肺の中で薔薇が燻る

 根が張られていく。冷たい金属とは違う柔らかな人間の肉が、何か薄気味悪いものに侵食されていく。

 その感情がいつ自分の中に生じたのか、御手杵は覚えていない。どう呼べばいいのかさえ分からない。尤も、彼がそれについて口にすることはなかったので、名前がないことなど大した問題ではなかった。ただ言えるのは、主である女と褥を共にするようになった時点では、まだその片鱗さえも自分の中になかったことだけは確かだということだ。
 女の隣で過ごした日々は取り上げて語る必要もないくらいに穏やかなものだ。例えば、二人で月明かりに照らされた庭を歩き、桜を見上げた春の夜だとか。影の落ちる縁側で、氷菓子を食べながら涼んだ夏の昼だとか。真っ赤な空を見つめ、どこか物悲しい気持ちになりながら手を繋いだ秋の夕暮れだとか。炬燵の同じ側に隣り合って入ったまま眠ってしまい、ふたりして体の痛みに苦しんだ冬の朝だとか。
 女がそばにいる生活はいつだって平穏そのものだった。思い出す度に胸が仄かに暖かくなるような、そんなささやかで優しい日々だ。

 きっかけなどなかった。少なくとも御手杵には気づくことはできなかった。けれどもいつしか、名さえ持たぬ感情は男の肌の下で膨れ上がっていたのだ。




「あまね」

 自分だけに許されている名を呼ぶ。文机に向かい、何やら小難しい顔をして考えこんでいた女がこちらを向いた。自分達刀剣には詳しくは知らされないことだが、女とその上の政府の間では細々としたやり取りが頻繁に行われている。文や荷が届くのも常のことで、そうした事柄に手を取られる女の傍らで自分が放っておかれるのもいつものことだった。

「すみません、あと少しで終わりますから……」

 自分に掛けられた声を催促だと認識したらしい女は頭から謝罪を述べてくる。それも間違いではないが、御手杵は首を振って否定した。女を待つ時間は退屈ではあるし、政府とやらを疎ましくも思うけれど、他の場所で時間を潰すのではなく女の傍で待つことを決めたのは自分なのだ。

「いや、疲れてるだろうと思って」

 ズボンのポケットから小さな巾着を取り出す。赤地に花が散ったちりめんのそれは、男には明らかに不似合いな可愛らしいものだ。
 口を締めていた紐を解きひっくり返すと、ころ、と丸い形をした玉が転がり落ちてくる。

「やるよ。甘いもの、好きだろ」

 細かな粉がまぶされた飴玉は蜂蜜よりも深い色をしていた。疲れている時には甘いものが良いと聞く。女の双眸が御手杵の手のひらのに乗った菓子を見つめた。

 ――どこまで、自分は平素と同じように振る舞えているのだろうか。
 自信はなかった。こういう風に面を取り繕うことは、おそらく生来、得意ではない。戦場で槍を握り、思うが侭に戦うことの方がどれだけ楽なことか。

「綺麗ですね」

 女はいつもと変わらぬ声で囁いた。

「中で液体が揺れているみたい」

 体を男の方に向け、少しだけ躙り寄った女の目が飴玉に寄せられる。長い睫毛が瞬きに合わせて幾度か振れるのを、御手杵は黙ったまま見ていた。
 それから女は口元を緩め、柔らかな微笑みを男へと送る。

「ねえ、これをどこで買ってきたんです?」

 御手杵は答えなかった。答えられるはずなどなかった。飴玉を差し出された女の反応は頭の中で何度も繰り返し想像したし、そのように問いかけられることも想定はしていた。それなのに嘘を紡ぐことさえも出来なかったのは、女の言葉からある種の力を感じ取ってしまったからだ。
 女の発言自体に何らおかしいところはない。飴玉に興味を持てば当然、投げかけてくるだろう問いだ。けれども、御手杵は直感してしまう。
 この女は自分が差し出したものが何であるのかを知っているのだ。気づかぬはずがない。そこまで高位ではないとはいえ、意識を持った神を何体も使役しているような女なのだ。この一粒の飴玉が人間の食すべきものではないということくらい、目にした瞬間から気づいていたのだろう。おそらくは同時に、御手杵の意図すらも。
 心臓が早鐘を打つ。血管が脈打つ鈍い音が頭の中で響く。見透かされていることを知りながらも、御手杵は謝罪も弁明も出来はしなかった。情けない気持ちに襲われながら、食べてくれよ、と、それだけをやっと伝える。目の前の顔を見ることが出来ず、暫し彷徨った視線はやがて飴玉に落とされた。

 女は躊躇っているのか、はたまた呆れているのか、短くない間、何も言わなかった。自分の姿は無様なものだろう。分かっているのなら、いっそ掴んで投げ捨ててほしかった。
 ああ、最初から分かっていた。女が短い人の生を捨ててまで自分を選ぶはずがないのだ。御手杵とて、そんなことをさせたくもない。生きていてほしい。日常の些細なことで微笑みながら、限りある時間を過ごしてほしい。人の生は永遠ではないから尊いのだろう。御手杵はそれを、女と過ごした日々の中で初めて知った。
 そんな思いが行動と矛盾していることには気づいていた。気が狂っているのだと思った。おそらくは、女に否定されてやっと自分は正気を取り戻すことが出来るのだ。

 だが、女の次の言葉は男のどの予想とも違っていた。

「ええ、いただきます」

 耳を疑うその間に、細くて白い指が無骨な手のひらの上から小さな飴玉をつまみ上げていた。女は指の腹で軽く粉を払った飴玉を目の前に掲げ、それからまた、綺麗ね、と囁く。
 自分が渡した美しい毒薬が、色づいた唇に運ばれていく。
 それを見た瞬間、どういうわけか、御手杵は女の手から飴玉を奪い取っていた。勢い余って転がり落ちたそれは畳の上で数度跳ねると、幻のようにすうっと消えてしまう。

「……ああ、もったいないです」

 女は飴玉の消えた場所を驚く様子もなく見下ろしていた。
 御手杵は何も言うことが出来なかった。試すようなつもりではなかったのだ。そんな軽い気持ちではなかった。自分は確かにそうしてしまいたいと思っていた。

「ねえ、御手杵」

 女の声は雫のようだ。真白い布にぽつりと垂れた血のように、じわりじわりと滲んでいく。その声に混ざった甘さは、確かに自分を支配するものだった。

「私はこうして、あなた達を契約で縛って、使役しているけれど」

 消えていった飴玉を惜しむように、女はそれを摘んでいた指先を見つめる。

「あなたになら、私は全部をあげたっていいと思っているんですよ。心も魂も、この女の柔い肉も、骨の髄も、血の最後の一滴までも、全てを捧げてしまいたいんです」

 自分だってそれが欲しかった。だから、悩んで、何百回も考えて、それでも抑えることが出来ずに、常夜の食物を渡したのだ。
 それなのに、どうして躊躇ってしまったのだろう。そうしてはならないと、何故今になって考えてしまうのだろう。女と望みが通じ合っているのだと知って、それならばもう迷う必要などないはずなのに、どうして、自分はその道を選ぶことが出来ないでいるのだろう。
 頭の中がごちゃごちゃして纏まらない。酷く気分が悪かった。

「私の名前、呼んでください」

 自分の体に寄りかかった女が甘い声でねだる。縋るように呼んだ名は震えていた。




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黄泉竈食

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