はなんにも悪いことを言ってないし正しいことを言っているだけなのに。何を泣きそうになってるの。

黙り込んでしまったわたしに、この場の話を終わらせたのはミヒャだった。

「コイツ昨日俺の試合楽しみで仕方なくて眠れなかったんだと。疲れてるみたいだから俺らはもう行く」

わたしの手を取り2人に背を向けると、ミヒャは自分の車に着いてわたしを助手席へと座らせた。

「ネスのこと気にしてんならいつもの事だろ」
「…うん」
「お前本当に今日どうした?体調悪いのか?」

ふるふると首を振る。ミヒャは横目でそれを見てるのが分かったけれど、どうにかして泣きたい気持ちをぐっと押し殺すのに精一杯だった。

「……みひゃは」
「ん?」
「ミヒャはわたしがいるから彼女作らないの? わたしがいるから、飲み会とかに行かないの?」

聞こえて欲しくないけど、言ってしまったら答えを聞きたい自分に矛盾してるのは100も承知。ばくばくと死にそうなくらい心臓が音を鳴らしてて、自分で聞いたクセに後悔した。


「別にそういうワケじゃない。欲しけりゃ作るし行きたきゃ行く。今はそんな時間もないしお前に気を使ってるとかそういうのじゃないから気にするな」


気になるよ。それって裏を返せばわたしがミヒャの時間を奪ってしまっているからってことを指すワケで。だってミヒャ、少し困ったように眉を下げたのわたしは見逃さなかった。

わたしは昔のように子供でないから、この場で泣きじゃくるなんてことはしちゃいけない。それこそずっとただの幼なじみだと思っていた女が長年恋をしていましたなんて知られたら、そんなのミヒャだって困るだろうし、重すぎる。

帰りの車内は無言であった。ミヒャは何にも喋らないわたしのことを、どう思っていたのかは分からない。
さして時間も掛からず家に着いてしまう。「またな」と言ったミヒャに「送ってくれてありがとう、またね」と言って手を振るのだ。ミヒャの車が見えなくなるのと同時に我慢していた涙が滝みたく流れる。



諦めるには、丁度良いと思った。
ミヒャは1週間後にドイツを経つ。日本のブルーロックと呼ばれるサッカーの施設に招集がかかったから。

「俺がいないとお前起きられないのにな」なんて揶揄うミヒャに起きれるもんと口を尖らせた。
「これの何処が可愛いのか分からん」というミヒャがわたしの誕生日にくれたぬいぐるみはわたしの宝物。
「日本に経ったら暫くお前の傍にいられないから今日は好きなとこ連れてってやる」と言ってくれたとき、心底感じたことのない幸せだって知った。


あのね、ほんとはね。
ミヒャはよくわたしに「俺がいないと」って言うけれど、わたし朝だってちゃんと起きられるし、ご飯だって作れるの。一人で眠れるし、一人で過ごす時間の使い方だって分かってる。世の中の人たちが当たり前に出来ること。わたしだって本当はちゃんともうずっと前から出来るの。

ミヒャに構って貰えるのが嬉しくて、出来ないフリをしてたわたしを許して欲しい。きっとミヒャに本気で恋しているファンなんかに知られたら、それこそわたしは刺される案件だろう。

ただわたしはミヒャを好きになってしまったから、ミヒャと一緒にいたくて、ミヒャがわたしに笑いかけてくれるあの顔が自分の思っている以上に本当に本当に大好きだったから、幼なじみという言葉とミヒャ自身に甘えてしまっていた。

「…わたし結局ダメ人間じゃん。かっこわる」

乾いた声が室内に響く。気持ちを伝えることは出来なかったけれど、今わたしに出来ることなんてひとつしか残ってない。
これ以上ミヒャに甘えて時間を奪ってしまうのだけはしちゃいけない。好きな人だから、重荷になりたくない。だからわたしはミヒャがドイツを経つ際は笑顔で見送る。何事もなかったように、心配をかけないように、ミヒャにわたしの気持ちがバレないように、さよならするって決めたのだ。




「日本に着いたら連絡いれるから良い子で待ってろよ」
「うん。お土産よろしくね」
「はいはい。甘いもんな」

空港のお見送り。昨日まで沢山泣いていたから、目が腫れたらどうしようかと思ったけどなんとかなった。時間が迫る。「カイザー」と呼ぶネスくんの声が聞こえる。あれからネスくんと1度だけ顔を合わせたけれど、前のわたしを気にしてか「いつものあなたらしくない」とネスくんなりに気を使ってくれたことが申し訳ない。

「ミヒャ、気を付けて行ってきてね。あと、いつもありがとう」
「? なんだ?急に。まぁ、行ってくる。俺がいないからって泣くなよ。帰ったら速攻で会いにいってやるから」
「……うん」
「約束だ」

小さな子に言い聞かせるような約束事。悪戯げに笑ったミヒャにわたしもいつものように笑いかける。良かった。ちゃんと笑えて。
ちゃんとしたお別れは出来ない。ミヒャはきっと「そんなこと気にするな」と言うだろうから。だから狡い去り方をしてしまったけれど、許して欲しい。
行ってしまった飛行機の後を暫く見つめて、わたしは一人で家路に帰る。



ミヒャの連絡先を全て削除して。








「でね?わたしの恋が終わりを告げちゃったんですけど」
「それは大層な恋をしましたね。さぞお辛かったことでしょう」
「いやいやそんな。…まぁぶっちゃけ当時は体の水分なくなるくらい大泣きしましたけど」

1ヶ月の長期出張で見つけた小さな雰囲気の良い飲み屋さん。久しぶりに訪れたこの街は、お気に入りのカフェが閉まっていたことには悲しくなったけど、わたしが住んでいた頃とあまり変わりがなくて安堵した。

あの頃さよならをしてミヒャに言えなかったことがもう1つ。母が再婚する事になったということ。放任主義でも母は母。わたしは未成年。一人暮らし出来るお金もないわたしは母と義父に着いていくしかなくて、この街を去ったのだ。もうわたしは大人の年齢。大人になると1年早いもので、今は一人暮らしをして毎日を過ごしてる。

「ってかごめんなさい。マスター話しやすくてついいっぱい話しちゃった」
「とんでも御座いません。今日は平日で人も少ない。あなたのような素敵な女性の恋愛話を聞けるのは貴重です」

イケおじってこういうおじ様のことを言うんだろうなぁと酒の入ったグラスに口付けながらそんなことを思った。

「…そのお方は今どうなされてるんでしょうね」

マスターはサービスだと言いナッツを乗せた小皿をわたしの前に置く。お礼を告げるとマスターは柔和に目を細めた。

「んー…もう何年も連絡取ってないんですけど、風の噂では大事な人がいるみたいです」
「ほぉ?大事な人ですか」

流石にサッカー選手だとはいくらなんでも言えずそこら辺は濁して話をしていたから、バレてはいないだろう。
つい最近、テレビに映ったミヒャを見た。昔と変わらずなスーパープレイ。バスタードミュンヘンの顔なだけあるって素人のわたしでも分かる。どんな場所でもミヒャが活躍すれば世間は賑わっていたし、メディアの仕事も受けているらしく人気者だから、わたしの働く職場でもミヒャのファンはたくさんいる。

普段はあまり考え込まないようにしているんだけど、何年経っても当時のことをたまに思い返せば胸が苦しくなる。元気にしてるかなぁとか思っては、テレビに映るミヒャを見て安心したり。

そんななか、ミヒャはインタビュアーに質問されていた。

「カイザー選手!今回も見事なプレーでしたね」
「あぁ」
「カイザー選手は今年27歳を迎えるとのことですが、そろそろ結婚願望なんてものはありますか?」
「あー…そうだな。大事に思ってる奴ならいる」

早朝の、メイクをしていた時間だった。ミヒャは声のトーンを低くするわけでも高くするワケでもなく淡々とその言葉を口にしたから、インタビュアーも驚いていたし、わたしも同じく驚いてアイラインを物凄い長さで引いてしまった。

でもそりゃそう。それが自然なことなのだ。
あれから何年時が過ぎたと思ってるの。ミヒャに好きな人が出来たってなんらおかしな話じゃない。
もうとっくに自分の中の恋心は吹っ切れているはずなのに、雨雲みたく暗い感情がわたしを襲ってきたことに、自分でも呆れてため息が洩れた。

「まっまぁ今彼が幸せならそれでいいんですけどね!へへっ」

無理矢理明るい声音を作ったのに、マスターはわたしの方を見ていない。え?と思った頃にマスターは口開く。

「だ、そうですよ」って。

マスターが見つめるわたしの背後を振り返る。するとそこにはいないはずの、彼がいた。

「その大事なヤツが逃げてしまったから俺はいつまでも独り身なんだけどな」
「えっ…えっ!?」

マスターと見覚えのある男を交互に見やる。「ごゆっくり」とマスターは告げて、その場を離れてしまった。でもそんなことよりも、なんでいるの。

わたしを見下ろす天色の瞳。眉を顰めて不機嫌そうだ。
金髪の髪に水色のグラデーション。左手の甲にはタトゥーが彫られてる。

「みっ、みひゃ?」
「俺に見えなきゃ誰に見える?久しぶりに会ったっつーのに幽霊でも見たような顔だなお前は」
「えっと、その…っ」
「俺から急に離れるなんていい度胸してんじゃん?ナマエ」

グイッと引き寄せられたわたしの頭。
唇と唇が触れ合いそうなその距離に呼吸が止まる。ミヒャが昔つけていた香水の香りは今も変わってなくて、その香りが心臓の音を加速させた。息が上手く吸えない。ミヒャがわたしを見つめるその視線が突き刺さって、逸らせないのだ。そうして聞いたこともないような一際低い声音で、ミヒャは口を開いた。



「長い鬼ごっこはこれにて終了だ。俺との約束破って勝手にいなくなったお前に言わねぇと分かんねぇことがクソほどあるみたいだから教えてやるよ。俺がどんだけお前のこと大事にしてたか分かってなかったみたいだからな」







−−−−−−−−


「カイザー、ナマエのことなんですけど」
「あ?」
「っ、よくカイザーが行く飲み屋があるでしょう?昨日僕ちょっと寄ったんですけど、そこに最近来てる女がいるらしくて」
「は?」
「なんかこういう女を探してるって言ったら、マスターが前にここで住んでて今は出張で来てるっていう子がいるけどもしかしたら…ってカイザー!?」
「どうりで見つからないはずだ。ネス、よくやった」


クソ大事にしてた女が急に俺の前からいなくなった。メッセージは返ってこない、電話をしたって繋がらない。

俺と一緒にいたいって言ってたくせに。
俺がいなきゃ生きていけないって顔してたくせに。

…俺が離れるのを怖がってたくせに。

俺がすることに逐一喜んで、照れて、俺だけ頼ってりゃそれで良かったのに。お前があん時泣きそうな顔でいつもありがとうとか変な礼を述べるから、ずっとあれからお前のこと考えてたってアイツは知らないだろ。今思えばあれはアイツなりの別れの言葉で、今までありがとうって言いたかったんだろうなと分かるけど、当時の俺は今よりガキだったからそんな風に思いもよらなかった。



見つからないなら見つかるまで探せば良い。
ネスの言ったことが相違していたとしても、またそのときはそのときだ。俺に不可能はないのだから。

ただの好きでも何でもない幼なじみの女に俺がここまでするはずないだろうが。

「…なんでそんな事にも気づかないんだよ」










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