すきトラップ
退屈だ。
さっきまでは審神者と一緒に戦力拡充計画の部隊編成を考えていたのだが、それももう済んでしまった。あとは各部隊の隊長を集めて調整を行うだけだ。
手持ち無沙汰だが、暇だからと言って近侍が主の傍を離れるわけにもいかない。
机に向かう審神者の後ろ姿を眺める。最近暑くなったからか、長い髪は頭の上のほうで一つに纏められていた。普段隠れているうなじが露わになっているのがなんだか新鮮で、俺は導かれるように白い首筋に手を伸ばす。
「んー? なあに、御手杵」
「首が見えてたから」
「ふふ、くすぐったいですよ」
うなじの薄い肌を撫でると、こっちを向いた審神者がころころ笑った。あーあ、可愛い。
「暇だ」
「ごめんなさいね」
「構ってほしい」
「あとちょっとしたらお仕事あげますから」
直球で求めてみたが、あっさりと流されてしまった。
仕事。退屈を紛らわせることができるのなら、それもいいけれど。
本当はそういうことじゃないんだけどなあ、と心の中でぼやく。でも、たぶん審神者も分かって言っているのだ。つれないやつ。ほら、もう机に向き直ってしまっている。それならもうそのままでいい。
「なあ」
「はい」
「あんたは前向いてていいからさ、ちょっと付き合ってくれ」
振り返ろうとした審神者の肩を掴み、そのまま机に向かわせる。細い指先が不思議そうに俺の手の甲を撫でた。
「どうしたんですか?」
「今から背中に文字を書く」
「はあ」
「から、なんて書いたか当ててくれ」
本丸に新しい遊びを運んでくるのは大抵短刀達で、この簡単なゲームも例に漏れない。先日、広間で来派が遊んでいたのを横から見ていたのだ。
「唐突ですね」
審神者が顔だけでこちらを見て、困ったように笑った。
確かに、俺は楽しめて暇も潰せるだろうが、主からすれば仕事の邪魔にしかならない。さすがに駄目か。そりゃそうだ。
「いいですよ。どうぞ」
けれど、大人しく手を引っ込めようとしたところで、まさかの許可が出た。
「いいのか?」
「少しだけね」
小さく揺れた黒髪が返事をした。
居住まいを正した審神者はこちらに背を向け、ちょこんとおとなしく座っている。もしかすると、机の前から動けない書類仕事に彼女も飽き飽きしていたのかもしれない。
「じゃあ……」
人差し指を立てる。さて、なんて書こうか。
とりあえず指を審神者の背中にくっつけてみた。くすぐったかったのか、小さな身じろぎとともに控えめな笑い声が聞こえてくる。何故かこちらまでどきりとした。
迷いながら、俺は彼女の背中にゆっくりと文字を書いていく。
「さ、ば?」
「正解」
「お魚ですか? なんで鯖」
「昨日の味噌煮がうまかった」
「うん、すごくおいしかったけど」
腑に落ちない顔をされても、咄嗟に出てきたのが鯖だったのだから仕方がない。
「簡単だったか?」
「簡単でした」
「じゃあ次は……」
頭を捻る。三、四文字くらいがちょうどいい気はするのだが、いざ書こうとすると適切な単語が全然浮かんでこない。
悩む俺を助けたのは、やはりいつだかの飯だった。
「かぼちゃ?」
「正解」
「煮物おいしいですよね」
「うまいよなあ」
数分後には頭から消えてしまうようなとりとめのない会話。
二問目も易々と当てられてしまったのがなんだか悔しくて、俺は早くも審神者の背中に次の一画目を備えていた。
「次行くぜー」
だんご。
きんぴら。
ビーフシチュー。
「食べ物ばっかりじゃないですか」
淡々と答え続けていた審神者にもついに突っ込まれてしまった。
「駄目か?」
「お腹すいてきちゃう」
呆れた声も笑い混じりに、振り向いた審神者が俺の人差し指を握った。手首を捻って彼女の手を握り、そのまま前方に押し返す。
「それなら次は食べ物じゃないやつにする」
「まだするんですか?」
もう十分とでも言いたげな審神者の言葉を流しつつ考える。
食べ物でなければ何だろう。生き物だろうか。
「よし、決めた」
「はい、どうぞ………………ん?」
「どうかしたか?」
「えー……あ、あれ? う、……んん?」
何かがおかしいことに気づいたらしい。余裕ぶっていた審神者の様子が線を足すごとに崩れていく。
唸りつつ首を傾げる姿に、思わず顔がにやついた。これまで全問正解されていただけに、動揺する様子が楽しくてならない。彼女が見ていたら、いやらしい顔だ、と怒ってきたかもしれないが、まあどうせ見えていないのだから遠慮するだけ無駄だ。
「ほい、終わり」
「ちょ、ちょっと待って? 長すぎじゃないですか……!?」
予想通りの言葉に、俺は小さく噴き出した。
「五文字しかないぞ?」
「ええ? 五文字の画数じゃない……あ、もしかして漢字ですか?」
「おう。ほら、答えは?」
肩越しに審神者の顔を覗き込む。催促すると彼女はぐっと言葉に詰まり、悔しそうに表情を歪ませた。
「もう一回」
「やだ」
「うう、いきなりの漢字は反則でしょ……」
そう唇を尖らせながらもどうにか足掻こうとしていたようなのだが、程なくして「降参」と白旗を振った。
「なんて書いたんですか?」
「江雪左文字」
「……ずるい…………」
酷く恨めしそうな声を漏らし、審神者が机の上に突っ伏す。その姿を見て、俺は声を上げて笑った。
ああ、楽しかった。
「交代です」
「お、あんたもやるのか?」
「します」
勢い良く身体を起こした審神者がくるりと俺の背後に回る。
指の感触に備えていると、思っていたよりも広い範囲に衝撃が来た。どうやら頭突きをされたらしい。勿論軽くではあったが、そういえばこの女は慎ましい見た目に反して負けず嫌いなのだった。
そして、くすぐったい感触と一緒に、背中に文字が書かれていく。
「はむ」
「正解」
「なんでハム?」
「最初は字数が少ないほうがいいかと思って」
なるほど、と頷いておく。出題したもの自体に特に意図があるわけではないのはお互い様だったようだ。
言葉を交わす間も審神者の指は背中にくっついたままで、続いてすぐに二問目が出題された。
「からあげ!」
「正解」
「うわあ、これ腹減るなあ」
「でしょう」
揚げたての唐揚げが頭の中に鮮明に浮かぶ。外はカリカリ中はふわふわ、柔らかくてジューシーで、一口噛めば肉汁がじゅわっとあふれてくる。レモンや塩でさっぱりと食べるのもいいし、タレに絡めた濃厚な味を楽しむのもまたいい。想像するだけで涎が出そうだ。
「それじゃあ次」
唐揚げに心惹かれている間にも、審神者の指は新たな食べ物を連れて俺を誘惑する。答えに辿り着いた時には、頭の中の絵もすっかり切り替わっていた。
つやつやとした卵がとろりと丘を滑る。スプーンを入れると、卵の切れ目からケチャップで味付けされたご飯が姿を現して、酸味のある香ばしい匂いがふわりと鼻をくすぐった。
「オムライス!」
「正解」
「食べたい」
「今度作ってください。半熟で、ふわふわのやつがいいです」
「俺が?」
「御手杵が」
「んー……何が出来ても文句言うなよ?」
「やだ。固かったら文句言います」
くすくすと笑う審神者はなんだかとても楽しそうだ。
基本的には食事は日替わりの当番が作り、皆で集まって食べるのだが、人数が少ない日などには各々で料理を作ることもある。次の機会はいつになるだろう。まだ分からないけれど、覚えていたら作ってやってもいいかもしれない。
ところで――。
「あんたも食べ物ばっかりだな」
「次はちょっと変えますよ。ほら、あっち向いて」
細い腕が肩をぐいぐい押してくるので、俺はおとなしく前に向き直り、背中に神経を集中させた。
そして、審神者の指が動き始める。
す
き
――すき焼きだ!
二文字目が書かれた瞬間、光が差したかのように頭の中が晴れ渡った。
鉄鍋でぐつぐつと煮立つ割下の、罪深いまでに腹の減るいい匂い。葱に春菊や椎茸、豆腐にしらたきが、何とも言えず美味そうな色に染まっていく。それらと一緒に煮た牛肉は柔らかさも甘辛さも絶妙で、溶いた卵にくぐらせればもう、舌がとろけてしまいそうだ。
これは間違いなく正解だろう。正解以外にありえない。確信を抱きつつ、あくまで確認のために残りの文字が書かれるのを待つ。
だが、審神者の手は何故かそこで止まってしまった。
「はい。答えは?」
「え?」
「ん?」
飛ばした疑問符に同じような疑問符が返ってくる。
振り向くと、目を丸めた審神者がぱちぱちと瞼を上下させていた。
「……足りなくないか?」
「え?」
互いに不思議そうな顔を突き合わせて停止する。
奇妙な沈黙。
「二文字足りない」
「……もう終わりですよ?」
審神者が訝しげに首を傾げた。
俺も同じく首を捻る。が、ふとあることに思い至って、ポン、と手を打った。
確か、審神者は最初に「次は変える」と言っていた。
初めは問題の答えを変えるつもりなのだと思っていたが、もしかすると変えたのは出題の形式のほうだったのかもしれない。つまり、文字を書くのは途中までで、続きは想像しろということなのだ。きっとそうに違いない。
「分かったぜ」
「良かったです。……で?」
審神者が微笑み、俺を見つめる。その姿はどこかそわそわしていて、何かを期待しているようにも見えた。
俺は人差し指を立て、意気揚々とその答えを口にした。
「すき焼き!」
我ながら完璧な答えだ。
だが、何故だろう。審神者の表情が、笑顔のままぴしりと固まった。
「……」
「え、当たりだろ?」
「……馬鹿」
審神者の眉がこれ以上ないくらい内側に寄せられる。はあああぁ、と隠されることもない深いため息が目の前から聞こえた。
「どう考えても二文字だったじゃないですか……」
「えっ違うのか!?」
「違います!」
突如荒ぶった語調にぎょっとする。
検非違使でも尻尾を巻いて逃げ出すような鋭い目で、審神者は俺を睨みつけている。背筋を冷たいものが走った。どうしても正しい答えを見つけなければならない気がした。
二文字。どう考えても二文字だった。それは間違いない。ということは。
「すき?」
「そう!」
「んー畑仕事は好きじゃないなあ」
「鋤じゃありません!」
審神者の顔が輝いたのも束の間、また機嫌を損ねてしまったらしい。
何が違うのだろう?
顎に手をやって考える。分からない。
「じゃあなんだよ」
「……御手杵、いま言ったのに」
「鋤?」
「それは畑仕事のほうでしょ……そうじゃなくてぇ……」
審神者は眉をハの字にして、もだもだと何かを言いたそうにしている。しかし、待てども待てども肝心の言葉は出てこない。
「もう知らない」
そして結局何も言わないまま。ふん、と顔をそらしたかと思うと、審神者は目の前の書類に何かを書きたくり、それらを無造作に纏めて俺に差し出してきた。
「燭台切に渡してきて」
「お、おう、分かった、けど……結局答えは何なんだよ」
「知らない」
審神者はそう言ったきり、一の字に口を閉じて黙り込んでしまう。
どこまでもすげない態度だ。もやもやしたものを抱えながら、俺は仕方なく執務室を出て歩き始めた。
すき、鋤、隙、数寄?
踏み出す足に合わせて頭の中で唱え続ける。
書いたのは平仮名だったのに、意味まで含めての完答を求めてくるのはさすがに厳しいんじゃないだろうか。理不尽な審神者に苛立ちさえ覚えそうだ。
燭台切光忠は台所で夕飯の下拵えをしているところだった。俺に気づくと手を止め、やあ、と笑いかけてくる。
「燭台切。これ、主から」
「ああ、ありがとう。確かに受け取ったよ」
手袋を嵌めた指が書類の束をぺらぺらめくる。もしかすると丁度一段落ついたところだったのかもしれない。随分と読み耽っているようだ。
用事は済んだものの執務室には戻りづらい。なんとはなしに横から書類を覗いたが、内容は頭に入ってこなかった。
すき、すき、スキ。
「なあ、『すき』ってなんだと思う?」
「君が主に抱いてる感情じゃないのかな」
書類を眺めたまま問いかけると、同じく書類を眺めたまま答えられた。
それはあまりにさりげなく、あまりに当然のように。
求めていた答えがあっさりと目の前に現れて、俺は間抜け面で言葉をなくした。
「……あ、ごめん。余所見をしながら答えるなんて、失礼なことをしたかな」
「いや、……いや………」
「御手杵くん?」
燭台切が不思議そうにこちらを窺う。
ろくに返事をすることもできない。代わりに頭の中でただ一つの言葉が回っていた。
すき、スキ、好き。
「それだあ……」
力が抜け、その場にしゃがみ込む。思わず両手で顔を覆った。
食べ物にはなかった意図も、彼女が拗ねていた理由も、今ならはっきりと分かる。
同じ言葉を書けば許してくれるだろうか。
首を傾げる燭台切に構う余裕もない。審神者の待つ部屋に向かって、俺は脇目も振らず駆け出した。
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#おてさにまつり に投稿した作品です。
退屈だ。
さっきまでは審神者と一緒に戦力拡充計画の部隊編成を考えていたのだが、それももう済んでしまった。あとは各部隊の隊長を集めて調整を行うだけだ。
手持ち無沙汰だが、暇だからと言って近侍が主の傍を離れるわけにもいかない。
机に向かう審神者の後ろ姿を眺める。最近暑くなったからか、長い髪は頭の上のほうで一つに纏められていた。普段隠れているうなじが露わになっているのがなんだか新鮮で、俺は導かれるように白い首筋に手を伸ばす。
「んー? なあに、御手杵」
「首が見えてたから」
「ふふ、くすぐったいですよ」
うなじの薄い肌を撫でると、こっちを向いた審神者がころころ笑った。あーあ、可愛い。
「暇だ」
「ごめんなさいね」
「構ってほしい」
「あとちょっとしたらお仕事あげますから」
直球で求めてみたが、あっさりと流されてしまった。
仕事。退屈を紛らわせることができるのなら、それもいいけれど。
本当はそういうことじゃないんだけどなあ、と心の中でぼやく。でも、たぶん審神者も分かって言っているのだ。つれないやつ。ほら、もう机に向き直ってしまっている。それならもうそのままでいい。
「なあ」
「はい」
「あんたは前向いてていいからさ、ちょっと付き合ってくれ」
振り返ろうとした審神者の肩を掴み、そのまま机に向かわせる。細い指先が不思議そうに俺の手の甲を撫でた。
「どうしたんですか?」
「今から背中に文字を書く」
「はあ」
「から、なんて書いたか当ててくれ」
本丸に新しい遊びを運んでくるのは大抵短刀達で、この簡単なゲームも例に漏れない。先日、広間で来派が遊んでいたのを横から見ていたのだ。
「唐突ですね」
審神者が顔だけでこちらを見て、困ったように笑った。
確かに、俺は楽しめて暇も潰せるだろうが、主からすれば仕事の邪魔にしかならない。さすがに駄目か。そりゃそうだ。
「いいですよ。どうぞ」
けれど、大人しく手を引っ込めようとしたところで、まさかの許可が出た。
「いいのか?」
「少しだけね」
小さく揺れた黒髪が返事をした。
居住まいを正した審神者はこちらに背を向け、ちょこんとおとなしく座っている。もしかすると、机の前から動けない書類仕事に彼女も飽き飽きしていたのかもしれない。
「じゃあ……」
人差し指を立てる。さて、なんて書こうか。
とりあえず指を審神者の背中にくっつけてみた。くすぐったかったのか、小さな身じろぎとともに控えめな笑い声が聞こえてくる。何故かこちらまでどきりとした。
迷いながら、俺は彼女の背中にゆっくりと文字を書いていく。
「さ、ば?」
「正解」
「お魚ですか? なんで鯖」
「昨日の味噌煮がうまかった」
「うん、すごくおいしかったけど」
腑に落ちない顔をされても、咄嗟に出てきたのが鯖だったのだから仕方がない。
「簡単だったか?」
「簡単でした」
「じゃあ次は……」
頭を捻る。三、四文字くらいがちょうどいい気はするのだが、いざ書こうとすると適切な単語が全然浮かんでこない。
悩む俺を助けたのは、やはりいつだかの飯だった。
「かぼちゃ?」
「正解」
「煮物おいしいですよね」
「うまいよなあ」
数分後には頭から消えてしまうようなとりとめのない会話。
二問目も易々と当てられてしまったのがなんだか悔しくて、俺は早くも審神者の背中に次の一画目を備えていた。
「次行くぜー」
だんご。
きんぴら。
ビーフシチュー。
「食べ物ばっかりじゃないですか」
淡々と答え続けていた審神者にもついに突っ込まれてしまった。
「駄目か?」
「お腹すいてきちゃう」
呆れた声も笑い混じりに、振り向いた審神者が俺の人差し指を握った。手首を捻って彼女の手を握り、そのまま前方に押し返す。
「それなら次は食べ物じゃないやつにする」
「まだするんですか?」
もう十分とでも言いたげな審神者の言葉を流しつつ考える。
食べ物でなければ何だろう。生き物だろうか。
「よし、決めた」
「はい、どうぞ………………ん?」
「どうかしたか?」
「えー……あ、あれ? う、……んん?」
何かがおかしいことに気づいたらしい。余裕ぶっていた審神者の様子が線を足すごとに崩れていく。
唸りつつ首を傾げる姿に、思わず顔がにやついた。これまで全問正解されていただけに、動揺する様子が楽しくてならない。彼女が見ていたら、いやらしい顔だ、と怒ってきたかもしれないが、まあどうせ見えていないのだから遠慮するだけ無駄だ。
「ほい、終わり」
「ちょ、ちょっと待って? 長すぎじゃないですか……!?」
予想通りの言葉に、俺は小さく噴き出した。
「五文字しかないぞ?」
「ええ? 五文字の画数じゃない……あ、もしかして漢字ですか?」
「おう。ほら、答えは?」
肩越しに審神者の顔を覗き込む。催促すると彼女はぐっと言葉に詰まり、悔しそうに表情を歪ませた。
「もう一回」
「やだ」
「うう、いきなりの漢字は反則でしょ……」
そう唇を尖らせながらもどうにか足掻こうとしていたようなのだが、程なくして「降参」と白旗を振った。
「なんて書いたんですか?」
「江雪左文字」
「……ずるい…………」
酷く恨めしそうな声を漏らし、審神者が机の上に突っ伏す。その姿を見て、俺は声を上げて笑った。
ああ、楽しかった。
「交代です」
「お、あんたもやるのか?」
「します」
勢い良く身体を起こした審神者がくるりと俺の背後に回る。
指の感触に備えていると、思っていたよりも広い範囲に衝撃が来た。どうやら頭突きをされたらしい。勿論軽くではあったが、そういえばこの女は慎ましい見た目に反して負けず嫌いなのだった。
そして、くすぐったい感触と一緒に、背中に文字が書かれていく。
「はむ」
「正解」
「なんでハム?」
「最初は字数が少ないほうがいいかと思って」
なるほど、と頷いておく。出題したもの自体に特に意図があるわけではないのはお互い様だったようだ。
言葉を交わす間も審神者の指は背中にくっついたままで、続いてすぐに二問目が出題された。
「からあげ!」
「正解」
「うわあ、これ腹減るなあ」
「でしょう」
揚げたての唐揚げが頭の中に鮮明に浮かぶ。外はカリカリ中はふわふわ、柔らかくてジューシーで、一口噛めば肉汁がじゅわっとあふれてくる。レモンや塩でさっぱりと食べるのもいいし、タレに絡めた濃厚な味を楽しむのもまたいい。想像するだけで涎が出そうだ。
「それじゃあ次」
唐揚げに心惹かれている間にも、審神者の指は新たな食べ物を連れて俺を誘惑する。答えに辿り着いた時には、頭の中の絵もすっかり切り替わっていた。
つやつやとした卵がとろりと丘を滑る。スプーンを入れると、卵の切れ目からケチャップで味付けされたご飯が姿を現して、酸味のある香ばしい匂いがふわりと鼻をくすぐった。
「オムライス!」
「正解」
「食べたい」
「今度作ってください。半熟で、ふわふわのやつがいいです」
「俺が?」
「御手杵が」
「んー……何が出来ても文句言うなよ?」
「やだ。固かったら文句言います」
くすくすと笑う審神者はなんだかとても楽しそうだ。
基本的には食事は日替わりの当番が作り、皆で集まって食べるのだが、人数が少ない日などには各々で料理を作ることもある。次の機会はいつになるだろう。まだ分からないけれど、覚えていたら作ってやってもいいかもしれない。
ところで――。
「あんたも食べ物ばっかりだな」
「次はちょっと変えますよ。ほら、あっち向いて」
細い腕が肩をぐいぐい押してくるので、俺はおとなしく前に向き直り、背中に神経を集中させた。
そして、審神者の指が動き始める。
す
き
――すき焼きだ!
二文字目が書かれた瞬間、光が差したかのように頭の中が晴れ渡った。
鉄鍋でぐつぐつと煮立つ割下の、罪深いまでに腹の減るいい匂い。葱に春菊や椎茸、豆腐にしらたきが、何とも言えず美味そうな色に染まっていく。それらと一緒に煮た牛肉は柔らかさも甘辛さも絶妙で、溶いた卵にくぐらせればもう、舌がとろけてしまいそうだ。
これは間違いなく正解だろう。正解以外にありえない。確信を抱きつつ、あくまで確認のために残りの文字が書かれるのを待つ。
だが、審神者の手は何故かそこで止まってしまった。
「はい。答えは?」
「え?」
「ん?」
飛ばした疑問符に同じような疑問符が返ってくる。
振り向くと、目を丸めた審神者がぱちぱちと瞼を上下させていた。
「……足りなくないか?」
「え?」
互いに不思議そうな顔を突き合わせて停止する。
奇妙な沈黙。
「二文字足りない」
「……もう終わりですよ?」
審神者が訝しげに首を傾げた。
俺も同じく首を捻る。が、ふとあることに思い至って、ポン、と手を打った。
確か、審神者は最初に「次は変える」と言っていた。
初めは問題の答えを変えるつもりなのだと思っていたが、もしかすると変えたのは出題の形式のほうだったのかもしれない。つまり、文字を書くのは途中までで、続きは想像しろということなのだ。きっとそうに違いない。
「分かったぜ」
「良かったです。……で?」
審神者が微笑み、俺を見つめる。その姿はどこかそわそわしていて、何かを期待しているようにも見えた。
俺は人差し指を立て、意気揚々とその答えを口にした。
「すき焼き!」
我ながら完璧な答えだ。
だが、何故だろう。審神者の表情が、笑顔のままぴしりと固まった。
「……」
「え、当たりだろ?」
「……馬鹿」
審神者の眉がこれ以上ないくらい内側に寄せられる。はあああぁ、と隠されることもない深いため息が目の前から聞こえた。
「どう考えても二文字だったじゃないですか……」
「えっ違うのか!?」
「違います!」
突如荒ぶった語調にぎょっとする。
検非違使でも尻尾を巻いて逃げ出すような鋭い目で、審神者は俺を睨みつけている。背筋を冷たいものが走った。どうしても正しい答えを見つけなければならない気がした。
二文字。どう考えても二文字だった。それは間違いない。ということは。
「すき?」
「そう!」
「んー畑仕事は好きじゃないなあ」
「鋤じゃありません!」
審神者の顔が輝いたのも束の間、また機嫌を損ねてしまったらしい。
何が違うのだろう?
顎に手をやって考える。分からない。
「じゃあなんだよ」
「……御手杵、いま言ったのに」
「鋤?」
「それは畑仕事のほうでしょ……そうじゃなくてぇ……」
審神者は眉をハの字にして、もだもだと何かを言いたそうにしている。しかし、待てども待てども肝心の言葉は出てこない。
「もう知らない」
そして結局何も言わないまま。ふん、と顔をそらしたかと思うと、審神者は目の前の書類に何かを書きたくり、それらを無造作に纏めて俺に差し出してきた。
「燭台切に渡してきて」
「お、おう、分かった、けど……結局答えは何なんだよ」
「知らない」
審神者はそう言ったきり、一の字に口を閉じて黙り込んでしまう。
どこまでもすげない態度だ。もやもやしたものを抱えながら、俺は仕方なく執務室を出て歩き始めた。
すき、鋤、隙、数寄?
踏み出す足に合わせて頭の中で唱え続ける。
書いたのは平仮名だったのに、意味まで含めての完答を求めてくるのはさすがに厳しいんじゃないだろうか。理不尽な審神者に苛立ちさえ覚えそうだ。
燭台切光忠は台所で夕飯の下拵えをしているところだった。俺に気づくと手を止め、やあ、と笑いかけてくる。
「燭台切。これ、主から」
「ああ、ありがとう。確かに受け取ったよ」
手袋を嵌めた指が書類の束をぺらぺらめくる。もしかすると丁度一段落ついたところだったのかもしれない。随分と読み耽っているようだ。
用事は済んだものの執務室には戻りづらい。なんとはなしに横から書類を覗いたが、内容は頭に入ってこなかった。
すき、すき、スキ。
「なあ、『すき』ってなんだと思う?」
「君が主に抱いてる感情じゃないのかな」
書類を眺めたまま問いかけると、同じく書類を眺めたまま答えられた。
それはあまりにさりげなく、あまりに当然のように。
求めていた答えがあっさりと目の前に現れて、俺は間抜け面で言葉をなくした。
「……あ、ごめん。余所見をしながら答えるなんて、失礼なことをしたかな」
「いや、……いや………」
「御手杵くん?」
燭台切が不思議そうにこちらを窺う。
ろくに返事をすることもできない。代わりに頭の中でただ一つの言葉が回っていた。
すき、スキ、好き。
「それだあ……」
力が抜け、その場にしゃがみ込む。思わず両手で顔を覆った。
食べ物にはなかった意図も、彼女が拗ねていた理由も、今ならはっきりと分かる。
同じ言葉を書けば許してくれるだろうか。
首を傾げる燭台切に構う余裕もない。審神者の待つ部屋に向かって、俺は脇目も振らず駆け出した。
+++++
#おてさにまつり に投稿した作品です。
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