六月の幻

 水曜の講義の後、お気に入りの喫茶店に立ち寄るのが、私のささやかな楽しみだった。
 朝から続く土砂降りのせいか、客の入りはあまりよくないようだった。店にとっては嬉しいことではないだろうけれど、好きな空間を独り占めできるのは、悪い気分ではない。通された四人掛けのテーブルに腰を下ろし、自分のすぐ隣にバッグと上着を置く。メニューを開いたところで、いつの間にか夏季限定の甘味が追加されていることに気づき、季節の移り変わりをしみじみと感じた。
 時が過ぎるのは早い。大学を出て、ここに訪れる日が水曜日から土日に変わって、もうどのくらい経つだろう。これだけ長い休暇を貰うのもいつぶりのことか。
 運ばれてきたカフェラテを一口飲んで、窓の外を眺める。雨の音は、もしかすると店内に流れる名前も分からないBGMよりも大きい。
 ……なんだか、ここに来るのも随分久しぶりのような気がする。
 そう思うのは季節の変わり目だからなのか、それとも視界を塞ぐほどに激しい雨のせいなのか。単に、水曜日のこの場所がもはや私にとって馴染みのない場所になってるだけなのかもしれない。この店に入った時は週一の楽しみに浮かれていたような気がするのに、もうその時の気分は思い出せなかった。濁った何かが身体の底まで落ちていくような、鬱屈とした気持ちに襲われている。
 今日は早めに帰ったほうがいいのかもしれない。そう思ってカップに唇をつけたところで、背後で入口のベルが鳴った。店主の落ち着いた「いらっしゃいませ」の声。新しい客は朗らかな声で「どうも」とだけ言い、席のほうへと歩いてくる。彼も常連なのかもしれない、と私は道路の水溜りを眺めたままぼんやり思う。

「よっ」

 常連ではなく、ただの待ち合わせだったか。なんにせよ、私には関係のないことだ。

「……あれ。あまね?」

 ……名前が同じなんてのも、よくあることだ。けれども、思っていたより近くで聞こえる声に違和感を覚えて、私はつい、そちらに目をやってしまう。

「あまね!」
「……」

 美男子。二枚目。イケメン。ハンサム。少し長めの無造作な茶髪に、きりっとした眉と垂れ目がちな目。約二十年の人生を丸々振り返ってみても直接お目にかかったことのないような整った顔立ちの男性が、満面の笑顔を浮かべている。それも、私を見つめて。

「はー、違うやつだったらどうしようかと思ったぜ。まあ、間違えるはずがないんだけどな」

 そう言いながら、彼はテーブルを挟んだ私の向かいに腰を下ろした。店主が彼の前に水の入ったグラスを置く。違う、私の連れじゃない。この男もこの男だ。「彼女と同じもので」、って何。

「……あまね?」
「っ……」
「なんだ、怖い顔してるな」

 知らない人に知り合いのような顔で名乗った覚えもない名前を呼ばれたら、そりゃあ怖いに決まっている。好青年にしか見えないことだけが救いだというのに。
 彼はテーブルの上に腕を組んで置くと、恋人以外には向けてはいけない類の甘い微笑みを浮かべた。

「元気だったか?」
「えっ、……はい」
「そーかそーか」

 それだけ言って、彼は満足そうに頷いている。私は間抜けにも口を開けたまま、当然のように真正面に座っている男を凝視していた。

「あの……」
「ん?」
「私、あなたとお会いしたこと、ありました?」

 これで「ある」と答えられてしまったら、申し訳がなさすぎる。いや、いや、この男のことを私は知らない。全くもって知らない。けれども、彼のこの接し方は、どう考えたって以前からの知り合いへの絡み方だ。しかも、名前で呼ぶほど親しい人への。
 寧ろ、これで面識がないなどと言われてしまったら――。

「あー、……えっと……あるような、ないような」
「……」
「待った待った行かないでくれ」
「……」

 これで腕でも掴まれようものならどうやってでも振り払って店を出るつもりだったけれど、それくらいの礼儀は弁えていたようだ。逆に、そのあまりに必死な表情に私のほうが心を揺さぶられてしまう。いくらモデルみたいな美青年だとはいえ、私もこんなに単純な女だったつもりはないのに。

「何も取って食おうってわけじゃないんだ。ただ、あんたと少しでいいから話せたらと思って」
「……誰かの知り合いとか?」
「いやあ、話すと長くなる、かな。すまん、そこは見逃してくれ」
「一番重要なところじゃないですか」
「ああ、すまねえ」

 開き直りにも近いあっけらかんとした笑顔を見せられてしまうと、もう何にも言えなくなってしまう。彼にはなんだかそんな力があった。魅力なのか、圧力なのかは知らないけれど。
 カフェラテが静かに差し出されるのを眺めながら、彼は小さく会釈をした。去り際に店主が心配そうに目配せをしてくれたけれど、曖昧に微笑むだけで済ましておくことにする。知らない人だけど、きっと悪い人ではないですよ。ええ、きっと。

「話すだけですよ」
「ああ!」

 どうしてこんなに甘い対応を取っているのか、自分でも不思議なくらいだ。でも、敢えて理由を挙げるなら、雨の日に意味もなく落ち込んだ気分になったりしていた時に、それを突然目の前に現れたこの人が(主に驚きで)吹き飛ばしてくれたから。……こんなところだろう。
 ちょっとだけ、そう、気分転換ってやつだ。

「……」
「……」
「……」
「……で? 何か話があるんじゃないんですか」
「え?」

 頬杖をついてニコニコニコニコ。話す気配が全くなかったのでこちらから振ってみれば、寝耳に水だとでも言いたげに目を丸くされた。

「……? 何か聞きたいことがあったんじゃないんですか?」
「え? あー、うん、なんかあんたが目の前にいるだけで胸がいっぱいっていうか……」
「はあ?」

 私は慌てて口元を押さえた。思わず素が出た、というか、苛立ちが遠慮も何もなくそのまま声と表情に出てしまったのだ。
 気を悪くさせただろうか。おそるおそる彼の表情を窺うと、彼は私の想像の何倍も楽しそうな顔をしていた。

「こういうのも悪くないな。少し寂しいけどさ」
「……あなたの言ってることの半分も理解できていない気がします」
「新鮮だ、ってこと」
「冷たくあしらわれることが?」
「そうそう」

 どこからどう見てもモテそうな佇まいだから、今まで女に粗雑に扱われたことがない、ということ? よくもまあ、そんな自信満々に。
 そこまで考えて、ふと気がつく。いくら初対面の怪しい人だからって、私はこんなふうに他人に露骨に突っかかるような人間ではない。頷いて微笑んで、もっと上手くやれたはずだ。こんなに世渡りが下手ではなかった。

「変なこと言いますけど」
「うん?」
「……私、あなたと初めて会った気がしません」
「え!」

 大声を上げたかと思うと、彼は机を飛び越えるのかと思うくらい身を乗り出して、きらきらした目で私を見つめた。その勢いに私はぎょっとして、思わず後ずさってしまう。
 でも、今なら答えてくれるかもしれない。

「ってことは、やっぱり会ったことがあるんですか?」
「えっ、いや……どうだったかな」

 さっきまでの嬉しそうな顔は何だったのか。彼は身を縮めて決まり悪そうに頬を掻いている。失敗だ。

「はっきりしないんですから」
「悪い」

 滑りかけた口を誤魔化そうとするかのように彼はカフェラテを口に運んだ。少し話したからかなんだか喉が乾いた気がして、釣られたように私もカップを手に取る。

「ん。これ、美味いな」
「ここのカフェラテ、気に入ってるんです」
「そうか」

 カップの影で、彼が微かに笑ったのが見えた。穏やかな笑顔。カフェラテがお気に召したのだろう。自分の好きなものを好きな人が気に入ってくれるのは、私も嬉しい。

「……あれ?」
「あまね? どうかしたか?」
「ええと、…………っ、ちょっと、口元」
「へ?」
「泡ついてますよ」

 カフェラテの泡が彼の口の周りにべったりと髭を作っているのを見た瞬間、持ち上がりかけた違和感はそのまま姿を消した。
 私の指摘を受け、彼は手の甲で口元を擦る。

「うわっ」
「ふふ。子供みたい」
「馬鹿にしてるな?」

 そうは言いながらも彼も怒っている様子ではなく。じとりとした目で私を見つつ、笑みの形をした口元を楽しげに拭っている。そんな姿を見ているうちに、私はなぜか、自分が酷く心穏やかな気持ちでいることに気がついていた。

「ねえ」
「ん?」
「そういえば、聞いてなかったから。あなた――」

 音になる寸前だったはずの質問は、騒がしいベルの音に割り込まれ、そのまま消えてしまった。

「いた!!!! ……あああ!?」

 店内に現れたのは、鮮やかな金髪をした、目を瞠るほど可愛らしい美少女だった。真正面から聞こえた「げっ」と言う声で、彼女が彼の知り合いだということはすぐに分かった。

「何してんの! ダメって言われてたでしょ!?」

 彼女は形のいい眉を釣り上げ、一直線に私達の席に向かってくる。

「いやっ、その、な? すぐ戻れば大丈夫だと思って」
「大丈夫なわけない〜〜〜! 言い訳しないで! ほら、帰るよ!」
「えっまだこれ飲んでな、」
「今すぐ!!!」

 文脈の分からない会話は不快さよりも寂しさをもたらした。蚊帳の外、置いてけぼりの孤独感。彼の腕に巻きつけられた少女の細い腕が、やけにズームアップされて見える。
 ふと、少女の青い瞳と視線が重なった。物言いたげな顔。けれども一瞬開きかけた唇は固く結ばれ、彼女は首をぶんぶんと横に振る。

「ううう〜〜……もー!! 杵くん、行くよ!」
「待っ……あー、クソっ……あまね!」
「っ、は、はい」

 状況についていけず借りてきた猫のような返事しかできない私に、彼は未練たっぷりの顔で言った。

「またな!」

 カラカラとベルが鳴る。嵐のように訪れた人は嵐のように帰っていった。
 喧騒が去り、残ったのは雨の音。それから、飲みさしのカフェラテだけだ。

「またな、って言われても」

 連絡先も何も知らない。この場所に来ればまた会えるのだろうか。……いや、駄目だ、そんなことを考えるのは。それじゃあまるで、私が彼に会いたいみたいで。でも、もしかすると彼も――。
 ――杵くん。
 少女の声で呼ばれた名前が、頭の中で波紋のように響いた。
 杵、っていうのはたぶん渾名だろう。私は結局名前も聞けないまま。渾名でさえ他人から教えられてしまったのだ。

「……彼女、いるんだ」

 独り言がやけに大きく響いてしまった気がした。私は何も知らない顔で、暫くの間、窓の向こうを眺めていた。








「……はい、解呪完了です。記憶に支障はありませんか」
「……」
「審神者さま?」
「……ええ、はい。大丈夫です」
「では所属と番号を」
「美濃国――」

 政府職員の質問に淡々と答えていく。
 頭がいやにすっきりしていた。陰鬱な六月の靄が晴れ、記憶と記憶が繋がり合う。何もかもが鮮明に思い出されていく。
 自分が政府の下で審神者の任についていたこと。
 この度、休暇として現世に帰っていたこと。
 その際、情報の漏洩を防ぐために、審神者として過ごした期間の記憶を封じられていたこと。
 そして、あの時、喫茶店で会った男が誰なのかということ。

「……伝達事項は以上です。それでは、これからもお勤め頑張ってくださいね」
「ありがとうございます」

 礼を言い、部屋を出る。もうここに用はない。後は本丸へと戻るだけだ。

「……ところで、乱」
「は、はーい」

 後ろに控えていた私の乱藤四郎が、ばつの悪そうな顔で返事をする。本来なら近侍である槍が迎えに来るはずなのだが、まったくあの男は。

「あの、主、ボクは止めたんだよ」
「ええ、分かってますよ。それで、御手杵は?」
「えっと、正座して待ってるんじゃないかなぁ? 主きっと怒るよ、って言ったらすっごく怯えてた」
「当然です」

 不在中、確かに刀剣男士には現世含めた各時代の調査及び巡回を命じていた。その編成も彼らに一任していた。
 けれども、記憶のない私との接触は当然禁じていたし、休暇に入る直前にも間違いなく言ったはずだ。
 何度も何度も。口を酸っぱくして、というほどではないけれど。あまりにくどいと、まるで私が彼らを信頼していないようだと思ったから。
 それなのに、緊急時でもないのに。

「御手杵ってやつは……」

 それに。
 それに、本当に認めがたいし、こんなことで怒るのも悔しいのだけれど。
 残りの休暇中、私が何度あのお店に行って何度御手杵のことを思い返していたことか!

「本っ当に悪趣味!」

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