別に超スペインに行きたかったかといえば、そうでもない。お金が貯まったら国外旅行に行ってみたいなぁなんて思って、海外の旅行雑誌を買い漁り、行きたい所に全て付箋を付けていたら、どこも魅力的過ぎて選べなくなってしまっただけのこと。
友達は「何処でも良いじゃん?」と興味を持ってはくれなかったし、家族は「海外よりも沖縄が良いんじゃない?」と数年前の沖縄雑誌を見せてきた。
話にならないと旅行会社に出向いてみると、それはもう素晴らしい営業スマイルで相談に乗ってくれたあの担当者さんをわたしは忘れない。
「うんうん、分かります。どこも楽しくて思い出に残る素敵な場所ばかりですからね」
「ですよねぇ…。雑誌見てたら決められなくなっちゃって」
「でしたら、」
そこで見せてきたプラン内容が書かれた1枚の用紙。その用紙に目を移せば、担当者さんは口端を品良くニッコリと上げた。
「スペインなんて如何でしょう?この季節、お得な限定のキャンペーンをやっていまして。夜は自由行動、昼間は日本語係員がついて10泊での観光バスも出ます」
「まっまじですか?」
「はい、マジです」
数秒頭で考えて、お得な価格が書かれたキャンペーン内容が書かれた内容と、にこやかスマイルの担当者さんを交互に見る。
「ここ!ここにします!」
「はい、喜んで」
あれだけ悩んでいたというにも関わらず、即決したわたしの初国外旅行先はこうして晴れてスペインへと決まった。
だけどこのお得なプラン内容に目が眩んでスペイン行きを決めてしまった自分を、後に後悔することになるとはこの時まだ知らず。
▽
この日の為に大きなキャリーバッグを買っちゃって、荷物を沢山詰め込み、忘れ物はないかと何度も確認。気分は修学旅行前の若きあの頃の浮かれたわたし。だってワクワクし過ぎて前日は眠れなかったし、眠りかけても何度か起きてしまったもん。
スペインといったらパエリア。パエリアといったらスペイン。本場の味を食べてみたいと機内の中ではお腹を空かせ、機内食を食べるまでお恥ずかしながらそればかりを考えていた。
現地に着き、空港を出るともうそこは当たり前だけどスペイン。日本の国とは訳が違う。もう建物の形からして、どこかのおとぎ話の国へとやってきたみたい。その日の日程は市内観光。行くとこ行くとこに感激しまくり、何枚も写真を撮って、お昼は念願のパエリアに目を輝かせ、まだ1日目にして買い物だってしまくってしまった。
「持ってきたお金持つかな…」
夕暮れ時の、宿泊ホテルからそう遠くはないバル。賑やかな空間に胸は弾み、ワインを頼んでアヒージョやらピンチョス等スペインならではのものを頬張りながらも楽しんでいた。勿論、おひとり様で。
乗り慣れていない飛行機と、日中の疲れが相まって、その日のわたしは随分とお酒の巡りが早かった。お腹も満足したし、そろそろお会計しようかなと酒に酔った頭で考えていれば、トントンと肩を叩かれたのだ。
「え?」
「Oye, ¿estás solo?」
(ねぇ、君は1人?)
「はい?」
「Si eres libre, ¿por qué no bebes con nosotros?」
(暇なら僕らと飲まないか?)
「んー…ん?」
肩を叩いたのは男性で、2人組。簡単な単語しか覚えていないわたしにとったら何を仰っているのか分からない。このバルには日本語の融通が利く店員さんがいる為に、安心しきっていたせいでこんな事は想定外だった。
「えっえぇと…」
楽しげにわたしへと話しかけてくる男性陣に冷や汗が止まらない。早口過ぎて聞き取ることが出来ないのだ。
「¿A qué viniste a España?¿Viajes? Eres japonés, ¿verdad?」
(スペインには何しに来たの?旅行?日本人だよね?)
「おっ、おー…イエス!イエス!」
日本人という単語だけはなんとか聞き取ることが出来たので、返事をすると男性陣は嬉しげにわたしへ手を合わせてきた。やはり外国。日本と違いノリが良い。でもそのせいでスマホの音声翻訳アプリを出す前に、わたしの手はその男の1人に取られ彼らのペースに自然と持っていかれてしまった。
ヤバい、どうしよう!
店員に助けを求めようとしたけれど、生憎忙しい時間帯だからかこちらの様子には気が付かない。体中に嫌な汗が流れ、「ノー!っえと、ロシエント!」と謝りを入れるが、発音が悪かったのか通じない。ハテナを浮かべる彼らに恥ずかしがっている余裕はなく、遂には「oh…ジャパニーズキュート!」と英語に直されてまで言われてしまう始末。
どうしたものかと慌てふためいていれば、それを肯定と捉えたのか座り出そうとした彼ら。本格的に頭がパニックに陥ったとき、頭上から声が降ってきたのだ。
「Este tipo es mi compañero, ¿qué quieres?」
(コイツ俺の連れだけど何か用か?)
へ、と顔を上げると、少しスモークが掛かったカラーレンズ仕様の伊達眼鏡をかけた男性が立っていた。また誰か来てしまった!と半泣きになっている内に、その彼が男性陣に何かを伝えている様子か目に映る。そうしてその2人はわたしの方へ顔を向けると、チッと舌打ちをしながら去って行ってしまったのだ。
「は?」
口を開けて約3秒。
なんだあの人たち。さっきまであんなに笑顔だったくせに急に冷たい顔に早変わりしたんですけど。少し胸の奥がモヤッとしたが、目を覚ます。
たったすかった…!
もしあの男性陣を追い払ってくれた彼がいてくれなければ、今頃店員が来るまであの男たちから逃げられなかったかもしれない。
咄嗟のこういう対応に慣れていないわたしは、自然と安堵のため息が漏れる。だがそれも束の間。助けてくれたであろう彼も席へ戻ろうと背を向けたから、慌てて呼び止めてしまった。
「あっ!待っ、ちが…えっと、えっエスペラ!」
やはりわたし、まだ国外旅行には早かったのかもしれない。もう少し語学の勉強をしてからの方がきっとよかったに違いない。なぜ親の言う通り沖縄に踏みとどまらなかったのかと心で泣いていると、背を向けていた彼はゆっくりと振り返った。
「あ?」
「いやその、さっきは助けて、違うな、あっいやエスペラ!」
スペイン人に日本語で話してどうする!今のわたしはきっと慌てているせいもあって、つい覚えたての単語を述べてしまう乳幼児に違いない。急いでスマホを取り出そうとするとその彼は口を開いた。
「…なんだ」
「え?」
「その下手なスペイン語もどき、通じねぇからやめとけ」
「??」
ワッツ?このお方、いま日本語話されたんだが。それもかなりスラスラと。
そろりと目線を上げ、彼の瞳に視線を合わす。カラーレンズ眼鏡の奥に覗かせるその目。レンズ越しにわたしをじぃ、と見下ろしているのがよく分かる。
あれ?よくよく見なくとも、
「…にほんじん?」
「今更気付いたのかよ」
「あっ、すみません」
今日わたしが出会った日本人といえば、このスペイン旅行に参加をしている人達だけだった。だからまさかこんな日本から遥か遠いこの国で、同じ国出身の方に出会えるとは思わず、ちょっと嬉しい…じゃなくて!
「あ!まっ待って下さいって!」
まだ話している途中だったのに、彼はどうでも良いことのように背を向けるから再度引き止める。眼鏡を掛けているというのにも関わらず、面倒臭そうに顔をこちらに向けた彼の表情が、なんとなく雰囲気で読み取れてしまった。
「さっきは本当、助かりました。今日スペインに来たばかりだったのでちょっと慌てちゃって」
「だろうな。見りゃ分かる」
「はは、は。あー…っと、良かったら1杯どうです?お暇でしたら。助けて頂いたお礼にわたし奢るので!」
咄嗟に呼び止めて、勢いでナンパみたいな発言までしてしまうだなんてこんな展開、きっと人生で二度とないと思う。目先の彼は眉間に皺を寄せると、手馴れた口調で断りを口にした。
「そこで飯食ってたらうるせぇ声が聞こえて来ただけだ。お前と飲む理由はねぇ」
「あそっそうですよね!ご迷惑お掛けしてすみません…」
恥ずかしい!速攻で断られたことに羞恥心で顔が熱くなる。だが断られた以上、無理に付き合わせるのはよくないこと。旅先で出会ったちょっとドライで親切なお兄さんにお礼をもう一度告げる。
旅には思い出は付き物だから、今日のこの出来事を忘れず、次に旅行へ行く際にはある程度勉強してから行こう。うん、そうしよう。明日も早いんだから、もう帰って寝るに限る。
めでたしめでたし。
と、なるはずだったのに。
どうして、
どうしてこうなった。
本来ならば夢なんか見る暇もなく、ぐっすり眠っていたはずだ。いや、ぐっすりは眠っていたとは思う。ただ疲れている時ほど眠れないという言葉があるように、酒も飲んだくせに本日わたしは早朝4時に薄らと目を開けてしまった。そこで気が付く。自分以外の体温があることに。
「ん?」
寝返りを打とうと思ったら、腰をぎゅう、と抱かれて動きにくい。嫌な予感がしてホールド状態の腕をそっとどかそうとしてみるも、全然その腕は離れてくれなかった。
「……」
ゆっくりゆっくり体を動かして、顔を恐る恐る寝息のする方へと向ける。そうしてわたしの瞳に隣に眠る人物が映ったとき、目を疑った。
「ひぐぅっ…!!」
人間、驚き過ぎると変な声が出る。キャア!なんて可愛らしいものじゃない。ギャア!と怪物に近い悲鳴が漏れた。
薄明るい室内で、もう一度目を凝らし彼を見る。
綺麗な顔で目を瞑り、下まつげバサバサのこの男性。頭は瞬く間に覚めていき、心臓はこれ以上ないくらいバクバクと音を鳴らしだす。
「っい、いとしさえ…」
こんな時のこんなシチュエーション。
大体ヒロインってのは記憶がないのがお決まりじゃなかろうか。だが悲しいことにわたしはヒロインではないので、見る見る内に思い出してしまう昨日の記憶。
わたし…全部覚えてる!
最悪である。どちらも服を身にまとっておらず、それがまた、忘れたい記憶を更に呼び覚ます。
『…おい、お前』
『え?あっ、さっきの…』
あの後、彼は一旦席へと確かに戻ったのだ。だけど早々に帰ろうとわたしが身支度をしていれば、彼はまたわたしの方へと戻ってきて声を掛けてきた。
『……お前さ、』
『はっはい!なんでしょう…?』
『…いや、なんでもない。1杯だけなら付き合ってやる』
『え?』
『気が変わったんだよ』
そうしてわたしの座っていたテーブル席にドカッと腰を降ろした彼。初めこそ1杯だけと言っていたのだが、気付けば1杯2杯、3杯4杯。そうして気付けば今ですよ。
誰に言うわけでもないけれど、邪な気持ちは本当になかったとだけは言っておきたい。言い訳じゃないけどこのバル、オレンジ色の照明で薄明るい雰囲気の店だったしさ、彼はカラーレンズの眼鏡を掛けていたから顔が見にくかったのだ。それにいくら日本の至宝と呼ばれている彼はスペインでただ今活躍中とはいえ、こんな場所で出会うとは思わない。眼鏡を外して、名前を聞いたのだって、ホテルに着いてからだし…。
名前を聞くまではそりゃちょーっと似てるかな?とは思ったよ?だけどまさかマジでガチで糸師冴ご本人様だとは思わないじゃん?都内に住んでいたって芸能人と会う確率なんて低いのに。
そうして隣で眠る彼を何度確認しても目に映るはやはり日本の至宝である。いくら酒に酔っていたとはいえ、一番やってはいけないことをしてしまったと顔は青ざめていく。そうしてこんな関係を持つ前に話していた会話を痛む頭で思い出す。
『いっ糸師冴?』
『おい、空気読めねぇのか。今フルネームで呼ぶバカいるかよ』
『えっちょ待っ、ほっ本物の糸師冴ですか?』
『暴れんな。ってかンなことに一々嘘なんかつかねぇし体もっとこっち向けろ』
『いや、いとしさっ』
『いやいやうるせぇ』
これが糸師冴でなかったら、わたしだってこの雰囲気を壊すようなバカではないしするはずがない。糸師冴だから、目の前の人物が本物の糸師冴だったから、ムードもへったくれもなくなったワケでして。
しかし結局そのまま彼のペースに乗せられたわたしにも勿論非がある。…あるけれども。
なにやってんだよわたしは!!!気づけよもっと早く!
昨日の記憶の一部くらい抜け落ちてそうなものなのに、大体全て1から10覚えている辺り自分を恨む(因みにわたしが奢ると言っていたのにバルでの食事の会計はトイレ行っている間に済まされていた)。
こんなとき、よくあるドラマの展開ならばそっと1人で帰るのがセオリーだろう。だがしかし、残念なことにここはわたしの宿泊しているホテルである。逃亡を図ることは不可能だ。
「…さっサイアク」
つい口から溢れてしまった言葉。
まだスペイン旅行を楽しむ予定だったのに、もう楽しめないし日本に帰りたい。
「なにが最悪なんだよ」
「え"っっ!」
天井を見つめていた顔を横へと向ける。眉間に皺を寄せて不機嫌そうな声が耳へと届いた。たらりと額に汗が流れた気がする。鏡で見なくとも今の自分の顔は酷い顔をしていることがよく分かった。
「にっ」
「あ?」
「っ日本の至宝に」
「はぁ?」
「手を出してしまいすみせんでした!」
土下座する勢いで彼の腕がお腹から離れた瞬間、わたしは起き上がり布団を体にまといながら謝罪をした。冴さんのほんの少し驚いた顔付きが見えたような気がしたが、まじまじ見る余裕は勿論ない。
「……」
この状況に口から心臓が飛び出すのではないかと、返事を待つ間気が気ではなかった。すると冴さんはため息混じりに口を開いたのだ。
「アホかお前。手を出しのは俺だ。ってかそもそも合意の上だっただろうが。今更後悔してんじゃねぇ」
「いたっ!」
わたしのおデコを軽く指で弾くと、冴さんは不機嫌そうに体を起こしベッドから足を降ろす。淡々と床に落ちていた服を手に取り着替え出した彼を見ながらわたしは放心状態。
合意…?いや確かにわたしものっかってしまったけれど、最後まで一応拒んだはず。あれ、これって合意したことになるの?…なるのか?
そんなことを考えていると最後にサイドテーブルに置いてあった腕時計を嵌めた冴さんは、先程の話は終わったことのように別の話題を口にした。
「お前まだ暫くこのホテルにいんのか?」
「え、あぁ、えぇと」
「…また連絡すっから返せるようにしとけよ」
そうして部屋から出て行ってしまった冴さん。
自身のスマホを手に取り確認するも、ちゃんと登録されている糸師 冴。
…どうすればいいの。
いくら考えたって頭が痛むだけ。やってしまった事を白紙に戻すなんてことは出来ないのだ。
▽
本日の昼間の日程は美術館。世界三代美術館に行けるということでかなり楽しみにしていたはずだったのに、昨日と今朝の出来事があまりに迫力があり過ぎたせいで、ピカソだろうがミロの芸術作品だろうが全く身に入らなかった。そうして夜は大人しくホテルのルームサービスを頼み、まだ寝るには早い時間であるがベッドの枕に顔を埋める。
そうしてわたしは1日糸師冴について考えてしまっていた訳だけど、ひとつの答えに辿り着いた。
いや待って。冴さんてサッカー選手じゃん?遊んでる暇ないじゃん?どうせわたしも旅行が終われば日本に帰るんだし。連絡するとか言ってたけど、そもそも冴さんのようなレベルの高い人が一般人のわたしにまた連絡する訳ないじゃんか。お遊びってやつでしょ、これ。考え過ぎじゃないか?わたし。
そう、考え過ぎるのは体に毒だ。多分、一般人のわたしに気を利かせて連絡するとでも帰り際に言ったんだろう。リップサービスってやつだきっと。
「ふは。なんだあ、考え過ぎじゃん」
プラス思考のわたしはそう思えば悩んでいたのなんか嘘のように途端に元気を取り戻した。
その日の夜、ルームサービスでワインを頼み、1人で1本開けたのはこのわたしである。
「だったら連絡先なんて教える訳ねぇだろ」
「っで、ですよねぇ…はは」
「そこらの男と一緒にすんじゃねぇよ」
誰か助けて。またわたし冴さんと食事をしてる。それも出会ったあの日のバルで。
あれから連絡も来ず、3日。あの出来事は夢か何かだったのだろうと頭の片隅に追いやって観光を存分に楽しんでいたのに、スマホがピロリとメッセージを知らせて確認すればわたしの体はピシリと凍った。
"今日の20時にこの間のバルに来い"
これだってわたしちゃんと断った。適当に理由をつけて無理ですとハッキリ言ったのに、"だったらその予定が終わった後にホテルに行く"とか言うものだから、それだけは避けなければと今に至る。
「あの、何か用事がありましたか?」
顔色を伺うように問いかける。ビールを口にしていた彼はグラスから口を離すと何食わぬ顔で言ったのだ。
「別に?理由がなきゃ連絡しちゃダメなのか?」
「いや、ダメじゃないですけど。その、冴さんお忙しいんじゃ…?」
「手が空いたから連絡したに決まってんだろ」
そりゃそうだろうけど。ごもっともだけど。
ガヤガヤと騒がしい店内に、なんとも言えない空気を纏っているのは間違いなくこの空間で私たちだけだ。
わたしに話しかけてくる訳でもないし、わたしも話題が思いつかず酒を飲むしか出来ない。酔いたくとも酔えないし、何のためにわたしが呼ばれたのかも真相は不明だ。
「えと、スペインって素敵な場所ですね!ご飯も美味しいし、景色も綺麗で」
「あ?んなの初めだけだろ。…日本のがいい」
無言の空気に耐えられず当たり障りのない話題を振ってみたつもりだった。だけどわたしの思い違いかもしれないが、返ってきた声音はほんの少しだけ寂しそうで。
「…たまには実家に帰らないんですか?」
「お前がいんなら帰ってもいいかもな」
「えっ!」
「冗談だばーか」
意地悪そうに片口端を上げた冴さんに、からかわれたことが分かり恥ずかしい。クスクスと笑みを浮かべた彼を初めて見た。ちょっと話を逸らされてしまったような気もするけれど、悪い気はしなかった。
もしかしたらここはスペインだし、周りにこういった日本人がいなくて、寂しい気持ちになってしまったから、わたしを呼んだのかもしれない。
こういう今だけの関係は、絶対に深入りをしてはいけないと思うから、詮索をしないのが一番だ。余計なことを口にして、さぁ次は自分の番となったら厄介だし。聞き役に回ろう。気分は聞き上手なキャバクラのお姉さんだ。それが居心地良かったのか、冴さんはそれからちょびっと口数が増えた、気がする。
「やっぱりここ美味しいですね。すみません今回もお金出してもらっちゃって」
「別にいい。っつか俺は女に払わす趣味はねぇしお前よか稼いでんだよ。だからあの場で財布ずっと出そうとすんのやめろ」
「すっすみません…ありがとうございます」
流石プロのサッカー選手。言うことが違う。
帰りのタクシーに乗り、行先は言わずともわたしのホテルである。無言の静寂が流れ、走行するエンジン音だけが耳へと伝う。
「おいナマエ」
名前を急に呼ばれ反射的に振り向けば、冴さんの距離がぐっと近付いてきた。
「なっ、ここタクシーですよ!?」
「タクシーじゃなきゃいいのかよ」
「そうじゃなくて!」
まるでキスされるかのような近さに慌てて狭い車内の中で距離を取ろうとすれば、それが気に食わなかったのか冴さんは不服そうにわたしから体を離した。
「…お前いつまでここにいる?」
「え?あと、5日ですかね?」
「ハ?」
思ったよりも冴さんの大きな声が届き、思わず顔を彼へと向ける。
「なんでそういうことは早く言わねぇんだよ」
「いっ言いませんでしたっけ?」
「聞いてねぇわ」
冴さんの顔を見なくとも分かる。絶対怒っている気がする。このタイミングでわたしのホテルへと着いてしまい、タクシーが止まった。これが俗に言うバッドタイミング。
「じゃ、じゃあ冴さん、今日はご馳走様でした。おやすみなさ、」
「なに自分だけ降りようとしてんだよ。俺も降りる」
「なっなんで!?」
「今日本当はここで勘弁してやろうと思ってたのに、お前がわりぃ」
なんで??(2回目)
タクシーを降りたわたし達に、運転手はにこやかに手を振った。楽しんでね、みたいな。どう見てもそんな雰囲気じゃないのに。
そろりと彼を見上げると、何を考えているのか分からないその綺麗な横顔に焦りが生じる。
「あー…せ、せっかくだしもう1件飲み直しに行きましょっか!」
「さっき明日も早ぇからもう帰るって言ってたのお前だろ」
「う"っ」
それはさっさと帰らなくてはまた冴さんのペースに乗せられてしまうと思ったからでありまして。…もう半分乗せられているけれど。
「お前の部屋行くぞ」
「いやぁ、部屋はちょっとぉ…」
「こんなとこに居てもしょうがねぇだろ。しぶってんな早くしろ。それとも俺の家に行くか?」
ストレートに口にする冴さん。何このどちらに転んでも2人きりになるという地獄の選択肢。そうして拒否は有り得ないと言わんばかりにわたしの手を自然と取る彼に、心情はバカが付くほどめちゃくちゃだ。
エレベーターに乗り、自分の宿泊している部屋の階が近付いてくるたびに、断らなくちゃ断らなくちゃ、今日で会うのを終わりにしなければ!とまるで某有名なアニメの「逃げちゃダメだ」を連呼する彼に成り代わったみたいに、わたしの頭に映像が流れ込む(理由が180度違い過ぎるけど)。
そうしてる間にエレベーターは目的階でチンと止まる。ゆっくりゆっくり歩を進めていたつもりだったのに、気付けばわたしの宿泊している部屋に着いてしまった。
「何してんだ。早く入るぞ」
「やっやっぱり飲み直し行きま、」
「はぁ…俺はお前と2人になりたいんだよ」
「え"っっ!」
ダメだわたし。冴さんといると元よりない語彙力が更に低下してしまう。しかも何故わたしがため息を吐かれ、察しろよ的な顔を向けられなければならないのだ。
部屋に入る。もうどうしようもなかった。
どうにかしてこの雰囲気をやり過ごせねばと笑顔を取り繕う。
「じゃっじゃあなんかルームサービスでも頼んで飲み直します?この間飲んだワイン美味しかったですよ!」
「あんだけ食ってたのにまだ食うのか?太るぞ」
「うっ…」
「冗談だ。…でも酒はもういらねぇ」
ふっと小さく笑った冴さんにわたしの口はポカンと開く。顔色あまり変えないから嘘か本当かめちゃくちゃ分かりにくいんですけど。
「お前百面相みてぇに表情コロコロ変わんな」
「…ほっ褒めてるんですか?」
「ああ、褒めてる」
わたしの頬を片手で摘み、むぎゅむぎゅと捏ねくり回す彼に痛いと言えばまた彼の表情はほんの少し柔らかくなる。
「…お前は他の女と違って媚び売ってこねぇから楽」
「媚び、ですか?」
冴さんはわたしの頬を摘んでいた手を離すとベッドへとわたしを連れて行く。
「周りは見てくればかりの女ばかりだからな。それよかお前みてぇななんも考えてねぇ奴のが気楽でいい」
「ひっど!」
「あ?褒めてんだよ。喜んどけ」
褒められている気が全くしないのですが。冴さんは面白いものを見るかのように口端を上げている。
でも本当、こういう所がそっくりで仕方がない。もう随分前のことなのに、思い出してしまうから、余計と困ってしまう訳で。
「こっち向け」
自身の膝を見つめていたら、体を寄せられ冴さんに名を呼ばれる。ドッドッドッと加速しまくっている心音は、これから冴さんがしようとしている行いに緊張しているからでは決してない。
「……んだよ」
冴さんの近付いてきた綺麗なお顔をストップさせるように両手で阻止をする。
「辞めましょう、ダメです冴さん」
「……」
「つっ付き合ってる大事な子にしないと!」
「……」
「さっ冴さんそろそろお帰りになった方が良いんじゃないでしょうか!?フロントに頼んでタクシー呼びましょ!」
座っていた腰を上げ、電話を掛けようとしたその時。
グイッと腕を引っ張られ、「うおっ」と女子らしくない声と共にわたしはベッドに寝かされた。
「言いたいことはそれだけか?」
「はい?」
「俺たちが付き合えば問題ねぇんだろ?」
冴さんは至って真剣な顔つきで冗談とは思えない。
けれど、やはりわたしは物語のヒロインではないのです。
「さっさえさんの、」
「あ?」
「冴さんの、その…弟」
もうダメだ。言うしかないと心に決める。
冴さんは眉間に皺を寄せて、怪訝な表情を浮かべていた。
息を飲んで、口を開く。
「そっその凛、くん。わたしの元カレなんです…はは。高校時代のときなんですけど、流石に元カレのお兄さんとは付き合えないっていうか…へへ。すみません、言えなくて。隠すつもりじゃなかったというか、その…初め冴さんだとは気付かず遊びというか1回だけかと思ってたので…」
わたしの元カレ、糸師 凛。
当時何故付き合えたのか分からないが、ガチ恋したわたしは猛アピールし、凛の彼女になれたのだ。
口数は少ないし、サッカー優先なのであまり一緒にいられた日はご察しの通り少ない。
不器用な彼がわたしを彼の家に連れて行ってくれた日、わたしはそこで一度、帰省していたらしいこの冴さんと会っている。「お邪魔します」の一言に彼は返してくれはしなかったし、今は分からないがその頃バチバチに仲が悪かった凛は冴さんのことは話したがらなかった。まぁそんなこんなで月日は流れて凛と別れた理由は省略するが、別々の道を歩むことになってしまったワケでして。
わたしと会ったことがあるだなんて冴さんの記憶にはないだろうけど。
だけど冴さんを見れば思い出してしまうよね。話し方も、何気ない仕草も、顔だってやっぱり似ている。凛に未練なんてものはもうないが、そんな冴さんと付き合える気はしないのだ。
出来るだけ重くならないように言ったつもりだった。
だけど、あまりにも冴さんの瞳がわたしを真っ直ぐ見つめ続けて凝視するものだから、ついつい目が泳いでしまう。
そうして数秒の沈黙の後、彼は形の良い唇を開いた。
「知ってる」
「へ??」
まさかそんな返事が返ってくるとは思わず、今度はわたしが彼を凝視する番にチェンジした。
「だから…ンなこたぁ初めから知ってんだよ。アイツとはもうとっくに別れてんだろ?だったら問題ねぇ」
「えっあ、ちょっと、」
「…もう黙れ」
そう言った彼はもう待てないとわたしの手を取り絡めキスを落とした。
まってまって。
それってつまり。
冴さんもあんな昔のことを覚えていらっしゃったって…コト!?