シュガー・ライアー

 大声を上げて泣く子供ならまだ良かった。けれど彼女はそうではなく、嗚咽さえ漏らさずに、大きな瞳からぽろぽろと涙を零すだけ。 だから、不動行光は蔵の戸を開くまで、そこに主である少女がいることにも、彼女が泣いていることにも気がつかなかった。
「ふどう……」

 戸を開けた瞬間、ぎょっとした。主がいること自体にも驚いたが、泣いているところを見たのは初めてだった。
 だが、その数秒後には戸惑っていた。泣いている少女に対して、どう接するべきなのか、分からなかったのだ。

「あー……」
「ご、ごめん、何でもないの」

 床に座り込んだまま彼女は俯き、目元をごしごしと擦っている。だが、拭えども拭えども涙は止まらない。
 面倒だな、と思った。このまま立ち去ってしまおうかとも思った。元々蔵自体に用事があったわけではなく、一人になれる空間が欲しかっただけだ。それに、他にも人通りの少ない場所の当てはある。

「……ここ、俺がいつも酒飲みに来てるとこなんだぞ」
「そう、なんだ……ごめんね」
「仕方ねぇなぁ」

 だが、迷った末、不動は蔵の中に足を踏み入れた。審神者がいるからといって今更場所を変えるのはなんだか癪だったのだ。今日はここの気分。他に理由はない。
 不動の意図を知ってか知らずか、審神者もまたこの場を立ち去ることはなく、少し奥のほうに位置をずらしただけだった。泣き顔で本丸をうろつくわけにはいかないとでも思ったのかもしれない。
 その隣にどっかりと腰を下ろす。本丸自体がまだ新しい建物なだけあって、埃っぽさはあるものの蔵の中はそこそこ綺麗だ。
 甘酒の瓶を傾ける。慣れ親しんだ味の中に、何故か苦味のようなものを感じた。その理由に当たりがついて、不動は忌々しげに舌打ちをする。

「おら、泣いてんじゃねぇ。酒が不味くなるだろ」
「う、うん……」

 審神者がズッと鼻を啜った。両手の袖は既に涙でぐしょぐしょに濡れている。全く、どうしてこんな場所で一人で泣いているんだか。
 気になってはいる。だが、直接尋ねるのは不動には躊躇われた。彼女と別段親しいというわけでもないのだ。審神者と刀剣男士という関係で、同じ屋根の下で暮らしてはいるが、ただそれだけ。本丸に来てまだ日も浅いため、主の傍に控えることも少ない。
 横目に審神者を見る。彼女は相変わらず俯いたままだ。
 ふと、その手に何か紙のようなものが握られていることに気がついた。不動の身体は考えるより先に動き、その紙を奪い取っていた。


「あっ……!」
「なんだぁ?」

 四つ折りにされた紙を開く。二二〇九年、五月、戦績。

「か、返して……」

 審神者が酷く弱々しげな声で言い、こちらに手を伸ばしてくる。不動はそれを軽く振り払うと、手元の紙に素早く目を走らせた。
 政府から送付された戦績表のようだ。刀剣所持数や資材量、出陣回数、演練回数などが事細かに記されている。それから、勝率に、総合評価――。

「これ見て泣いてたのか」
「……っ」


 審神者が言葉に詰まる。伸ばされた腕が力なく床に垂れた。
 正直に言って、審神者の戦績は悪かった。多少落ち込むのも仕方がないだろうと思えた。ただ、普段の本丸の様子を見る限り、これほどまで辛辣な評価をされているとは思わなかったため、不動は少しだけ驚いていた。

「私、ダメな主なの」


 目を伏せながら審神者は口を開いた。自嘲するような口ぶりだった。強ばった、けれども少し力を入れただけで壊れてしまいそうな、脆い声。

「霊力もない。上手く指揮することもできない……。力の強い刀剣男士だって全然呼べないし、資材ばっかり、減って……みんなを、傷つけて。……何の役にも、……」

 長い睫毛からぽたりと雫が落ちる。彼女が話す間、不動はずっと黙ったままでいた。
 ごく普通の少女だったのだと、聞いている。審神者となるために育てられていたわけではない。普通の人の間に生まれて、ただ、他より少しだけ力があったから、彼女は数多の刀剣を従える『主』とさせられた。
 勿論、彼女に選択肢が与えられなかったわけではないと思う。彼女自身の中に、歴史を変えんとする者に対しての義憤もいくらかはあったのかもしれない。そこにどのような決心があったのか、不動は知らない。知らない。審神者個人について不動が知っているのは、ほとんどが聞きかじりの知識だ。
 だが、これだけは彼にもはっきり言えた。
 彼女は決してダメな主なんかじゃない。
 確か、まだ歳は十五程度だったはずだ。外見は不動とそれほど変わらない。それだから未熟な面も当然ある。
 だが、不器用ながらも精一杯頑張っていることや、刀剣達をとても大切にしていることは、自然と日々の姿から伝わってくるのだ。良い主、悪い主、なんて、戦績だけで判断されるようなものじゃない。ここにいる刀剣達は、みんな彼女を慕っている。
 そう、言ってやろうと思った。らしくないが、こんなふうにメソメソされているのもいい迷惑なのだ。早く泣きやめばいい。泣き顔は今日初めて見たけれども、恐ろしく似合っていない。

 口を開いた。けれども言葉を発したのは、審神者のほうが早かった。

「不動はさぁ……」
「……なんだよ」
「不動は、私に優しくなんてしないでしょ」

 息が止まる。
 審神者は泣いた顔のまま、くしゃりと笑った。

「みんな優しいから、私のことを責めないの。よくやってる、って……いい主だよ、なんて、そんなこと言うの。謝らなきゃいけないのは私なのに、なぜか向こうが謝ってくるの。……おかしいでしょ? みんな、私のこと、怒っていいのに。私のせいで力を発揮できないのに……もっと、別の、霊力の強い人のところに行っていたら、そんな苦労、しなくて済んだのよ」

 審神者の顔が徐々に下を向く。自分を守るように膝を抱え、彼女は小さく、苦しい、と呟いた。
 目の前が揺れているような感覚がする。指先が床を引っ掻いた。
 本当に彼女を苦しめていたのは、低評価の記された戦績ではないのだ。

「――ああ」

 喉元までせり上がっていた言葉を飲み込んだ。代わりに吐き出すのは、彼女にとっては甘く、不動にとっては酷く苦い、そんな嘘だ。

「あんたはダメな主だよ」

 審神者は膝を抱えたまま、黙っていた。暫くして、うん、と小さく頷くのが聞こえた。
 埃っぽい床を眺める。時折、甘酒で舌を湿らせた。

「鍛刀も、指示出すのも、全部下手くそだし」
「うん」
「この間も、引き際間違えて負傷させただろ」
「うん」
「そのくせ、霊力もねえから、ちょっと誰か手入しただけですぐ倒れる」
「うん」


 たぶん、それほど多くはなかったと思う。けれども、不動は思いつく限りの酷い事実を並べ立てた。同じ数だけ、審神者はうん、と頷いた。

「いつか、誰かが折れるぞ」
「……うん」

 小さな身体が震えた。刀剣男士が破壊されることは彼女にとって、もしかすると自身の死よりもずっと恐ろしいことなのかもしれない。
 不動は目を細めた。いい主。でも、馬鹿なやつ。

「大体、審神者とか向いてないんだからよぉ。そうやって泣くくらいなら、……」

 やめちまえ。そう口にすることはできなかった。
 たぶん、そのほうがいいのだと思う。審神者なんかやめて、家族の元で穏やかに暮らせばいい。そうしなければ、いつか壊れてしまう。刀剣ではなく、彼女が。
 そんな気がした。それなのに言えなかった。
 嫌だと、惜しいと、そう思ってしまったのだ。

「……ま、お前みたいなダメ主には、俺みたいなダメ刀がお似合いってことだな」

 瓶の中に僅かに残っていた甘酒を呷る。酒はなくなった。話も、もう終わりだ。
 立ち上がり、蔵の扉に手を掛ける。審神者はまだ暫くここにいるのだろう。動く様子はない。だが、呼び止める声が一つあった。

「不動」
「あぁ?」
「……ありがとね」

 背後を振り返ることなく、ふん、と鼻を鳴らす。
 外で会った時には、少しはまともな顔になっていればいい。柄にもなくそんなことを思いながら、不動は嘘つきの唇を噛み締めた。

back
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -