その旅路に蜜をかけよう

※生存





 杜王町で一番人気のあるカフェは、たぶん駅前にあるドゥ・マゴだろう。なんせ、まず立地がいい。内装も開放感があっておしゃれだし、珈琲もお菓子も美味しいとなれば、男女問わず住民に親しまれているというのも納得の話だ。
 夏の日差しが照りつける季節だけれど、朝の空気は清々しい。昼過ぎにはいつも賑わっているドゥ・マゴも、開店直後は通勤途中のサラリーマンにOL、朝に強いお年寄りがいるくらいで、とても落ち着いた雰囲気だ。
 私はテラス席に腰を下ろし、ふっくらとしたホットケーキにフォークの先を沈ませる。学生にしてはちょっぴりリッチな朝ごはんだ。こうしてお小遣いは減っていくのよね、と少しの悲しみを覚えつつ。ささやかな幸せに囚われてしまった私は、時間とお金の許す限りこの場所に来てしまうのだった。
 一口サイズに切ったホットケーキを口に運ぶ。じぃんと染み渡るような甘さに頬が緩む。さらに一口、とフォークを刺したところで、向かいの歩道に馴染みのある学生服を見つけた。
「形兆」
 この場所から呟いたところで聞こえるはずはないのだけれど、タイミングよくこちらを向いた男と視線が重なった。ゆるんだ顔のままぶんぶんと手を振る。形兆は面倒くさそうに顔を顰めたけれど、何も言わずにテーブルの前まで来てくれた。
「おはよ」
「おはよう。……どうした、こんな朝から」
「どうした、って、朝ごはん。最近はまってるの」
「一人でか。随分と寂しいことをしてんじゃあねーか」
「そうそう。一人じゃちょっとタイクツになってきたとこなの。形兆もどう?」
 朝食は弟の分と合わせて自宅で作ってきただろうけれど、始業まではそこそこ時間がある。朝に強いって結構な特権だと思うのよ。たぶん億泰なんかは今洗面所あたりなんじゃないかしら。
「コーヒーくらいならいいでしょ、ね?」
「付き合ってやらんこともない」
「やった」
 一度決めた予定を変えることが嫌いな男だ。実はもうちょっと渋られるかと思ってた。
 屋内のカウンターで注文を済ませた形兆がテラス席へと戻ってくる。テーブルにカップを起き、私の向かいの席に腰を下ろした。
「同じね」
「同じ?」
 ブレンドコーヒー。ミルクと砂糖はなしで。
 私の前のカップをのぞき込んだ形兆は意外そうに目を細めた。確かに、私はコーヒーよりも甘さを足したカフェラテやミルクティーのほうが好きだけれど。
「甘いお菓子に甘い飲み物は、さすがの私でも罪深いかなと思うのよ」
「ほう? なるほど、確かに最近のお前は……」
「え、ちょっと、やめてよ」
 妙に神妙そうな顔の形兆に凝視され、お腹の奥が嫌な冷え方をする。嘘でしょ、朝に甘いものを食べてる分、他は色々と気をつけてるつもりなのに。
「冗談だ」
 焦る私を見かねたのか、ふ、と唇の端を緩めて形兆が笑った。
 私はそれを、ひそかな驚きをもって見つめる。
 形兆とは東京にいた頃からの付き合いだ。一言で言えば幼馴染と言い表せる関係なのだと思う。でも、幼い頃から今まで絶えず親交が続いたわけじゃない。同じこの町に越してきたのだってただの偶然だ。私が父の転勤に合わせて転居した三年後に、虹村兄弟が引っ越してきた。なんでも、彼らの父親が昔買った家が杜王町にあったらしい。ね、すごい偶然。必然を試みていたら、逆にうまくいかなかったんじゃないかと思う。
 だって。細く、解れた糸が途切れないように、必死に縋りついていた。私が。私ばかりが。
 離れ離れになった後、私は東京宛に手紙を出した。返事は一通だって届かなかった。何度繰り返しても同じだ。数年後、杜王町に来たことすら知らせてくれなかったし、偶然彼を見つけなければ、もしかすると私は今も知らないままでいたのかもしれない。
 どうしてそんなことをしたのか、その時は分からなかった理由も、もう、なんとなく分かっている。
 でも、考えれば考えるほど、本当に酷い幼馴染じゃない? 弟の億泰とは大違い。億泰がいてくれなかったら、私の心はとっくに挫けていただろうし、今こんなふうに話すこともできなかったと思う。
「えー、もう、デリカシーなーい」
「そんなことを気にするタマじゃあねーだろ」
「まあ、そうだけどさあ……」
 私は頬杖をついて、目の前の男をじとりと見つめる。
 一般的なサイズのカップも、体格のいい彼が持つと酷く小さく見える。コーヒーを口に含む所作はとても落ち着いたものだ。
「……」
 最近、形兆は変わった。
 彼が学友と群れているところを、私は今までほとんど見たことがない。それは好んで、というよりは寧ろ、何か使命感からの行為のようだった。何がそうさせたのかは分からないけれど、記憶にある彼の瞳は痛ましいまでの冷徹さを湛えていたし、いつだってどうしようもない焦りを抱えていた。それは、中学に上がる頃にはもう全く見なくなった彼の父親のことと何か関係があるのかもしれないし、あるいはそれも全くの見当違いなのかもしれない。つまるところはっきりしているのは、私がほとんど何も知らないということだけなのだ。
 そんな彼に、友人が増えた。どの人もそれなりに目立つ人ばかりで、リーゼントだったり、三人の女の子を侍らしていたり、露出の多い奇抜な格好をしていたりする。白いコートに全身を包んだ男の人と一緒にいるところもを見たことがある。かなり年上のようだったから、友人という枠組みは適切ではないのかもしれないけれど。
 たまに、……本当にたまーーーーにだけれど、女の子と一緒にいるところも見たことがある。でも、何の問題もない。ええ、ないったらないのだ。ユカコさん、というらしい美人なあの後輩は、同い年のコーイチくんという男の子にベタ惚れだそうなので。ざまーみなさい形兆。私は首の皮一枚でなんとか生きながらえている。
 余計なことまで考えてしまった私は、気を逸らすようにホットケーキにナイフを滑せた。
「いる? 朝ごはんは食べてきたと思うけど」
「もらおう」
 一口サイズに切ったホットケーキの上で硝子の小瓶を傾ける。つややかな蜜がとろりと垂れて、あたたかな日差しを浴びてきらめいた。
 きんいろ。形兆の髪と同じ色。
 ふと顔を上げると、こちらを見ていた形兆と視線が重なった。どうかしたのか、と不思議がる目している。なんでもないよ。なんでもないの。でも……。
 私が考えていることを知られたくないな、とそんなことを思った。ちょっと困りながら、笑顔を作って彼に向けた。もしかするとそれはぎこちないものだったかもしれないけれど、形兆は僅かに虚を突かれた顔をして、それから呆れたみたいに表情を緩めて、笑ってくれた。
 ずっと追いかけていた。その強い意志に圧倒されながら。自分の無力さに打ちのめされながら。先に引っ越したのは私のほうだから、追う、なんて変な言い方かもしれないけれど。傍にいたかった。形兆は昔から私に甘いところがあるくせに、彼に纏わるあらゆるものから私を遠ざけようとしていたから。
 でも、でもね、ずっと見てきたからわかるよ。
 ――やっと、終わったのね。
 彼の人生を奪い続けていた何かが。彼を無理やり大人びさせた何かが。それが彼の望む形だったのかどうかは分からないけれど、長く彼がひとり立ち向かっていた何かに、確かに決着が付いたのだ。
 ねえ、それを私も喜んでいいかな。何もできなかったけれど。今でさえ、何も知らないままだけれど。
「美味いな」
 差し出したホットケーキを頬張り、きちんと飲み込んだ後で、形兆が言った。うっかりすると泣いてしまいそうだった私は、誤魔化すように言葉を続けた。
「じゃあ、これから毎朝ホットケーキを食べようよ」
「毎朝ァ? 正気かテメー」
「ええ? ひどい、正気よ」
 返ってきたのは素気ない言葉だけれど、ひとつも痛くはなかった。
 もう深夜に出歩いちゃ駄目よ。それで朝来れないなんて、ぜったいに許さないんだから。
「私と約束があったら学校来るでしょ」
「……最近はちゃんと行ってるぜ」
「今までがさぼりすぎなんだよ。もう高三なのにさー」
 これからどうするの。私は首を傾げた。
「生憎、就職先はもう決まっちまってな」
 そう言う形兆は不快そうに鼻を鳴らしている。寝耳に水な話だ。就活をしていた様子は全くなかった。
「初耳」
「言ってないからな」
「形兆ほんとそーゆーとこあるよね」
 私の吐いたため息をどう捉えたのか、彼にしては珍しく、すまん、と小さな謝罪が返ってきた。
「市内? ……杜王町から出てっちゃう?」
「本部はアメリカだ。勤務地は知らねーが……この町には留まることはないだろうよ」
 驚きはしたけれど、予想外というわけでもなかった。私だって杜王町に骨を埋める気はない。もちろん気に入ってはいるけれど、生まれ故郷と言うわけでもないのだ。
「なんでそこで働くことになったの?」
「……色々と事情があるんだよ」
「そっかあ……」 
 彼に事情がなかったことなんてなくて、そして私にその事情が明かされることはない。億泰なら知っているんだろうな。弟に妬くなんてどうかしてるけれど、やっぱりほんの少し、寂しい気もする。
 ううん、いい。もうそんなことは、いつか、でいい。もうきっと、焦ることなんて何もないでしょ。なんでもない日々は続いていくし、何もできなくたって、私は形兆の傍にいたい。
「ねえ、やっぱり毎朝ホットケーキを食べる気はない?」
「なんだ、卒業まで毎朝お前に付き合えと? 貴重な時間を割いて?」
「卒業した後もよ」
 彼は疑わしそうな目を向けた。話を聞いてたのか、とでも言いたげだな、と思ってたら、実際に口に出された。
「杜王町にはいないと言っただろーが。来れるわけねえだろ」
「だから、私が作ってあげる」
 彼は、あんまり見たことがない類の顔をした。その表情を引き出したのが私なんだと思うと、正直、とても気分がいい。
「もう、形兆にしてはにぶいのね?」
 少し間があり、正気か、と呟く声が聞こえた。彼らしくない赤い顔をじっくりと目に焼き付けながら、勿論よ、と私は頷いた。

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