煙ごしにちらついた翳

「あ、」

 咄嗟に右手を身体の陰に隠す。だが、手遅れだったことは彼女の表情から明らかだった。
 普段柔らかな曲線を描いている眉が、内側にきつく寄せられている。黒い瞳は目を逸らしたくなるほど真っ直ぐに彼を見つめていた。
 怒っているんだろうか。彼女の傍らで、御手杵は曖昧に笑うことしかできない。

「吸ってるの?」
「え、と……あー……」
「知らなかった」

 責め立てるような表情とは裏腹にその口調は淡々としたものだ。
 女は御手杵の隣に腰掛け、膝から先をぶらりと庭に投げ出す。太腿がぶつかり、ぎょっとして身体を反対に引けば、薄桃色の唇が不満そうに突き出された。

「私が隣に来るのは嫌ですか」
「嫌じゃないけどさ……」

 隠し事を知られた手前、堂々と顔を合わせるのは居心地が悪過ぎる。
 だが、ここで嫌がっては相手の機嫌を余計に損ねるだけだろう。それは容易に想像がついたので、御手杵はおとなしく縁側に並んで座ることにした。
 隣を向けばそれだけで吐息の触れる距離だ。とうに慣れた間合いのはずなのに、今ばかりは妙にどぎまぎしてしまう。これが初心な想いから来るものならまだ良かったのだが、理由が理由なだけに肩身が狭くてならない。
 背中を丸めた女が、秘密を手にした右手を覗き込む。ぽとり。反射的に身体が跳ね、煙草の先に溜まった灰が、乾いた土の上に落ちていった。

「怒ってるか?」

 黙ったままの恋人に恐る恐る尋ねてみる。
 さらりと流れた髪からは、胸をくすぐるような優しい香りがした。

「どうして?」
「どうして、って……あんたは嫌がるかと思って」

 御手杵に煙草を教えたのは、現世で会った見ず知らずの女だった。
 政府の高官と話があるという審神者を、建物の外で待っている時に話しかけられた。いや、正しくは絡まれた、のだろう。煙の匂いに混ざり、微かにアルコールの匂いがした。御手杵はその女の顔ももう覚えていないのだが、煙草を摘んでいた枝のように細い指先だけは、やけにしぶとく瞼の裏にこびりついている。
 煙草に向けられた僅かな興味を女は目ざとく捉えた。果たして自分の何が気に入ったのか。彼女は御手杵のポケットに封の開いた箱を突っ込むと、満足げに微笑み、颯爽と去っていったのだ。
 帰り際、建物から出てきた審神者を一瞥し、「彼女は気に入らないかもしれないけどねえ」――そう言い残して。

 御手杵の主であり恋人でもある女は、煙草を持つ指先を見つめたまま、ふ、と小さく息を吐いた。その吐息はため息のようでもあり、不意をついてこぼれた微笑のようでもある。何か意味があるような気がしたが、気がしただけで、彼には真意は欠片も見えなかった。

「っ、わ」

 御手杵の太腿に手を置いた女が、上体をぐっと伸ばす。うなじに柔らかなものが触れ、御手杵は思わず目を丸めた。
 彼女は御手杵の首の後ろに顔を寄せながら、犬のようにくんくんと鼻を鳴らしている。腕は肩の上に巻きつき、その唇は肌に直に触れていた。そのまま彼女は恋人だけに聞こえる声で囁く。

「御手杵の匂いがします」
「あ、ああ……そうだろう、な?」
「煙草、そんなに吸ってない?」

 他の誰かの匂いがしたら困る、と口にしかけたが、それは的外れな指摘だったようだ。

「あんたにばれない程度」

 女が触れた場所に熱が集まっていくのを感じる。その感覚を誤魔化すように半分笑いながら答えると、灰色に曇った顔が御手杵の前に現れた。だがそれはほんの一瞬で、彼女はすぐに平素の表情を取り戻す。

「嫌じゃありませんよ」
「そうなのか?」
「ええ。そこまで嫌じゃありません」

 付喪神の健康には大した影響はありませんしね。彼女は口の中でそう付け加えた。
 予想していたよりも淡白な反応に御手杵は戸惑っていた。一日に何本も吸っているわけではない。ただ、時折手が伸びてしまうだけで、やめろと言われればすぐにやめられるだろうと考えていたし、そう言われるものだと思っていた。

「隠されてたのが嫌なだけです」
「あっ」

 右手に持っていた煙草が消える。軽い所作で取り上げたそれを、女は躊躇いなく自身の唇に挟み込んだ。
 あんたも吸うのか、と口にする間もない。

「! っ、げほ……ッ」
「わ、だ、大丈夫か……!?」

 ひとつ息を吸うや否や、女は激しく噎せ込んでしまった。身体を折り、苦しそうに咳き込む姿に慌てながら、丸まった背中をゆっくりとさする。

「けほっ、な゛、なに、これぇ……っ」
「吸ったことなかったのか?」
「うう……」

 そのまま背中を撫でられる内に、どうにか呼吸も落ち着いてきたようだ。低く唸りながら身体を起こした女の目の縁には、薄らと涙が滲んでいた。

「私には無理かもしれない……」
「おう……じゃあやめとけ」
「返します」

 その言葉とともに、煙草が無造作に口へと突き返される。それをつい吸ってしまったのはほとんど反射からの行動だった。慌てて顔を背けて紫煙を吐き出す。噎せ込む彼女に追い打ちはかけられない。
 隣に恋人がいるのに吸い続ける気にはなれず、御手杵は煙草を摘んだままぼんやりと中庭を眺めた。そうしていると、すぐ傍から遠慮のない視線を感じる。気づかない振りをしていても中々めげない。御手杵は仕方なく、恐る恐る隣に目をやった。

「な、なんだ……?」
「ううん」

 なんでもない、と彼女は首を横に振る。御手杵はなす術なく視線を庭先へ戻したが、それでもじっとこちらを見ている気配がする。酷く落ち着かない気分にさせられ、痒いわけでもないのにくしゃくしゃと頭を掻いた。
 もう一度隣を見る。視線で促すと、薄く開かれた唇から、ほろりと言葉がこぼれ落ちた。

「なんだか、知らない人みたい」

 彼女のその言葉こそ、知らない響きだと思った。

「俺は俺だぜ?」

 鉄の槍に肉を与えた。声を与えた。心を与えた。ずっと見てきたくせに、よりによってその主がそんなことを言うのだ。
 もしかすると声が強張っていたのかもしれない。彼女ははっとした様子で目を伏せ、唇を結んだ。

「……ん……ごめんなさい。……忘れて。そのくらいびっくりしたってだけ」

 高さの違う肩が触れる。もたれかかった女が御手杵の腕に頬を寄せた。
 言葉にできない感情を持て余す。苛立ちのような、寂しさのような、けれども怒りではなくて、それだからぶつけることもできない。そもそも、何に対して抱いた感情なのかさえはっきりとは分からないのだ。

「様になってましたよ。かっこいいです」
「そうかあ?」

 頷いた女が御手杵の首に腕を絡め、そっと顔を近づけてくる。
 誤魔化されてるな、とは思った。だが、拒む理由は彼の中には欠片も存在しない。
 ぬるい舌がせがむように彼の唇を舐める。それに応えて御手杵もまた舌を差し出し、互いのそれを空中で触れ合わせる。唇が重なりかけたところで、ふいに女の動きがぴたりと止まった。

「あー……匂い、気になるか?」
「ん……ちょっとだけ」

 限りなく零に近い距離でなされた会話の後で、口づけは深くなっていく。
 積極的なのは女のほうだった。忍び込んだ舌が御手杵の口内を舐め上げ、舌の裏をつつく。ざらついた表面を擦り、ねっとりと絡めたかと思うと、舌先に軽く吸いついてくる。戯れるような感触はくすぐったいくらいで、けれども確かに彼女を感じ、御手杵の背筋はぞくりと粟立った。
 指先から煙草が落ちる。その手で御手杵は女の頬を撫で、小さな頭を支えるように掻き抱いた。突然激しさを増した口づけに翻弄され、女の身体がひくりと震える。鼻を抜けるような甘い吐息を漏らして感じ入る彼女の姿に、御手杵の身体まで熱を上げていく。

「やっぱり、こっちのほうが好きだ」

 口づけの合間に囁くと、女の顔に控えめな喜びがあふれた。

「吸いたくなったら私のところに来ます?」
「ああ、いいな、それ」

 顔を近づけてくる恋人を抱き寄せ、再びその唇を塞ぐ。
 珍しいな、と頭の片隅でぼんやり思う。縁側でキスなんて誰に見られるかも分からない。
 ああ、でも、どうでもいいか。乾いた地面の上で燻る煙草を踏み潰す。苦味の代わりに彼女の甘さが刻み込まれていく。何もかもをかなぐり捨て、柔らかな唇に夢中になった。
 日が暮れる。銀糸を残して唇が離れる。女は秘めやかな熱情を湛えながら、ただ男だけを見つめていた。

「御手杵のことをね、」
「……ん」
「全部知っていたいって思うのよ」

 橙に染まる世界の中に女の姿がぼんやりと溶け込んでいる。注がれる真面目なまなざしさえ、ともすれば泡沫のように消えてしまいそうだった。
 そういえば、煙草だけは彼女から貰ったものではなかったな。ふと、そんなことを思った。
 もしかすると、彼女が感じていたのも些細なやきもちに過ぎなかったのかもしれない。

「可愛いこと言うんだな」

 御手杵の言葉に、女は小さく微笑んだ。いつもと変わらない、とても優しい笑顔だった。
 けれども、その微笑みが酷く痛ましく思えたのは、一体何故なのだろう。

 温度の低い手が彼の胸に触れ、きゅっと服を握る。唇をねだるそのしぐさはまるで縋っているかのようで、御手杵は言葉もなく、ただ彼女を抱きしめていた。




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#おてさにまつり に投稿した作品です。

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