暑いほど熱くなる
それでは、行って参ります。
前田藤四郎を隊長とする第四部隊を見送る。短い遠征だ。夕食前には帰ってくるだろう。
ジリリ、ジリリと、途切れることなく蝉が鳴いている。玄関の戸を閉めればさんざめく声はいくらか和らいだが、それでも他の物音は何一つ聞こえない。それは何も、蝉だけのせいではないけれど。
「珍しいな」
「ね」
短い同意が返される。何が、とは一言も言わなかったのだが、彼女にはしっかり伝わったらしい。
脱いだ突っかけを整えるあまねを見下ろす。頭の上のほうで、一つに括られた黒髪がさらりと揺れた。
夏の装いだ、と御手杵はぼんやり思う。薄い素材のワンピースから白い肩が剥き出しなのも、この季節だけ。もっとも既に八月も半ばであり、感慨に耽るには少し鈍すぎるかもしれないが。
「今日は何をするんだ?」
「そうですね……午前中に書類関係は終わらせておきましょうか。お昼を食べたら刀装を補充して……それから、少しだけ鍛刀も」
「あんた、まだ諦めてなかったのか」
御手杵の言葉にあまねは曖昧な表情で笑った。
新たな刀剣男士との契約が成立した、という知らせが政府より届いたのは二週間ほど前のことだ。最初の一週間は手伝い札を使ったり大量の資材を投入したりと中々の情熱を注ぎ込んでいたのだが、その実りのなさに結局主は匙を投げた。
……と見えていたのだが、心の中では未だ欲望が燻っていたらしい。
「だって、戦力が多いに越したことはありませんから」
「そりゃそうだが」
「まあ、資材が不足しない程度に、ですよ。いざという時に手入ができないのが一番困ります」
そんな会話を交わしつつ、審神者と近侍は執務室へ向かって足を進める。広い屋敷とはいえ、普段なら少し歩けば誰かしらに遭遇するし、そうでなくとも話し声が聞こえるものだ。ものの気配が薄い本丸はやはり新鮮で、まるで知らない場所のようにも感じられる。
「ねえ、お昼ご飯は何がいいですか?」
顕現した当初のようにきょろきょろとあたりを見渡していた御手杵の目が、隣を歩くあまねの姿に動きを止めた。
「ああ、どうしような」
「何でもいいですよ。二人だけですから」
二人だけ。
何気なく言われた一言に、御手杵の心臓がとくりと鳴った。
この本丸には三十振近くの刀剣男士が生活している。だが、今、屋敷の中には御手杵を除いて誰もいない。
日課任務としてこなしている短期遠征、以前から計画していた長期遠征に、先日政府より指令の下った特別遠征。それらが上手い具合に重なった結果、四つの部隊が全て様々な時代に赴いているのだ。僅かに残ったのは近侍の御手杵を除けば元々非番となっていた刀達だが、今は万屋などのある街へ行っている。当人らは人数の少なさを懸念して本丸に残ろうともしてくれていたのだが、買い物に行きたがっていたことも知っていたし、せっかくの休日なのだからと遊びに行ってもらったのだ。
だから今、本丸には御手杵とあまねの二人しかいない。
緊張しているわけではない。だが、二人だけという事実に、そわそわと浮かれているのも確かだった。
「御手杵?」
「ああ、いや……ええと、そうだ、カレー食いたい」
不思議そうに見上げられ、御手杵は慌てて言葉を捻り出した。ここでカレーが出てきたのはそれが単に彼の好物だからだ。
御手杵の返事を聞き、あまねが顔を綻ばせる。
「いいですね。夏野菜カレー?」
「うん……ああ、いいな。カボチャとか、ナスとかだろ? あと、なんだっけ、あの赤いの……」
「パプリカ?」
「お、それだ」
最初はそれほど食べたかったわけでもなかったのだが、話しているうちにどんどん食欲が湧いてくる。ついさっき朝食を食べたはずなのに、何故だか腹が鳴りそうな気がした。
「あ、でも、どうせならカレーは夜にしませんか? 夕御飯も私達で作りますし」
あまねの言葉になるほどと頷く。今日の夜は自分達と非番の刀とで、おそらく疲れて帰ってくるだろう遠征部隊を迎えるのだ。カレーなら一度に大量に作ることができるし、最適だろう。
「そうするか。じゃあ、昼はー……あんた、何が食べたい?」
「私ですか? 私は、……軽くでいいかな。素麺とか」
「じゃあ素麺にしようぜ」
「いいんですか?」
「ああ」
一も二もなく同意した御手杵にあまねは僅かに目を丸めた後で、御手杵が食べるならたくさん茹でなきゃね、と言って頬を緩める。
そんな話をしているうちに、気がつけばもう執務室は目の前だった。
「じゃあ、まずはお仕事、頑張りましょう」
「おう」
頷く。気合を入れ、御手杵は執務室の戸を引いた。
「あまね」
「はい」
「熱い」
「はい……」
こめかみを伝う汗を拭う。むあっと覆い被さってくるような熱気から解放され、御手杵は肉体が求めるがまま清らかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。廊下の空気もそれほど涼しくはないはずなのだが、鍛冶場と比べればその快適さは雲泥の差だ。一番大変なのは鍛刀を行う式神とはいえ、夏場に火元で精神統一に努めるのは審神者としても中々の苦行だっただろう。
再び汗がたらりと肌を伝う感触がして、御手杵は眉を顰めながらシャツの裾で顔を乱暴に拭った。
「夏に鍛刀なんてやるものじゃありませんね」
「今更だけどな」
しかも、結局新たな刀剣男士はやって来なかったし。
そう言いかけたところを、空気を読んで口を噤む。こんな配慮を覚えるとは自分も成長したものだ、と御手杵はしみじみ思った。
「そろそろ休憩しようぜ」
「そうですね。お茶でも飲みましょう」
あまねも相当疲れた顔をしている。その中にはやはりいくらかの落胆も混じっているように見えた。
御手杵としては新たな仲間が増えるのは素直に嬉しいのだが、その一方で、自分がいるのだからそれで十分だろうとも思うのだ。傲慢にも。それが武器としての被所有欲からくるものなのか、それとも別の理由から生ずる独占欲なのか、それは曖昧なまま分からなかったけれど。
グラスに麦茶を注ぐ。ぱきん、と弾けるような音がして氷がひび割れる。どこで一休みするべきか茹だった頭で暫し考えた末、ふと聞こえてきた風鈴の音につられ、二人はちょうど日陰になっている縁側に腰を下ろすことになった。
真夏の麦茶は格別の味がした。早々に飲み干した御手杵に、ボトルごと持ってきて良かったとあまねが笑いかけ、氷だけが揺れるグラスに二杯目の麦茶をなみなみと注ぐ。
ちょうど定時連絡の時間がやって来ていたらしい。遠征部隊はいずれも順調に任務をこなしているようで、審神者は安心した表情で微笑んだ。二言三言軽く言葉を交わし、無事を祈って、連絡を切る。
「大丈夫そうだな」
「ええ」
あまねが頷き、再び落ち着いた時間が戻ってくる。
どの季節よりも鮮やかな青が御手杵の目を吸い寄せた。雲はどこまでも白く、青の中にまばゆく映えている。
開け放たれた空間だ。蝉の声は屋内にいるよりも確かに大きいはずなのに、何故か今は不思議と遠くに聞こえる。代わりに風鈴がチリン、チリンと短く響き、夏の空気の中に静かに溶け込んだ。
「そういえば、覚えてます?」
風景の間にふいに入り込んできた軽やかな声に我に返った。返事が遅れ、御手杵は顔だけで隣の様子を窺う。
あまねは手に持ったグラスを揺らし、氷のぶつかる小気味良い音を楽しみながら言葉を続けた。
「前にも、本丸で二人きりで過ごしたことがありましたよね」
彼女の言葉はやや唐突なものだったが、それでも御手杵にはどの日のことを指しているのかがはっきり分かった。
「ああ、覚えてるぜ。あれも夏だった」
口にした瞬間、猛烈な懐かしさに襲われる。
暑い夏の日だった。御手杵がまだ近侍という役目に慣れていなかった頃だ。今なら二つ返事でこなせる頼み事にさえ、あたふたと戸惑いながら悪戦苦闘していた覚えがある。
御手杵が覚えていたことを知り、あまねは嬉しそうに顔を輝かせた。
「今日みたいにお昼を二人で食べたんですよね」
「二人って初めてだったからなあ。よく覚えてる。炒飯作ったんだよな」
「そうそう。あの時の炒飯、とても美味しかった」
「こんなふうに休憩もしたな」
「ええ。あの時はアイスを食べましたよね」
いつかの思い出が目の前に積み重なっていく。今日改めて彼女の髪型や服装に夏らしさを感じたのも、もしかするとあの日に重なったからなのかもしれないと御手杵は思った。
「それで…………ふ、ふふ」
突然、あまねが押し殺したような笑い声を漏らし始める。御手杵は不思議を通り越し、ぎょっとしながら彼女を見つめた。
「な、なんだよ」
「御手杵が急に、ビニールプールに入りたいって、言ってきて」
ビニールプール。
その言葉を聞いた瞬間、今まで頭の片隅にさえなかった記憶が一瞬にして蘇った。
一年前の夏。空は青く、蝉はさんざめく夏。
それは御手杵がいくらか人の身体に慣れて、色々なものに興味を持ち始めた頃だった。水に濡れて錆びることを不安に思わなくなった頃だ。
初めは、短刀達が入っているのを畑仕事の合間に見ていたのだ。審神者が安かったからと買ったものなのだが、想像していたよりもずっと小さなサイズだったため、まともに遊べるのは短刀くらいだった。
しかし、作業用の麦わら帽子の下で、彼の心は密やかに疼いていた。冷たい水をいっぱいに満たしたプールは、暴力的に降り注ぐ日差しの中で、とても、とても魅力的に感じられたのだ。
ああ、いいなあ、と。
涼しそうだなあ、と。
だが、ここにあるのは子供用のとても小さなプールだ。楽しんでるのは短刀と、無邪気な一部の脇差だけで、その中に割り込んでいくのは気が引ける。
それだから、その時は仕方ないかと諦めた。だが、後日、偶然にも、本丸で、審神者と二人だけになったから。
「そっ……れは…………!」
言葉を詰まらせた御手杵の反応は、あまねの笑いを余計に誘ってしまったらしい。
「あんな小さいプールに……ふ、あは、ははっ」
「あーもう、そんな笑うなって……!」
子供用のプールだ。短刀でもぎりぎり楽しめるといった程度の大きさしかなく、おまけに側面にはかわいい絵柄の動物達がいっぱいに描かれている。そんなプールに二メートル近い長身の御手杵が入っている様は、傍から見れば滑稽だったに違いない。目撃したのがあまね一人だからマシとはいえ、その彼女にこうまで笑われてしまっては。
あまねの口元に手をやり、無理やり声を押さえ込む。彼女は僅かに目を丸めた後、御手杵の手のひらを舌先でぺろりと舐めてきた。くすぐったさに負けて腕を引っ込めると、あまねは笑いの収まらないまま、ある提案を口にする。
「ねえ、せっかくですから出してきます? ビニールプール」
「はあ……!? ……また笑いものにされる……」
「笑わない。もう笑いません。ね、入りませんか? 足だけでも。冷たくて、きっとすごく気持ちいいと思うんですよ」
冷たくて、気持ちいい。
その言葉は彼の中に酷く魅力的に響いた。真っ青な空の下、井戸から引き上げた透明な水がもたらすであろう清涼感。ビニールプールと言えばもう笑われた思い出が大きいのだが、それには目を瞑るとして、やはりどうにも惹かれるものがある。
御手杵の興味を引けていることに気がついたらしい。あまねは彼が返事をする前に立ち上がり、軽い足取りで広間を抜ける。
「仕方ねえなあ」
渋々といった素振りを崩さず彼女の後を付いていく。くるっと振り向いた女に、素直じゃないんですからと茶化して笑われるのは、なぜだか心地良かった。
押し入れを漁りに漁った上、結局ビニールプールが見つからないまま休憩が終わることを懸念していたのだが、昨年の夏に片付けた場所をあまねは明確に覚えていた。
空気で膨らませる必要のない、準備も片付けも簡単なビニールプールを縁側のすぐ傍に設置する。昼下がりの眩しい太陽の下、へにゃりと崩れていた側面のカラフルな壁が、水を注ぐにつれその強度を増していく。その脇に二人で並んでしゃがみ、きらきら輝く水の中に火照った腕を突き入れた。
「あー、気持ちい……」
「ん……でも、まだちょっと冷たい?」
「いや、このくらいでも大丈夫じゃないか」
日差しで温まるのを待つのは時間がかかりすぎる。足や腕をつけるくらいなら十分だろう。
「よし、それじゃ……」
水を止めた女がワンピースをたくし上げ、普段全く日に焼けない白い足を夏の前に晒す。御手杵が驚く間もなく彼女は涼風になびく裾をきゅっと縛った。
そろり。小さな足が、つま先からゆっくりと沈んでいく。
「ふふ、やっぱり冷たい」
ふる、と身体を震わせながらもあまねは楽しげに目を細め、ちゃぷちゃぷとプールの中を歩く。
御手杵、と名を呼ばれた。ジャージの裾は今日の朝からずっと捲り上げられている。我に返った御手杵は彼女に続き、同じように水の中に足を踏み入れた。
「はー……」
縁側に腰掛け、身体を屈めて肘から先を水の中に浸すと、情けないくらい気の抜けた声が出た。あまねの言う通り水はまだ冷たいが、水風呂だと思えばちょうどいい。いっそ肩まで全身浸かることができたなら気持ちいいだろうと思う。子供用のプールでは、さすがにそれは無理な話だが。
「御手杵、入らないんですか? ばしゃーん、って」
「最初と言ってることが違うぞ」
悪戯な微笑みを浮かべるあまねに対しそうは言ったものの、心は欲望のほうへ随分傾いてしまっている。もう笑われたっていいじゃないか。そんな気分だ。
「だって、せっかくプールを出してきたんですから。足を入れるだけだったらバケツでも十分ですし」
「脱げって言ってる?」
「ええ。去年もそうだったじゃないですか」
「そうだよなあ……、うん、よし、入る」
Tシャツを脱ぎ、ズボンを脱ぎ、御手杵は一瞬でボクサーパンツ一枚になる。宿主をなくした衣服を放り投げると、彼は屋敷のほう向く形でそろそろとプールの中に腰を下ろした。
日光を反射する水面に、波紋がきらりと広がっていく。御手杵は眩しさに目を細めながら、ぶるっと背筋を震わせた。
「あー……冷てぇ……」
「でも気持ちよさそう」
「ああ」
縁側に座る女が笑みを湛えてこちらを見下ろしているのが気にかかったが、その真意については聞かないことにした。どうせおかしいとでも思ってるんだろう。
実際、座っても足を伸ばせない程度の大きさしかないのだ。あまねならば足を伸ばしてもぎりぎりプールの中に収まるかもしれないが、御手杵は常に膝を曲げて縮こまっていなければならない。
忙しない子供のようにあまねが足を揺らす。ちゃぷちゃぷと立った小さな波が、御手杵の腹のあたりにぶつかって砕けた。
「あんたは入らないのか?」
「んー……入りたい気持ちはありますけど、水着もありませんし。下着も嫌ですから」
「そんなに変わんねえと思うけどなあ」
「変わりますよ」
そういう彼女の目の前で御手杵は下着のままプールに入っているのだが、それは彼女には関係のないことのようだった。
とはいえ、実際に下着姿で入って来られたら御手杵は冷静ではいられなかっただろう。その下にある肌を直に知ってはいても、それとこれとは別なのだ。いや、もしかすると知っているからこそなのかもしれないが。
心地の良い沈黙がふと二人の間に訪れた。あまねは相変わず足で小さな波を作りながら、御手杵をじっと見つめている。何だろうと思っていると、ふう、とため息をつかれた。
「悩んでるのか? 入るかどうか」
「んーん」
あっさりと首が横に振られ、疑問がさらに深まる。
あまねは疑問符を貼り付けたような御手杵の表情を見て、その表情をふわりと緩めた。
「昔話をしてもいい?」
「昔話?」
「昔って言っても一年前の話ですけれど」
「ああ、いいけど」
今、この状況で一年前と言えば、彼女と二人きりで過ごしたあの一日の話でしかないだろう。真面目な話なのかと、御手杵は食い入るようにあまねを見つめ返す。
まっすぐに見つめてくる御手杵の目にあまねはたじろいでしまったようで、どう話そうかと考えているようなしぐさを見せた。
「大した話ではないんですけれど」
「おう」
「あの時……御手杵と二人きりになった時、私、すごくどきどきしてたんですよ」
その告白は御手杵が予想だにしなかったものだった。
一年前のあの頃、御手杵と審神者の間には目に見えて距離があった。今のように肌を重ねることも、心に触れることも、まだひとつも御手杵には考えられなかった頃である。
だが、その時からあまねは御手杵を今のように想っていたと言うのだ。
驚きが徐々に息を潜め、代わりに喜びが一気に膨れ上がる。
「それって、なんでなのか聞いてもいいのか?」
「分かってるくせに」
あまねは大人びた顔でくすくす笑っている。だが、それは照れくささを誤魔化すための微笑みなのだろう。
水の中で、女のつま先が御手杵の足をくすぐった。そんな戯れにたまらなく胸を突かれる。
「私が緊張してるのも全然知らないで、御手杵ったらビニールプールに入りたいだなんて言っちゃうんですから」
「それは仕方ないだろー、入りたかったんだから」
「挙げ句の果てに目の前でパンツ一枚になっちゃうし」
あまねは呆れ顔を作り、ふいっとそっぽを向く。
「ドキドキした?」
からかいつつ尋ねると、ばしゃんと水をかけられた。だがその勢いは弱く、胸のあたりが少し濡れただけだ。
「悪い悪い。……でもさ、俺も、あんたを見て同じ風に思ってたんだぜ」
「私?」
「いつもより薄着だっただろ。足も出してたしさ」
御手杵の言葉に対し、あまねは意外そうに大きな目をぱちくりさせた。
「それ、本当ですか?」
「疑ってるのか?」
自分と同じように喜んでくれるものと思っていただけに、すげない反応に御手杵は眉をハの字にする。あまねもまたそっくりな表情で苦笑した。
「だって、最初の頃の御手杵は女の身体なんてどうとも思っていないみたいだったから」
「そう……だったか」
「そうでしたよ」
「んー……」
もしかすると、外からはそう見えていたのだろうか。
女の身体は男を模した自分とは違う。それは当然のことだ。そして確かに顕現した当初の御手杵は、彼女の滑らかな首筋や白い手足を見ても、ああやはり違うのだと、ただそれだけの感想しか抱かなかった。
だが、あの日。二人きりで過ごしたあの夏の日、御手杵は彼女の姿にいつもと違う感情を覚えた。何故だかとても眩しく見えて、見ていると胸が焼けてしまいそうで、気がつけば目を逸らしていた。初めての感覚に戸惑った。だからあの日の姿はこんなにも鮮明に記憶に残っている。
だが、それを告白するのは酷く照れくさいことのような気がした。急に気恥ずかしくなって、頬に熱が集まる。まだ早いな、と誰に求められてもいない言い訳をしながら、御手杵は首を横に振った。
「御手杵?」
「いや……今はこんなに触りたいと思ってるのにな」
たった一年だというのに、時の流れとは不思議なものだ。しみじみと呟く。
そんな御手杵をあまねはじとりとした目で見つめた。
「……馬鹿正直なところは相変わらずですね」
「嫌か?」
「ううん。……好き」
ともすれば蝉の声にかき消されてしまいそうな声だった。だが、するりと手のひらに降りてきた彼女の本心に、御手杵は見事に一本取られてしまったらしい。
「馬鹿正直なのもお互い様だな」
「間違いありませんね」
どちらからともなく顔を綻ばせる。
暑い夏の日。いつもと違う本丸。その片隅で、二人は秘めやかに笑い合った。
一年。たった一年。付喪神にとっては人が感じるよりもずっと短く思うはずの時間だ。だが、その短い季節の巡りの間に自分の中でどれくらいのものが変わっただろう。瞬きをする度、その瞬間を惜しむように彼の胸には形のない何かが積み重なっていく。あるのは温度だけ。これになら溶かされても構わない、そう思えるような熱だった。
あまねの視線がふいに御手杵から外れた。その先を追うと、どうやら地面に落ちた影を見ていたらしい。気がつけば屋根の影は随分伸び、ビニールプールを全て覆うほどになっていた。
「結構涼しくなりましたよね」
「ああ。ずっと入っていたいくらいだ」
「ふふ。でも、そろそろ仕事に戻りましょうか」
――それはちょっとした不注意だった。
あまねは足をプールの底に付けず、ぷらぷらと水の中に漂わせていた。御手杵は影の様子を確かめた時に庭で育てている朝顔がふと視界に入り、気を取られよそ見をしていた。
女がひょい、と勢い付けて立ち上がるのと、水の中で御手杵が足の位置をなんとなく動かしたのがちょうど重なり、そして。
「あ……!」
「うわ……っ」
突如現れた障害物に対応することができず見事に御手杵の足を踏んだあまねは、つるっとバランスを崩し、そのまま御手杵のほうに向かって倒れ込んでくる。
ばしゃーん。
威勢の良い水飛沫がからからに乾いた地面を濡らす。
簡素な作りのプールは当然二人分の体重を受け止めきれない。背中がぶつかり、プールの外側に向けて崩れた壁のへこみから水が勢いよく流れている。その音を聞きながら、御手杵は胸で抱きとめた女に慌てて声をかけた。
「だ、大丈夫か?」
「……膝擦った……」
か弱い声にぎょっとする。ビニールプールを設置する時に周囲の様子をきちんと確認した覚えはない。もしかすると、下には小石のようなものもあったのかもしれない。
あまねは御手杵の胸に顔を押し付けたままじっと固まっている。謝りながら御手杵は彼女の頭をそっと撫でた。
「すまん……泣いてない、よな?」
「泣きませんよ、子供じゃないんですから。……はぁ、嘘でしょ……結局濡れちゃった」
御手杵の肩に手を置き、あまねが上体を起こす。へにゃりと垂れ下がった眉。ため息をついた姿は酷く情けなさそうで、彼の同情を誘う。
だが、あまねが身体を離したために、また別のものが御手杵の目を引きつけることになった。
あまねの纏う白いワンピースが水をたっぷり含み、彼女の身体にぴたりと貼り付いている。そしてそれは、あまねの女性らしい肉体のラインを一層強調してしまっていた。
御手杵の心臓が大きく鳴った。ついつい吸い寄せられていた視線を理性で引き戻す。こんなことをしている場合じゃない。そう思って顔を上げ、そこで彼はあまねが自分の様子をじっと眺めていたことにようやく気がついた。
慌てて何か弁明しようとしたのだがその時間は与えられず、あまねは口を開かないまま再び御手杵にもたれかかってくる。
胸と胸が合わさる。肩口を女の髪がくすぐる。吐息が耳元に触れ、熱を上げる。
「水に入ってても、こんなに熱いのね」
その囁きは、御手杵の呼吸を容易に奪った。
水に浸かってるのは腰から下だけで、上半身はそのまま暖められた空気の中にある。先ほどまで日差しを浴びていたのだから、それは当然と言えば当然だったのかもしれない。けれども、女の言葉は茹だった頭の中にやけに深く響き渡った。
「諦めてしばらく浸かっていたいけど……もうおしまい」
大きく息を吐いて身体を起こし、あまねはくるりと御手杵に背を向けた。そして縁側に手をついて、奥のタオルを取ろうと前のめりになる。
御手杵はその無防備な背中に近づくと、躊躇うことなく腕を伸ばした。
「ひゃっ……」
のしかかるように小さな身体を抱きしめる。
小さな悲鳴が驚いた女の唇からこぼれた。だが、抵抗はない。震えた背からは健気な戸惑いだけが窺える。
「っ……御手杵……?」
「なあ」
耳元で囁く。あまねが息を詰めた気配が、触れた肌から直に伝わった。
「今はもう、ドキドキしないのか」
縁側にぽたり、ぽたりと雫が落ちていく。
体温でのぼせてしまいそうだった。あまねの身体は水に濡れていたけれども、自分と変わらないくらい熱い。同じだ。だから、答えも最初から分かっていた。
「しないわけ、ない……」
やがて観念したような小さな声が鼓膜を震わせた。
御手杵が腕の緩めると意図を察したようにあまねが身体を捻り、縁側に腰を下ろした体勢になる。御手杵は控えめに閉じられた太腿に跨り、女の上に覆い被さった。
こちらを見上げるあまねは困ったような表情だ。御手杵は口を閉ざしたまま、その柔らかな頬をそっと撫でた。
「また汗かいちゃいますよ」
「ああ」
「熱くなる」
「うん」
「……顔、赤い」
たおやかな指先が御手杵の頬に触れる。
自覚している。身体は既に熱く、赤く、火照っている。だから、彼女の指摘は今更もう自分を止められない。
話を聞く気のない御手杵に対し、あまねは未だ悩んだ顔を見せている。そんな恋人に御手杵は小さな笑みを浮かべ、ゆっくりと顔を近づけた。
「非番の子達、帰ってきちゃう」
唇が触れる直前で、彼は初めて動きを止めた。
身体を少し引っ込めてあまねを見下ろす。彼女は眉尻を下げて御手杵を見つめている。
遠征部隊とは違い、遊びに出ている刀達はいつ帰ってくるのかが分からない。だが、揺れる瞳は嫌がっているというよりも、不安がっているように御手杵には感じられた。
「俺、馬鹿だからさ」
途中で言葉を切った御手杵を、あまねが不思議そうに見つめている。その視線に晒されながら、彼は躊躇いがちに言葉を続けた。
「非番の奴らに、日暮れまで帰ってくるなって、言った」
あまねの目がこれ以上ないというくらい丸くなった。
御手杵はばつが悪くなり、思わず顔を逸らしてしまう。
何も、最初からこうすることを考えていたわけではない。ただ、二人でいたくて。二人きりで過ごす時間を邪魔されたくなくて。だから、非番の刀達が出て行く前に、あらかじめそう頼んでいたのだ。
あまねは黙り込んだままでいる。居たたまれなくなり、御手杵はごめん、と謝罪を口にした。先ほどまでの威勢はどこへ行ったのか、気弱な表情で彼女を見つめる。
そんな御手杵の姿を見て、あまねはふっと息を吐いた。頑なな結び目が解けるように、固まっていた表情が段々と和らいでいく。そしてあまねは甘い微笑みをこぼした。
「馬鹿ね」
御手杵の中に、静かな驚きと喜びが広がっていく。
いつもの彼女なら、こんなことは許さない。仕事を放ってまで、こんな馬鹿な真似はしない。
だから、きっと、自分と同じだ。
夏の暑さにやられたのだ。
首筋に絡んだ腕が口づけをせがむ。
許されたことを知って、御手杵は幸せそうに笑った。
窓の向こうの空が少しずつ紺に染まり、まさに夜の帳が下りていくところだった。
香辛料の合わさったいい匂いが食欲を刺激する。美味しそうなカレーの匂いだ。
御手杵はぐううと鳴った腹を撫でながら唸った。いい加減腹と背中がくっついてしまいそうだ。
「御手杵、こっち向いて」
背後から呼びかけられ、手を止める。振り返ると、小皿とお玉を手にしたあまねがにっこりと微笑んでいた。
「味見。ほら、あーん」
「え、いいのか?」
「ええ、どうぞ。ほら」
味見程度の量では腹は膨れないが、少なくとも舌と、空腹で何も考えられない頭は満たされるはずだ。
端正な顔を子供のような喜びでいっぱいにし、御手杵はいそいそと小皿を受け取った。唇を付け、そして、皿を傾ける。
「……っ、ン゛!!」
突如として襲来した刺激に舌が震える。痛い、いや、熱い、のだろうか。わけのわからないまま口元を抑える。何かを求めて漂わせた反対の手に、タイミング良く水の入ったコップを渡された。
冷たい水を一気に口に含み、そうして少しだけ落ち着いたところで、気づく。ほんの少しの味見用のカレーに、たっぷりの水を準備している用意周到さ。それは最初から分かってやっていたということで――つまりはワザとなのだ。
噎せ込む御手杵を前に、あまねはころころと笑っている。ほら、やっぱり。
「あん、た、辛口渡しただろ……!」
「あは、ははは、うん、ごめんなさい……でも、普通の辛口じゃありませんよ」
「何だよ」
「超激辛」
「大倶利伽羅用じゃねえか!」
吠えるとまた噎せてしまった。彼の手に新たなコップが差し出される。
御手杵を前にあまねは腹を抱えて笑いながら、「髭切と乱も食べますよ」などとほざいている。そういうことじゃない。
なーに遊んでるの。スープを作っていた加州がこちらを見て呆れ顔になっていた。あまねは笑った顔のまま謝罪をし、スープの出来を確認しに行く。
「あー……クソ……」
まだ舌がひりひりする。目は潤んでいて情けないし、火照った身体は汗ばんで不快だ。
御手杵は眉を寄せ、恨みがましく女を睨む。
おそらく甘口の鍋の味見をしているところだ。白い喉がこくりと動く。ん、おいしい。豊かな表情がそんな感想を御手杵にまで伝えた。
甘口なら喜んで味見したんだが。水を飲みながら内心ぼやいた声が聞こえたかのように、あまねがこちらを見た。
「また熱くなっちゃいましたね」
柔らかな笑みに虚を突かれる。
怒っていたはずなのに、喉元まで出ていた言葉を彼はたやすく失ってしまった。その代わりに何か熱いものがするりと入り込み、彼の心を満たしていく。さらにひとつ体温が上がってしまった気がして、御手杵は深くため息をついた。
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それでは、行って参ります。
前田藤四郎を隊長とする第四部隊を見送る。短い遠征だ。夕食前には帰ってくるだろう。
ジリリ、ジリリと、途切れることなく蝉が鳴いている。玄関の戸を閉めればさんざめく声はいくらか和らいだが、それでも他の物音は何一つ聞こえない。それは何も、蝉だけのせいではないけれど。
「珍しいな」
「ね」
短い同意が返される。何が、とは一言も言わなかったのだが、彼女にはしっかり伝わったらしい。
脱いだ突っかけを整えるあまねを見下ろす。頭の上のほうで、一つに括られた黒髪がさらりと揺れた。
夏の装いだ、と御手杵はぼんやり思う。薄い素材のワンピースから白い肩が剥き出しなのも、この季節だけ。もっとも既に八月も半ばであり、感慨に耽るには少し鈍すぎるかもしれないが。
「今日は何をするんだ?」
「そうですね……午前中に書類関係は終わらせておきましょうか。お昼を食べたら刀装を補充して……それから、少しだけ鍛刀も」
「あんた、まだ諦めてなかったのか」
御手杵の言葉にあまねは曖昧な表情で笑った。
新たな刀剣男士との契約が成立した、という知らせが政府より届いたのは二週間ほど前のことだ。最初の一週間は手伝い札を使ったり大量の資材を投入したりと中々の情熱を注ぎ込んでいたのだが、その実りのなさに結局主は匙を投げた。
……と見えていたのだが、心の中では未だ欲望が燻っていたらしい。
「だって、戦力が多いに越したことはありませんから」
「そりゃそうだが」
「まあ、資材が不足しない程度に、ですよ。いざという時に手入ができないのが一番困ります」
そんな会話を交わしつつ、審神者と近侍は執務室へ向かって足を進める。広い屋敷とはいえ、普段なら少し歩けば誰かしらに遭遇するし、そうでなくとも話し声が聞こえるものだ。ものの気配が薄い本丸はやはり新鮮で、まるで知らない場所のようにも感じられる。
「ねえ、お昼ご飯は何がいいですか?」
顕現した当初のようにきょろきょろとあたりを見渡していた御手杵の目が、隣を歩くあまねの姿に動きを止めた。
「ああ、どうしような」
「何でもいいですよ。二人だけですから」
二人だけ。
何気なく言われた一言に、御手杵の心臓がとくりと鳴った。
この本丸には三十振近くの刀剣男士が生活している。だが、今、屋敷の中には御手杵を除いて誰もいない。
日課任務としてこなしている短期遠征、以前から計画していた長期遠征に、先日政府より指令の下った特別遠征。それらが上手い具合に重なった結果、四つの部隊が全て様々な時代に赴いているのだ。僅かに残ったのは近侍の御手杵を除けば元々非番となっていた刀達だが、今は万屋などのある街へ行っている。当人らは人数の少なさを懸念して本丸に残ろうともしてくれていたのだが、買い物に行きたがっていたことも知っていたし、せっかくの休日なのだからと遊びに行ってもらったのだ。
だから今、本丸には御手杵とあまねの二人しかいない。
緊張しているわけではない。だが、二人だけという事実に、そわそわと浮かれているのも確かだった。
「御手杵?」
「ああ、いや……ええと、そうだ、カレー食いたい」
不思議そうに見上げられ、御手杵は慌てて言葉を捻り出した。ここでカレーが出てきたのはそれが単に彼の好物だからだ。
御手杵の返事を聞き、あまねが顔を綻ばせる。
「いいですね。夏野菜カレー?」
「うん……ああ、いいな。カボチャとか、ナスとかだろ? あと、なんだっけ、あの赤いの……」
「パプリカ?」
「お、それだ」
最初はそれほど食べたかったわけでもなかったのだが、話しているうちにどんどん食欲が湧いてくる。ついさっき朝食を食べたはずなのに、何故だか腹が鳴りそうな気がした。
「あ、でも、どうせならカレーは夜にしませんか? 夕御飯も私達で作りますし」
あまねの言葉になるほどと頷く。今日の夜は自分達と非番の刀とで、おそらく疲れて帰ってくるだろう遠征部隊を迎えるのだ。カレーなら一度に大量に作ることができるし、最適だろう。
「そうするか。じゃあ、昼はー……あんた、何が食べたい?」
「私ですか? 私は、……軽くでいいかな。素麺とか」
「じゃあ素麺にしようぜ」
「いいんですか?」
「ああ」
一も二もなく同意した御手杵にあまねは僅かに目を丸めた後で、御手杵が食べるならたくさん茹でなきゃね、と言って頬を緩める。
そんな話をしているうちに、気がつけばもう執務室は目の前だった。
「じゃあ、まずはお仕事、頑張りましょう」
「おう」
頷く。気合を入れ、御手杵は執務室の戸を引いた。
「あまね」
「はい」
「熱い」
「はい……」
こめかみを伝う汗を拭う。むあっと覆い被さってくるような熱気から解放され、御手杵は肉体が求めるがまま清らかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。廊下の空気もそれほど涼しくはないはずなのだが、鍛冶場と比べればその快適さは雲泥の差だ。一番大変なのは鍛刀を行う式神とはいえ、夏場に火元で精神統一に努めるのは審神者としても中々の苦行だっただろう。
再び汗がたらりと肌を伝う感触がして、御手杵は眉を顰めながらシャツの裾で顔を乱暴に拭った。
「夏に鍛刀なんてやるものじゃありませんね」
「今更だけどな」
しかも、結局新たな刀剣男士はやって来なかったし。
そう言いかけたところを、空気を読んで口を噤む。こんな配慮を覚えるとは自分も成長したものだ、と御手杵はしみじみ思った。
「そろそろ休憩しようぜ」
「そうですね。お茶でも飲みましょう」
あまねも相当疲れた顔をしている。その中にはやはりいくらかの落胆も混じっているように見えた。
御手杵としては新たな仲間が増えるのは素直に嬉しいのだが、その一方で、自分がいるのだからそれで十分だろうとも思うのだ。傲慢にも。それが武器としての被所有欲からくるものなのか、それとも別の理由から生ずる独占欲なのか、それは曖昧なまま分からなかったけれど。
グラスに麦茶を注ぐ。ぱきん、と弾けるような音がして氷がひび割れる。どこで一休みするべきか茹だった頭で暫し考えた末、ふと聞こえてきた風鈴の音につられ、二人はちょうど日陰になっている縁側に腰を下ろすことになった。
真夏の麦茶は格別の味がした。早々に飲み干した御手杵に、ボトルごと持ってきて良かったとあまねが笑いかけ、氷だけが揺れるグラスに二杯目の麦茶をなみなみと注ぐ。
ちょうど定時連絡の時間がやって来ていたらしい。遠征部隊はいずれも順調に任務をこなしているようで、審神者は安心した表情で微笑んだ。二言三言軽く言葉を交わし、無事を祈って、連絡を切る。
「大丈夫そうだな」
「ええ」
あまねが頷き、再び落ち着いた時間が戻ってくる。
どの季節よりも鮮やかな青が御手杵の目を吸い寄せた。雲はどこまでも白く、青の中にまばゆく映えている。
開け放たれた空間だ。蝉の声は屋内にいるよりも確かに大きいはずなのに、何故か今は不思議と遠くに聞こえる。代わりに風鈴がチリン、チリンと短く響き、夏の空気の中に静かに溶け込んだ。
「そういえば、覚えてます?」
風景の間にふいに入り込んできた軽やかな声に我に返った。返事が遅れ、御手杵は顔だけで隣の様子を窺う。
あまねは手に持ったグラスを揺らし、氷のぶつかる小気味良い音を楽しみながら言葉を続けた。
「前にも、本丸で二人きりで過ごしたことがありましたよね」
彼女の言葉はやや唐突なものだったが、それでも御手杵にはどの日のことを指しているのかがはっきり分かった。
「ああ、覚えてるぜ。あれも夏だった」
口にした瞬間、猛烈な懐かしさに襲われる。
暑い夏の日だった。御手杵がまだ近侍という役目に慣れていなかった頃だ。今なら二つ返事でこなせる頼み事にさえ、あたふたと戸惑いながら悪戦苦闘していた覚えがある。
御手杵が覚えていたことを知り、あまねは嬉しそうに顔を輝かせた。
「今日みたいにお昼を二人で食べたんですよね」
「二人って初めてだったからなあ。よく覚えてる。炒飯作ったんだよな」
「そうそう。あの時の炒飯、とても美味しかった」
「こんなふうに休憩もしたな」
「ええ。あの時はアイスを食べましたよね」
いつかの思い出が目の前に積み重なっていく。今日改めて彼女の髪型や服装に夏らしさを感じたのも、もしかするとあの日に重なったからなのかもしれないと御手杵は思った。
「それで…………ふ、ふふ」
突然、あまねが押し殺したような笑い声を漏らし始める。御手杵は不思議を通り越し、ぎょっとしながら彼女を見つめた。
「な、なんだよ」
「御手杵が急に、ビニールプールに入りたいって、言ってきて」
ビニールプール。
その言葉を聞いた瞬間、今まで頭の片隅にさえなかった記憶が一瞬にして蘇った。
一年前の夏。空は青く、蝉はさんざめく夏。
それは御手杵がいくらか人の身体に慣れて、色々なものに興味を持ち始めた頃だった。水に濡れて錆びることを不安に思わなくなった頃だ。
初めは、短刀達が入っているのを畑仕事の合間に見ていたのだ。審神者が安かったからと買ったものなのだが、想像していたよりもずっと小さなサイズだったため、まともに遊べるのは短刀くらいだった。
しかし、作業用の麦わら帽子の下で、彼の心は密やかに疼いていた。冷たい水をいっぱいに満たしたプールは、暴力的に降り注ぐ日差しの中で、とても、とても魅力的に感じられたのだ。
ああ、いいなあ、と。
涼しそうだなあ、と。
だが、ここにあるのは子供用のとても小さなプールだ。楽しんでるのは短刀と、無邪気な一部の脇差だけで、その中に割り込んでいくのは気が引ける。
それだから、その時は仕方ないかと諦めた。だが、後日、偶然にも、本丸で、審神者と二人だけになったから。
「そっ……れは…………!」
言葉を詰まらせた御手杵の反応は、あまねの笑いを余計に誘ってしまったらしい。
「あんな小さいプールに……ふ、あは、ははっ」
「あーもう、そんな笑うなって……!」
子供用のプールだ。短刀でもぎりぎり楽しめるといった程度の大きさしかなく、おまけに側面にはかわいい絵柄の動物達がいっぱいに描かれている。そんなプールに二メートル近い長身の御手杵が入っている様は、傍から見れば滑稽だったに違いない。目撃したのがあまね一人だからマシとはいえ、その彼女にこうまで笑われてしまっては。
あまねの口元に手をやり、無理やり声を押さえ込む。彼女は僅かに目を丸めた後、御手杵の手のひらを舌先でぺろりと舐めてきた。くすぐったさに負けて腕を引っ込めると、あまねは笑いの収まらないまま、ある提案を口にする。
「ねえ、せっかくですから出してきます? ビニールプール」
「はあ……!? ……また笑いものにされる……」
「笑わない。もう笑いません。ね、入りませんか? 足だけでも。冷たくて、きっとすごく気持ちいいと思うんですよ」
冷たくて、気持ちいい。
その言葉は彼の中に酷く魅力的に響いた。真っ青な空の下、井戸から引き上げた透明な水がもたらすであろう清涼感。ビニールプールと言えばもう笑われた思い出が大きいのだが、それには目を瞑るとして、やはりどうにも惹かれるものがある。
御手杵の興味を引けていることに気がついたらしい。あまねは彼が返事をする前に立ち上がり、軽い足取りで広間を抜ける。
「仕方ねえなあ」
渋々といった素振りを崩さず彼女の後を付いていく。くるっと振り向いた女に、素直じゃないんですからと茶化して笑われるのは、なぜだか心地良かった。
押し入れを漁りに漁った上、結局ビニールプールが見つからないまま休憩が終わることを懸念していたのだが、昨年の夏に片付けた場所をあまねは明確に覚えていた。
空気で膨らませる必要のない、準備も片付けも簡単なビニールプールを縁側のすぐ傍に設置する。昼下がりの眩しい太陽の下、へにゃりと崩れていた側面のカラフルな壁が、水を注ぐにつれその強度を増していく。その脇に二人で並んでしゃがみ、きらきら輝く水の中に火照った腕を突き入れた。
「あー、気持ちい……」
「ん……でも、まだちょっと冷たい?」
「いや、このくらいでも大丈夫じゃないか」
日差しで温まるのを待つのは時間がかかりすぎる。足や腕をつけるくらいなら十分だろう。
「よし、それじゃ……」
水を止めた女がワンピースをたくし上げ、普段全く日に焼けない白い足を夏の前に晒す。御手杵が驚く間もなく彼女は涼風になびく裾をきゅっと縛った。
そろり。小さな足が、つま先からゆっくりと沈んでいく。
「ふふ、やっぱり冷たい」
ふる、と身体を震わせながらもあまねは楽しげに目を細め、ちゃぷちゃぷとプールの中を歩く。
御手杵、と名を呼ばれた。ジャージの裾は今日の朝からずっと捲り上げられている。我に返った御手杵は彼女に続き、同じように水の中に足を踏み入れた。
「はー……」
縁側に腰掛け、身体を屈めて肘から先を水の中に浸すと、情けないくらい気の抜けた声が出た。あまねの言う通り水はまだ冷たいが、水風呂だと思えばちょうどいい。いっそ肩まで全身浸かることができたなら気持ちいいだろうと思う。子供用のプールでは、さすがにそれは無理な話だが。
「御手杵、入らないんですか? ばしゃーん、って」
「最初と言ってることが違うぞ」
悪戯な微笑みを浮かべるあまねに対しそうは言ったものの、心は欲望のほうへ随分傾いてしまっている。もう笑われたっていいじゃないか。そんな気分だ。
「だって、せっかくプールを出してきたんですから。足を入れるだけだったらバケツでも十分ですし」
「脱げって言ってる?」
「ええ。去年もそうだったじゃないですか」
「そうだよなあ……、うん、よし、入る」
Tシャツを脱ぎ、ズボンを脱ぎ、御手杵は一瞬でボクサーパンツ一枚になる。宿主をなくした衣服を放り投げると、彼は屋敷のほう向く形でそろそろとプールの中に腰を下ろした。
日光を反射する水面に、波紋がきらりと広がっていく。御手杵は眩しさに目を細めながら、ぶるっと背筋を震わせた。
「あー……冷てぇ……」
「でも気持ちよさそう」
「ああ」
縁側に座る女が笑みを湛えてこちらを見下ろしているのが気にかかったが、その真意については聞かないことにした。どうせおかしいとでも思ってるんだろう。
実際、座っても足を伸ばせない程度の大きさしかないのだ。あまねならば足を伸ばしてもぎりぎりプールの中に収まるかもしれないが、御手杵は常に膝を曲げて縮こまっていなければならない。
忙しない子供のようにあまねが足を揺らす。ちゃぷちゃぷと立った小さな波が、御手杵の腹のあたりにぶつかって砕けた。
「あんたは入らないのか?」
「んー……入りたい気持ちはありますけど、水着もありませんし。下着も嫌ですから」
「そんなに変わんねえと思うけどなあ」
「変わりますよ」
そういう彼女の目の前で御手杵は下着のままプールに入っているのだが、それは彼女には関係のないことのようだった。
とはいえ、実際に下着姿で入って来られたら御手杵は冷静ではいられなかっただろう。その下にある肌を直に知ってはいても、それとこれとは別なのだ。いや、もしかすると知っているからこそなのかもしれないが。
心地の良い沈黙がふと二人の間に訪れた。あまねは相変わず足で小さな波を作りながら、御手杵をじっと見つめている。何だろうと思っていると、ふう、とため息をつかれた。
「悩んでるのか? 入るかどうか」
「んーん」
あっさりと首が横に振られ、疑問がさらに深まる。
あまねは疑問符を貼り付けたような御手杵の表情を見て、その表情をふわりと緩めた。
「昔話をしてもいい?」
「昔話?」
「昔って言っても一年前の話ですけれど」
「ああ、いいけど」
今、この状況で一年前と言えば、彼女と二人きりで過ごしたあの一日の話でしかないだろう。真面目な話なのかと、御手杵は食い入るようにあまねを見つめ返す。
まっすぐに見つめてくる御手杵の目にあまねはたじろいでしまったようで、どう話そうかと考えているようなしぐさを見せた。
「大した話ではないんですけれど」
「おう」
「あの時……御手杵と二人きりになった時、私、すごくどきどきしてたんですよ」
その告白は御手杵が予想だにしなかったものだった。
一年前のあの頃、御手杵と審神者の間には目に見えて距離があった。今のように肌を重ねることも、心に触れることも、まだひとつも御手杵には考えられなかった頃である。
だが、その時からあまねは御手杵を今のように想っていたと言うのだ。
驚きが徐々に息を潜め、代わりに喜びが一気に膨れ上がる。
「それって、なんでなのか聞いてもいいのか?」
「分かってるくせに」
あまねは大人びた顔でくすくす笑っている。だが、それは照れくささを誤魔化すための微笑みなのだろう。
水の中で、女のつま先が御手杵の足をくすぐった。そんな戯れにたまらなく胸を突かれる。
「私が緊張してるのも全然知らないで、御手杵ったらビニールプールに入りたいだなんて言っちゃうんですから」
「それは仕方ないだろー、入りたかったんだから」
「挙げ句の果てに目の前でパンツ一枚になっちゃうし」
あまねは呆れ顔を作り、ふいっとそっぽを向く。
「ドキドキした?」
からかいつつ尋ねると、ばしゃんと水をかけられた。だがその勢いは弱く、胸のあたりが少し濡れただけだ。
「悪い悪い。……でもさ、俺も、あんたを見て同じ風に思ってたんだぜ」
「私?」
「いつもより薄着だっただろ。足も出してたしさ」
御手杵の言葉に対し、あまねは意外そうに大きな目をぱちくりさせた。
「それ、本当ですか?」
「疑ってるのか?」
自分と同じように喜んでくれるものと思っていただけに、すげない反応に御手杵は眉をハの字にする。あまねもまたそっくりな表情で苦笑した。
「だって、最初の頃の御手杵は女の身体なんてどうとも思っていないみたいだったから」
「そう……だったか」
「そうでしたよ」
「んー……」
もしかすると、外からはそう見えていたのだろうか。
女の身体は男を模した自分とは違う。それは当然のことだ。そして確かに顕現した当初の御手杵は、彼女の滑らかな首筋や白い手足を見ても、ああやはり違うのだと、ただそれだけの感想しか抱かなかった。
だが、あの日。二人きりで過ごしたあの夏の日、御手杵は彼女の姿にいつもと違う感情を覚えた。何故だかとても眩しく見えて、見ていると胸が焼けてしまいそうで、気がつけば目を逸らしていた。初めての感覚に戸惑った。だからあの日の姿はこんなにも鮮明に記憶に残っている。
だが、それを告白するのは酷く照れくさいことのような気がした。急に気恥ずかしくなって、頬に熱が集まる。まだ早いな、と誰に求められてもいない言い訳をしながら、御手杵は首を横に振った。
「御手杵?」
「いや……今はこんなに触りたいと思ってるのにな」
たった一年だというのに、時の流れとは不思議なものだ。しみじみと呟く。
そんな御手杵をあまねはじとりとした目で見つめた。
「……馬鹿正直なところは相変わらずですね」
「嫌か?」
「ううん。……好き」
ともすれば蝉の声にかき消されてしまいそうな声だった。だが、するりと手のひらに降りてきた彼女の本心に、御手杵は見事に一本取られてしまったらしい。
「馬鹿正直なのもお互い様だな」
「間違いありませんね」
どちらからともなく顔を綻ばせる。
暑い夏の日。いつもと違う本丸。その片隅で、二人は秘めやかに笑い合った。
一年。たった一年。付喪神にとっては人が感じるよりもずっと短く思うはずの時間だ。だが、その短い季節の巡りの間に自分の中でどれくらいのものが変わっただろう。瞬きをする度、その瞬間を惜しむように彼の胸には形のない何かが積み重なっていく。あるのは温度だけ。これになら溶かされても構わない、そう思えるような熱だった。
あまねの視線がふいに御手杵から外れた。その先を追うと、どうやら地面に落ちた影を見ていたらしい。気がつけば屋根の影は随分伸び、ビニールプールを全て覆うほどになっていた。
「結構涼しくなりましたよね」
「ああ。ずっと入っていたいくらいだ」
「ふふ。でも、そろそろ仕事に戻りましょうか」
――それはちょっとした不注意だった。
あまねは足をプールの底に付けず、ぷらぷらと水の中に漂わせていた。御手杵は影の様子を確かめた時に庭で育てている朝顔がふと視界に入り、気を取られよそ見をしていた。
女がひょい、と勢い付けて立ち上がるのと、水の中で御手杵が足の位置をなんとなく動かしたのがちょうど重なり、そして。
「あ……!」
「うわ……っ」
突如現れた障害物に対応することができず見事に御手杵の足を踏んだあまねは、つるっとバランスを崩し、そのまま御手杵のほうに向かって倒れ込んでくる。
ばしゃーん。
威勢の良い水飛沫がからからに乾いた地面を濡らす。
簡素な作りのプールは当然二人分の体重を受け止めきれない。背中がぶつかり、プールの外側に向けて崩れた壁のへこみから水が勢いよく流れている。その音を聞きながら、御手杵は胸で抱きとめた女に慌てて声をかけた。
「だ、大丈夫か?」
「……膝擦った……」
か弱い声にぎょっとする。ビニールプールを設置する時に周囲の様子をきちんと確認した覚えはない。もしかすると、下には小石のようなものもあったのかもしれない。
あまねは御手杵の胸に顔を押し付けたままじっと固まっている。謝りながら御手杵は彼女の頭をそっと撫でた。
「すまん……泣いてない、よな?」
「泣きませんよ、子供じゃないんですから。……はぁ、嘘でしょ……結局濡れちゃった」
御手杵の肩に手を置き、あまねが上体を起こす。へにゃりと垂れ下がった眉。ため息をついた姿は酷く情けなさそうで、彼の同情を誘う。
だが、あまねが身体を離したために、また別のものが御手杵の目を引きつけることになった。
あまねの纏う白いワンピースが水をたっぷり含み、彼女の身体にぴたりと貼り付いている。そしてそれは、あまねの女性らしい肉体のラインを一層強調してしまっていた。
御手杵の心臓が大きく鳴った。ついつい吸い寄せられていた視線を理性で引き戻す。こんなことをしている場合じゃない。そう思って顔を上げ、そこで彼はあまねが自分の様子をじっと眺めていたことにようやく気がついた。
慌てて何か弁明しようとしたのだがその時間は与えられず、あまねは口を開かないまま再び御手杵にもたれかかってくる。
胸と胸が合わさる。肩口を女の髪がくすぐる。吐息が耳元に触れ、熱を上げる。
「水に入ってても、こんなに熱いのね」
その囁きは、御手杵の呼吸を容易に奪った。
水に浸かってるのは腰から下だけで、上半身はそのまま暖められた空気の中にある。先ほどまで日差しを浴びていたのだから、それは当然と言えば当然だったのかもしれない。けれども、女の言葉は茹だった頭の中にやけに深く響き渡った。
「諦めてしばらく浸かっていたいけど……もうおしまい」
大きく息を吐いて身体を起こし、あまねはくるりと御手杵に背を向けた。そして縁側に手をついて、奥のタオルを取ろうと前のめりになる。
御手杵はその無防備な背中に近づくと、躊躇うことなく腕を伸ばした。
「ひゃっ……」
のしかかるように小さな身体を抱きしめる。
小さな悲鳴が驚いた女の唇からこぼれた。だが、抵抗はない。震えた背からは健気な戸惑いだけが窺える。
「っ……御手杵……?」
「なあ」
耳元で囁く。あまねが息を詰めた気配が、触れた肌から直に伝わった。
「今はもう、ドキドキしないのか」
縁側にぽたり、ぽたりと雫が落ちていく。
体温でのぼせてしまいそうだった。あまねの身体は水に濡れていたけれども、自分と変わらないくらい熱い。同じだ。だから、答えも最初から分かっていた。
「しないわけ、ない……」
やがて観念したような小さな声が鼓膜を震わせた。
御手杵が腕の緩めると意図を察したようにあまねが身体を捻り、縁側に腰を下ろした体勢になる。御手杵は控えめに閉じられた太腿に跨り、女の上に覆い被さった。
こちらを見上げるあまねは困ったような表情だ。御手杵は口を閉ざしたまま、その柔らかな頬をそっと撫でた。
「また汗かいちゃいますよ」
「ああ」
「熱くなる」
「うん」
「……顔、赤い」
たおやかな指先が御手杵の頬に触れる。
自覚している。身体は既に熱く、赤く、火照っている。だから、彼女の指摘は今更もう自分を止められない。
話を聞く気のない御手杵に対し、あまねは未だ悩んだ顔を見せている。そんな恋人に御手杵は小さな笑みを浮かべ、ゆっくりと顔を近づけた。
「非番の子達、帰ってきちゃう」
唇が触れる直前で、彼は初めて動きを止めた。
身体を少し引っ込めてあまねを見下ろす。彼女は眉尻を下げて御手杵を見つめている。
遠征部隊とは違い、遊びに出ている刀達はいつ帰ってくるのかが分からない。だが、揺れる瞳は嫌がっているというよりも、不安がっているように御手杵には感じられた。
「俺、馬鹿だからさ」
途中で言葉を切った御手杵を、あまねが不思議そうに見つめている。その視線に晒されながら、彼は躊躇いがちに言葉を続けた。
「非番の奴らに、日暮れまで帰ってくるなって、言った」
あまねの目がこれ以上ないというくらい丸くなった。
御手杵はばつが悪くなり、思わず顔を逸らしてしまう。
何も、最初からこうすることを考えていたわけではない。ただ、二人でいたくて。二人きりで過ごす時間を邪魔されたくなくて。だから、非番の刀達が出て行く前に、あらかじめそう頼んでいたのだ。
あまねは黙り込んだままでいる。居たたまれなくなり、御手杵はごめん、と謝罪を口にした。先ほどまでの威勢はどこへ行ったのか、気弱な表情で彼女を見つめる。
そんな御手杵の姿を見て、あまねはふっと息を吐いた。頑なな結び目が解けるように、固まっていた表情が段々と和らいでいく。そしてあまねは甘い微笑みをこぼした。
「馬鹿ね」
御手杵の中に、静かな驚きと喜びが広がっていく。
いつもの彼女なら、こんなことは許さない。仕事を放ってまで、こんな馬鹿な真似はしない。
だから、きっと、自分と同じだ。
夏の暑さにやられたのだ。
首筋に絡んだ腕が口づけをせがむ。
許されたことを知って、御手杵は幸せそうに笑った。
窓の向こうの空が少しずつ紺に染まり、まさに夜の帳が下りていくところだった。
香辛料の合わさったいい匂いが食欲を刺激する。美味しそうなカレーの匂いだ。
御手杵はぐううと鳴った腹を撫でながら唸った。いい加減腹と背中がくっついてしまいそうだ。
「御手杵、こっち向いて」
背後から呼びかけられ、手を止める。振り返ると、小皿とお玉を手にしたあまねがにっこりと微笑んでいた。
「味見。ほら、あーん」
「え、いいのか?」
「ええ、どうぞ。ほら」
味見程度の量では腹は膨れないが、少なくとも舌と、空腹で何も考えられない頭は満たされるはずだ。
端正な顔を子供のような喜びでいっぱいにし、御手杵はいそいそと小皿を受け取った。唇を付け、そして、皿を傾ける。
「……っ、ン゛!!」
突如として襲来した刺激に舌が震える。痛い、いや、熱い、のだろうか。わけのわからないまま口元を抑える。何かを求めて漂わせた反対の手に、タイミング良く水の入ったコップを渡された。
冷たい水を一気に口に含み、そうして少しだけ落ち着いたところで、気づく。ほんの少しの味見用のカレーに、たっぷりの水を準備している用意周到さ。それは最初から分かってやっていたということで――つまりはワザとなのだ。
噎せ込む御手杵を前に、あまねはころころと笑っている。ほら、やっぱり。
「あん、た、辛口渡しただろ……!」
「あは、ははは、うん、ごめんなさい……でも、普通の辛口じゃありませんよ」
「何だよ」
「超激辛」
「大倶利伽羅用じゃねえか!」
吠えるとまた噎せてしまった。彼の手に新たなコップが差し出される。
御手杵を前にあまねは腹を抱えて笑いながら、「髭切と乱も食べますよ」などとほざいている。そういうことじゃない。
なーに遊んでるの。スープを作っていた加州がこちらを見て呆れ顔になっていた。あまねは笑った顔のまま謝罪をし、スープの出来を確認しに行く。
「あー……クソ……」
まだ舌がひりひりする。目は潤んでいて情けないし、火照った身体は汗ばんで不快だ。
御手杵は眉を寄せ、恨みがましく女を睨む。
おそらく甘口の鍋の味見をしているところだ。白い喉がこくりと動く。ん、おいしい。豊かな表情がそんな感想を御手杵にまで伝えた。
甘口なら喜んで味見したんだが。水を飲みながら内心ぼやいた声が聞こえたかのように、あまねがこちらを見た。
「また熱くなっちゃいましたね」
柔らかな笑みに虚を突かれる。
怒っていたはずなのに、喉元まで出ていた言葉を彼はたやすく失ってしまった。その代わりに何か熱いものがするりと入り込み、彼の心を満たしていく。さらにひとつ体温が上がってしまった気がして、御手杵は深くため息をついた。
+++++
刀剣乱舞夏夢小説企画「世界にはふたりだけ」様に参加させていただきました。
ありがとうございました!
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